梅雨明け宣言(2009年7月12日)

今日、7月12日、九州南部は梅雨が明けた。平年より1日早く、昨年よりは6日遅いという。去年も空梅雨だったが、今年も空梅雨だった。本格的に降ったのは3回ほどしかなかった。

 一方で奄美は7月5日が梅雨明けで、こちらは平年より7日遅く、去年より3日遅れている。平年の梅雨明けは6月29日だから、奄美が梅雨明けして2週間後にやっと九州南部の梅雨明けのはずだが、今年はそのタイムラグがわずか1週間に縮まったことになる。

 九州南部が次第に奄美同様「亜熱帯化」しつつあるのかもしれない。

 しかしそれだと説明できないことがある。我が家の庭に咲いているグラジオラスだ。712tuyuake_001

いつもなら5月の前半に咲きはじめて、おおむね1ヶ月。ちょうど梅雨に入るか入らないかの頃には枯れてしまうのだが、今年はやや遅れて咲き出し、それが梅雨明けの今日も咲き誇っている。

いったいこれをどう説明したらよいのだろうか?712tuyuake_002_2

その一方で、夏の終りから咲き出すはずのコスモスが早々と4月に咲き、カンナも5月中からずっと咲いている。

 暖春ならむしろ早く咲き出しそうなグラジオラスが遅れて咲く。

 奇妙な光景である。

 本格的な夏空の下、グラジオラスがいつまで咲いているものなのか、見守っていよう。

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川東町界隈(鹿屋市川東町)

「川東」とは、鹿屋市の中心を流れる肝属川が、中心部を過ぎて東に流れを変えた辺りの広い田園地帯を言い、川東地区は川の東というよりはむしろ北側の左岸地帯を指す。

 これに対して川の南側(右岸)は「川西地区」と呼ばれている。川西地区は鹿屋市のベッドタウンとして人口増加がかなり見られるが、川東地区は川西地区と似たような条件を持つにもかかわらず、ベッドタウン化は進んでいない。それだけに古い町並みが残っている。709kawahigashi_004

川東と川西地区とを結ぶ「大正橋」からみた川東地区の町並み。

 手前に川東田んぼ、奥に笠之原台地。その間に「川東用水」が流れ、家々もそれに沿うように、左右に細長く伸びて広がる。709kawahigashi_003

大正橋から肝属川下流を眺める。

 江戸時代は波見の河口からこの下を通って、さらに3キロほど上流の田崎神社の高台を望む辺りまで、三里半(14キロ)の船運があり、川舟が往来していた。709kawahigashi_002

大正橋のたもとから眺める「川東田んぼ」。

 植えられてまだ2週間くらいの普通作田が広がっている。

 肝属川中流の和田井堰から取られた用水路「川東用水」の賜物である。

 そこに見える溜め池は用水が通じているときだけ現れる。709kawahigashi_001

そばに行ってみると「昭和14年建立の水神祠」(手前)と「文政五年建立の水神碑」とが仲良く並んでいた。

文政五年といえば1822年だから、ざっと200年近く、川東用水以前に造られ、田んぼに水を与えてきたこの小さな溜め池を見守ってきたことになる。709kawahigashi_005

笠之原台地のがけ下を縫うように流れる「川東用水」に沿って、人家が細長く立ち並ぶ。709kawahigashi_006

台地へ上がる道の途中、左手の台地からがけ崩れがあったらしく、応急措置がしてあった。

 おそらく1月近く前の入梅直後の豪雨でやられたのだろう。

 比高にして8メートルくらいか・・・。それにしても、この手当てには、うーん、と感心させられる。709kawahigashi_007

抉り取られた急峻な崖を4段で補強しているが、各段はこのようになっている。

 太い杉の丸太を打ち込み、それに真竹を切ってきて、互い違いに引っ掛けて壁にしているのだ。

 現代的な材料を一切使わず、村人が自ら切り出して運び込み、共同で必死になって造った有り様がひしひしと伝わってくる出来栄えだ。

 まさに昔の人の協同の智恵、そして汗の結晶!709kawahigashi_008

切り通しの急坂を登りきると岡の上にもいくらか人家があるが、その一角に「川東古墳群」という石柱の立つ所がある。709kawahigashi_009

狭い石段を上がると、中央と右手に直径6~7メートルの円墳が2基、目に飛び込む。709kawahigashi_010

左手手前には中央と同じほどの物、その奥にはやや小ぶりの物、さらに一番奥には頭しか見えないが、最も小さい直径3メートル位の物があり、都合5基の円墳が、ごろんごろんといった風情で並んでいる。

