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肝属川(きもつきがわ)河口の日の出

 肝属川の河口に日の出を見に行った。Kimotukigawakakou1221_036_1

 初日の出には早い!?のは承知で、実は「冬至の日の出」を拝みに行ったのだ。寒い朝で、霜こそ降らなかったものの、ようやく目覚めた鴨の群れが、川面から立ち上る朝霧の中で遊泳を始めていた(写真の中心は権現山。右手の黒々とした岬状のものは中州で、本流はこの中州の向こう側・権現山の真下を流れ、左側の岬=柏原新砂丘の向こう側に広がる志布志湾に注いでいる。下の写真が志布志湾からの日の出)。

Kimotukigawakakou1221_034_1   冬至の日に日照は最も短くなる。

この日は民俗的には特別な日で「太陽神の再生」を祈願する大切な日だったのだが、新暦(明治6年に採用された西洋暦)の正月元旦が間近いことと、クリスマスのお祭り騒ぎが取り入れられてすっかり廃れてしまい、今はただ「冬至のゆず湯に入れば風邪をひかない」などと言われるだけになってしまった。

 だがゆず(歌手ではない、みかん類の柚子)は実は太陽の象徴なのだ。ゆず湯とはだから「太陽の湯」ということなのである。

 そもそもクリスマスも元来は北欧の「太陽の回復祭り」が起源だそうだ。さもありなん、太陽に見離されたような白夜の続く中、その極日である冬至の日に「太陽様、我々を見捨てないで早く帰ってきてください」という気持ちは良くわかる。それが一神教のキリスト教になってから、いつの間にか〈サンタ・クロース(聖ニコラス)〉が主人公になってしまった。

 民俗的様相から見ると、世界はひとつだという感を深くする。

 〈ときじくのかぐのこのみ〉という垂仁天皇の時代に但馬の国の出身であるタジマモリがKimotukigawakakou1221_039 常世の国まではるばる見つけに行ったという木の実は、橘(たちばな=みかんの一種)のことだそうだが、この「常に成り続けている光り輝く木の実」とは太陽を象徴しているのかもしれない。垂仁天皇の時代にすでにそのような「太陽神の回復」「永遠の輝き=不老不死」という観念があったとすれば、〈冬至の祭り〉の起源も相当に古いことになる。

 冬至の日だけといわず、太陽の乏しい冬の間にみかん類を浮かべて風呂に浸かるのは健康上、信仰上(?)とても理に適っているのではないだろうか。

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飯盛山古墳(志布志市)探訪

飯盛山古墳は志布志市の西端ダグリ岬にあったとされる前方後円墳で、昭和38年、当時はまだ地方自治体で国民宿舎が建設されていた時代に志布志の町営事業として造られた「ダグリ荘」の工事中に発見かつ破壊された知る人ぞ知る古墳である。

 一昨日は雨模様だったが、古墳は志布志湾に可愛らしく突き出た小さな岬の真ん中にShibushi_041 あり、しかもそこには今、「ダグリ荘」が「ボルベリア・ダグリ」という名で華麗に変身を遂げた上、温泉にも入れるという好条件に釣られて行ってみることにした。

 なるほど素晴らしい建物だ。以前の国民宿舎の時と比べると雲泥の差がある。中規模の民間のホテルといったたたずまいなのだ。外観を目で人撫でして、すぐに古墳の方に行く。

 行く!?・・・いや、行く必要は無いのだ。これなのだから。今見えている立派なホテル状の建物こそが古墳の主のための平成の追悼モニュメントなのだから・・・。駐車場のはずれに立つ説明板が無ければ、ここに全長80メートルの前方後円墳が造成されていたと気付く人はいないだろう。Shibushi_040

  説明板には「破壊し尽くした」とは書いていない。昭和38年では文化財保護という観念があいまいな時であったから仕方ないのかもしれないが、少なくとも墓室とその内部くらいの実測、副葬品のデータなどが残されていればよかったのにと残念でならない。

 とまれ、この古墳の外形だけは記録に残されている。『南九州古代遺跡の考察』(諏訪昭千代著)によると、墳長は80メートル(前方部43㍍・後円部37㍍)、後円部高さ4.5メートルあり、自然の丘陵を整形したもの。墳丘は葺き石で覆われ、その当時は前方部と後円部の北側斜面にまだ人頭大の丸い石が残っていたという。惜しむらくは石室の消失で、諏訪氏は当時何度も足を運んだが痕跡さえ見つけられず、ただ「つぼ型埴輪」「ガラス製勾玉」『ガラス製丸玉」の発掘を知らされただけという。Shibushi_046

