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照葉樹の森ビジターセンターへ

Maphanazeshouyoujunomori_1  錦江町の田代に所用があったついでに、森を見に行った。

 錦江町の海岸部の中心から国道448号線に入り、約8キロで旧田代町の川原地区に入る。

 そこから佐多方面に2キロ足らずで、早瀬の信号を左折。右手に花瀬川(雄川)が見えてくるといよいよ自然が溢れ出す(地図をクリックすると拡大)。

 やがて花瀬大橋が目前に迫った所で、道を左手にとる。すると右手には「花瀬千畳敷」と詠われる石畳が現れる。

 寄り道したのにはわけがあった。200メートルほど上流に旧花瀬橋が架かるがそのたもとに史跡「茶亭跡」があるのだ。

 Minamioosumi_002 嘉永6年(1853)に島津家当主・斉彬(なりあきら)一行が大隅半島一円を巡見した際に、茶を立てて一服したという場所で、花瀬の名水と近隣で採れる味のいい茶のコラボレーションを所望したようだ。今にその時のかまどの跡が残っている。

 このあと、一行は雄川上流の大原地区に行くが、大原地区は平家の落人の里で、大原、大浦地、中野の三つの姓が、落人の後裔だという。この中の一軒、中野家には紀州の根来(ねごろ)椀という漆器が伝わっており、それで賓客をもてなしたそうだ。

 Minamioosumi_006

 茶亭跡のすぐそばから千畳敷の河原に下りることができる。土手の木が千畳敷の上に太い枝を伸ばしてしなだれている様はここならではの風景だろう。

 向こうに見える花瀬大橋の代わりに旧花瀬橋を渡って支流の大藤川沿いの道をとり、高度をどんどん稼ぐ。途中、大藤川に注ぐ沢をまたぐが、このまたいだ所からその沢が滝になるという珍しい箇所がある(大橋から3キロ)。

 Minamioosumi_008 つまり滝の頂上の部分に橋が架かっているのだが、当然、滝の全容は見えない。

 写真の手前から滝が始まり、真ん中の少し上のあたりから急降下しているのだが、写真ではよく分からない。実際に橋の上から覗いてみて、ようやく高低差が分かる程度である。

  ここから道を300メートルほど上がった所で、ちょうど谷を隔てた正面に望める所があるが、生い茂った照葉樹林のためその全貌を現してくれない。照葉樹は冬でも葉を落とさないゆえ、結局、残念ながら一年中Minamioosumi_011_2望むことは不可能というわけだ。

 左の写真のど真ん中の陰になった部分に「大藤の滝」が巨大な花崗岩の壁を伝わって真っ白いそうめん状にいくつかに分かれて流れ落ちている(のが、かすかに見える。写真をくりっくしてみてください)。比高およそ30メートル、隠れた名瀑だろう。

 「ったくもう」などと、いつ来ても繰り返す「繰り言」を口にしつつ、さらに1.5キロほど行った所で左の道に入る。まっすぐ行けば佐多の秘境・辺塚地区である。その分岐から約4キロ、快適な林道を走るといよいよ山の上の「照葉樹の森ビジターセンター」だ。Minamioosumi_031

 高原の瀟洒なホテルといった雰囲気だが、中に入ると木の香漂う研修ルームといった感じだ。中心に稲尾岳と隣の木場岳一帯のジオラマを据え、周りには照葉樹、昆虫、小動物の学習のできる数々の仕掛けがしてあり、子供でも容易に森の仕組みが分かるようになっている。

 標高は700メートルを超えるから、夏でも涼しい。夏休みには稲尾岳ハイキングを兼ねてぜひ子供連れでやって来て欲しい所だ。Minamioosumi_013                 

  照葉樹の森(稲尾岳ビジターセンター)

  開園(開館)時間  8:30~17:00

  年中無休(ただし12月29日~31日は休み)

    無料

   イベントなどの情報は

  照葉樹の森ホームページ

                                        

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姶良川流域散策(その6)

Airagawakamino_001  神野地区に入る。

 中心で右へ分かれているのは「林道大根占・吾平線」でしばらく走っていくと珍しいものに出会った。

 何とダチョウがいたのだ。通りすがった時は柵のはるか向こうにいたのに車から降りて近づくと、こちらに寄って来た。Airagawakamino_007_1 4羽だったが、おとなしいものだ。

