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弥五郎どん祭り

初めてこれを書き始めます。どうぞよろしく。

 大隅半島の歴史・話題・季節の移り変わりなどをお知らせします。ただし、kamodokuの眼と心に映じたようにしか書けませんので悪しからず、お付き合いください。

 さて、昨日は旧大隅町岩川の八幡神社の神事〈弥五郎どん祭り>
が催され、行ってきました。さすが「県下三大祭り」(他はおはら祭りと川内大綱引きです)の一つ、盛大でありました。900年続くと言いますから、大隅半島では高山町の流鏑馬(やぶさめ)と並ぶ伝統祭事です。
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 一丈六尺七寸(4.85㍍)の大男・弥五郎が子供たちに曳かれて町中を練り歩く様は見事なものです。弥五郎については二説に分かれていていまだに決着を見ていません。一つは武内宿禰説、もう一つは隼人の首長説で、前者は応神天皇を守り立てた忠臣、後者は南方辺境の反逆者、と正反対の性格です。いったいどちらなのか不思議な話です。学者は武内宿禰など実在の人物と見ていませんから隼人の首長説でしょうが、地元は同一視したいようです。
kamodokuもその説に傾いています。皆さんはどちらでしょうか、考えてみて下さい。

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おおすみ祭礼と行事」カテゴリの記事

コメント

武内宿禰は100数十歳でありえない年齢のため架空の人物とされてますが、数人の業績を1人にしたのかもしれません。武内宿禰がいたかどうかは定かではありませんがモデルはいたでしょう。

武内宿禰には応神天皇=神武天皇、その父親説もあります。となると吾平山陵は武内宿禰神宮皇后の墓になるのでしょうか?

それは別にして弥五郎3兄弟、岩川、山之口(都城)、日南飫肥の3か所は志布志湾の上陸した渡来人と関係ないのか。3人とも巨人、赤ら顔で鼻が大きい。渡来人の特徴である。

飫肥も油津が近い。直接か志布志から渡って来たかもしれない。特にこの飫肥の弥五郎はトルコ系(白人の祖とも言われ、シルクロードへの影響が大きい)そのものの風貌である。

また、武内宿禰は秦氏とも言われる。秦氏は中国秦の末裔とも景教の流れとも言われる。偶然か島津も秦氏と言われ、○に十の字の家紋、轡十字は江戸時代以降に変えたようで元々は筆十字だったようです。ザビエルが鹿児島に上陸して家紋を見て驚いてそうです。

島津も謎が多いです。島津が強かったのは兵の精強さだけでなく武士が鉄砲を刀同様使用していたことです。戦法的にもすぐれかなりの戦術を用いています。彼らも渡来系だったからでしょうか?

なぜ、岩川に弥五郎の祭りが残ったか。末吉の住吉神社、ここは古墳のような感じがしますが調査はあったのでしょうか。住吉は大阪の住吉とことでしょうが、なぜ、こんな山の中に住吉なのか。

また、末吉には諏訪の地名もあります。信州諏訪、ここは安曇野一族が逃れて諏訪氏になったとの伝承があります。島津が信濃守も兼任しており諏訪一族を連れてて来たとの説もあります。先生のご意見はいかがですか。

投稿: 真実一路 | 2015年9月23日 (水) 10時45分

真実一路さんへ。
 質問が錯綜しているようです。要点だけで答えます。
武内宿祢…景行天皇時代の西暦320年頃、大隅半島(古地名:阿比良)の肝属川河口左岸の柏原生れ。西暦410年代の仁徳天皇時代に没。およそ90歳前後の長寿。南九州の実在首長であり、弟の甘師内(うましうち)宿祢に朝鮮半島南部(三韓)を手に入れようとしていると讒言されたほどの権力者。後継者は応神天皇。

弥五郎…大人(おおひと)弥五郎と呼ばれる。この「おおひと」とは「首長」という意味だが、漢字に惑わされ5mもの長身として作られてしまった。応神天皇紀に登場する「諸県君・牛諸井」がモデル。「牛(うし)」とは「大人(たいじん)」のことで、やはり「首長・支配者」を指す。人形化した時の高い鼻はおそらく天孫を導いたというサルタヒコにダブらせた。

秦氏…『新撰姓氏録』によると、半島を経由して渡来した秦の始皇帝の後裔・融通王(弓月君)の子孫。始皇帝はシルクロード系の碧眼だったという説もあるが、仮にそうだとしても半島にいた倭人などと何代も混血しており、渡来当時の風貌は倭人そのものだった。この渡来に当たってはどうやら隼人(南九州鴨族)が連れて来たようで、雄略天皇代に隼人を使って各地に散らばっていた秦氏を集めたところ、「秦氏92部、18670人を得た」とある。武内宿祢は秦氏ではないが、半島から弓月君以下多数の秦氏族を船で運搬してきた当主(事業主)の可能性あり。景教は唐の時代のキリスト教で、弓月君ははるか昔の応神天皇代に渡来しているのでまったく噛みあわない。

島津氏…惟宗姓で、まさに秦氏の流れ。くつわ十字紋をよくキリスト教の十字架とダブらせるが、もしそうであればザビエルと会見しキリスト教の布教を許した島津氏15代貴久が2年足らずで取り消してしまったのは不可解。その後もキリシタンとは無縁。島津氏の軍事力はたしかに鉄砲の使用は早かったが、あくまでもそれはサブで、メインは海浜型の「若衆宿」的な切磋琢磨の鍛錬と団結力による。また渡来系というような種族的な特徴とは無関係。

住吉神社・諏訪神社…住吉神社は宗像氏の氏神で、山中にあるのはおそらく白村江の海戦で敗れたがゆえに、同族に近い南九州鴨族のもとに落ちて来たからか。末吉町には住吉山の5キロほど東に檍(あおき)神社が鎮座し、こちらは日向灘に面した阿波岐原の山中版でおそらく大淀川河口から当地に入った落人的な種族のもの。また諏訪という地名は諏訪氏ではなく諏訪神社からで、鎌倉時代以降の武神は「八幡」と「諏訪」が双璧で、これを勧請した。

 以上、取り留めなく・・・。

投稿: kamodoku | 2015年9月25日 (金) 23時43分

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