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姶良川流域散策(その1)

 女遍に合うのが良いと書いて「姶良川」という。

 鹿児島県の大隅地区には「あいら」地区が二ヶ所ある。大隅半島側にある、いま、散策している地域の「あいら」は「吾平」と書き、鹿児島県の中央部、国分(現在は霧島市)の西にあるのは「姶良」と書く。

 10世紀の初め頃に編纂された『和名類聚抄』(源順著)によると、大隅国には「姶羅郡」があり、その中に「鹿屋郷」がある。「鹿屋郷」といえば現在の鹿屋市を指しているから、この「姶羅郡」は当然、現在の鹿屋市吾平町を中核とする地域のことである。

 姶良川はこの吾平町を南北に貫流する「吾平町の母なる川」である。姶良川は吾平町の最南部に聳える八山岳(ややまだけ=標高941m)に源を発し、肝属川に注ぐ全長約20キロほどの小河川で、肝属川に注ぐ比較的大きな三つの川(串良川、姶良川、大姶良川)のひとつである。

 では、その姶良川を下流からたどってみることにしよう。04140001

 左の写真は向かって右から流れてくる肝属川に姶良川が南から(写真では上のほうから)注いでいるところだ。

 ここが合流点で、肝属川はここから左へ(東へ)約12キロほどで志布志湾に入る。

 04140003

 合流点のすぐ下に「流合橋」が架かる。

 姶良川と肝属川が流れ合う所だからそう名付けたのだろう。合理的な命名だ。ただ、味も素っ気も無いが・・・・・。

 04140005 ここからほんの5・600メートルもさかのぼると「吉田橋」だ。その橋の西のたもとに「移住記念碑」が建つ。移住といっても戦後の農地開拓の移住ではない。話は江戸時代の前期にさかのぼる。

 「元和偃武(げんなえんぶ)」というように、戦国時代を収束させた徳川江戸幕府に入ってから、全国的な戦乱が収まり、平和な日々が訪れた。そうなると増えるのが人口である。鹿児島では特に西目、すなわち薩摩半島側はただでさえ狭い土地柄なのに、人口がどんどん増えた。そうすると田畑が足りなくなる。そこで奨励されたのが「東目(大隅半島)移り」だ。そのことを「人配(にんぱい=にんべ)」と言った。

 吾平町在住で「人配」を研究されていたM先生によると、吾平町の四割は西目から移ってきた人たちの子孫だという。先生が中心になって建てられたのが「移住記念碑」だ。04140004

 姶良川を挟んだ広大な吾平田んぼを背景にして、大隅花崗岩を刻んだ高さ3メートルはあろうかという立派な石碑である。

 前面に人配の由来、後方にこの碑を建てた子孫たちの名が刻まれている。

 この碑の建つ川の向かい側は「井神島(いかんじま)」という集落だ。かっては文字通り姶良川の中洲つまり島だったのだろう。

 集落の中心部、小山の上に「宮比神社」がある。祭神はめったにお目にかかれない「天ノウヅメ」だ。彼女は天孫降臨の時、天孫の前に立ちはだかった「サルタヒコ」(国津神)を篭絡して無事の降臨を演出した。のちにサルタヒコと夫婦になったが、サルタヒコは「比良夫貝(ひらぶがい)にその手を喰われて海で溺れ死んだ」(古事記上巻)。

 04140006_1 ウヅメとは「ウツ女」のことで、「ウツ」とは古語で「現実の、過不足の無い、すべてが整った」という意味であるから、「ウツ女」は「完璧な女」ということだ。こういう女に惹かれない男はあるまい。結局、サルタヒコは自分の国すなわち「葦原の中つ国」を明け渡してしまったわけだ。恐るべし「女の力」。

 井神島を過ぎると、いよいよ広大な吾平田んぼ地帯に入る。見渡す限りの田園が広がる。その中にぽつりと小山が見える。まるで田んぼの海の中の島だ。

  04140012

 私見ではこれは円墳である。直径約30メートル。もしこれが地質学でいう「丘」ならば、わずか30メートル高さ5メートルほど、しかも周囲のどこからでも削り取ることのできる平野のど真ん中の丘だ、これを平らにしなかったはずはないだろう。

 現に、頂上には何を祭ってあるのか、凝灰岩製の小さな祠がある。やはり神聖な場所、という暗黙の了解があるから今に残されたのだろう。

 04140014

 この「円墳」から500メートル足らずの所に姶良川に最長の橋「姶良橋」がかかる。

 この橋の向こうに行くと肝付町(旧高山町)に達する。橋の上、遥か向こうには肝属山地の東のはずれが見えている。

 このあたりの地図はAiragawa1 これ。

鹿屋市のスクロール地図はこちら

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コメント

吾平町の下名の生まれ育ちです。
東京に嫁いでしまいましたが、大隅が懐かしく
しょっちゅうバーチャル里帰りしています。
感動のあまり書きこんでみました。

吉田橋のあたりは実家のすぐ近くなので
(小さい頃は瑞穂保育園~吉田橋界隈が遊び場でした)

生まれ育っておきながら、歴史を知らなすぎたと気づきました。
今、ようやく郷土史の面白さがわかってきました。
次回の帰省が楽しみです。

投稿: かんじ鼻 | 2009年9月 4日 (金) 02時54分

かんじ鼻さん、コメントをありがとうございます。

吾平町の古代地名は「姶羅郡」で、平成18年の1月に鹿屋市・輝北町・串良町とともに新しい「鹿屋市」となりましたが、その「姶羅郡」の中の一つの郷(村)が「鹿屋郷」でした。

つまり、今でこそ鹿屋市の一部になっている吾平町ですが、かっては(と言っても1000年前の平安時代前半頃までは)姶羅こそが、他の肝付郡・曽於郡・大隅郡とともに大隅半島の大地名でした。

ウガヤフキアエズという名の神武天皇の父が眠るとされる「吾平山上陵」があるのも、古代以前の吾平の歴史の古さを物語っていると思います。たまには、はるか昔にタイムスリップしてみるのもいいものです。では、またおいで下さい。

以下のホームページも見て下さい。

http://kamodoku.dee.cc/(鴨着く島おおすみ)

投稿: kamodoku | 2009年9月 4日 (金) 22時22分

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