  以前、どこかやはり山手の所で七面鳥の飼育場を見たことがあったが、あれはうるさくていけない。

 新聞でたしか大崎町か志布志市のほうで、大量に飼い始めたというのを見たことがあるが、ダチョウは肉と皮と両方利用できて無駄のない鳥だからという触れ込みだったと思う。さて、採算に合うものやらどうやら、だろう。Airagawakamino_003

 再び神野の中心に返り、もう少し上流を目指す。

 相変わらず川は澄んだ流れを見せている。川の左手は道路、右手は生活改善センターがあり、さらにその奥にはちょっとした公園がある。

公園内に「ウォーターパール館」という名の施設があって、何でも暗室のような建物の中で水を垂らしながら特殊な光線を当てると、水がきれいな色に染まりつつ、水滴が上下して不思議な動きをするというものらしいが、300円払って見るほどもなかろうと敬遠させてもらった。

 それより澄んだ川の一部を仕切り、自然の流水プールなんかを造成すればいいのになどと思ってしまう。ここなら夏も涼しそうだし、大隅広域公園などとつなげば人もやって来そうだ。Airagawakamino_023 そう金もかかるまい。

 少し上流に上がると、またコンクリート製の「川底橋」があった。やはり対岸に広がる田んぼの作業用トラクター、トラックなどが渡るのだろう。

 渡ってしばらく上流に向かうと川からの水路が、滝のように勢いよく流れ込んでいた。

このさらに上が、神野に流れてくる二本の川「大川」と「永野牧川」の合流地点なのだが、残念なことに合流点の直下に砂防のミニダムが作られたため、葦の茂り放題のジャングル状態で入ることができなかった。Airagawakamino_024_2

 そこで再び県道に戻り、さらに上流に行く。永野牧川に架かる橋があり、それを渡ると道はもう一つの支流「大川」沿いの林道となる。200メートルほど行くと、左手にこんもりとした丘が近づく。

 そこには神野地区の守護神アイラツヒメを祭る「大川内(おおせんだい)神社」が鎮座する。アイラツヒメは神武天皇がまだ日向に居たころ后にした女性で、東征には参加せずここで残りの生涯を過ごしたとされている。

Airagawakamino_014_1

 

 道路を覆うばかりのクスの大木の所から、比高で15,6メートルだろうかよく手入れされたスギの植林の参道を行くとやがてお宮が見えてくる。

 参道の重々しさに比べると、社殿はかなり見劣りがする。拝殿は鉄骨製の吹きさらし、本殿はコンクリート製の、味わいとてない小ぶりなもの。

 Airagawakamino_017

 大和王朝の始祖王・神武のお后だったにしては、わびしいたたずまいではなかろうか。戦後の歴史から完全に否定された神武天皇であり、またその連れ合いの王妃であるにせよ、伝承は伝承としての価値は十分にある。

 誰が好きこのんで、こんな山奥の人目に付かない場所にひっそりと「嘘だった、存在しなかったお后」など祭るだろうか。やはり何らかの史実があったから祭っていると考えるほうが、理解できるし納得もできる。

     〈  神野地区の地図 〉

  中岳(吾平富士)の北の赤十字が大川内神社。神社を挟んで左の川が大川、右の川が永野牧川で、源流は大川のほうである。

Mapkamino 鹿屋市のスクロール地図はこちら

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かのやばら園(パートⅡ)

 満開だ、バラの海だ。 Kanoyabaraen2_016

 心地よい風に誘われて再びバラ園を訪れた。

 見渡す限り、バラ、バラ、バラ・・・5万本を越えるというバラ。

 このところのずっと冴えない鼻にも、香りが分かる。

 薫風の向こうに肝属の霊峰 国見三山が、その長い稜線を見せている。 Kanoyabaraen2_017 Kanoyabaraen2_011

 そぞろ歩く人たちは高齢者が多い。熟年のカップルなら加藤登紀子の「百万本 のバラ」を思い出すかもしれない。

 Kanoyabaraen2_013 8ヘクタール(2万4千坪)の全面を覆いつくすようなバラは種類も半端ではない。日本一という説もある。Kanoyabaraen2_003

 