 本土では見られない南朝鮮型の円墳だ。おそらく半島の戦乱か何かで落ち延びてきた半島人または半島系倭人の一族のものだろう。

 詳細はもちろん分からないが、「鹿屋=伽耶」説を補強するものだと思う。

 古墳群の奥は林になっているが、木々がなければ川東の田園と母なる肝属川が望める好位置にある。しばし上古代を偲んでみるのも悪くはない。

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シジュウカラが庭に

8時過ぎ、朝食後の茶を飲みつつテレビを観ていると、庭の方から聴き慣れないが親しみある鳥の声がする。

 庭を通過するだけなら、重い腰を上げるほどのことはあるまいと再びテレビに顔を向けるが、鳴き声が長いうえ、庭のT字型の洗濯物干しに飛び移ったりしているのが目に入ったので、そうっと立ち上がり庭に面しているガラス戸のところから覗いてみた。

 シジュウカラだった。

 特徴ある頭からのど元への黒頭巾。灰色の体毛。間違いない。

 鳴き声も典型的な「ピンカラ、ピンカラ」ではなく、若干「なまっていた」ような気がするが、とにかくこの地に来て6年目にして初めて庭に来たのだ(と記憶する)。デジカメを取りに走ったが、その間に我が家の庭を離れてしまった。

 惜しいことをしたと思った。だが、どうやら隣りの家の方で鳴いているようだ。

 あわてて、お隣りの庭が見える部屋に行き、ガラス戸から眺めると・・・、隣人が趣味で建てた無線通信アンテナ塔に、せわしなく動き回る鳥の影が見えた。704sijuukara_005

趣味とはいえこのレベルになるとほぼ「地球の裏側」との交信も可能だそうで、お互いに交信したという証拠のカードを交換するのが礼儀作法らしい。以前お邪魔した時にそんなカードの詰まったアルバムを見せてもらったことがあった。704sijuukara_004

一羽がアンテナを支えるワイヤーにとまっていた。オスかメスかは分からない。704sijuukara_001

こっちがオスかいな。

春の子育ては終わったのかい?

 なに?―新しいカップルです?

 とにかくつがいであることは間違いないようだ。704sijuukara_002

おや、後を向かれちゃったよ!

頭が向こう向きゃ、尾はこっち。704sijuukara_003

やっ! 飛び立ったぞ。

おや、真っ直ぐ向こうに行くんじゃないのかい?

ええ?―いちおう、さよならの挨拶です―って?

 へえ、関心だねえ。

 今年は3月の下旬頃に、庭に秋鳥のモズがやって来て面食らったが、シジュウカラがこの時期に姿を見せるのは普通なんだろうか?

 

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鴨着く島のアイガモ(鹿屋市池園町)

昼前、珍しく日が差してきたので、ちょっと川沿いに行ってみようかと単車で下りてみた。家から1.5キロほどの田んぼ地帯である。704aigamo_008

 このあたりは大姶良川の左岸で、上流の大姶良田んぼ、獅子目田んぼについで豊かな田園が広がっている。

 右手の土手の向こうの川が東へ流れ、飯隈田んぼに突き当たるまで、2キロ近くうねうねと田が続く。704aigamo_001_2

その一角になにやら青いネットを張り巡らした田んぼがある。

 アイガモ田だ。

 田植えしてから一ヶ月くらいだろうか、稲の高さは20センチを越えたくらいである。

 見渡したところ、アイガモの姿はないので、小屋をのぞいてみる。704aigamo_002

無人だった(いや、無鴨だった)。704aigamo_005

ネットに沿って歩いてみると、いたいた、10羽くらいが泳ぎ回っている。704aigamo_006

おそらく孵化後一ヶ月かそこらの幼鳥だ。

 もう一人前に頭を水の中に突っ込んで、餌をあさっている。704aigamo_007

 かれこれ併せると20羽くらいがせっせと「仕事中」。

アイガモはマガモとアヒルの合いの子で、飛ばないところはアヒルに、粗食に耐えるところはマガモに似ている。

 つまり、家禽として両方の役に立つ属性のみを活用するために、人間が作出した傑作である。

 アイガモがあさるのは水の中の小動物やプランクトンで、こうして水をかき回し、歩き回る(泳ぎ回る)ことで、雑草の繁茂が抑えられる。

 また糞が肥料になる。

 というわけで、除草の手間が要らず、肥料も少なくて済む。

 だが、それ以上に「アイガモが入っている以上、農薬や除草剤は使えないので、この田の米は安全・安心です」ということを消費者にアピールできるのが、価値としてはより大きい。 704aigamo_004

