人吉紀行

 人吉という所はいつも九州高速道の通過点として道案内だけはよく見ているのだが、降り立って市内見物などしたことがなかった。

 そこでこの20日に「いさぶろう。しんぺい号」という特別列車に乗って初めて街の中に入ってみた。

 人吉というと鹿児島と並んでそれぞれの藩の同一支配者(武家)が長きにわたって変わることなく続いたことで有名で、人吉の相良氏は1198年から明治維新の1868年まで670年(およそ700年)で、これは鹿児島藩島津氏の下向統治期間(4代・5代目の頃のいわゆる元寇=文永・弘安の役から明治維新まで)の600年より長い。

 もっとも島津氏の方は初代の惟宗忠久が日向荘(宮崎県都城市)の総地頭に補任された1185年あたりで、最初の地頭館の置かれた地の地名から島津の姓を持つようになったから、姓の長さでは島津氏の方に軍配が上がる。

 しかし薩摩の野田郷へ下向して実質支配がはじまったのは5代目の貞久からなので支配期間の600年は動かせない。

 相良氏は出身地の遠州榛原郡の相良(現在の静岡県牧之原市)にちなんで人吉に入部してからすぐに相良姓を名のり、中世の一時期に上相良・下相良に分かれて抗争があったが、おおむね相良氏一族が他氏を圧倒して支配し続けた。

 島津氏はというと南北朝から室町期にかけては数々の抗争(お家騒動)や他氏との戦闘を繰り返し、ようやく三州統一がなされたのは1570年代であった。統一までの戦乱期間の長さを差し引けば、島津氏のみによる実質的な安定支配は300年である。

 その安定的な支配という点では相良氏の方がはるかに勝っている。

 しかし支配領域の圧倒的な広さの差を勘案すれば、島津氏の方に領国支配の巧みさが生まれるのは当然と言える。何しろ四周を海に囲まれ、交易の広がりや領土防衛、そして外様である故に徳川氏との付き合いにも智謀を尽くさねばならなかった。

 「島津にバカ殿なし」と言われるのは、そういう領国の置かれた「地政学的」な面に負うところが大きい。

 今でも(明治維新後150年だが、それはさておくにしても)、〇に十字の島津の紋章が焼酎にも菓子折りにも至るところでふんだんに使われているのは、島津氏支配の根っこの奥深さをよく表している。


 話は本題へ・・・。

 吉松駅から乗った「いさぶろう・しんぺい号」はまず真幸駅ホームの「幸福の鐘」で一時停車し、さらにスイッチバックの解説で長く停まり、肥薩線最高標高駅である矢岳駅(540m)でもホームの先にあるSL(D51)の展示を見るためにやや長く、そして極めつけはループ線路とスイッチバックの両方を持っている大畑(おこば)駅だ。

 大畑と書いて「おこば」と読ませるのは、山の畑のことを「こば」(たいていは木場と書く)ということから来ているそうで、かっての「焼き畑による耕作地」の大きい(広い)場所だったことを示しているのだそうだ。

 人吉は九州山地の真っただ中にある盆地で、標高は高いと思われがちだが、わずかに100m余り(人吉駅で107m)と低い。矢岳駅が540mだからその差は440m。手元に時刻表がないので分からないのだが、矢岳駅と人吉駅間の距離は10キロか15キロほどのものだろうから、確かにループとスイッチバックを併用しないと登り切れまい。

 熊本県境の矢岳を挟んで反対側の吉松駅は標高が213mあるそうで、そうなると矢岳駅との標高差は220m余り、これならスイッチバックだけで済む。


 1時過ぎに人吉駅に到着したが、改札を出てその暑さには驚いた。近くにいた売店の従業員らしき人に聞くと「人吉は暑いところです」という。盆地だから暑いのは覚悟していたが、周囲の山の高さから比べて相当な低地(標高100m)なので、まるで鍋の底なのだ。

 しかし、街のど真ん中に満々とした流れの球磨川があるせいで、鍋の底に溜まった暑い空気が若干は冷やされるのだろうか、コンクリートの歩道から離れて「青井阿蘇神社」の境内に入ったらかなり暑さが和らいだ。

 青井阿蘇神社は大同年間の806年に創建されたという阿蘇神社の勧請で、大神(おおが)氏が宮司を務めていたという由緒を持つ。

 拝殿・幣殿・楼門は重厚なかやぶきで、本殿と回廊を含めてすべてが国宝になった。慶長18年(1610年)に改修されて今見るようになった。


 青井阿蘇神社からは球磨川を渡り、道なりに行くと右手に「幽霊の絵」でゆうめいな「永国寺」がある。ここは薩南戦争の時に熊本城を攻めあぐねているうちに大軍送って来た官軍と田原坂で戦い、敗れた西郷軍が退却して本営を置いた寺である。約30日いたがここでも官軍に追い詰められ、日向方面に逃れることになった。


