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裏桜島

 桜島は鹿児島市への通り道で、年に何回かは通るが、いつも島の南側・古里温泉のあるメインルートしか通ったことがなかった。04280001

 今日は市内で歴史研究会があり、発表することになっていたので出かけたが、今回は早めに出ていつもと違う反対側を通ってみることにした。

 と言ってもこのルート、途中までは3回ほど来ていた。垂水から桜島に渡って左折ではなく右折をする。国分・霧島方面へ向かうわけだが、300メートルほどいくと左へ入る道がある。それが裏桜島への道で、5キロほど行くと有名な「埋没鳥居」がある。ここを見に来たことがかってあったのだ。04280006

 それは黒髪という集落にある「腹五社神社」の石の鳥居だが、高さ3.3メートルあった鳥居が、大正3年の大噴火によって、上60センチほどを残すだけに埋もれてしまった。当時の村長の英断で惨状の生き証人としてこれをそのまま残したのだという。

 集落680戸が全滅したというからすさまじい。それでも死者はそれほど出ていない。全島でも200人足らずの被害で、それも火山灰に埋もれたからというわけではなく、船で逃げる際に転覆したというケースがほとんどらしい。

 神社はこの奥にちゃんと鎮座していた。04280008

 祭神はニニギノミコト、ホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノ命、それにそれぞれの后(コノハナサクヤヒメ、トヨタマヒメ、タマヨリヒメ)が祭られている、。いわゆる天孫三代である。桜島には五社神社がもうひとつあり、祭神も同じだ。

 他に大社としては「月読神社」がある。これはまさに隼人のいつき祭るものだと聞いている。京都田辺の月読神社との関係が取りざたされているようだ。

 桜島でしか見られないのが海岸にせり出した溶岩の割れ目(?)を利用した港である。04280010

 上から見ると溶岩はみどりで覆われ、その真ん中にマリンブルーの船溜りが見える。まるで池のようだ。外海には養殖生簀が多数見える。

 かっては一本釣りか刺し網漁の基地だったのだろうが、今は時勢がらハマチ、ブリの養殖が盛んになったので、それ用の船の基地になっている。

 04280019_2 用事を済ませたあと、再びフェリーで桜島に戻り、裏桜島の「白浜温泉センター」に入って帰った。行く途中、赤生原(あこうばる)地区の海岸からは鹿児島市の北、吉野台地に沈む夕日が海を照らしていた。

 いまこの海峡に橋を掛けようという気運がある。確かに経済効果はあるだろう。だが60万都市の前からすぐにフェリーに乗れ、15分もあれば島に渡れるし、船は海と島に似合う。観光資源はむしろそちらにあろう。スローライフの時代だ。多少の不便は忍ぼう。

 

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志布志・飯盛山古墳出土の埴輪

Shibushidoki_015  つぼ型埴輪 ――と言うそうだ。

 以前(12月)にボルダベリア・ダグリという舌を噛みそうな国民宿舎の温泉に入った時、その建物の下には実は古墳(飯盛山古墳・5世紀初め)があった、ということをブログに書いたが、今日やっと、その古墳から出土したという「埴輪」にお目にかかることができた。

 場所は志布志市の教育委員会所轄の埋蔵文化財整理作業所で、市内から出土した遺物を復元整理し、保管するところだ。文化財係長のK氏に案内してもらった。

 K氏の説では、この他にもガラス玉や勾玉などいろいろ出たそうだが、おそらく個人所有になったままであろうという。それでもこれだけの優美な埴輪を目の当たりにすることで、当時の南九州の精神文化水準の高さの一端は窺える。Shibushidoki_016

 つぼ型埴輪は高さ30センチほど、胴体の最大径が20センチ位の、優美な曲線を持つ。どの古墳でもそうだが底を抜いて造ってある。葬送儀礼のためだ、という。

 作業所内には、他にも遺物が多い。鹿児島ではどこでもごく普通に出ているが、縄文時代早期(10000年前~7000年前)の土器類が当たり前の顔をして並んでいるところがすごい。なにしろ世界最古級の土器なのだ!!

 Shibushidoki_026 教育委員会に戻ると、入口のところに鮮やかな飾りをつけた子ども神輿のようなものが並んでいた。訊くと、事実、子供用のみこしで、明日、あさっての「お釈迦祭り」で子どもたちが担ぎまわるそうだ。中には仏像ではなく子どもの扮する「生き仏」が乗るという。

 お釈迦祭りは市内の宝満寺に伝わる行事で、シャンシャン馬に、花嫁が乗って輿入れするという珍しいパレードがあるので有名だ。

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かのやバラ園

 年間パスポートを入手!