自分も実は昔、肝属郡田代町(現・錦江町田代)の大原地区で米を作っていたときに、アイガモ農法をやっていた。

 7,8枚の田でやっていたが、ある山沿いの田では猟犬がネットを越えて入り込み、噛まれたり追いかけられたりして5,6羽死んだことがあった。

 そんなことも、今となっては懐かしい・・・。

 この田はあと1ヶ月半くらいで水を落とすことになり(中干し)、その時にアイガモはお役御免になる。

 最初、田に放つ頃は500グラムもなかったのが、その頃には2キロくらいにはなっているはず。

 来年の繁殖用に4,5羽は残すが、あとは肉用に販売する。もちろん自家用にも食べるが、味は歯ごたえがあってさっぱりしている。なにより貴重なのが骨のガラで、鍋物の出汁としては最高だろう。残った出汁でラーメンの麺またはうどんを煮てみると、そのコクには誰しも驚くだろう。

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シュワちゃんの財政非常事態宣言

カリフォルニア州のアーノルド・シュワルツェネッガー知事が、7月1日ついに非常事態を発令した。「非常事態」といっても財政に限られているが、州政府が公権力を発動して財政の危機に対処するというものだ。

 何のことはない「金庫が底をつくので、払えるものが払えません。つきましては借用証書だけはお渡ししておきます。資金に余裕が出たら優先的にお支払いしますから、ちょっと待っててよ」ということらしい。

 その期限は7月末のようで、果たしてそんな短期間のうちに200億ドルとかいう債務をどうやって完済するかだが、筋から言えば「州債」のようなものを発行すれば資金は集められるのではないか。それさえ難しいのだろうか。

 確か春先にも、「金庫が空っぽになりそうだ」とか言っていたが、あれはどうやり繰りしたのか。オバマ政権が手当てをしてやったという話も聞いていない。合衆国政府ももうそんなこと構っていられないのだろう。

 なにせアメリカは名立たる「地方分権」国家だ。自分のことは自分でやれ―ということなのだろう。それはそれで筋が通っている。州の財政が破綻してもそれは自己責任であり、州民はそんな州政府がいやならハワイ州でもケンタッキー州でもどこでも好きな所に住めばよい。「自由」なのだから・・・。

 

 思えば確かにアメリカは「自由」だし、「自由に描いた夢」が実現する所でもある。

 単身移民であるシュワちゃんが、映画界で大スターになり、1代でアメリカでも最大規模のカリフォルニア州の知事になった。

 現バラク・オバマ大統領に至ってはケニア人留学生だった父と白人の母の子で、しかも4歳の時に父母は離婚し、父バラク・オバマ・シニアはケニアに帰ってしまった。

 前者は成功者がさらなる頂点を目指して実現した事例。後者はむしろ苦労人が刻苦勉励し、頂点に上り詰めた事例。

 経歴に大きな違いがあり、人さまざまな理解の仕方があろうが、共通しているのは、よそ者が来て頂点に立ったという点だ。オバマの母親は白人の在住アメリカンでシュワちゃんとは違うようだが、両親はスウェーデン系だそうだから、やはり、よそ者に近い。

 戦後、アメリカに負けたということもあって、何もかもアメリカがお手本とされて来た経緯がある上、今また「規制緩和だ」「小さな政府だ」「地方分権だ」とアメリカをさらなるモデルにした政治概念が叫ばれているが、「中国人でも朝鮮人でもアメリカ人でもケニア人でも、誰でも知事や首相になれる」というところまで踏み込めるのだろうか?