 永国寺からほんの2,3分の所に「旅愁」「故郷の廃家」を訳詞した犬童球渓(いんどう・きゅうけい)の生家がある。

 人吉に来た時に一番見たかったのが、犬童球渓のこの史跡だった。

 なぜ球渓なのか。

 それはひとえに「旅愁」という歌にかかっている。

 旅愁というタイトルもそうだが、訳詞の内容が原作者のアメリカ人作詞・作曲家J・P・オードウェイの原詩と大きく違っているからだ。

 原詩ではタイトルが「故郷と母を夢見て」で、内容は、故郷にいたころの母と自分(おそらく作詞者本人だろう)とがいかに濃密であったか、今でも母が自分の傍に来て自分をかわいがってくれる夢を見るんだ――というもので、マザコンここに極まれりといった内容なのだ。

 原詩にの興味ある人はインターネットで調べられるからここでは省略するが、一方で人吉生まれで東京音楽学校を出て各地の中学校や高等女学校などで教鞭をとっていた球渓はこれを

 「更け行く夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む 恋しやふるさと 懐かし父母 夢路にたどるは里の家路」

 と意訳した。

 まず原詩では「旅の空」(旅行中)での感慨ではなく、また、恋しいのは「故郷の家と、そこでむつまじく過ごした母」だけなのである。父などは一言も出てこないのである。つまり「母あればこその故郷の家(ホーム)」で、トーンからするとオードウェイという作者は「No mother, no life」(母がいなければ、生きていてもしょうがない。母こそ人生のすべて。)と謳っているのだ。すごい母親賛歌なのだ。

 今の世でも直訳したら「軟弱な奴だ。男のくせに」などと言われるのが落ちだろう。

 そこを球渓も分かっていて、唱歌に見るような訳詞にしたのだろうが、これには曰くがあって実は球渓も原詩通りに訳したかったのだが、当時(戦前)の文部省当局が「あまりにも軟弱な詞だ。戦争遂行の妨げになる」というような指導を受けて大きく原詩の解釈を変えてしまった(変えざるを得なくなった)――という経緯もあるらしいのだ。

 太平洋戦争の真っただ中の昭和18年に球渓は47歳で自ら命を絶つが、球渓の心の中にはこの訳詞(他にも「故郷の廃家」など)が原詩を大きく逸脱してしまったことへの苦しさ、そしてそうせざるを得なかった戦争というものへの憤りがあったのでは、とも思われる。


 この話は、原詩を引き合いに出してまた論じる機会もあろうからここまでにして先を急ぐ。


 さて球渓の生家を辞して、また酷暑の中を西へ歩くこと7分、人吉城の大手門口を抜けると「人吉歴史館」がある。ここは人吉市の教育委員会の歴史文化担当課に所属しており、外観はコンパクトながら外観内容のぎっしり詰まった展示施設である。

 十分に見ておきたかったが、なにしろ暑さのせいで頭の中身がうだっていて身に入らないので、種々のパンフレットを貰って家に帰ってから読むことにした。

 それによると、人吉城の原型は相良氏が当地に下向した初代長頼の頃に築造されているが、その後、秀吉の全国統一(九州征伐)の後に諸国で戦国大名による領国支配が完成し、相良氏もその例に洩れず、本格的に居城の築造に取り掛かっている。

 慶長年間に始まり寛永年間の1640年頃までに近世の人吉城が成ったようである。

 この城址の一角に相良護国神社があるが、入口は当時の掘割りに架けられた石橋で、堀はびっしりと蓮で埋め尽くされていた。

 この神社の筋向いに「元湯」という看板の銭湯があったのでこれ幸いと浸かることにした。指宿にも元湯があり、道路からやや低い所に湯舟があるが、ここのもその通りで、10畳くらいの広さの洗い場の真ん中に2坪くらいの湯舟が掘られていたのはひなびていて懐かしい感じがした。

 泉質は単純なアルカリ泉のようで、石鹸の泡立ちよく、ややぬるっとしていた。

 聞けば人吉にはあちこちに単独の温泉銭湯やホテル・旅館内の銭湯があり、その数は20以上あるという。


 人吉といえば歴史の相良氏・球磨川下り・球磨焼酎が有名だが、泉都でもあることをもっと宣伝してもいいのかもしれない。


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日米原子力協定の自動延長

 日本とアメリカの間で結ばれた「日米原子力協定」が自動延長された。

 この協定が最初に結ばれたのは1968年(昭和43年)であった。なぜ結ばれたのか?

 日本で昭和30年に原子力の平和利用を謳った「原子力基本法」が制定され、それが効力を発揮し始めた、つまり原子力発電所が建設されて発電が開始され、ウラン燃料が燃えたあとの変性廃棄物であるプルトニウムの「備蓄」が問題視され始めたからである。

 アメリカとしては原子力発電技術及び建設を売り込んだはいいが、日本がやたらに核兵器に転用される恐ろしいプルトニウムをため込んでしまうのは危険だ――との認識の下で規制をかけたわけである。

 何しろ、いまだに国連憲章上、連合国軍に逆らった枢軸国側の「旧敵国」なので、そういう国が容易に核兵器に転用できるプルトニウムをたくさん抱えたら、いつ何時また連合国側を脅しにかかるかわからない(ちょうど今のアメリカに対する北朝鮮がそれだ)ので、協定で日本を抑え込んでおくことにしたのだ。