  こう多いとどれがいい、これがいいなんて詮索は野暮のように思える。歌の歌詞ではないが、どれもいい。 Kanoyabaraen2_010

 バラがこんな陽光の下に咲いているとは、昔のイメージにそぐわない気もするが、品種改良もここまで来たのだろう。

 中でも右の写真 Kanoyabaraen2_014_2

「プリンセス・カノヤ」は当園オリジナルだそうで、確かに気品がある。

 Kanoyabaraen2_018_2 園を見下ろす高台には若いカップル向きの鐘もある 鳴らしたい向きはいつでもどうぞ。

  ばら園のパンフレットには詳しいことが書かれているので、ここに載せておこう。

    概  要    面積 8㌶  バラの株数 5万  バラの種類 4千  

    開園時間   4月~7月   9:00~18:00

             8月~翌3月  9:00~17:00

    入園料   バラのシーズン(4~7月、10~12月)

             大人 600円  小中高生徒 100円  幼児 無料

           シーズンオフ(8~9月、1~3月)

             大人 300円  大人以外は変わらない

                        入園パスポート  大人 1800円  小中高生 300円

             ※ これは購入日から一年間有効 超お得!

    休園日   月曜日(祝日の場合、翌日が休み) 12月28日~1月4日

             ※ ただし、シーズン中は無休

    問い合わせ   0994-40-2170 (ばら園事務所)

    交通案内    鹿屋市ホームページで確認できる 

  

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姶良川流域散策(その5)

                吾平Kaminoiriguti_001 山陵入口への道を左に見て、今度はまっすぐ上に向かう。

 300メートルほどでなだらかな丘陵地帯に入る、急に視界が開け、左手には甫余志岳を中心とする国見三山が望まれる。

 あたり一面は畑で、サツマイモと飼料作物が植えられているが、そんな畑の一角、道路際に白く塗られた木製の道しるべのようなものがあった。Kaminoiriguti_013

 よく見ると道しるべではなく、「早馬(はやうま)の馬場跡」と書いてある。

 農村の昔の娯楽としての草競馬の跡地だという。おそらく30数年前のいわゆる「高度経済成長期」のその前まではあったのではないか。高度成長は日本の農村という農村から人を都会に向かわせ、その伝統は絶えて久しい。

 かってはそんな人々の仕送りが村を潤したこともあったが、それももう夢のような話だ。総務大臣が「ふるさと納税」構想を打ち出したというが、金よりも江戸時代の「人帰しの法(帰農令)」でも出したほうがいい。

Kaminoiriguti_004  

 早馬の馬場跡を過ぎて、ちょうど1キロで横井坂という分岐だ。これを右手にとれば姶良川支流・菅野川に至り、それをさかのぼっていくと錦江町の高原地帯を越えて道は佐多まで通じている。

 さて、姶良川は一気に山間に入る。横井坂の分岐から300メートルほどで「市之渡橋」を渡る。いよいよ神野地区だ。

 神野はウガヤフキアエズとタマヨリヒメとの間に生まれた皇孫トヨミケヌ(後の神武天皇)の后になったアイラツヒメの古里だという。それにしてはひなび過ぎてはいないか、と心配になるほどの「隠れ里」である。過疎化が進んでいるので、なお一層そう感じるのかもしれないが・・・・・。

 Kaminoiriguti_006 市之渡から川向こうに細長く水田が広がりだした。畦を刈る人の姿なんかがちらほら見える。長閑な心安らぐ風景に目を奪われながら少し行ったとき、あっと驚いた。川の中にコンクリートで橋、いや「道路」が敷かれているのだ。

 田んぼに水が取られているのと、ここのところの晴天で水量が少ないせいだろう、「川中道路」が完全にむき出しになっている。Kaminoiriguti_007_1川 向こうの田んぼに通うための道路だ。

 四万十川の中流に、水量の少ない時は通れるが、水量が多くなると橋が冠水して通行止めになる、という橋があるのをテレビで見たような記憶があるが、同じようなものか。――ただし、こちらは「道路」だが。何にしても珍しいものがあったものだ。

 Kaminoiriguti_009 感心しつつなおも行くと神野地区の中心が見えてきた。吾平富士(中岳)が相変わらず秀麗な山容をほこり、左手には地域のアイデンティティ・神野小学校が清流のほとりに建っているのが見える。

  鹿屋市吾平町神野地区の地図はこちらで(マピオン

 