 日本では、まずそれは無理だろう。またカリフォルニア州のような地方が破産状態になっても、たとえば宮崎県が破産しても「財源委譲した上で破産するのは、その地方の責任だから、国は関与しない」と言い切れるだろうか。これもまた日本ではありえない話だ。

 地方において国が関与すべき点はやはり少なくない。財源委譲するから地方で勝手にやれ、では納税者が多くまたその額も大きい都市部はいいが、地方はたまったものではない。格差はますます広がってしまうだろう。

 「金をもっとよこせ、もっと地方に自由な金を使わせろ。国の余分な事業の負担を押し付けるな」と橋下大阪府知事などは言っているが、すべては資金の問題であるかのような考えでは逆に足元をすくわれるのではないか。

 話を「財政非常事態宣言」に戻すが、もしこのままオバマ政権が何もしない、となると、どうなるのだろうか?財政は破綻しても「州」は存在するだろうから、考えられるのは「債務帳消し」つまりは州財政のリセットだ。

 アメリカ版「徳政令」ということになろう。無事に済むだろうか?

 すべての債権者が余裕もあり忍耐もあればそれは可能だが、果たしてどうなることやら。

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300号達成!ありがとう。

平成18年(2006)10月10日、初めてのホームページ『鴨着く島 おおすみ』を何とか立ち上げ、並行してココログで始めたこのブログ『鴨着く島』が、最初の目標である300回を迎えることができた。

 読んでも読まれなくても、とにかく300回は続けたいと週に2回のペースで書いてきたが、時に読者から「コメント」をもらうとやはり励みになる。ありがとう、次の300回を目指します。これからもどうぞよろしく。630nemunoki_002

3年前の夏に、桜島を写しに行った垂水市の協和中学校の裏手の高台で、道端に葉を広げていた1メートルにも満たない「合歓(ねむ)の木」を採取して来て庭に植えたが、それがもう高さ3メートルを越え、葉を広げた直径は4メートル余りにも成長している。

 わがブログもこのように成長したいものだ。630nemunoki_003

 時には若々しく、時にはジジくさく、時には明るく、時には暗く、おおすみと人生の「合歓(よろこびあい)」を描いていけたら――と思う。

 目標は「おおすみ1万年史」の構築である。ヨロシクッ!

 華やぎと 哀しみともに 合歓の花

 

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ユタと沖縄のこころ

夜のテレビ番組「大人のソナタ」(KKB=鹿児島放送)を見ていたら、ありふれた「予知能力」の話であったが、途中から沖縄に今も存在する「ユタ」という「神の声を聴く心理カウンセラー」が取り上げられていた。

 ユタはすでに聞いたことがあるし、古い映像が別の番組でも放映されたことがあったから、よく知っている。628okinawanonoro_003

沖縄本島の西にある「久高島」では、「イザイホー」と呼ばれるユタになるための儀式があり、何年かにいっぺん写真のようなユタ候補たちが4日間にわたって一同に会して行われる。628okinawanonoro_006

琉球大の赤嶺教授によると、「聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とするユタたちの組織が公然と設立されたのは、世界でも類例がない」とのことである。

 要するに古代以前にあった「祭政一致」の統治体制のうち「祭」を司るのが「聞得大君」であり、ユタたちはその配下にはべり、国家の枢要事について「神がかりになって」答申していたのだ。

 番組ではこの組織は外部からもたらされたように説明していたが、むしろ逆で、古代以前の祭政一致体制が沖縄には残された――というべきだろう。628okinawanonoro_007

番組では宮古島在住の本物のユタに密着取材していた。

 65歳という彼女は23歳の時に、「カンダーり(神がかり)」に遭い、狂ったように島中を歩き回り、3ヶ月もの間、ほとんど寝られなかったそうである。

 歩き回った末、ある昔ながらの井戸が工事で埋もれそうになった事実に行き当たり、それを守って工事による消滅から救ったことで、「カンダーリ」が収まった。そこは実は古代からある「御嶽(うたき)=聖地」だったという。

(思うに「カンダーリ」とは神がかりではなく「神垂れ(カンダレ)」であろう)。

 このような人は実は古代以前の日本列島にはたくさんいた。

 日本書紀の「景行天皇紀」では、天皇自ら九州のクマソを征伐にやってくるのだが、九州には次のような女首長がいた。

 ・神夏磯媛(かむかしひめ)=豊前国の首長

 ・速津媛(はやつひめ)=豊後の速見邑の首長

 ・市乾鹿文・市鹿文(いちひかや・いちかや)=クマソ国の首長の娘姉妹。おそらく「祭」を司っていた。

 ・御刀媛(みはかしひめ)=日向国の首長

 ・泉媛(いずみひめ)=諸県君(もろかたのきみ=諸県の首長)