 Kanoyabaraen_037 4月28日まで、一年間自由に入園できるパスポートが1800円のところ、1200円で手に入るという情報が入ったので、急いで買いに行く。入園料が600円だからかねてから1800円でも安いと思っていたが、今回の大バーゲンセールの真意やいかに――とバラ園に行ってみた。

 なるほどその通り。狙いは29日の昭和の日(旧みどりの日)から始まる連休に向けて、少しでもアピールして客足を伸ばそうということらしい。大いに結構!これまでの「公園行政」では考えられぬサービスだ。

 3年前にはまだ小さなバラ園だったのだが、ここへ来て西日本随一という規模に発展している。本数といい、種類といい確かに見ごたえ十分だ。 いま、全体的には7分咲きというところか。ゴールデンウィークにはほぼ満開に近くなるはず。どれだけの行楽客が来るものか見ものである。Kanoyabaraen_036  

 右のバラは「プリンセス・カノヤ」といい、鹿屋で交配作出された新品種のバラだ。大ぶりの濃いピンク色で、花びらの裏はやや白っぽい桜色をしている。

 これもいいが、今日見た花ではKanoyabaraen_003 左のバラ。

 桜色のこれも大ぶりで花のまわりを濃いピンクが縁どっている。名前は記憶に無いが・・・。

 ちょっと見た目にはバラというより、芍薬かボタンの雰囲気がある。

 園内には温室もあり、切花用の2棟には高くしつらえたバラのベッドがずらりと並んでいて、そこから自分の好きなバラを切って土産に持って帰れるようになっている。こんなのもかっての「公園行政」ではありえない趣向だろう。Kanoyabaraen_032

 連休中はイベントも目白押しのようだ。

 大隅地区に住んでいる人なら、年間パスポートを購入しておくのも悪くはない。28日(土)までなら1200円と大変お買い得である。

 詳しくは鹿屋市のホームページを参照のこと。

 バラ園への地図はこちら(鹿屋市横山町霧島が丘)。

 

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姶良川流域散策(その2)

 広大な吾平田んぼ。04210001_1

 姶良川右岸に沿って「さんぽ道」が整備されている。ここから上流に向かって左側には、一望して7~80ヘクタールはあろうかという田んぼ地帯が開ける。

 04210007 ここから一キロ余り上がって行くと、「湯遊ランドあいら」だ。自噴ではなく沸かし湯だが、もともと正規の温泉の少ない土地なので都会の銭湯と思えばよい。入浴料が鹿屋市民なら200円。市民以外は300円。この程度の料金でサウナ付き、露天風呂を含めて4種類の湯舟を楽しめるのだから、本物の温泉じゃないなどと文句は言うまい。

 

 この立派な銭湯の建つ姶良川右岸の土手からは、左岸側に開けた吾平町の中心部が04210009 望まれる。写真中央の左岸土手にかかるように立つ青い屋根の側溝監視塔と白い四角の建物の間に見えるのが町役場だ(合併後の現在は、鹿屋市吾平支所)。

 その上の濃い緑の丘の上には吾平小学校がある。そこは、又、隼人特有の地下式横穴墓が20基ほど見つかった「宮の上遺跡」でもある。丘の上からはこちら側がよく見えるはずで、姶良川とそこに広がる田園を、墓の主たちは見守っていたに違いない。

 04210013 右の写真は吾平町の中心街。こちらに向って来る自動車の向こうの鳥居は鵜戸神社で吾平山陵の主、ウガヤフキアエズ命を祭る。そのすぐ向こう隣が町役場で左手のこんもりとした樹林は、吾平小学校の丘へ続く傾斜地の一部である。

 右手手前の歩道に立つのは石灯籠で、手入れの行き届いた一つ葉(槙の木の一種)並木とともに、吾平の風景を特色付けており、飾らないデザインはすがすがしさを感じさせる。

04210014   鵜戸神社から上の写真の手前に走っていくと、姶良川が大きく蛇行したところにぶつかる。そこにかかる橋の向こうに吾平中学校があり(左の写真)、ここから「山陵道路」は登り道となる。

