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謎の西郷さんの写真

 先週出かけた霧島が丘公園にある南洲庵。その中の通路の壁に額装されていた西郷隆盛を含む慶応年間の集合写真は、人物比定に大いに問題あり、と判明した。インターネットのおかげである。

 鹿屋市公園管理事務所に問い合わせたところ、写真の件については寄贈者の名前しか分からず、結局ネットの「西郷隆盛の写真」検索で解明することができた。次のホームページを参照させていただいた。お礼申し上げる。

   http://www.nextftp.com  

 これによると、この集合写真に写っているのは、幕末に佐賀藩の大隈重信らが中心となって設立された英学塾「致遠(ちえん)館」の教師オランダ人フルベッキを囲む44人の佐賀藩士で決して他藩の志士たちではない。時代も明治二年のことで、大隈らが設立場所の長崎から、いよいよ江戸(間もなく東京となる)へ青雲の志を抱いて行こうという時に、恩師を囲んで撮った記念写真だった。だから慶応年間のものというのからして間違いである。

 そもそもこの写真が出回ったのは、ある肖像画家が約三十年前にとある歴史雑誌に勤王志士の名を入れたのが始まりという。肖像画家として何としても西郷さんの本物を見つけたいという、信念というか執念というかその気持ちは分からないではないが、結局これから尾ひれが付いてほぼ全員が薩長土肥の「維新の元勲たち」に比定されてしまった。4,5年前から再びこれが取り上げられるようになり、佐賀では陶版写真として土産物にもなったという。少年姿の明治天皇まで写っているというから、驚きを通り越してあほらしくなる。

 最大の元勲西郷隆盛の顔がどの写真にもない、というのも確かに異常だが、神秘性もカリスマの一つの条件であろう。陸軍大将・参議という最大の栄職を捨てて国に帰り、一農夫になった後、学校を建てて若者を指導し、時に大隅の日当山・高須・根占や薩摩川内あたりまで湯治と狩猟に明け暮れるという隠士の姿を見せた維新最大の功労者、西郷さん。今でもその恬淡・無欲の実践を慕う者は多い。

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霧島ヶ丘公園(鹿屋市)

Kirishimagaoka_020  鹿屋市横山町の丘陵にある霧島が丘は昔から展望地として有名だったが、ここ4、5年バラ園の充実を図り、ついに去年の4月に西日本随一の鹿屋バラ園としてグランドオープンした。

 歩き仲間と昨日の午後出かけてみたが、残念ながら時期はずれで、入園はせずにいつものウォーキングをすることにした。すると公園のシンボルタワーへの道で季節はずれのバラが咲いていた。

 品種改良がここまで進んでいるのかと、春咲きのバラしか知らない自分には驚きだ。しかも11日、12日と鹿屋では2日連続して霜が降りているのに、こうして見事に咲いている。だが、根元を見て納得した。固形肥料と、それを覆うかのように一センチほどもあるような厚さで油粕がまかれていた。

 展望タワーでひとしきり眺めたあと、今度はなだらかな丘陵の一番北の端まで歩く。

 途中、田の神ロードというバラ園の垣根沿いの道を通る。田の神は文字通り、田の豊穣Kirishimagaoka_046 を見守る像だが、南九州に至極多い加工のしやすい凝灰岩でつくられていて、表情は様々である。この写真の田の神は大きく口を開けて笑っているが、口を開けてまで笑っているのは珍しい。

 もう一つ面白いのは、田の神といいながら僧侶の姿をしている物が多いことだ。それも旅姿というのが多い。弘法大師や行基などの高僧が諸国を行脚しつつ、その地方の農業振興に関わる事業を行って民をにぎわした――という伝承を念頭に造られたのかもしれない。制作年代はおおむね江戸時代中期から後期にわたっている。

 この田の神ロードにはこんな像が30ほどもあり、愛好者にはたまらない場所だろう。

Kirishimagaoka_039  田の神ロードが終わり、芝生の広場を横切った所に瀟洒な武家門があり、その奥に「南州庵」が建っている。これは西郷隆盛こと南州翁が明治6年にいわゆる征韓論論争に敗れ、一切の栄職をなげうって帰郷して以来、湯治と趣味の狩猟のため時折り大隅半島にもやってきており、その際には現在の鹿屋市高須町の田中家を定宿としていたが、田中邸が解体された時にその骨組みを移築したものだという。

 Kirishimagaoka_033 土間には西郷さんの使ったという箪笥が展示されている。

 また驚くことに慶応年間の明治天皇(まだ即位はしていない)および薩摩、長州、土佐の藩士たちが一同に会した時の写真というのが壁に掛かっており、人物一人ひとりに姓名と「断(定)」「推(定)」との判断が記されていた。小さな額であるうえガラスがはめられているので写真に撮れなかったが、それによると西郷さんは右横を向いた姿勢で写っている。背格好は確かに西郷さんだが、顔は後世に流布しているのとはちと違うように見える。だが慶応年間といえばまだ30台の後半であり、翁顔の西郷さんと違うのが当たり前だ。これは精査の必要ありだ。市にかけあって物の真偽を確かめることにしたい。

 南州庵を出てさらに北に歩く。陸橋を渡り、広い駐車場を抜けたところに芝生の丘が広がる。ここからは鹿屋市街地が見渡せ、その向こうに高隈連山が一望できる。四時頃になり西風がますます強くなってきた。眺めもそこそこにバラ園前の駐車場へ戻った。 Kirishimagaoka_048_1 Kirishimagaoka_026_1  

