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祭りのはしご

 土曜、日曜と二日間、一つは佐多で、もう一つは当地鹿屋で珍しい祭りが催された。どちらも地元では町(村)を挙げての盛大なものだが、われわれ部外者からすると、奇祭以外の何物でもない。

 まずは、佐多で行われた「御崎まつり」から紹介しよう。Misakimaturikagihikimaturi_015

 2月17日午前7時、あいにくの雨の中、佐多町(現・南大隅町)田尻の海岸にある恵比寿神社脇にしつらえられた祭り所で、早朝に佐多岬に鎮座する御崎神社から招来した御崎神社の神々(イザナギ、イザナミおよびワタツミノ神三柱)を神輿に移すところから始まった。

Misakimaturikagihikimaturi_028  神輿に神様を乗せた後、その神輿は「七浦をへめぐって佐多町郡にある近津神社の姉神のもとに至り、一年一度の挨拶をする」という。昔はすべて各集落の人たちによって担がれて行ったそうだが、過疎化と高齢化のため、今は浦々の集落付近では担がれるが、あとは海岸沿いの道路を車に載せていくようになった。Misakimaturikagihikimaturi_018

 神輿は今日中に郡の仮宿(かりやど)まで行き、翌日の昼頃、いよいよ近津の宮の姉神様と対面することになる。

 土地の長老に聞くと、この祭りは島津氏の「琉球征伐」の時の総大将・樺山何某が戦勝祈願のために始めた、あるいは盛大になった――というのだが、御崎神社の神(妹神)が、近津宮の神(姉神)へ挨拶に行くことが、戦陣の幸いを願うことにつながるとは思えない。その説はどうも付会に過ぎないように思える。

 といって、御崎神社も近津神社も同じ神々(イザナギ、イザナミ、ワタツミ三神)を祭っており、妹神、姉神という言い方が、なぜそう言われるのか、首を傾げるところだ。そこにこの祭りの由緒を解く鍵がありそうだ。Misakimaturikagihikimaturi_036

 郡の近津神社は通りに面して鳥居があり、鳥居をくぐってちょっと登った小山の頂上にある。台風でやられたのか古い本殿は残っていない。代わりにコンクリート製の公民館のような建物の中にある。

 つぎに鹿屋市高隈町で行われた「鉤引き祭り」。

Misakimaturikagihikimaturi_093  高隈町の中津神社(祭神・ナカツワタツミノミコト=ワタツミ三神の一つ)で、18日の午後、今では県下でも奇祭としてすっかり有名になった祭りだ。直径三十センチはある長さ十五メートルほどのタブかクスの木を、太い枝をつけたまま、一方は「雄木(おぎ)」で男根状の引っ掛かりを残し、一方は「雌木(めぎ)」で二股とし、雄木の男根を、雌木の二股に引っ掛けて、集落の上手と下手とに分かれ、威勢よく引き合う。

 すでに焼酎が回っているせいか、引き手たちは時に卑猥なことを口走りながら、それでも力いっぱいに引く。見物衆からも野次や応援の言葉が飛ぶ。Misakimaturikagihikimaturi_091

 かねては一回きりの勝負だったのだが、マスコミに報道されるようになってから、三回勝負に格上げされたそうだ。

 神主のお父上という高齢の郷土史家にいろいろ聞くことができた。

 この祭りが盛大になったのは、高隈が島津の外城(とじょう)の一つ「高隈郷」になった明暦の頃からだと言う。とするとちょうど三百年の由来を持つ祭りだ。しかし実際はそれより前から行われていたらしいが、文献には無いので「らしい」としか言えないという。

 Misakimaturikagihikimaturi_103 五穀豊穣を願う鉤引き祭りは串良川沿いの神社にはおおく残されており、鹿屋市細山田に鎮座する山宮神社のそれは、ここのよりもはるかに規模の小さな「鉤引き」なのに県指定の文化財になっているという(中津神社のは鹿屋市指定)。ここのは余りに俗化している(焼酎が入りすぎている?卑猥になりすぎている!)ため、県の指定から外れた――と苦笑いしていた。それもいいではないか、なまじ県指定などとお墨付きが付くと羽目を外せず、庶民性が薄らぎ、「神と人との交わり」という肝心なことが忘れられよう。