  諏訪氏のように愕然としつつ、説明板から岬の先端にのびる遊歩道をたどり、古墳の後円部の南側に回ってみた。するとそこに「三等三角点」を見つけた。地図に記されている標高41.4㍍のことらしい。おそらく丁度ここが後円部の海に臨む先端だろう。ここから写真に見える宿舎に向かって小山のように築かれたのが、古墳の主の眠る丘だったのだ。罰当たりめ、という声が聞こえてきそうな気がした。これを位牌に見立ててしばし黙立していた。

 温泉は鹿児島の銭湯としてはちと高い500円だったが、大風呂からの志布志湾の眺めShibushi_031 は素晴らしい。サウナも普通の銭湯の2倍ほどの広さがある。風呂上りの休憩所もあり、ホテルだから土産物の売店も充実している。レストランもなかなかのものだ。何にも食べなかったがコーヒーを飲んで帰った。

 志布志は歴史上の見どころの多い町で、市内到るところに史跡があるのだが、西はずれのここだけはお目こぼししてしまったようだ。

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ホホデミの御陵・高屋山上陵探訪

 よく晴れた日曜。午前中はのんびり過ごし、午後から友人と以前行きそびれKunimidake_045た高屋山上陵と言い習わされている国見岳(887m)へ登る。

 登るといっても友人の住む肝付町(旧高山町)の中心から車で30分。ほとんど九合目と言っていい峠まで上がってしまい、あとは気象観測所のあるピークまで舗装道路が続いていて楽に歩ける道なのだ。

 Kunimidake_048右の写真の正面が気象観測所のあるピークで、これはこれで眺めのよいところだが今日はそこには行かず、途中で右手に山道をとる。

 その分岐までが約十五分。分岐点には「右へ国見岳・400m」の案内板がある。何とも楽なコース。

 道は急に山らしくなる。踏み跡はしっかりしており、うっそうと繁る照葉樹林の中を行く。タブ、カシ、ユズリハなどの群生が見事だ。静寂そのものだが、時おりヒヨドリの叫びがしじまを破る。Kunimidake_061

 十分ほどで国見岳の頂上。三角点があり、その脇に 杭が立てられていた。宮崎市から来た山好きが建てたらしい。国有林の中に勝手に建てたのか断っているのかは知らないが、あたりの木に記念に刻みを入れたり、石にスプレーで名を書いたりするよりはよっぽどましではある。だがご苦労なことだ。

 ご苦労と言えば山頂にある石造の祠の方だろう。凝灰岩製の 高さ1m、奥行・幅ともに50cmほどのこの社を地元内之浦の青年団が運び上げたようで、見たところ優に百キロはありそうな代物である(昭和31年と刻まれていた)。Kunimidake_055

 しかし心配は無用だった。祠は上の笠の部分、中の本体、下の基礎の部分に分けられる上に、一番重い本体は二つに分割できるようになっていたのだ。そうだろう。そうでなくては標高差八百㍍以上あるこの山頂まで急峻な山道を担いで登ることは不可能だったろう。

Kunimidake_058  祠に手を合わせたあと、後ろを振り返り見下ろすと内之浦の町が霞んで見えた。その田んぼ地帯の中心には高屋神社があり、そこからはこの山頂を遥かに眺めることが出来る。ここが奥宮で、内之浦の高屋神社は里宮という関係になる。

 「この山頂が天孫二代目のホホデミの御陵」というのが地元の伝承であり、同時に薩摩国学者の支持する説でもあった。だが明治7年の政府裁定で、御陵は霧島山麓の溝辺町の現・高屋山上陵に持って行かれてしまった。そもそもホホデミの御陵は古事記、日本書紀の記述に基づいている。古事記には「高千穂山の西」とあり、書紀には「日向高屋山上陵」とあるが、古事記の記録の方が具体性があるとされ、結局「霧島の高千穂の峰の西」だとして溝辺町の方に軍配が上がったというわけである(現・高屋山上陵の位置は実際には南西だが)。Kunimidake_053

 確かに国見岳の山頂は石の祠を除いたら何の変哲も無い頂きに過ぎない。墳墓らしい石組みや巨岩があるわけではない。見晴らしも内之浦方面はよいが高山町や鹿屋方面は全く見えない。「国見」の名に恥じているのだ。それに比べて気象観測所のあるピークの眺望のすぐれていることよ。そこが国見岳であり山陵だと言われたら、本当だと思うかもしれない・・・。

 

 