 北朝鮮やイランが核開発を進めているのはそのような核保有国(主に国連安全保障理事会の常任理事国)への反発が大きい。

 これと同じことを「旧敵国」の日本にやられたのではとんでもないことになる――というのが根底にあるがゆえに、「日米原子力協定」で縛っておこうというのがアメリカの狙いだ。

 「緊密な」日米同盟がある以上、そんなことを日本がするわけがない(しようとしても「日米地位協定」「日米合同委員会」でたちまち葬り去られる)が、仮にもし日米安保が廃棄され米軍が日本から引き揚げても、日本の核武装はほぼ不可能になる。

 自分としては日本の「武装永世中立国」(日米安保廃棄が前提)が理想なのだが、プルトニウムによる核兵器生産・保有はいかなることがあってもするべきではないと考える。

 核使用の悲惨さを身をもって経験したのは日本だけであり、日本が永世中立国化した後で核廃絶をもっとも世界に訴えることができ、また世界の指導者たちの心に届く主張をすることのできるのも日本だけである。

 日本がこれまでの原子力発電によって貯め込んだプルトニウムは47トンだそうだ。これによって生産できるプルトニウム爆弾は6000発と言われ、これはアメリカ・ロシアに次ぐ量である。

 そのような核兵器を作らないとなれば、プルサーマル発電で使うしかない。すでにアメリカ側からプルトニウムをプルサーマルで消費しろと言ってきており、政府も「削減に努力します」と声明を出した。

 これから自民党政府は原子力発電の再開を許可していく方針のようだが、プルサーマル発電を行うはずだった不具合続きの「もんじゅ」の閉鎖が決まった。

 大地震・津波・火山噴火・大雨による大水害・山崩れなど平成になってから災害が相次いでおり、その極め付きの2011年(平成23年)の東日本大震災では東電福島原子力発電所が一歩間違えば炉心融解による大爆発で首都圏域まで汚染される事態になっていた。

 この山がちで狭く、火山噴火と地震の多発する国土の特性を考えれば、原子力発電は廃止した方がよい。ゼロでも5年もの間、言うところの「電力危機」は一度もなかった。

 いつ放射能汚染に曝されるかわからない――という不安感は子どもを育てていく上でのネックになり、より一層の「少子化」は避けられないだろう。

 

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梅雨明け(2018)

 7月11日に南九州地方の梅雨が明けた――とニュースであった。

 今年は平年より3日ほど早く、梅雨入りがおそかったので全体としてはやや短く、さほどの大雨もなく明けたことになる。

 ところが、これまでなら、南九州の梅雨が明ける前には、張り出してきた太平洋の高気圧から送り込まれる暖かい湿った空気が南九州に停滞していた梅雨前線を刺激し、「イタチの最後っ屁」いや「セミの逃げぎわの小便」のように地上に大量の雨を投下し、シラス台地の至るところでがけ崩れを誘発したものだ。

 それが「人がケ死まんと、なげし(梅雨)は明けぬ」ということわざを生む状況をもたらしたのだが、この頃はとんとそうではなくなった。

 メカニズムは同じなのだが、梅雨前線が北上したまま北部九州から中国・四国地方にかけて停滞したので、かえって向こうが梅雨末期の大雨に晒されることになった。

 広島県・岡山県では県史上最大の豪雨災害に見舞われ、広島県では死者・不明者が120名にもなり、またかねてから「晴れの国」として大雨の少ないことで有名な岡山で同60名を超えるという未曽有の大水害になってしまった。

 広島県の熊野町だったか、ある谷沿いの集落に土石流が流れ下り、家から家の前の道路に出た瞬間に泥流と化した道で足をすくわれ体ごと持って行かれた高校生がいたが、これには気の毒で呆然とするほかない。

 今から25年前(1993年)の鹿児島では8月6日に大水害(8・6水害=激甚指定。甲突川にかかる由緒ある五つの石橋のうち4つが流された)が発生し、確か三日間の総雨量は6~700ミリほどであったが、鹿児島市内の甲突川の水が溢れて国道3号線が川のようになり、その川で人がおぼれ死んだことがあった。

 それを思い出した。あの1993年は梅雨明けがなく、8月には台風が3つも接近または上陸し、挙句の果てに9月3日に台風13号が910ミリバール(あの頃はまだヘクトパスカルではなかった)の強さで南薩の海岸に上陸し、そのまま錦江湾を横断して大隅半島の中央部を斜めに北上したが、通過したのが午後2時か3時の明るい時間帯だったっため、大隅半島側で死者の数が極めて少なかったのは幸いだった。

 ライフラインの支障は電気と電話の不通が1週間から2週間続いただけだったが、携帯(移動通信)などの所持者はあの時代はごくまれで、電話の不通が一番不便だったのを思い出す。

 南九州ではここ4,5年は梅雨末期の豪雨がない。これはおおいに助かるのだが、その分梅雨前線がらみの豪雨や台風が北に偏ったようだ。去年は北海道で夏の台風が3つも上陸し、そのたびに大雨が降ったが、これも未曽有のことだった。

 異常気象が当たり前になっているが、実は日本列島にとって何よりも怖いのは大地震の方だ。東日本大震災では津波や圧死で数時間のうちに2万名近くの死者・行方不明者を出している。死者数を時間で除すと、東日本大震災は時間当たり5000名。今度の災害では時間当たり3~4名。