 ・八女津媛(やめつひめ)=八女県(やめのあがた)の首長

 この最後の八女津媛こそが邪馬台国女王ヒミコとするのが私見だが、いずれにせよ九州では女首長があまたいて、沖縄の「聞得大君」のような役割を果たしていたに違いない。それが律令制以降、中国大陸の官制が導入されるに及んで、このような女性の「祭祀権」が奪われ、ついにはたんなるシャーマンという地位に落ちてしまった。

 明治維新は「王政復古」であり、要するに「中国(唐)の官僚組織にならった天皇を頂点とする律令体制への復帰」だったわけだが、もう一度維新があるとすれば、そこをさらに遡り「女性の祭祀権をも戴く統治体制への回帰」に行き着くであろう。

 美智子皇后が垣間見せる「母性的安心感を国民に分かち与える」ことが、これからますます必要になってくるに違いない。

 そこでは「地位も名誉も金も物も、一切が相対化され、真実のココロが自他共に尊重される」はずである。

 番組の最後に沖縄出身の元チャンプルーズ・現国会議員「嘉納昌吉(かのうしょうきち)」が「花」を歌っていたが、その主題は「心の中に花を咲かそうよ」であった。そう、決して外部に対してひけらかす花(地位・名誉・金)ではなく、ココロが本当に求めている花なのである。628okinawanonoro_008

628okinawanonoro_009 「金・地位・名誉という花」なぞいらぬ。

 「心の奥にある真実の自分(花)を探そうよ」

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桜島と中世史研究会

土曜日(27日)の午後2時からの「中世史研究会」(黎明館3階会議室・主催同会代表・小園公雄先生)の発表に出かけた。

 途中、垂水市街地を過ぎ、海潟漁港にさしかかるあたりで桜島が正面に高く見えるようになるのだが、南岳火口にやけに水蒸気雲がかかっているなと思う間もなく、小噴火が起き、黒い噴煙が立ち昇った。627sakurajimatokenkyuukai_001

時計を見ると12時43分だった。

 150メートルほどの隧道を抜けたところで、左の小道に車を停めて写す。627sakurajimatokenkyuukai_003

500㍍ほど行った早崎大橋の上から見ると、噴煙はこちら(東)に向かっておらず、右手(北)方向へ流れているように見えた。627sakurajimatokenkyuukai_004

早崎大橋を渡ったT字路を左折して桜島の南側を走り、約10キロ、野尻川に架かる橋から見たら、北方向かと思っていた噴煙の向きは、西に変わっていた。

 桜島の西半分を覆い尽くすように流れる噴煙。627sakurajimatokenkyuukai_005

待つことなく乗れた櫻島フェリーから見ると、まさしくこっち(西)に向かっているように見える。

 しかし、乗り込む前に聞いたフェリーの係員の話では「姶良町方面に流れて行きますよ」―とのことだった。627sakurajimatokenkyuukai_007

黎明館には15分前には着いて、紹介を受けて2時きっかりには発表を始めることができた。

(写真は2番目の小園先生の講義)627sakurajimatokenkyuukai_006

総勢18名ほどのこじんまりとした研究会。

 例によって「中世史」ではなく「中性史」で、「古代史前史」の話を聴いてくれるだけでうれしい。

 さっき来るときの桜島小噴火を枕に話し始め、「95年前の大正4年1月に起きた桜島大爆発の結果、海峡が埋め立てられ、そこにできた道路を通ってすいすいとやって来ました」で、座が和んだ。

 話のテーマは「カヤ(鹿屋)考」で、大隅史談会会報『大隅52号』に寄稿したものをダイジェストした。

 大雨かと心配したが、行きも帰りも、雨にも灰にも降られずに済んだ、やれやれ。

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美観コレクション(大野泰秀写真集)

高校の同窓で同じクラブに属していた大野泰秀君から、貴重な写真集が送られてきた。Ohnoyasuhideshashinshuu2

今回で2冊目である。

前のは4年前だったが、その写真集のタイトルは『東・南アジアの美観』であった。

 彼は教員だったのを早期退職し、いま、<美観コレクター>として世界中を飛び回っている。

 少年期からの長年の夢をかなえるべく、得意のカメラをひっ提げて西へ東へ、地の果てまでも、その「美観」を追い続けている姿は、求道的ですらある。

 前回はアジアの伝統・民族(俗)・景観が中心のいわば「人文地理的美観」だった。Ohnoyasuhideshashinshuu1

アジアに対してわれわれ日本人には原郷回帰の親しみを感じるので、前作の写真は心地よささえ感じたが、今回のオセアニア・南極は風土が余りに違いすぎてやはりよそよそしい。

