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姶良川流域散策(その2)

 広大な吾平田んぼ。04210001_1

 姶良川右岸に沿って「さんぽ道」が整備されている。ここから上流に向かって左側には、一望して7~80ヘクタールはあろうかという田んぼ地帯が開ける。

 04210007 ここから一キロ余り上がって行くと、「湯遊ランドあいら」だ。自噴ではなく沸かし湯だが、もともと正規の温泉の少ない土地なので都会の銭湯と思えばよい。入浴料が鹿屋市民なら200円。市民以外は300円。この程度の料金でサウナ付き、露天風呂を含めて4種類の湯舟を楽しめるのだから、本物の温泉じゃないなどと文句は言うまい。

 

 この立派な銭湯の建つ姶良川右岸の土手からは、左岸側に開けた吾平町の中心部が04210009 望まれる。写真中央の左岸土手にかかるように立つ青い屋根の側溝監視塔と白い四角の建物の間に見えるのが町役場だ(合併後の現在は、鹿屋市吾平支所)。

 その上の濃い緑の丘の上には吾平小学校がある。そこは、又、隼人特有の地下式横穴墓が20基ほど見つかった「宮の上遺跡」でもある。丘の上からはこちら側がよく見えるはずで、姶良川とそこに広がる田園を、墓の主たちは見守っていたに違いない。

 04210013 右の写真は吾平町の中心街。こちらに向って来る自動車の向こうの鳥居は鵜戸神社で吾平山陵の主、ウガヤフキアエズ命を祭る。そのすぐ向こう隣が町役場で左手のこんもりとした樹林は、吾平小学校の丘へ続く傾斜地の一部である。

 右手手前の歩道に立つのは石灯籠で、手入れの行き届いた一つ葉(槙の木の一種)並木とともに、吾平の風景を特色付けており、飾らないデザインはすがすがしさを感じさせる。

04210014   鵜戸神社から上の写真の手前に走っていくと、姶良川が大きく蛇行したところにぶつかる。そこにかかる橋の向こうに吾平中学校があり(左の写真)、ここから「山陵道路」は登り道となる。

 橋を渡ってすぐ右折すると再び姶良川の右岸の土手道だ。左手の田んぼの中に焼酎工場が意外に巨大な姿を見せる。04210016

 ここ数年の本格焼酎ブームで増設したに違いない。原料は芋なのだから畑の中に建てられてよさそうだが、問題は水の確保なのだ。この工場のほんの300メートル先の崖下からは「玉泉」という室町時代に建てられた「玉泉寺」に因む名水が滾々と湧き出ている。今はどうか知らないが、工場が建てられた当初はその良質豊富な水が使われていた。

 玉泉の湧く「玉泉寺公園」の川を挟んだところの微高地を「中福良(なかふくら)」という。

 中福良は南九州独特の地名で、下福良も上福良もあるいは大福良も小福良も伴わず単独で「中福良」と使われている。柳田国男などの説では「ふくら」は「吹浦」、つまり海岸地帯の「膨らんだ浦」に関する地名か、「穂倉」という「米がよくとれる場所」の意味かなどと解釈されるようだが、それでは「上、下、大、小」の付かない理由が説明できない。04210020

 左の写真は田んぼから見た「中福良」の様子で、左手のこんもりした木の立つ田中八幡社から右手へ微高地が続く。さらに右手に行けば姶良川である。このあたりを姶良川の土手から眺めると、ここは姶良川の氾濫原の中にあったのではないかという気がする。つまり相当古い時代は人の住めるような台地ではなかったのが、度重なる洪水や氾濫で土砂が供給され、次第に「中洲」状に土地が出来上がっていったのだろう。川の氾濫によって作られる土地は養分の多い上質地であることは「エジプトはナイルの賜物」を引き合いに出すまでもあるまい。

 そういう土地を「穂倉」といい、川の中にあるから「中穂倉」と言われ、「ほ」から「ふ」への転訛で「なかふくら」となったのではないだろうか。もし近くに「外福良」が存在すればこの説は妥当と思えるのだが、もともと田んぼは川の「外」にあるのが当たり前で、わざわざ「外福良」と言う地名をつける必要性はなかったと考えてよいだろう。04210019

 ←中福良地区の外れにある田中八幡神社。

 元の場所は現在の鵜戸神社のところだったが、明治7年に吾平山陵が皇室ゆかりの遠祖ウガヤフキアエズ命の御陵であると裁定されてから、山陵近くにあった鵜戸宮に場所を明け渡し、ここへ移ったという。

 このあたりの地図はマピオンでどうぞ。中福良は吾平中学校とその南の鶴峰小学校のちょうど中間あたりです。

鹿屋市のスクロール地図はこちら

 

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