 大雨の場合はとにかく早めに近くの指定避難所に行くことだ。行政もここ数年で早目の避難所開設に動いている。今度の大水害でさらに備えは充実していくものと思われる。

 南海トラフ等由来の大地震の場合は突発的なことゆえ単純に「備えあれば患いなし」とは言い切れないのが残念だが、異常気象への対応は万策それに尽きる。

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オウム真理教教祖の死刑執行

 昨日、オウム真理教教祖で地下鉄サリン事件の首謀者だった松本智津夫死刑囚の死刑が執行された。

 オウム真理教の幹部13名が死刑判決を受けていたが、そのうち教祖を含む7名が同じ日に刑死した。

 残りの6名の処刑もいずれ実施されるが、識者の中には「黙秘を通し続け、わけのわからないことを言い張る教祖松本を、なぜ他の高学歴の死刑囚(幹部)が盲目的に指導者と仰いだのか、そしてなぜあのような事件を引き起こしたのかが解明されないまま幕を引いてしまうのはいかがなものか」というようなことをコメントする人がいる。

 後者について言えば、直接的には松本をはじめ幹部連中が衆議院議員に立候補したが惨敗を喫した(教祖松本はわずか1800票しか得ていない)ことに対する憤りが引き金になったことが言われており、私もその見方を支持する。

 だが、そもそも松本個人の極度の自己顕示欲(人から認められたい)が根底にあってのことだ。

 この自己顕示欲が人並外れて強いのには原因がある。

 それは生い立ちにあった。
 
 熊本県の非常に貧しい家で5男2女の下から二番目に生まれた松本は、目の不自由な長兄が盲学校に入って家計の負担が少なかったこともあり、同じように目の不自由な松本も小学校から全寮制の盲学校に入学させられたという。

 ただ、松本の場合、目が不自由と言っても長兄のような全盲ではなく、片目はよく見えたらしい。それなら普通の小学校でもいいのだが、貧しさもあって両親は経費の掛からない盲学校に入れたようだ。

 松本は非常に嫌がったそうだが、是非もなく6歳で両親の膝元を離れざるを得なかったわけで、この心の傷が彼の人生をあらぬ方向に導いてしまったのだ。幼少期の家庭ほど子供にとって重要なものはない。


 松本の7人兄弟で下から二番目という家族構成に似た人物に歌手の田端義夫がいる。

 バタヤンこと田端義夫は大正8年の生まれで9人兄弟・姉妹の下から二番目だった。

 ところが3歳の時に父が亡くなり、バタヤンと末子の弟だけは母のもとに置かれ、他の兄弟・姉妹は養子・子守奉公・丁稚などに出された。

 母は人形の内職で生計を立てたが、極貧は変わらず、満足な食事や学校の遠足への参加も出来ず、昼食の弁当にも事欠くありさまで、とうとう片目の視力が失われてしまった。これも松本に似ている。

 そんなバタヤン、13歳でどこかの商店に奉公に出たが、数年後にたまたま姉が歌のうまいバタヤンを今で言う歌のオーディションに出るよう勧めたところ、運よく採用され、20歳頃にはデビューすることになり、その後はスターへの道をたどることになった。

 この歌のうまさだが、生まれつきではなく、いつも母と夕方になると「夕焼け小焼け」などの唱歌を一緒に歌ったことがきっかけとなった。

 バタヤンは歌のとりこになり、近くの河原に出ては大声で何度も何度も歌ったそうである。正式な歌唱法など学ぶよすがもなく、自己流で声の限り歌い続け、たぶん母やたまに帰省する兄や姉から褒められてますますもめり込み、上で触れたように姉の勧めでオーディションを受けることになり、音楽家の目にとまったのが、運の開き始めだった。

 戦前の昭和12,3年のころだが、当時支那事変が勃発するころではあったがまだそういったオーディションなどが民間で行われていたようだ。

 支那事変から引き続いて太平洋戦争がはじまると芸能人は戦地慰問に出るようになり、バタヤンも例外ではなくあちこちに駆り出されたが、そのことはまた一流の芸能人(歌手)という評価を定めることにもつながった。

 バタヤンの戦後の活躍はわれわれ団塊世代にとっては耳目に新しい。

 バタヤンは幼少期に貧しさに覆われつつも、母とのきずなが強く、心にも太い根っこが張ったのだろう。そして貧しいながらも一生懸命に内職をして自分たちを支えてくれた母親に、いつかは恩返しをという思いが湧き上がったはずで、後年よく母への想いを口に出すようになっていた。


 この母への思いの少なかったのが松本智津夫だったのではないか。

 6歳とは言えまだ母親への甘え・依存が必要だったのに、全寮制の盲学校に心ならずも入れられ母親との絆を断ち切られたのは、松本にとっては「母親から捨てられた」感がぬぐえなかったはずだ。