 橋を渡ってすぐ右折すると再び姶良川の右岸の土手道だ。左手の田んぼの中に焼酎工場が意外に巨大な姿を見せる。04210016

 ここ数年の本格焼酎ブームで増設したに違いない。原料は芋なのだから畑の中に建てられてよさそうだが、問題は水の確保なのだ。この工場のほんの300メートル先の崖下からは「玉泉」という室町時代に建てられた「玉泉寺」に因む名水が滾々と湧き出ている。今はどうか知らないが、工場が建てられた当初はその良質豊富な水が使われていた。

 玉泉の湧く「玉泉寺公園」の川を挟んだところの微高地を「中福良(なかふくら)」という。

 中福良は南九州独特の地名で、下福良も上福良もあるいは大福良も小福良も伴わず単独で「中福良」と使われている。柳田国男などの説では「ふくら」は「吹浦」、つまり海岸地帯の「膨らんだ浦」に関する地名か、「穂倉」という「米がよくとれる場所」の意味かなどと解釈されるようだが、それでは「上、下、大、小」の付かない理由が説明できない。04210020

 左の写真は田んぼから見た「中福良」の様子で、左手のこんもりした木の立つ田中八幡社から右手へ微高地が続く。さらに右手に行けば姶良川である。このあたりを姶良川の土手から眺めると、ここは姶良川の氾濫原の中にあったのではないかという気がする。つまり相当古い時代は人の住めるような台地ではなかったのが、度重なる洪水や氾濫で土砂が供給され、次第に「中洲」状に土地が出来上がっていったのだろう。川の氾濫によって作られる土地は養分の多い上質地であることは「エジプトはナイルの賜物」を引き合いに出すまでもあるまい。

 そういう土地を「穂倉」といい、川の中にあるから「中穂倉」と言われ、「ほ」から「ふ」への転訛で「なかふくら」となったのではないだろうか。もし近くに「外福良」が存在すればこの説は妥当と思えるのだが、もともと田んぼは川の「外」にあるのが当たり前で、わざわざ「外福良」と言う地名をつける必要性はなかったと考えてよいだろう。04210019

 ←中福良地区の外れにある田中八幡神社。

 元の場所は現在の鵜戸神社のところだったが、明治7年に吾平山陵が皇室ゆかりの遠祖ウガヤフキアエズ命の御陵であると裁定されてから、山陵近くにあった鵜戸宮に場所を明け渡し、ここへ移ったという。

 このあたりの地図はマピオンでどうぞ。中福良は吾平中学校とその南の鶴峰小学校のちょうど中間あたりです。

鹿屋市のスクロール地図はこちら

 

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大隅史談会会報『大隅』50号が仕上がる

記念すべき第50号、総ページ260ページ。

 400字詰め原稿用紙にして780枚という一年間の「大隅地域史」研鑽の成果が、19人の投稿により完成を見た。Oosumi50gou_001

 古代史二編、肝付町の古刹「道隆寺」に関する論考三篇、宮崎県串間市の隠れ念仏、地誌、幕末・明治初期の郷校、郷中教育、地名散歩、岸良の林業、そのほか戦時中、戦後の郷里の体験などなど、多士済々、盛りだくさんの内容である。

 とくに注目すべきは一昨年会員となり今回「天保期の大隅国高山郷における災害の記録」を執筆された、九州大学名誉教授 秀村選三氏であろう。

 秀村先生は平成18年度の日本学士院賞・恩賜賞を受賞された。新聞報道によれば、当地の「守屋家」(高山郷士)に伝わる幕末期の文書を研究し、その時代の薩摩藩内における地域社会状況を経済史的側面から克明に描き、そのことが高く評価され、今回の受賞につながった――という。

 難しいことは分からないが、今号の執筆者の一人、肝付町のT先生またH女史は、かって旧高山町に調査に訪れた秀村先生とは面識があり、懐かしむとともに率直によろこびを語っていた。

  また、50号ということで創刊号から今号までの執筆者別にそのタイトルをすべて取り上げ、巻末に付録とした。総投稿者数226名、総タイトル数は989篇になっていた。個人的に一番投稿を寄せたのはK氏(故人)だが、実に41篇を物している。

 一冊2200円で販売しているので、興味ある人は大隅史談会まで郵便振替で送金してください。ただし送料が別途340円(書籍小包)かかるので、送金額は2540円となります。2~3冊だと送料は450円。4~5冊は送料590円。6冊以上は普通小包(ゆうパック)送りとなります。

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姶良川流域散策(その1)