 こちらは明確に「自然地理的美観」ということができる。彼の巧まざる美観選定の基準が、2冊それぞれの特色をかもし出しているところは、見事というほかない。

 次は「欧米か!」になるのだろうか(笑)。

 それは冗談だが、今度のも前作も大野君の性格らしくらしく、ちょうど128ページで終わっている。その1ページ前の127ページの最後の4行は非常に大切なことを指摘している。

――太平洋・南極の観光では、地球の鼓動を感じ取ることができる。だが同時に、地球の悲鳴を聴き取る耳と目を持たねばならない。今こそ「地球人としての自覚」が求められている。

 

 大野泰秀写真集のホームページは次の通り。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ohno-photo/sub1.htm

※書き終わってから書棚を確かめたら、大野君の写真集はもう1冊あった。1997年、まだ教員だったときに『日本列島の美観百選』というのを出版していたのであった。追加しておきたい。

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獅子目(ししめ)界隈(鹿屋市南町獅子目)

獅子目田んぼへ行ってみる。おそらく普通作の最後の田植えが行われているだろう、その様子が見たかった。

だが、すでに、田植えは終わっていた。県道の向こうには、志々目(ししめ)城をバックに、つい今しがた植え付けられたような田が広がっている。618sisimekaiwai_010

田んぼの向こうに見える丘は「志々目城跡」。志々目氏の居城だった。

 志々目氏は中世に下向した藤原姓「冨山氏」の一族で、同族には「大姶良氏」「横山氏」「浜田氏」がいる。

 この田園地帯は「大姶良川」が育んだもので、そう深くはない河谷なので、開拓しやすかったゆえ、平安時代の末頃にはかなりの田園となっていた。

 右手奥に見える山は「陣ノ岡」(482メートル)で、室町時代に繰り返された 祢寝(ねじめ)氏と肝付氏との戦いでは、祢寝(ねじめ)氏があの頂からこちらへ攻め入っている。618sisimekaiwai_008

県道から獅子目の小さな川沿いに入っていくと、田んぼで補植(ほしょく=田植え後に苗の抜けている所を補っていく)をしている光景に出会った。

 この人に聞くと、今日(18日)に植えたばかりだと言う。

 一番遅い田植えは20日だそうだ。618sisimekaiwai_007_2

300㍍ほどさかのぼると、何やら不思議なノボリ旗の立った田んぼがある。

 よく見ると「みんなの よい食 プロジェクト」と書いてある。

 さっきの人が言っていたのはこれだった。何でも新しいい品種で、試験的に一枚の田んぼで作付けしたらしい。

 ここも今日か、昨日植えたばかりだ。618sisimekaiwai_005

長く続く迫田の右手に見えてきた岡には「志々目古石塔群」がある。

 山道を上って、いったん岡の上に上がり、迂回してその遺跡を目指す。618sisimekaiwai_004_2

杉林を抜け、ようやくたどり着いた場所は、向こうに木立がなければ、さっきの迫田が見下ろせるような位置にある。

 ここには志々目氏の五輪塔から、祢寝(ねじめ)氏の逆修塔などがあり、618sisimekaiwai_002_2

とくに左の大きな石碑が目をひく。

 これは隣りの大姶良を治めていた「伊集院三河守」の慰霊碑で、三河守は豊臣秀吉の朝鮮出兵命令にさからったが、衆寡敵せず、捕らえられて斬殺された。

 その「たたり」がきつく出るというので、江戸初期に大姶良集落の総意により慰霊碑が造られることになった。

 ここは「大通寺」の跡といい、おそらく志々目氏の菩提寺だったと思われる。

 ところで「志々目(獅子目)」という名の由来は何だろうか? 同族の大姶良氏・横山氏・浜田氏はいずれも地名から来ている姓なので、獅子目も地名と見るのが順当だろう。

 私見では、播磨風土記や日本書紀の「顕宗天皇紀」に出てくる「志深里(しじみのさと)」と関連していると見る。雄略天皇に殺された「イチノベオシハ皇子」の遺児で志深里に逃れていた「顕宗・仁賢両天皇」が、時を得て赦され、都に上って皇位に就くという「目出度し、めでたし」のストーリーだが、この志深(しじみ)名こそは、唯一「志々目」を連想させるのである。

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