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西郷どん、最後の保養地

 「最近アレルギーが妙なんですよ」「そうなんですか?」「もしかしたら、中国発の黄砂が原因かなあ・・・」

 ここ2週間余り、ちょうどスギ花粉のアレルギー症状そっくりが続いていて、困るのが夜寝付いてからの鼻づまりだ。口から息をするので、気管がいがらっぽく、苦しくてたびたび目を覚ましてしまう。といって目を覚ますと今度はくしゃみの連発だ。眠れねえ~~~。

 今日は錦江町の耳鼻科へ行くことにした。十年ほど前、スギ花粉症ひどかりしころ、どこの病院へ行ってももてあましていた時、そこの先生に処方された薬で著効を見たことがあった。最後の頼み、単車で三十分かけて診察を受けに行った。

 おや~、ひどく症状が出ていますね――鼻の中をのぞいた先生の第一声。そのあとのやり取りはトップに続く。強い薬を出してくれたらしい。今晩が楽しみだ、待ち遠しい。

Nejimesegodon_005  錦江町まできたら南大隅町の旧根占町はすぐ目と鼻の先。足を伸ばさない手はあるまい――と出かけたのが、西南戦争の直前、前陸軍大将・西郷隆盛の大隅半島での逗留先。根占町川北の平瀬家だ。

 西郷さん愛用の石風呂、手水鉢が今も残る。

 明治10年2月初め、西郷さんは大隅半島では鹿屋市高須町と並ぶ逗留先であるここで、鹿児島からの急使によって、私学校の生徒たちが陸軍の弾薬庫数ヶ所を襲ったとの情報を得た。

 「ちょっ、しもたっ」 というのが西郷さんの第一声であったそうだ。〈もう、後には引けんな〉と、西郷さんは心の奥底から思ったに違いない。〈政府の挑発にまんまと乗ってしもうたな・・・。こうなれば、仕方あるまい〉Nejimesegodon_001_1

  急きょ鹿児島に帰った西郷は篠原国幹、村田新八、桐野利秋らと相談の上、「新政厚徳」の幡を押し立て、そのころ珍しく降り続いて一尺にも積もっていた雪の中を、2月15日の朝、東京に向けて進軍を開始した。

 熊本の鎮台に宣戦布告をした時点で、西郷らは官位剥奪、賊軍となる。官軍最高の地位に昇った西郷自らが賊軍の首魁になるとは前代未聞の椿事だ。

 文字通り、地位など弊履(へいり)の如く捨ててしまった男たちがそこにいたのだ。このあと9月に城山に帰ってきた「賊軍」はほぼ壊滅。首魁西郷隆盛も岩崎洞窟にその生涯を閉じた。西郷に従い、死した者およそ6千は、今、揃って南州墓地に眠っている。

 戊辰戦争以降、反幕府軍すなわち官軍の総指揮官であり、もっとも官軍らしい官軍だった西郷軍の士官たちは、靖国神社には祭られていない。西郷は明治22年2月、ちょうど帝国憲法公布に合わせて「賊名」を取り除かれたにもかかわらず、靖国の御霊としてはいまだに扱われないままなのだ。

 ちょうど日本が太平洋戦争後は平和に徹し、一度たりとも戦争を仕掛けることなどないにもかかわらず、相変わらず国連憲章の上では「敵国」扱いされているのと似ている。アメリカもイギリスも同盟国だ、友好国だと持ち上げはするが、日本が「敵国」であることを積極的に取り下げようという気はない。当然といえば当然だ。国連憲章の根幹は英米が日本と戦う直前に作った「大西洋憲章」が下敷きになっているのだから・・・。

 ・・・・・で、根占川北の平瀬屋敷は錦江湾までわずか7,80メートルのところ、雄川河口まで150メートル位の所にある。夜になれば波の音が子守唄になっただろう。Nejimesegodon_007_1

 幕末に思いをはせると、見所が一つある。

 雄川河口から国道269号を佐多方面に行けば、約4キロで大浜海浜公園(海水浴場)だが、さらに1キロ余り行くと海岸沿いにあるのが「台場公園」だ。東京の「お台場」もそうだが、幕末に海からの攻撃を防ぐために造った施設でここのは砲台跡がきれいに残っている。