 女遍に合うのが良いと書いて「姶良川」という。

 鹿児島県の大隅地区には「あいら」地区が二ヶ所ある。大隅半島側にある、いま、散策している地域の「あいら」は「吾平」と書き、鹿児島県の中央部、国分(現在は霧島市)の西にあるのは「姶良」と書く。

 10世紀の初め頃に編纂された『和名類聚抄』(源順著)によると、大隅国には「姶羅郡」があり、その中に「鹿屋郷」がある。「鹿屋郷」といえば現在の鹿屋市を指しているから、この「姶羅郡」は当然、現在の鹿屋市吾平町を中核とする地域のことである。

 姶良川はこの吾平町を南北に貫流する「吾平町の母なる川」である。姶良川は吾平町の最南部に聳える八山岳(ややまだけ=標高941m)に源を発し、肝属川に注ぐ全長約20キロほどの小河川で、肝属川に注ぐ比較的大きな三つの川(串良川、姶良川、大姶良川)のひとつである。

 では、その姶良川を下流からたどってみることにしよう。04140001

 左の写真は向かって右から流れてくる肝属川に姶良川が南から(写真では上のほうから)注いでいるところだ。

 ここが合流点で、肝属川はここから左へ(東へ)約12キロほどで志布志湾に入る。

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 合流点のすぐ下に「流合橋」が架かる。

 姶良川と肝属川が流れ合う所だからそう名付けたのだろう。合理的な命名だ。ただ、味も素っ気も無いが・・・・・。

 04140005 ここからほんの5・600メートルもさかのぼると「吉田橋」だ。その橋の西のたもとに「移住記念碑」が建つ。移住といっても戦後の農地開拓の移住ではない。話は江戸時代の前期にさかのぼる。

 「元和偃武(げんなえんぶ)」というように、戦国時代を収束させた徳川江戸幕府に入ってから、全国的な戦乱が収まり、平和な日々が訪れた。そうなると増えるのが人口である。鹿児島では特に西目、すなわち薩摩半島側はただでさえ狭い土地柄なのに、人口がどんどん増えた。そうすると田畑が足りなくなる。そこで奨励されたのが「東目(大隅半島)移り」だ。そのことを「人配(にんぱい=にんべ)」と言った。

 吾平町在住で「人配」を研究されていたM先生によると、吾平町の四割は西目から移ってきた人たちの子孫だという。先生が中心になって建てられたのが「移住記念碑」だ。04140004

 姶良川を挟んだ広大な吾平田んぼを背景にして、大隅花崗岩を刻んだ高さ3メートルはあろうかという立派な石碑である。

 前面に人配の由来、後方にこの碑を建てた子孫たちの名が刻まれている。

 この碑の建つ川の向かい側は「井神島(いかんじま)」という集落だ。かっては文字通り姶良川の中洲つまり島だったのだろう。

 集落の中心部、小山の上に「宮比神社」がある。祭神はめったにお目にかかれない「天ノウヅメ」だ。彼女は天孫降臨の時、天孫の前に立ちはだかった「サルタヒコ」(国津神)を篭絡して無事の降臨を演出した。のちにサルタヒコと夫婦になったが、サルタヒコは「比良夫貝(ひらぶがい)にその手を喰われて海で溺れ死んだ」(古事記上巻)。

 04140006_1 ウヅメとは「ウツ女」のことで、「ウツ」とは古語で「現実の、過不足の無い、すべてが整った」という意味であるから、「ウツ女」は「完璧な女」ということだ。こういう女に惹かれない男はあるまい。結局、サルタヒコは自分の国すなわち「葦原の中つ国」を明け渡してしまったわけだ。恐るべし「女の力」。

 井神島を過ぎると、いよいよ広大な吾平田んぼ地帯に入る。見渡す限りの田園が広がる。その中にぽつりと小山が見える。まるで田んぼの海の中の島だ。

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 私見ではこれは円墳である。直径約30メートル。もしこれが地質学でいう「丘」ならば、わずか30メートル高さ5メートルほど、しかも周囲のどこからでも削り取ることのできる平野のど真ん中の丘だ、これを平らにしなかったはずはないだろう。

 現に、頂上には何を祭ってあるのか、凝灰岩製の小さな祠がある。やはり神聖な場所、という暗黙の了解があるから今に残されたのだろう。

 04140014

 この「円墳」から500メートル足らずの所に姶良川に最長の橋「姶良橋」がかかる。

 この橋の向こうに行くと肝付町(旧高山町)に達する。橋の上、遥か向こうには肝属山地の東のはずれが見えている。

 このあたりの地図はAiragawa1 これ。

鹿屋市のスクロール地図はこちら

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米作り(早期米のできるまでー⑧)

 まだ咲いている!

