「川東」とは、鹿屋市の中心を流れる肝属川が、中心部を過ぎて東に流れを変えた辺りの広い田園地帯を言い、川東地区は川の東というよりはむしろ北側の左岸地帯を指す。
これに対して川の南側(右岸)は「川西地区」と呼ばれている。川西地区は鹿屋市のベッドタウンとして人口増加がかなり見られるが、川東地区は川西地区と似たような条件を持つにもかかわらず、ベッドタウン化は進んでいない。それだけに古い町並みが残っている。
川東と川西地区とを結ぶ「大正橋」からみた川東地区の町並み。
手前に川東田んぼ、奥に笠之原台地。その間に「川東用水」が流れ、家々もそれに沿うように、左右に細長く伸びて広がる。
大正橋から肝属川下流を眺める。
江戸時代は波見の河口からこの下を通って、さらに3キロほど上流の田崎神社の高台を望む辺りまで、三里半(14キロ)の船運があり、川舟が往来していた。
大正橋のたもとから眺める「川東田んぼ」。
植えられてまだ2週間くらいの普通作田が広がっている。
肝属川中流の和田井堰から取られた用水路「川東用水」の賜物である。
そこに見える溜め池は用水が通じているときだけ現れる。
そばに行ってみると「昭和14年建立の水神祠」(手前)と「文政五年建立の水神碑」とが仲良く並んでいた。
文政五年といえば1822年だから、ざっと200年近く、川東用水以前に造られ、田んぼに水を与えてきたこの小さな溜め池を見守ってきたことになる。
笠之原台地のがけ下を縫うように流れる「川東用水」に沿って、人家が細長く立ち並ぶ。
台地へ上がる道の途中、左手の台地からがけ崩れがあったらしく、応急措置がしてあった。
おそらく1月近く前の入梅直後の豪雨でやられたのだろう。
比高にして8メートルくらいか・・・。それにしても、この手当てには、うーん、と感心させられる。
抉り取られた急峻な崖を4段で補強しているが、各段はこのようになっている。
太い杉の丸太を打ち込み、それに真竹を切ってきて、互い違いに引っ掛けて壁にしているのだ。
現代的な材料を一切使わず、村人が自ら切り出して運び込み、共同で必死になって造った有り様がひしひしと伝わってくる出来栄えだ。
まさに昔の人の協同の智恵、そして汗の結晶!
切り通しの急坂を登りきると岡の上にもいくらか人家があるが、その一角に「川東古墳群」という石柱の立つ所がある。
狭い石段を上がると、中央と右手に直径6~7メートルの円墳が2基、目に飛び込む。
左手手前には中央と同じほどの物、その奥にはやや小ぶりの物、さらに一番奥には頭しか見えないが、最も小さい直径3メートル位の物があり、都合5基の円墳が、ごろんごろんといった風情で並んでいる。
本土では見られない南朝鮮型の円墳だ。おそらく半島の戦乱か何かで落ち延びてきた半島人または半島系倭人の一族のものだろう。
詳細はもちろん分からないが、「鹿屋=伽耶」説を補強するものだと思う。
古墳群の奥は林になっているが、木々がなければ川東の田園と母なる肝属川が望める好位置にある。しばし上古代を偲んでみるのも悪くはない。
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