 そのあと、ベブ(牛)の代掻き神事があり、餅まきがあってお開きとなった。Misakimaturikagihikimaturi_110

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米寿祝

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 指宿で義父の米寿祝があった。

 場所は白水館という指宿では老舗のホテルで、海岸に近く、いまどき珍しい松林の中にある。年をとるとこういう風景がとても快い。

 ホテルに着くとすぐに、親族の写真撮影があった。久々に会うおじ、おば、おい、めい、いとこと並び、うれしい緊張の一瞬を迎えた。Beijunoiwai_005_1

 祝宴会場の入り口では、義父夫婦が参会者へお神酒を振る舞い、それが済むといよいよオープニングとなる。

 Beijunoiwai_104 黄色の半纏に黄色の帽子を着めかした義父が、金色の屏風を背にして、祝辞や挨拶を受ける。その後、乾杯の音頭がとられてようやく席に着く。

 宴会場は少しずつざわめいてゆく。祝賀の舞が舞われると、あとは芸達者たちの独壇場と化す。こうして二時間余り、最後に子どもたちからの贈り物と手紙の朗読があってお開きとなった。Beijunoiwai_136

 ところがそれだけでは終わらない。二次会があった。場所は義父の家で、時間的にはこちらの方が遥かに長かった。

 親族と近所の人たちが入れ替わり立ち代りに訪れる。再び酒宴となり、カラオケは出る、ナンコは出るはで、夜は果てしも無く更けていった。Beijunoiwai_150 Beijunoiwai_151 Beijunoiwai_156 Beijunoiwai_159

 焼酎の宴では必ず登場するナンコ。角材の端切れのようなナンコ棒を、お互いに片手に隠し持ち、相手の手の内の棒の数を言い当てる遊び。負けたほうが焼酎を一杯飲まされる。ナンコ棒を割り箸で代用することが多い。

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ラーメン店

Ramenhayato_036  友人がラーメン店を始めたいという。

 聞けば、ここ二、三年スープの研究をしていて、ようやく自分なりの味が完成したという。試食してみたがなるほどうまい。褒めると、じゃあやってみようかとどんどん開業に向けて進んでいく。

 1月半ばに居抜きの店舗が見つかり、契約した。客席20、厨房込みの広さ21坪、家賃8万、ほかに30メートル離れた場所に十台は停められる駐車場が2万、しめて10万の月ぎめであった。

 不動産契約の際、敷金2ヶ月、礼金1ヶ月、手数料1ヶ月、前家賃1ヶ月が必要。さらに厨房器具、備品などで10万、看板、チラシ代等で20万、総計80万ほどで開業の運びとなった。居抜き店舗だったため驚くほど廉価だ。もしそうでなければ、厨房器具、ガス工事、電気工事、客席のテーブル・椅子、内装工事、また外装工事などなど、ざっと見積もっただけでも500万は下らない資金が必要だったろう。Ramenhayato_037 Ramenhayato_030

 店名は「ラーメン隼人」

鹿屋市笠之原町にある。笠之原ー川西線沿いにオープンした。

隼人のネーミングは筆者によるものだ。

 大隅半島の古代一大勢力「大隅隼人」の故事にちなむ。阿多隼人とともに南九州勢力を二分した隼人は、朝鮮半島白村江の戦いに敗れた後、律令制の遂行によって急速にその勢力をそがれていく。「海幸(ホスセリノ命)」を始祖に持つ航海民隼人の時代ではなくなったということ。その極め付けが元正天皇5年(養老四年=720年)の「隼人の叛乱」だった。完膚なきまでに叩かれた隼人は以後「南の最果ての王化に属さぬ遅れた種族」のレッテルを貼られることになる。もう一度「海の民(海幸)・隼人」を捉え直さねばならぬ――と、まあ大段ビラを振りかざしてみた。

 それより誰もが知っている、東京でもどこでも通用しそうな店名だろうということで名付けたと言っておこう。Ramenhayato_040_1

 とまれ、一杯が400円というリーズナブルな値段なので、鹿屋にお出での節は、ぜひ立ち寄ってやってください。

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