 4月8日、日曜日(お釈迦様の日、県議選投票日)。鹿屋市吾平町の温泉センター「悠遊ランドあいら」に行ったところ、センター入口に面している道路に沿う桜並木が今ちょうど花吹雪の最中だった。例年にないことだ。04080004

 写真の道路の左手は広大な田んぼ地帯となっている。

 一枚の面積が5反(1500坪)はあり、それがはるか1キロほども先まで続いている。幅は7~800メートルくらいだから、7~80ヘクタールがあたかも一枚の田のようにまっ平につながって見えるという、吾平町で最も広い田園地帯だ。その端っこの田に花びらがたくさん浮いていた。

 温泉に入ったあと、鶴峰西地区へ行ってみた。

 Nさんの田も、Iさんの田も小さな苗が透明に張られた水の中に、か細くも整然と立ち並んでいる。04080006               

 ←Nさんの田んぼ 04080010  

      Iさんの田んぼ→

二つに仕切ってあるが、植えられていないのは生産調整のため。

 

 温泉センターのある吾平町のほぼ中心からこの鶴峰西地区までが三キロほどだが、見た目はほとんど変わらない苗の状態だ。ただ水はこっちの方がたっぷりありそうだ。

 さらにこの上の山あいにある神野地区にまで足をのばしてみた。吾平山陵への道を山稜入口という分岐から右手の丘陵地帯に上がり、しばらく行くと山がぐっと迫り山稜の脇を流れる姶良川の上流がすぐそこに見えてくる。すると神野地区の入口だ。04080011

  過疎化が激しく子どもが減っているのだろう、集落の入口には「呼びもどそう神野へ」の手作り看板が立つ。

 このあたりもまだ咲いてはいるが、緑の葉が目立ってきていて、見頃はもう過ぎている。

 地区の中に平らな土地は少ない。いきおい田も段々田になる。山がすぐそこに聳え立つ。中岳、通称「吾平富士」が神野地区のシンボルだ。下場の平地と同じような幼苗を浮かべた水面に「さかさ富士」が静かに映っていた。04080014

 神野地区の大川内神社は吾平山陵の主ウガヤフキアエズ命と海人族タマヨリヒメとの間に生まれた神日本磐余彦こと神武天皇が、日向にいたころに娶ったアイラツヒメを祭る。アイラツヒメは「神武東征」には参加せずに、大隅の当地方で余生を送ったと伝えられている。

 田植えが済んだところで、次からはここの田園地帯を潤す母なる川・姶良川界隈を散策することにしたい。

                                                         

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桜の名所

 桜、桜、桜・・・。

 今年の大隅は、山間部から咲き始め、今、ようやく桜前線が里に下りてきた。

 04040007 近隣では随一と言われる、鹿屋市串良町の平和公園に行ってみた。ここは太平洋戦争中に、鹿屋の(今は海上自衛隊鹿屋航空隊基地になっているが)旧海軍鹿屋航空基地から分出(増設)された旧海軍串良航空基地の跡地である。戦争末期の約一年で565名の特攻戦士が本土南方沖縄方面のアメリカ艦隊に体当たりすべく飛び立ち、帰らぬ人となっている。

 慰霊塔周辺の桜はまだ2分咲きというところだったが、慰霊塔の立つ丘の斜面の「平和」という字にかたどられたつつじがもう目映いほどに見ごろだった。

 むしろ1キロ以上はあると思われる隣の運動公園との境を走る通り抜けの道路沿いの桜並木のほうが、先に6分咲きくらいになっていた。04040004

 しかし冷たい風が強いせいだろう、5,6店の花見客相手の露店の前に人はおらず、陽の明るい春休みだというのに子供連れの姿も無い。

 同じ串良町の下小原に或る人を訪ね、いとまごいをしたあと鹿屋市内に戻り、海上自衛隊鹿屋航空隊基地周辺の市内では有数の桜並木を通ってみると、こちらは8分咲き、ほぼ満開というところだった。04040018

 延々2キロ近く続くこのフェンス土手沿いの桜は戦後、旧海軍の後を受けて海上自衛隊が置かれたあとに植えられたものだが、それから50年ほども経っておりなかなかの大木たちである。