 霧島が丘・鹿屋バラ園

    年中無休

   大人 600円

   子ども 半額

    

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奇祭・熊野神社の鬼追い(末吉町)

 Ibusukisueyoshi_108_2 曽於市末吉町深川の熊野神社には、奈良時代から千二百年伝えられているという「鬼追い」という神事がある。

 昨日は朝から冷え込み、午後になっても寒かったが、意を決して行ってみることにした。45キロほどあり、1時間余りかかって到着したのが5時半。明るいうちに着いておけば、と早く着いたのはいいが、事前情報で6時半に始まると聞いていた肝心の「鬼追い」行事自体は8時頃になると言われてがっかり。寒さはどんどん募って行く。

 そこでひらめいたのが「温泉で時間調整」だった。メセナ温泉というのがあって以前一度入ったことがあった。市街地に戻り、案内板に従って走ること5キロ。正確にはメセナ交流センターという名の温泉は、入湯料300円でサウナもある本格派。しかも液体石鹸・シャンプー付きで、これは有難かった。タオルは車の窓拭き用ので何とか間に合わせた。

 十分に温まり、休憩室でウトウトしたあと、再び熊野神社へ。もう真っ暗だったが同じ道を忠実に引き返して、難なく到着。神社の手前で通行止めになっていたので、路帯に駐車して歩く。石段の所から灯りが煌々と点され、上がってみると丁度太鼓の演奏が終わったところだった。

Ibusukisueyoshi_102  少し待っていると、山側の暗がりから虚無僧が現れ、お伴を引き連れてそのまますたすたと拝殿前から下の鳥居へと降りていった。はて、神事に虚無僧とは、と首を傾げたが、あとで鳥居の脇にある鬼追いの由来説明板を読んで納得した。この行事は熊野神社の近くに古くからあった「光明寺」という寺に伝えられていたのだが、明治初期に鹿児島で徹底して行われた廃仏毀釈によって寺院が壊滅したあと、熊野神社の行事として引き継がれたという。

 Ibusukisueyoshi_106 虚無僧が通った後、この行事の保存会会長らしき人がマイクを持って説明をした。

 それによると、鬼は常日頃、人々の行動を観察しており、その 愚かさを笑っているそうだ。だが新年くらいは里にやって来て愚かな人間どもに福を授けてやろうと、ちと手荒いが人々を叩き回る。それが罪滅ぼしであり、その際に鬼が身にまとっている物(和紙で作った幣=シデ)をちぎりとって持ち帰れば福徳に恵まれる。

 大略、そんな話だった。

 そのあとすぐに「鬼」の出番となったが、この鬼たち三匹(三組)は写真のように、少しも鬼らしくない。三人で一組らしく、そのうちの一人がたくさんのシデを付けた被り物をかぶって、まずは一目散に、さっき虚無僧が歩いていった方に駆け降りて行く。酒を飲みに行くのだという。

 Ibusukisueyoshi_112 ややあっていよいよ鬼が待ち受ける人たちの間に乱入してくる。人々は鬼にこづかれながらも、逆に鬼たちを襲うかのようにまとわり付き、シデを引きちぎる。多い人は一抱えも手にしていた。鬼役もそれを承知でやっているようだ。ユーモラスでさえある。

 三組とも乱入した後、もうこれで終わりだろうと歩いてきた道を引き返していくと、そこに役目を終えた鬼たちが何やらひそひそ話をしているところに出くわした。「こんどあっち側を狙おう」とか何とか言いながら、休憩をかねて作戦会議という場面だったようだ。

 Ibusukisueyoshi_113

  おそらく被り物のシデが全部なくなってしまうまで、何度も走り回るのだろうが、カメラもつ手もかじかんできたので、帰ることにした。単純といえば単純素朴な行事である。だが単純だからこそ風習としては極く古いものであり、長く続くのではないかとも思われる。

 発祥といわれる「光明寺」はその名からして、聖武天皇の「金光明経」による国家仏教興隆政策のもとに建立された古い寺であることは想像されるが、この行事は光明寺起源というより、それ以前からの民俗的な風習がベースにあったのかも知れない。シデを被った姿は「鬼」というより「神」を連想するからだ。

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新春の出会い

Rakunou1117_026  謹賀新年 今年もよろしくお付き合いください。

 平成十九年は亥年ということで、イノシシの写真を撮りたいと思い、近隣を歩いてみた。だが今年は三週間くらい前に、わなに掛かったのをおじさんが担いで車の方へ急いでいるのを見ただけで、残念ながら出くわしていない。

 と言っても本当に対面するには、夜行性の彼らに合わせて深夜徘徊しなければならないので、晩酌を欠かせない自分には難しい課題である。

 そこで亥年の次のネズミにお目にかからないかと、あちこち見回してみるのだが、秋にRakunou1117_023_3 はよく見かけたカヤネズミはもう地中にでももぐっているのか、こっちは時期はずれらしい。

 近くの酪農牧場の牛舎の蜘蛛の巣の張った片隅によく出没するので行ってみたが、やはり寒さのせいでいないようだ。仕方なく乳牛を撮って帰った。考えてみれば再来年が丑 年だった。これを載せるのもどうかと思ったが、年をとると先々のことが気に掛かるということで御許しを乞う次第。

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