Nejimesegodon_008 説明板の横に見えるのが砲台で、映っている大砲はレプリカである。

 文久二年(1862)は薩摩藩超多忙の年で、3月に久光が上京したその同じ月に「寺田屋事件」が起き、過激派藩士9名が殉難、久光帰国の途中の8月、今度は「生麦事件」に遭遇。イギリス人商人一人を殺してしまい、イギリスからは下手人の公開処刑と賠償金約100億円(25万ポンド)まで請求される始末(ボッタクリもいいところだ)。

 Nejimesegodon_010

  薩摩藩は知らぬぞんぜぬを通し、見かねて幕府が支払ったものの、下手人云々が未解決とばかり、イギリス艦隊が鹿児島湾にやってきたのは、翌文久3(1863)年8月。

 ここの大砲で向こうに見える錦江湾に向かってぶっ放すことはなかったが、鹿児島城下では上町一帯が焼き払われ、ならばとばかり放ったタマがイギリス艦隊の旗艦に命中、艦長と副艦長が吹き飛んだという大成果。

 この薩英戦争後、喧嘩のあとの仲直りよろしくお互いに友好的になった。ほどなくして幕府に隠れて留学生を送り、以降、薩摩藩は世界の趨勢という大海に目覚めていく。

 それはこのあとわずか五年という短期間での王政復古、維新につながるのだが、余りに西洋化を急ぎすぎたせいか、維新後は価値観に相容れぬものを感じ続けた西郷はついに身を引いた。そして私学校を建てて後身を指導しつつ、ときどき大隅半島や国分、山川、入来、吹上温泉などで保養しながら余生を送ろうとしていた西郷さんだったが、それも叶わぬこととなってしまったのだった。

 

 

 

 

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航空ショーと基地史料館

 宮崎の新田原基地から鹿屋基地までわずか十五分とは驚きだ。

 Kanoyakitibaraen_017 国産のT-4ジェット戦闘機が登場すると告げるアナウンスがあり、さらに「左手をご注目ください」と言うのだが、音はすれども姿は見えぬと言うそのままで、やがて豆粒のような黒い点が東の低い空に現れたかと思うと、キーンという轟音とともに瞬く間に頭上を通過した。

 それから基地の上を何回まわっただろうか、突然高く舞い上がり、頂上で二、三回きりもみ飛行をしたあと、大観衆の頭上を今度は西から東に向かって、二度三度羽を揺らしながら、再び宮崎県の中央にある新田原基地へと去って行った。その間10分もなかったろう。Kanoyakitibaraen_016

    T-4型戦闘機(川崎重工業製作) ー→

       全長 13.0m  全幅  9.9m

             最高時速 926km 

               定員   2名  

 Kanoyakitibaraen_011                 

  

 子供向けの機関(自動)車が構内をくるくる走っていた。結構人気があってたくさんの家族連れが順番待ちをしていた。 

 昼になったので基地の入口にある「海上自衛隊鹿屋航空基地史料館」を見学に行った。

 もう何度も来ているが、今日のような混雑は初めてだ。ほとんどが航空ショーの合間に見に来ているのだろう。こちらは家族連れではなく、グループが多い。Kanoyakitibaraen_026

入館は無料だが、受付に隊員が二人いて、住所と氏名を名簿に記入させられる。

 怪しい者は入れないという配慮なのだ。一応は国の施設だし、機微に触れる点もあるからやむを得まい。展示の本体は基地の機能紹介なのだが、鹿屋周辺から飛び立った海軍特攻隊員の追悼的な展示が圧巻である。

 だが、現役の防衛最前線の基地という制約があって、実際にはこちらの特攻戦没者の方が陸軍の知覧特攻隊のそれよりも300人以上多いにもかかわらず、巷間の注目を集めていないのは少しばかり残念だ。まあ、Kanoyakitibaraen_025 知覧の鳥浜食堂のトメさんのような存在がいなかったからかもしれないが・・・。

       史料館入口正面を飾る日本画家・平山郁夫

                    画伯の巨大なステンドグラス--→

                          『夕映桜島』

                                     Kanoyakitibaraen_020   

 館内展示のゼロ戦(復元)

  鹿児島近海の二箇所から

 引き上げられた残骸を修繕

 し、復元したほぼ本物

 

       

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秀村選三先生が到来

 いや、驚いたのなんの!