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高隈山に登る

12020009_1  昨日が余りに天気がよく、山もくっきりと見えていたので晩秋の趣を求め、高隈山に登ることにした。予報では今日も晴れて降水確率もゼロということで、朝7時に家を出た。

 鹿屋市営鳴之尾牧場の上、鳴之尾林道の途中に高隈連山の南登山口がある。そこまで40分ほど、8時に登り始めた。テレビ中継塔のあるピーク934mまではよくある朝もやの霞がかかったくらいだったのだが、風が気になりだした。夕べの天気予報の最後に「上空には寒気が入り込みます」と言っていたのを思い出した。上の写真はピークからの御岳(真ん中の丸い頭・1191m)と妻岳(左端のピーク・1145m)だが、この時はまだ日が差していた。

 ところが8合目の水場に差し掛かる頃から強風に変わり始め、空一面が黒い雲に覆われ西から東へえらい勢いで流れていく。「まずい」と思ったが、余りに流れが早いのと、天気図からして降るわけがないとの判断で、登山を続行する。この判断は一応当たった。しかし、降られはしなかったものの終日ガスの中を歩くことになった。12020040

 12020020 9時20分に御岳の山頂に着いたが強風で寒くとても休憩どころではない。写真だけ撮って早々に妻岳に向かった。妻岳への道は熊笹と照葉樹、三つ葉ツツジそしてところどころにブナの大木の交じる「神々の散歩道(プロムナード)」といった趣がある。しかも照葉樹林帯の有難いところは強風を遮ってくれることで、余計に「神々しく」感じられる。 

妻岳は高隈連山の「槍ヶ岳」だといつも思っていたが、今回の悪天候で地面をしみじみと這うように見つめ続けた結果、それを撤回しなければならなくなった。というのは妻岳は上の写真のような尖鋭なピークでありながら、岩がむき出しになっているところが無いのだ。これには驚いた。御岳や最高峰の大箆柄(おおのがら)岳1236mの山頂が比較的面積もあり、なだらかなのに岩峰であるのとは好一対だ。もしかして昔の人はそのことを知っていて「見掛けはツンとしているが、ちゃんと土(衣装)を纏っているから女の山だ」として「妻岳」と名付けたのかもしれない。事実、たった7~80㎡ほどの山頂だが潅木に覆われ ているし、一角には二基の祠が置かれていた。おそらく山の神つまり「妻」を祭った物だろう。

 再び縦走路に戻る。ここまで40分。10時を少し回っていた。いよいよ最高峰を目指す。三キロ半の道のりだ。途中、スマン峠と小箆柄岳への分岐点を通り、3~40mのアップダウンを4,5回繰り返すと大箆柄岳への登りとなる。11時20分、ついに到着。だが12020041 相変わらず風が強い。雲もちぎれるように飛び去っていく。早々に下山。来た道を戻る。帰り道にスマン峠のベンチで弁当をかき込み、再び御岳へ。

 ところが御岳への最後の急登のところで太ももがつり始めた。ふくらはぎがつったことはあるがこんなことは初めてだ。どうしたことかと案じたが一歩一歩「気合を入れながら」というか「騙しだまし」というか何とか御岳の頂上にたどり着く。ホットもしたが、とにかく寒い。「寒い、寒い」と言いながらピークに向かうと、子供の姿がちらちらしている。何と山頂直下の大岩の陰12020048 で、親子連れが昼食の真っ最中。大きな犬も一頭、ご相伴。あれあれと驚く。聞けば霧島市からやって来たと言う。本当は霧島山に紅葉狩りに行く予定だったが、雨が降っていたので急遽こちらに登ることにしたんだそうな。何ともぼっけなおおらかな親子であった。

 この後、テレビ中継塔の所でも親子連れに出会ったが、彼等は鹿児島市からで、やはり始め霧島山へ行ったが雨になったのでこっちに来たと言う。霧島山からここまで7~80キロはあるだろう。電車、バスを乗り継いで行くハイキングではこうはいくまい。車の威力はそこにあるー―と感心しきりであった。

  帰りに鳴之尾牧場に立ち寄る。ここは未産の乳牛を酪農家から預かり、山野に放って12020052 足腰を丈夫にし、初産を軽くその後の搾乳量を多くしようという役割を持った牧場である。見た目では霧島の高千穂牧場のようにそこで乳が搾られ、いろいろな乳製品でも販売されていそうだが、残念ながらそういうところではない。プロ専用の放牧場なのだ。

 風景には全く恵まれなかった今回の高隈登山だったが、冬の間にもう一度は登ってみよう。今度は積雪後の快晴の日を選ぼうと思うMaptakakumajuusouroマップ(赤い十字は妻岳)

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