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姶良川流域散策(その3)

Airatyurumine_003  先日訪れた「中福良」地区から、ちょうど1キロ上流に鶴峰橋が架かる。

 鶴峰橋のところは両側から山が迫り、もしかしたら遠い昔はこの上流の鶴峰東地区は広大な沼地だったのではないか と思われなくもない。

 事実、橋の左手は川を遮るようなちょっとした岩山になっていて、その頂上には軍(いくさ)大明神が祭られている。祭神は「イワナガヒメ」で皇孫ニニギノミコトの后コノハナサクヤヒメの姉さんだ。

 戦時中は軍(いくさ)というネーミングの故、出征兵士や家族が「武運長久」を祈るためにたくさん訪れたという。岩山の上だから「イワ」つながりで「イワナガヒメ」が祭られたのだろうが、それがなぜ「武運長久」の「軍大明神」になったのだろうか、探索の必要に駆られる。Airatyurumine_005

 それはそれとして、軍大明神から500mほど上流に行ったところが、Nさんの田んぼだ。4月1日からちょうど一ヶ月の生育の様子を見ると、可愛げだった苗がたくましく風に揺れていた。

 身長は植えつけた当時の2倍、およそ20センチになっている。一箇所に3,4本ずつ植えたそれぞれがしっかりと根を張り、地中からどんどん養分を吸収し始めたようだ。

Airatyurumine_012  鶴峰保育園の下にある I さんのたんぼも状況は同じだ。

 田んぼの中をよく見ると、小さなおたまじゃくしが泳ぎまわり、みずすましもあちこち水上遊泳をしている。あと半月もしたらうるさいぐらいにカエルが鳴き始めるだろう。

 

 このあたりの水はどこからやってくるのか、田んぼの人に聞くと、さらに上流5,600㍍のところだという。行ってみると、吾平山陵に近い姶良川から引いていた。Airatyurumine_014

 井堰(いぜき)を構築した記念碑が建っているが、それによると最初に作られたのは江戸時代の寛永年間(1624~1644)だそうで、その時の田んぼは50町歩。現在のメートル法では500,000㎡、東京ドームの25倍くらいだろうか。

 その後、幕末の文久年間(1861~1864)には 灌漑面積がちょうど2倍の100町歩になっている。つまり約200年で二倍になったということだ。

 ところが昭和2(1927)年の拡張工事で、面積は200町歩にまでなった。わずか60年でさらに2倍に増えたというわけである。日進月歩という言葉があるが、江戸時代のそれは、近代以降のそれとは比較にならないほど緩慢だったということが分かる。

 ところでここまで来たのだからと、今まで行きそびれていた温泉――内之浦の湯之谷温泉まで行ってみることにした。大隅半島では3ヶ所くらいしかない「山のいで湯」である。

 高山ー岸良(きしら)線に入り、川上地区を過ぎると道はいよいよ山奥へ。十分ほどで二股川キャンプサイト。さらに五分でトンネルをくぐって、岸良地区に下りていく。十分弱で湯之谷温泉に到着(湯之谷温泉の地図はこちらで)。Airatyurumine_036

  山のいで湯にしては立派な造りだが、海にも近い(さらに7~8分ほどで海釣りのメッカ岸良地区)ので建築工事に難儀することはなかったのだろう。

 お湯は源泉26度と鉱泉に近いが、大隅半島では珍しく強いアルカリ性(PH10)なのだ。おそらく沸かし湯で薄めてあるのだと思う(入湯料300円。食堂併設)。

 内之浦の中心にある国民宿舎「銀河荘」の湯も、肌のすべすべするアルカリ系の温泉である。同じ泉脈なのだろう。道理で内之浦には美人が多い?

 鹿屋市のスクロール地図はこちら

  

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