 それほど母親の存在感は子どもにとって大きいものである。

 なにしろ子どもは母親から生まれてくる。母親の胎内にいる時、胎児はへその緒というチューブで母親からの栄養を摂取しなければ育たない。胎児はまさに「母親のヒモ」だ。

 家庭に生まれ落ちてからも授乳・下の世話・言葉の学習など数年間はほぼすべてを母親に依存して成長する。この間もやはり「母親のヒモ」だ。

 そのような母親は子どもにとっては神仏に等しい。

 松本智津夫はおそらく母親への感謝などなかったに違いない。気の毒な生い立ちからすれば当然かもしれない。

 教団の幹部はじめ信者の多くも松本と似たような家庭的な貧しさ(経済的貧困と言うより心理的な貧しさ)を抱えていたのではないか。

 オウム真理教はヨガをよりどころとしてその貧しさを克服しようとしたと思われるが、家庭的な面での被害者である松本智津夫がたまたま持って生まれた(先天的な)極度の自己顕示欲を開示しようとしてうまくいかなかったがゆえに、被害妄想と攻撃性を募らせた挙句が1995年3月の地下鉄サリン事件だったのだろう。

 
 秋葉原のあのトラック突っ込み殺人事件も、犯人は家庭的に両親から正当な扱いを受けなかった恨みが原因だったが、最近は似たような動機による自己否定的な「やけのやんぱち」な事件が多くなっている。

 オウム真理教よりホーム(家庭)真理教が欲しいところだ。

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タイのサッカー少年たちの話題

 タイの北部チェンライ県で、サッカー少年たち13名がかなり有名な洞窟に入ったはいいが、出る前に大雨による増水で帰れなくなったことがどのメディアでも大きく取り上げられた。

 一週間を過ぎても出られないことからタイはもとより各国でも心配の声が上がり、さっそくレスキュー隊を送って寄越した国もあった。

 洞窟の長さは相当なもので、そのうちの4キロ余り入り込んで戻ろうとしたが時すでに遅く、帰りの通路が水没していたようである。

 洞窟を専門とするレスキュー隊員が少年たちのいる4キロ先の空間まで到達したところ、10日間近く食べていないにもかかわらず衰弱しきっている様子がなかった。これはテレビでも見ることができたが、衰弱して横たわっているような子はいないようだった。

 水は豊富にあるし、レスキュー隊の持参した食糧でもう飢餓の心配はなくなったが、あとは洞窟内の通路を水没させている水をいかに早く抜くかだろう。

 多分もう少年たちに心配はないが、この報道を見て世界は本当に狭くなったなと感心している。

 世界からのレスキュー申し入れがたちまち溢れかえったように、善意も溢れるほどに湧き上がりつつある。

 少年たちもいい経験をしたものだ。

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雄川の滝

 6月19日と23日は梅雨本番らしき結構な雨が降った。

 特に19日は台風襲来を思わせる強い西風とともに時間雨量で40ミリくらいの雨が4、5時間は降ったから、総雨量は200ミリを超えた。
 4日後の23日も強い雨が降ったが、この日は総量的には19日の半分くらいだった。

 合計すると300ミリから400ミリくらいで少ない量ではないが、同じ頃に種子島・屋久島などでは倍の量が降っており、さすがに降る量が違う。

 さて25日は朝から晴れ上がり、かねてから雄川の滝と整備されたと聞く周辺の様子を見たいと思っていたこともあって家内と行くことにした。

 根占川北の雄川橋手前の信号を左折し、「八島太郎生家」と看板のある道路をさらに400mほど進むと「雄川の滝入口」の道路標識があり、それに従って右折する。

 途中の分かれ道に高齢者が立っていて、車を止めるように指示され話を聞くと、雄川の滝への遊歩道は数日来の雨で一部が冠水しているため通行止めになっている――とのこと。

 せめて駐車場までは行きたいのだが、と押し切ってさらに滝への道をたどる。

 雄川の滝上流部の水を利用した雄川発電所を過ぎてから7、800mで、以前に比べるとかなり広くなった駐車場に到着(駐車場の直前で雄川の左岸側に渡る橋も見違えるほど広くなっていた)。

 家内を残して途中まで様子を見に歩いてみたところ何ら冠水の様子も見られないので、一緒に行くことにした。

 滝つぼまで1200mだが、確かに3分の2ほど歩いた箇所で冠水しているところがあった。囂々と流れる川がすぐそこを流れる場所で、余分な水が幅5メートル位、深さ20センチくらいで遊歩道を覆っていた。

 トレッキングシューズに近いものをはいていたので脱ぐのも面倒で、そのままじゃぶじゃぶと歩いたが、水の流れはほとんどないので危ういことは全くなかった。

 そこを過ぎると滝の上部が木立の上にわずかに見えたが、今日は発電用の水を取水して余った水(滝として落とす水)の量が「半端ない」ため、すさまじいほど白濁した川の水が頂上部から落下しているようだった。

 なるほどその通りであった。

 周辺整備事業で新たに作られた木製の展望テラス(2階建て)の向こうに、耳をつんざく滝の音と滝つぼから白煙となって湧き上がる水しぶきが怒涛の迫力で迫っていた。

 しばらく圧倒される思いで写真を撮ったり、スマホでビデオ撮影をしてから満足して帰路に就いたが、途中で地元の人に出会った。どうやら我々を心配して様子を見に来てくれたらしい。