 今朝、史談会の用件で肝付町のT先生に電話をし、話が済むころになってT先生いわく「実はね、午後、福岡の秀村先生が資料館にお見えになるんでね」  私「ええっ!あの先生がっ!」  T先生「そうそう、何でも資料館にあるものを写真にとって、学士院賞の授賞式の時、陛下に御覧にいれるそうで」  私「い、行きます!」

 01010009 午後になるのが待ち遠しく、昼飯を済ませるとあたふたと肝付町立歴史資料館に向かった。一時間ほどして到着された。聞けばきのう鹿児島入りし、黎明館にある資料の貸し出しを依頼されたと言い、今日はここの資料を借り受け、東京の学士院に送られるという。

 研二さんという二男の方が同道されていた。この人はやはり大学の先生で、朝鮮半島の民俗の研究者という。資料館の展示物のうち、農業関係の古道具類を盛んに写真に収めていた。

 01010001                    秀村先生の業績は「薩摩藩の大隅国高山郷の郷士・守屋家に伝わる古文書を解読し、幕末期の在地構造を主に農業経済とのかかわりにおいて克明にとらえ尽くした」と言うものであるらしい。『守屋舎人(もりやとねり)日帳』という表題で出版しているが、全十一巻という膨大なものである。

 御年84歳という御高齢だが、身のこなしは軽やかだ。

 

 館長に案内されて見て回るときも、メモを欠かすことがない。

 さすが学者魂に溢れて見える。01010003

 学士院での授賞式のあと、天皇に直々に受賞内容を説明されるそうで、取りこぼしがあってはならぬよう今から細心を心がけておられるのだろう。

 高山郷をどのように紹介されるのか、楽しみである。

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早期米の米作りー⑨

 このところようやく天気が定まり、気温も26,7度まで上がってきた。

 吾平町鶴峰地区のNさんの田んぼも、Iさんの田んぼも、100メートルも離れたところから眺めると、グリーン一色に近くなってきている。05100001

←Nさんの田んぼ。近くで苗列を平行に見ればやはり水が勝っているが、左隣の田はみどりのカーペットのようだ。

 その隣の田の人がせっせと畦刈りをしていた。 小高い丘の下、点のように見えている。

 苗は分けつを始めたようだ。株数が増えて一回り大きくなっている。

05100006  今日は水温を計ってみた。

 300円くらいで買った安っぽい寒暖計で計るのだから正確は期しがたいが、それでもほぼ30℃と見えた。

 なるほど大きくなるわけだ。元来が熱帯性の稲にとってようやく適温期を迎えたのだろう。外気温は26℃だから、溜り水のほうが4度高い。その保温力は素晴らしい。

05100003 

 Nさんの田んぼから、Iさんの田んぼの方を見ると「鶴峰保育園」が明るい屋根を見せ、そのはるか向こうには肝属山地の最高峰・甫余志(ほよし)岳=967mと、それに続く稜線の左手に黒尊岳=909mが壁のように連なっていた。

 

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韓国岳登山

 ゴールデンウィーク明けに快晴とは皮肉だ。

 ウィーク初日の4月28日は良い天気だったが、あとはパッとせず、それどころか昨日とおとといは大雨が降る始末だった。

 天気さえよければと思っていたが、連休中はとうとうかなえられず、ついに休み明けの今日、単独で行くことにした。

 夕方明るいうちに帰らなくてはと、朝5時半に出発。登山口までの110キロを二時間半でこなし、大浪池を目指して歩き出したのが8時少し過ぎだった。さすが日本で第一号の国立公園だ、道はしっかり造ってあり、ごみなどほとんど無い。

05070021 大浪池には40分ほどで到着。青々とまるく水を湛えた大浪池と緩やかな曲線を描く韓国岳の雄姿は、鹿児島ではいろいろなところに使われるイメージだが、何度見てもいい。

 大浪池の火口壁のふちを歩き、約20分で韓国岳登山口だ。1700mの頂上まで標高差05070016 350メートルを登る。距離にしてわずか1.2kmなので甘く見ていたが、下りの一切ない上がる一方の道なので意外に時間を食い、1時間もかかってしまった。

 山頂には稜線コースから来たらしい6、7人の登山客がいた。ひとり東京からという人がいて、聞けば百名山踏破の途中なのだと言う。これから高千穂の峰を目指すそうだ。同級生にもそんなのがいたなあ、と懐かしく思い出す。

 帰りの大浪池火口壁は反対周りをしたのだが、途中、鹿の死んでいるのに出くわした。はらわたの一部が喰われていた。どうしたのだろう・・・。そういえば韓国岳登山口からしばらくのあいだ、鹿の足跡が付いていた。その鹿だろうか・・・、合掌。

05070015 結局、往復ちょうど4時間で大浪池登山口に舞い戻った。昼飯を食べ、下る途中にある湯の野温泉に入ってかえる。

 

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姶良川流域散策(その4)

 妹はつらいよ!

