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王子遺跡資料館

 このところ雨続きです。9月下旬から今月の半ばまでほとんど降らなかったのを取り戻すかのように、よく降ります。

 屋外の活動は出来ませんので、資料館に行ってみました。王子遺跡資料館と言い、郷土資料館を持たない鹿屋市では貴重なものです。もっとも他に二つの資料館があります。ひとつは「海上自衛隊鹿屋航空隊基地資料館」で国の施設。もう一つは「笠野原開発資料館」で、こちらは民間の施設です。この2館についてはいずれ取り上げる機会もありましょう。今日は王子遺跡資料館だけの紹介です。

 王子遺跡は昭和55年に鹿屋バイパス工事中に発見され、翌56年から発掘調査された弥生時代中期の遺跡です。2000年~2100年前の竪穴式住居跡が27基、掘っ立て柱建物跡が14基という規模の集落遺跡で、55年当時はそれまで南九州では弥生時代の大集落などほとんど見つかっていなかったことと、棟持柱(むなもちばしら)付き住居の存在が伊勢神宮などの神社建築様式のひとつのルーツを示すのではないかなどOujimunamoti_2と報道され、センセーションを巻き起こしたようです。

 遺物として注目に値するのは、いま挙げた「棟持柱付き掘っ立て柱建物」、「鉄製ヤリガンナ」、「矢羽根透かし彫付き高杯(タカツキ)」などで、ヤリガンナは製材用とくに船材の加工に使われたとされています。また弓の矢羽根(やばね)の形をした透かし彫りの技法は瀬戸内系なので、当時、瀬戸内地方と大隅との間に交流があった可能性が高いことを示す遺物として注目されています。 Oujitenji

 王子遺跡資料館はただ一つの遺跡を唯一の対象とする珍しい展示館といえるかもしれません。実にこじんまりとした資料館です。ゆっくりと念入りに見て回れます。開館時間は9:00~16:30。入場無料。休館日は月曜です。場所は鹿屋市文化センターの裏、普通の住宅と勘違いしそうな建物ですから、できれば文化センター脇の中央公民館の事務室で聞いておいた方がいいでしょう。その事務室の横には西祓川町の地下式古墳(隼人系の墳墓と言われている)から出土した短甲(よろい)と冑(かぶと)がガラスケースの中に展示してあります。実物なので必見です。Tankou_1

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宮ノ上地下式横穴墓群を訪ねて(鹿屋市吾平町)

Rakunou1117_051_1   鹿屋市と合併した旧吾平町を代表する古墳を訪ねてみました。
 吾平町は日向神話の皇孫三代目ウガヤフキアエズ命の御陵(吾平山上陵)があることで知られていますが、同じ墓でも5世紀の頃こちらでは地下式古墳が盛んに造られました。隼人特有の墓と言われ地表には何の印もなく、発見される時の状況が「トラクターで畑を耕していたら、急にぽこっと穴が開いた」というのが多いようです。
 形状は1.5㍍ほど真直ぐに掘り下げたあと、今度は横に掘り進め玄室を形作るというもので、玄室の大きさはいろいろありますが、概ね遺体を横たえて少し余裕がある程度すなわち2メートル前後がほとんどです。副葬品は刀、壺などが主で装飾品などはまず出ることはありません。隼人=武人というイメージに近い様相Rakunou1117_046 ということが出来ます。
 ただどのような信念(?)で、あるいは観念でこのような地下式横穴墓を作り続けたのかについては確定されていません。一説では「大地を母の腹に見立て、その中にちょうど子宮の役割をする横穴(玄室)を造り、再生を願った」という大地母神的な信仰を考えています。また別には墓を暴かれるのを極度に嫌ったからとする説もあります。
 隣町の串良町岡崎古墳群では高塚(前方後円墳・円墳など)にもぐりこむような地中に地下式墳が発見されているので、また違った観点から見ることも出来るようです。
 吾平町のこの宮ノ下地下式横穴墓群は吾平小学校の校庭にあるプールの造成工事中に発見されました。その数十五基で集団墓の趣きがあります。小学校は旧吾平町役場と隣接する鵜戸神社の裏手、比高20メートルほどのシラス台地の突端にあり、眼下に吾平町内を、少し向こうには姶良川が流れ、遥か南には肝付三山の国見岳・黒尊岳・母養子岳を眺めることの出来る絶好の見晴らし台地にあります。子孫の地の繁栄と行く末を見守る墓域としては最高の土地でしょう。プールの時と同じように校庭全体を掘り下げたらまだまだたくさんの地下式墓が見つかりそうに思います。

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高山の流鏑馬祭り

_080  前回の弥五郎どん祭りで触れた「高山の流鏑馬祭り」は十月十五日に催されました。当時まだこのブログを始めていませんでしたので、ちょっとさかのぼりますが今紹介します。
 高山町の四十九所神社に伝わる流鏑馬祭りは、当地の豪族・肝付氏がここに居城を定めた百年後に始まったといいます。肝付氏は伴(大伴)姓で、有名なかの大伴家持と同じ祖先を持つ名族で鹿児島を経由して十一世紀の初期に大隅半島の当地に弁済使として赴任して来ました。それから百年後と言うと平安時代末期になりますが、以来およそ900年、途切れた時代もありましたが連綿と今日に及んでいる古い奉納神事です。
_055 射る手には中学生が選ばれ、乗馬・弓引き・騎射の訓練を受け、さらに祭礼の一週間前から宮に籠もります。二日前になると7キロほど離れた東串良の海岸で汐掛け(みそぎ)をして本番に備えます。
 神社前の二町(220㍍)の馬場に三本の杉板の的が建てられ、それを射抜くのですが、三走して都合九つの的を狙ったうち何射が当たるかで豊作か不作かが占われるので、射る方も真剣勝負です。当日は中学生の父親が紋付を着て馬場を歩きながら塩で清めるという念の入れようです。
 今年は九射中七射が当たったので、親子ともどもほっとしたことでしょう。
 流鏑馬が済むと、南国大隅にも秋の気配がぐっと深まります。

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弥五郎どん祭り

初めてこれを書き始めます。どうぞよろしく。

 大隅半島の歴史・話題・季節の移り変わりなどをお知らせします。ただし、kamodokuの眼と心に映じたようにしか書けませんので悪しからず、お付き合いください。

 さて、昨日は旧大隅町岩川の八幡神社の神事〈弥五郎どん祭り>
が催され、行ってきました。さすが「県下三大祭り」(他はおはら祭りと川内大綱引きです)の一つ、盛大でありました。900年続くと言いますから、大隅半島では高山町の流鏑馬(やぶさめ)と並ぶ伝統祭事です。
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 一丈六尺七寸(4.85㍍)の大男・弥五郎が子供たちに曳かれて町中を練り歩く様は見事なものです。弥五郎については二説に分かれていていまだに決着を見ていません。一つは武内宿禰説、もう一つは隼人の首長説で、前者は応神天皇を守り立てた忠臣、後者は南方辺境の反逆者、と正反対の性格です。いったいどちらなのか不思議な話です。学者は武内宿禰など実在の人物と見ていませんから隼人の首長説でしょうが、地元は同一視したいようです。
kamodokuもその説に傾いています。皆さんはどちらでしょうか、考えてみて下さい。

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