 申し訳ないとは思ったが、ただ一箇所の冠水のために通行止めにするのは勿体ないとか、遊歩道の冠水しやすい箇所をコンクリートで嵩上げすればよいとか、今日は午後からは通行止め解除をしたらどうかとか、要望を言っておいた。

 案の定、帰路に二股地点で女性グループの乗った車が例の高齢者の係員に止められて戻されたのに出くわしたがが、どこから来たのかを問うと、鹿児島空港のある溝辺からだそうで、せっかく遠路はるばる来てこのありさまでは腹が立ったろう。

 昨日(24日)はいざ知らず、今日(25日)は朝から晴れ間が広がり、川の水量も減りこそすれ増えることはないのだから、ただの一箇所の冠水のために通行止めにしてしまうのはどうかと思った。そこに監視員を一人配置すればよいことで、あのド迫力の落水を目の当りにしたら感激すること間違いない。

 
 もっとも雄川の滝には、頂上部から川の水が落下するのを見ることのできる安全な場所がある。

 それは佐多中央線の「滝見大橋」から佐多方面に300mほど走り、道路標識に従って左折すればやはり300m位で「雄川の滝上部展望所」である。

 道路には駐車スペースがあり、左手へほんの30mも下りれば木製の展望デッキに出る。そこから見下ろす滝もダイナミックで、一風変わった滝の鑑賞が楽しめる。

 また、幅は優に50mはある石畳の雄川の広い流れが、阿多溶結凝灰岩が見事に切れ込んでいる頂上部で半分ほどに収斂して一気に流れ落ちる(というより飛び落ちる)様は息をのむほどだ。

 ここは高齢者でも幼児でも気軽に行ける場所で、6月19日のような大雨の降った直後に出かければ胸のすくような光景が目の当たりに見られるだろう(ただし、木製デッキなので濡れていたら滑りやすい)。

 

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沖縄慰霊の日

 沖縄戦終了の日が今年もやって来た。

 73年前の今日、前日に現地日本軍の司令官たちが自決し、組織としての戦闘は終わった。

 この日を記念して行われる「沖縄全戦没者慰霊祭」(正式名称は沖縄平和祈念式)の会場になっている摩文仁の丘の風景が流れる始めた時、ちょうど沖縄地方の梅雨が明けたというアナウンサーの声があった。

 空は晴れ上がり、遺族・来賓者席はテントで覆われているが、団扇や扇を使う人々が多かった。


 この6月23日、あるいはその前後の日に、沖縄では小学校を中心に『月桃の花』という歌が唄われることが多いようだ。

  
  月桃の花 (詞・曲 海勢頭 豊)

 1 月桃ゆれて 花咲けば 夏のたよりは 南風
   緑は萌える うりずんの ふるさとの夏

 2 月桃白い 花のかんざし 村の外れの 石垣に
   手に取る人も 今はいない ふるさとの夏

 3 摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は 青い空
   誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏

 4 海はまぶしい 喜屋武(きゃん)の岬に 寄せ来る波は 変わらねど
   変わる果て無い 浮世の情け ふるさとの夏

 5 六月二十三日待たず 月桃の花 散りました
   長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

 6 香れよ香れ 月桃の花 永遠に咲く身の 花ごころ
   変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏 ふるさとの夏


 今日の慰霊の日の式典が行われているのが、3番の歌詞にある「摩文仁の丘」。

 またその丘から海への絶壁としてそそり立つのが、4番の詞にある「喜屋武の岬」。
 米軍の攻撃を逃れて摩文仁の丘に上がったはいいが、身を隠す余裕もなく、この岬から多くの人が海に身を投げた。

 沖縄戦は日本国内で初めての地上戦であり、同時にこれが最後の地上戦になった。当時の沖縄県民の25パーセントが戦闘・自決・巻き添えで亡くなったという大惨事だった。

 要するに本土の防護壁になったのである。その沖縄は今も日本(沖縄自身も含むとはいえ)の防衛最前線を担っている。その根拠が日米安保だ。

 日本中に点々と置かれている在日米軍基地の総面積の75パーセントを沖縄にある米軍基地が占めている現状は辛かろう。気の毒だ。

 在日米軍の再編成を促し、沖縄の基地負担軽減に努力している――などと安倍総理は式典で例のごとく挨拶していたが、単一の同盟国の軍隊(米軍)を置くこと自体が国連憲章に違反しているのだから、日米安保はもう廃止すべきだ。

 同時に永世中立も宣言する。そうすれば米軍を離れた日本が他の国と軍事同盟を結ぶのではないか――というアメリカ側からの疑心暗鬼も起こらないだろう。

 米軍がいなくなったら中国が攻めてくる、ロシアが北方領土を返すどころか一大軍事基地を置いて日本を威嚇する――などと言うアメリカ依存症に罹った人間はアメリカへ行ってくれ。そうしたら治るだろう。

 むしろ中国は新たな見直しで、日本と仲良くしようという機運が高まるし、ロシアは本気で北方領土交渉に乗ってくるだろう。(ただし、余りに対中・対露に打ち込み過ぎるとアメリカが不快になり、制裁などちらつかせるかもしれないからほどほどでなければならないが・・・)

 フリーになった日本外交は「永世中立国」というもっとも日本に相応しい看板で世界の引っ張り凧になる。中でも沖縄は世界最高のリゾートになること請け合いだ。

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日本は見捨てられる?