 と言ったかどうかは分からないが・・・姉さんのトヨタマヒメがせっかく産んだ皇孫ホホデミノミコトの子を、産み落としたまま竜宮へ帰ってしまい、ピンチヒッターに立たされた妹がタマヨリヒメだった。

 「赤ちゃんポスト」なんてない時代だ。おまけに妊娠もお産もしたことのないタマヨリヒメに乳の出ようはずはない。

 どうしましょ、などと悩んでいる暇はない。腹をすかせた赤ん坊のウガヤフキアエズは泣くばかりなのだ。そこで思いついたのが「飴」だった。飴といってもそこらで売っているわけではない。米から作る「水あめ」。よほど作るのが上手だったのだろう、ウガヤの皇子はすくすくと育ち、大人になった時、その恩人タマヨリヒメと結婚したそうな。

 Airatyurumine_009_1 その飴を作り、ウガヤの皇子を育てた屋敷跡というのが、この鶴峰地区の広い田んぼ地帯の中にある。

 木の説明板の後ろには立派な石碑が建つ。例によって皇国民教育時代の昭和15年(紀元2600年)のものだ。

 鹿児島は皇孫4代(ニニギ、ホホデミ、ウガヤ、神武)の地だと「古事記・日本書紀の神話」に書かれており、その神話を史実であると叩き込まれたあの時代。だが戦争に敗れ「神風は吹かなかった」「天皇は現人神ではなかった」

と、今度は180度の価値観の転換で「嘘だった」「古事記も日本書紀も嘘ばっかり書いてある」と見向きもされなくなった。一種の「焚書」だ。それも「自己焚書」だ。GHQは歴史教科書には墨を塗らせたが、古事記・日本書紀が発禁になったわけではないのに。

 罪は、解釈にあるのであって、書物そのものには何の罪もない。

 難しいことは抜きにして、ともかく昔々、実母に捨てられ、叔母に育てられた子供がいたというわけなのだ。あり得ないことはないだろう。

 ここらあたりはおそらく弥生時代ころから米は作られていたに違いない。Airatyurumine_010_1

 説明板のはるか向こうに姶良川が流れているが、その距離7~800メートルはある。以前に紹介した湯遊ランドあいら温泉のある下流地区が、広大だが明治以降の新しい田んぼ造成地帯であるのに比べ、この山間の盆地のような鶴峰地区こそ、はるかに古い時代からの水田地帯だったろう。

 さて、いよいよ流れは山間部に差し掛かる。

 その入口に位置するのが「吾平山上陵」だ。

 お墓の主は今の伝説に登場したウガヤの皇子である。一ヶ月前に桜を見に行ったらもう散り始めていたが、今はすっかり濃緑の春に変わっていた。131

 昨日から今日の午前中まで降っていた雨がようやく上がり、陵内はしっとりと静まり返っている。

 橋を二度渡ると一瞬伊勢神宮を思わせる杉木立が続きやがて川の向こうに鳥居が見えてくる。鳥居の奥が洞窟になっており、その中に御陵があるという。

 『麌藩(げいはん=鹿児島藩のこと)名勝考』という江戸時代に出された名所・旧跡を書いた本によると、洞窟の中は広さが120坪もあり、大きな切り石の上に3メートル余りのお宮が建っているという。それがお墓なのだそうだ。133

 このような洞窟を鹿児島では「うど(鵜戸)」と言い、それゆえこれを祭る神社は「鵜戸神社(神宮)」と呼ばれる。鹿児島ではこの吾平に一社、吾平の南の旧田代町・大原地区にもう一社の二つあるが、現在は宮崎の日南の鵜戸神宮のほうが本社のようになっている。

 明治7年の神代三山陵の裁定によりすべてが鹿児島県内に決まってしまったが、敗戦後、鹿児島のほうの分が悪くなり、日南の鵜戸神宮の観光性にすっかりお株を奪われた形だ。134