 交通繁多の幹線道路沿いという必ずしもよい条件の所ではないのだが、毎年道行く人々の目を楽しませてくれている。

 ついでと言っては何だが、ここも串良基地と同様に戦争末期に特攻基地となったところだ、その慰霊塔を訪れた。航空隊基地から西に車で2,3分の西原台地区の公園の一角にそれはある。市街地にあるので公園では多くの子どもたちが遊んでいた。

 ここも桜はほぼ満開、最高の見頃を迎えていた。ちらほらとブルーシートが敷かれていたから、昼時の花見の宴が開かれるのだろう。ただ、相変わらず風は冷たいが・・・。04040014_1

 慰霊塔の上ではとある宗教団体らしき人たちが集っていた。慰霊塔の丘の階段下にある説明板によれば、昭和19年の四月に最初の特攻機が飛び立ったということなので慰霊祭というところだろうか。

 ここから飛び立ち帰らぬ人となったのは908名という。これとさっきの串良基地からのとを合わせると、実にその数は1473人。これは全国的にも有名な旧陸軍知覧航空隊基地の千人余りをはるかにしのぐ数だ。宣伝が下手なのか、いやこういうことは宣伝などすべきでない、と思いは分かれるが、ともかく事実は事実なのである・・・・・合掌。

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桜咲く

桜吹雪がはじまっていた。

 田んぼ地帯の鶴峰東地区から約1.5キロほど上流に「吾平山上陵」通称「吾平山陵」がある。神武天皇の父に当たる「ウガヤフキアエズ命」の御陵ということになっている。

 今年は暖冬のせいで鹿児島は開花が例年より一週間から十日遅れている。事実、鹿屋市内では桜の名所として知られている海上自衛隊鹿屋航空隊の一キロ以上に及ぶフェンス沿いの桜並木も、一昨日通った時はまだ一分咲きにもならないくらいであった。

 04010015 吾平山陵の入口の駐車場界隈はかなりまとまって桜が植えられている。どうかなと半信04010011_1 半疑で行ってみた。  

 何と!!ま、満開を通り越して見事な桜吹雪が舞っているではないか!人っ子一人いないのに「ああ、もったいない」と今度はため息が出る。

 山間にあるため暖冬とはいえ冷え込む日が多かったのだろう。平地の日当たりのよいところとここでは一週間以上の時間差があるということか。桜前線の北上ということがよく話題になるが、今年の大隅地方の桜前線は山から下りてくるようだ。

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米作り(早期米のできるまでー⑦)

 天地が二倍に広がった!

 代掻きを終えた田んぼは広々としている。風が無ければ、田面が鏡のようになり、そこに空や山があたかも地中にあるかのようにさかさまに映る。03310006

 これが私の一番好きな田園風景なのだが、おそらく大方の賛同を得ることはないだろう。ほんのわずかの間(大抵は一日か二日)しか見ることのできないこういう風景にえもいわれぬ伸びやかさを感じるのは田園マニアのせいか・・・・。

 この透明の画布に幼苗が植えられ、しだい次第にみどりを濃くしてゆく様にはなんとも言えぬ充実感があるが、それにも増してみなぎった水面の持つ穏やかさ、静けさには独特の味わいがある。

 代掻きの翌日の今日行ってみると、早朝から田植えに取り掛かっていた。04010005

 小型の乗用田植え機を操作しているのはNさん本人ではない。人を頼んでやってもらっているのだ。これを作業委託という。田植えの場合、一反(300坪)あたり6~7000円だろう。この田んぼは二反ほどなので1万2~3000円というところか。

 一昔前までは、何が何でも自前の機械を持たねばならぬ――とばかり借金をしてでも機械類を購入するような風潮だったが、今は写真のように人頼みをすることを別に恥ずかしい、とか遅れている、とか思うこともなくなったようだ。それこそ年に一回だけ使うためだけの田植え機を揃えることなんか「モッタイナイ」という精神が普及したためか。「mottainai」でノーベル賞をもらったアフリカの女性大臣に喜ばれそうな風景だ。

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  Nさんの右隣の田では既に田植えを終えていて、所有者の夫婦が「補植」をしていた。田植え機の掻き取り爪にかきとられなかったため、苗が植えられていない箇所を見てまわりながら3~4本ずつ植えていく作業だ。

 「これが結構ひまが要っで(できればやりたくない)なあ」と顔をしかめる農家の人も多いが、そこは農人のど根性、そうは言いながらもせっせと夫婦仲良く(?)共同作業にかかっていく。農家にきわめて離婚が少ない理由はこれかと納得のワンショット。

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