 昨日の「たけしのTVタックル」を見ていたら、6月12日の会談でトランプ大統領が金正恩に「米韓合同演習を中止する」「在韓米軍縮小・撤退も視野に入れている」という内容の話をしたことに関して、番組のテーマが「日本は見捨てられる」との論調に変わっていった。

 参加していた軍事ジャーナリストは、「在韓米軍がいなくなったら、日本は中国とロシアの二大軍事強国に囲まれてしまう。こんな危ない先進国は日本だけだ」と血相を変えてまくし立てていた。

 在日米軍がいなくなるのであれば、血相を変える人々は多数いようが、在韓米軍が縮小・撤退しただけでこのありさまでは、自国を自国の力で(軍事力もだが、平和外交によって)守るという発想は金輪際ないらしい。あくまでも在日米軍の存在を自明の理としている。

 情けない話だ。在日米軍の存在を可能にしている日米安保と日米地位協定こそが、1978年の米中共同宣言(による中国の開放経済化)及び1989年のソ連邦崩壊後の世界情勢にとって「不可解千万なシステム」なのである。

 一独立国家にとって、他の一国の軍隊が常駐している姿こそが「世界の非常識」なのであって、これは国連憲章も想定していない事態なのだ。戦後間もないころの疲弊しきった日本にとってたとえ内戦が起きても軍事に回す物資や金の余裕がない時代だったり、中国やソ連の共産勢力が世界の一大脅威だった時代ならいざ知らず、1989年以降世界的に冷戦は終結し、日本が共産勢力に侵攻される危険性は大幅に縮小した状況を考えれば、在日米軍が存在する意味は限りなく小さくなっっている。

 その頃のアメリカは日本が安保をやめると言ってこないでいるのを揶揄するかのように「あれ(在日米軍)は瓶の蓋(の役割)だ」と言っていた時期があった。つまり在日米軍は日本がアメリカに楯突いて来ないように押さえ込んでておく役割に変わった――と言ったのである。

 そのくらい世界情勢は変質しているのだ。軍事ジャーナリストの多くは在日米軍を忖度する立場だから仕方がないにしても、いつまでも国連憲章上想定外の「二国間軍事同盟」にしがみ付いていないで、日米安保は廃棄すべきだ。

 そうしたら待ってましたと中国がロシアが攻めてくるぞ、といつまでも子供だましで脅すのはやめよう。いったいどんな理由があって中国やロシアが日本を攻めるのだろう。この点について具体的に攻められる要因を述べている軍事ジャーナリストや日米安保堅持論者の話を見聞したことがない。

 金正恩なんかはその辺りを見透かし、「なぜ、日本は自分からこっちに出向いて来ないのだ。いつまでアメリカのヒモでいたら気が済むんだ」くらいな気持ちだろう。

 中国もロシアもそう思っている。

 安倍さんがいくらロシアのプーチンにゴマを擦っても、プーチンは「日米安保がある以上、北方領土を返還したはいいが、そこに米軍基地が置かれたらどうしようもない。」と率直に言っている。だからいくら経済協力で共同開発しましょう、と言っても経済だけの話で終わり、北方領土返還には結局応じないだろう。

 日米安保が無くなったら中国がまずは尖閣諸島を乗っ取りに来るだろう、というのが日米同盟堅持論者の言うところだ。そして日米安保があればこそ前のオバマ政権の時にヒラリー・クリントン国務長官が「尖閣諸島は日米安保の守備範囲に入っている」と言ってくれてそれが中国侵攻への抑止力になっているではないか――とも言うだろう。

 しかし日本の野田民主党政権の時に尖閣諸島を国有化したからこそクリントンが「そこは明確に日本領土になったのだから、日本を守る日米安保に基づき守備範囲に入れた」のである。勘違いも甚だしい。

 自民党政権下では長いこと尖閣諸島は個人所有のままだったわけで、もしその時代に中国が乗っ取っていたら米軍も手が出せなかったのだ。もちろん日本の自衛隊も出動できなかった。海上保安庁の船に中国漁船が体当たりしても武力で排除しなかったことからも明らかだ。

 第二次安倍政権で安倍さんが大変な外交努力をしているのは大いに認めるが、旧時代の日米安保(日米地位協定)を堅持している「ボタンの掛け違い」を是正しなければ、北朝鮮・韓国・中国・ロシアからこれまでのような侮りを受け続けるだけだ。

 日米安保を廃棄し、同時に「永世中立国」(ただし武装=自衛隊堅持)を宣言し、新たな平和外交国家日本を目指そう。

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二つの地震

 シンガポールでの米朝会談があったその日の早朝5時5分ほど前のことだった。
 
 その30分くらい前に目を覚ましてやや明るくなった窓外を眺めた後、うつらうつらしていると不意に大きな揺れが始まった。1分と続かなかったが結構な揺れだったので起き上がって居間のテレビを点けると、さっそく地震速報が流れた。