 しかしお墓としての静謐さ、荘厳さにはこちらが勝る。史実かどうかは別として、何らかの御霊がまつられていることに異論はない。もしかしたらとんでもなく古い時代のものかもしれない。

 もともと洞窟遺跡といえば、縄文のそれも早期とか草創期という時代のものが多い。そこで私見だが、 あの南九州を襲った6500年前の「鬼界カルデラ大噴火」の降灰と火砕流を生き延び得た装置(避難所)がこれだったのではないだろうか・・・・・・(笑)。

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  吾平山陵(公式には吾平山上陵)の地図はこちら

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姶良川流域散策(その3)

Airatyurumine_003  先日訪れた「中福良」地区から、ちょうど1キロ上流に鶴峰橋が架かる。

 鶴峰橋のところは両側から山が迫り、もしかしたら遠い昔はこの上流の鶴峰東地区は広大な沼地だったのではないか と思われなくもない。

 事実、橋の左手は川を遮るようなちょっとした岩山になっていて、その頂上には軍(いくさ)大明神が祭られている。祭神は「イワナガヒメ」で皇孫ニニギノミコトの后コノハナサクヤヒメの姉さんだ。

 戦時中は軍(いくさ)というネーミングの故、出征兵士や家族が「武運長久」を祈るためにたくさん訪れたという。岩山の上だから「イワ」つながりで「イワナガヒメ」が祭られたのだろうが、それがなぜ「武運長久」の「軍大明神」になったのだろうか、探索の必要に駆られる。Airatyurumine_005

 それはそれとして、軍大明神から500mほど上流に行ったところが、Nさんの田んぼだ。4月1日からちょうど一ヶ月の生育の様子を見ると、可愛げだった苗がたくましく風に揺れていた。

 身長は植えつけた当時の2倍、およそ20センチになっている。一箇所に3,4本ずつ植えたそれぞれがしっかりと根を張り、地中からどんどん養分を吸収し始めたようだ。

Airatyurumine_012  鶴峰保育園の下にある I さんのたんぼも状況は同じだ。

 田んぼの中をよく見ると、小さなおたまじゃくしが泳ぎまわり、みずすましもあちこち水上遊泳をしている。あと半月もしたらうるさいぐらいにカエルが鳴き始めるだろう。

 

 このあたりの水はどこからやってくるのか、田んぼの人に聞くと、さらに上流5,600㍍のところだという。行ってみると、吾平山陵に近い姶良川から引いていた。Airatyurumine_014

 井堰(いぜき)を構築した記念碑が建っているが、それによると最初に作られたのは江戸時代の寛永年間(1624~1644)だそうで、その時の田んぼは50町歩。現在のメートル法では500,000㎡、東京ドームの25倍くらいだろうか。

 その後、幕末の文久年間(1861~1864)には 灌漑面積がちょうど2倍の100町歩になっている。つまり約200年で二倍になったということだ。

 ところが昭和2(1927)年の拡張工事で、面積は200町歩にまでなった。わずか60年でさらに2倍に増えたというわけである。日進月歩という言葉があるが、江戸時代のそれは、近代以降のそれとは比較にならないほど緩慢だったということが分かる。

 ところでここまで来たのだからと、今まで行きそびれていた温泉――内之浦の湯之谷温泉まで行ってみることにした。大隅半島では3ヶ所くらいしかない「山のいで湯」である。

 高山ー岸良(きしら)線に入り、川上地区を過ぎると道はいよいよ山奥へ。十分ほどで二股川キャンプサイト。さらに五分でトンネルをくぐって、岸良地区に下りていく。十分弱で湯之谷温泉に到着(湯之谷温泉の地図はこちらで)。Airatyurumine_036

  山のいで湯にしては立派な造りだが、海にも近い(さらに7~8分ほどで海釣りのメッカ岸良地区)ので建築工事に難儀することはなかったのだろう。

 お湯は源泉26度と鉱泉に近いが、大隅半島では珍しく強いアルカリ性(PH10)なのだ。おそらく沸かし湯で薄めてあるのだと思う(入湯料300円。食堂併設)。

 内之浦の中心にある国民宿舎「銀河荘」の湯も、肌のすべすべするアルカリ系の温泉である。同じ泉脈なのだろう。道理で内之浦には美人が多い?

 鹿屋市のスクロール地図はこちら

  

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