 <4時54分ころに大隅半島沖で地震。震源の深さは30キロ、マグニチュード5.5.各地の震度は宮崎・日南・串間が4.鹿屋・都城・曽於などが3>
 
 と出た。

 鹿屋に来てちょうど丸15年になるが、これまで経験したので最大の揺れは7、8年前の5弱だった。この時は市役所の6階で揺れに会い、相当に揺れたので少し恐怖もあった(震源は日向灘)。

 それ以降は4クラスが2回ほどあったか、3でも数回ではないかと思う。そのくらい大隅半島では地震が少ない。

 だが、日向灘は結構多い。ここは南海トラフの西の端で、高知県沖ほどではないが大きな地震の起きる箇所だ。

 今回の震源はは日向灘より50キロばかり南の大隅半島志布志湾沖で、ここも南海トラフなのかどうかよくわからないが、大隅半島周辺の海域ではさらに南寄りの種子島沖に割と発生している。


 そのまま地震情報などを見続けていたら、10分くらい経って、また地震速報で、今度は遠く関東の千葉県房総半島沖を震源とするマグニチュード4、9の地震があった。

 震度は最大3で、さほど大きな地震ではなかったが、千葉県の東方沖は列島が乗っかっている北米プレートに太平洋プレートが沈み込む場所で、しかもその沈み込み方がゆっくりと起こる「スロースリップ」現象が見られる箇所だという。

 この辺りで中規模の地震が連続して続くようであれば、大規模地震につながる可能性があり警戒が必要だと聞く。

 大隅半島沖のはユーラシアプレートに潜り込むフィリピン海プレートの作用、房総半島沖のは北米プレートにもぐりこむ太平洋プレートの作用と、プレートの組み合わせが違うので二つの地震に関連性はないと思うが、海側の方のプレートは隣り合っているので全く関係がないとは言えない。

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米朝会談と板門店宣言

  シンガポールを舞台にした「歴史的会談」だったという米朝会談。

 たしかに北朝鮮のキム家の王様が、場所は余所だったにしろ、アメリカの大統領と直接会って話すのは初めてで、その点では間違いなく歴史的で、トランプ大統領の交渉術の成果だった。トランプ大統領はさぞ鼻が高かろう。

 会談後に共同声明のような形のものが出るのか出ないのか、マスコミには直前まで知らされていなかったようだったのもトランプ流だろう。日本人には絶対真似のできない(もっとも多くのアメリカ人でも)巧みと言えば巧みな外交だ。

 その共同声明の中身について、多くの解説者が「もう少し具体性が欲しい」といっている。

 肝心の非核化の時期や方法についての記述がなかったのが最大の疑問符だ。

 もっとも非核化の見返りに値する経済制裁解除について、トランプは「約束していない」とも述べているのでどっちもどっちである。

 今回最大の売りはとにもかくにも米朝トップ同士の「歴史的」会談だったのであるから、そう突っ込んだ具体的な部分まで盛り込めないのは仕方あるまい。

 それより「北朝鮮は韓国とのトップ会談で出した板門店宣言をちゃんと履行せよ」という文言の方が大事だろう。

 4月に板門店宣言を出す前に、両首脳が38度線を挟んでにこやかに握手をし、小躍りするようなしぐさを見せたが、あれは偽りないものと見えた。

 板門店宣言は大きく分けて3項からなり、

 ①分断されてしまった民族の血脈をもう一度つなぎ直し、共同の繁栄を築くこと。
 ②軍事的衝突の危機を緩和し、戦争を回避すること。
 ③半島の恒久的平和のため、休戦から終戦へ、最終的には非核化し、平和協定を結ぶこと。

 というもので、トランプも率直に言うように、「在韓米軍の合同演習は金がかかるから本当はやりたくない。半島の終戦が担保されたら在韓米軍も縮小するか撤退するか考え時」などというのも、この板門店宣言を念頭に置いている。

 多少は金正恩へのリップサービスもあるが、北朝鮮の非核化(大陸間弾道ミサイル廃棄を含む)さえ完全になされれば軍事的プレゼンスは解消しても構わないのではと本気で思っている節がある。

 そしてもし板門店宣言通りに事が運べば、経済制裁は解除の方向に向かい、その後の経済援助は韓国と日本が担えばいいなどとも言っているが、中国抜きで事態が動くはずはないので、これは誤りだ。ちょっとノーテンキ過ぎる。


 日本政府にとっての重要課題「拉致被害問題」について、トランプは会談で取り上げたというが、これに対する金正恩の反応は分からない。

 北朝鮮は金正恩体制になってから親父が認め、被害者の再調査をしたという触れ込みで他人の遺骨などを送ってよこしたが、多くの被害者の消息は不明で、今では「解決済み」の一点張りだ。

 「私の代で拉致被害者を救済する(拉致問題は終わりにする)」と常々言っていた安倍首相なのに、金正恩と会いもしないでは男が廃る。早く会談して経済制裁の解除をちらつかせながら交渉に当たるべきだろう。まずは金正恩と親しい間柄になった文在寅大統領を動かすのが近道かもしれない。

 とにかくもう時間がない。待っている家族たちも高齢化している。何とかすっきりさせてほしいものだ。

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