姶良川流域散策(その4)
妹はつらいよ!
と言ったかどうかは分からないが・・・姉さんのトヨタマヒメがせっかく産んだ皇孫ホホデミノミコトの子を、産み落としたまま竜宮へ帰ってしまい、ピンチヒッターに立たされた妹がタマヨリヒメだった。
「赤ちゃんポスト」なんてない時代だ。おまけに妊娠もお産もしたことのないタマヨリヒメに乳の出ようはずはない。
どうしましょ、などと悩んでいる暇はない。腹をすかせた赤ん坊のウガヤフキアエズは泣くばかりなのだ。そこで思いついたのが「飴」だった。飴といってもそこらで売っているわけではない。米から作る「水あめ」。よほど作るのが上手だったのだろう、ウガヤの皇子はすくすくと育ち、大人になった時、その恩人タマヨリヒメと結婚したそうな。
その飴を作り、ウガヤの皇子を育てた屋敷跡というのが、この鶴峰地区の広い田んぼ地帯の中にある。
木の説明板の後ろには立派な石碑が建つ。例によって皇国民教育時代の昭和15年(紀元2600年)のものだ。
鹿児島は皇孫4代(ニニギ、ホホデミ、ウガヤ、神武)の地だと「古事記・日本書紀の神話」に書かれており、その神話を史実であると叩き込まれたあの時代。だが戦争に敗れ「神風は吹かなかった」「天皇は現人神ではなかった」
と、今度は180度の価値観の転換で「嘘だった」「古事記も日本書紀も嘘ばっかり書いてある」と見向きもされなくなった。一種の「焚書」だ。それも「自己焚書」だ。GHQは歴史教科書には墨を塗らせたが、古事記・日本書紀が発禁になったわけではないのに。
罪は、解釈にあるのであって、書物そのものには何の罪もない。
難しいことは抜きにして、ともかく昔々、実母に捨てられ、叔母に育てられた子供がいたというわけなのだ。あり得ないことはないだろう。
ここらあたりはおそらく弥生時代ころから米は作られていたに違いない。
説明板のはるか向こうに姶良川が流れているが、その距離7~800メートルはある。以前に紹介した湯遊ランドあいら温泉のある下流地区が、広大だが明治以降の新しい田んぼ造成地帯であるのに比べ、この山間の盆地のような鶴峰地区こそ、はるかに古い時代からの水田地帯だったろう。
さて、いよいよ流れは山間部に差し掛かる。
その入口に位置するのが「吾平山上陵」だ。
お墓の主は今の伝説に登場したウガヤの皇子である。一ヶ月前に桜を見に行ったらもう散り始めていたが、今はすっかり濃緑の春に変わっていた。
昨日から今日の午前中まで降っていた雨がようやく上がり、陵内はしっとりと静まり返っている。
橋を二度渡ると一瞬伊勢神宮を思わせる杉木立が続きやがて川の向こうに鳥居が見えてくる。鳥居の奥が洞窟になっており、その中に御陵があるという。
『麌藩(げいはん=鹿児島藩のこと)名勝考』という江戸時代に出された名所・旧跡を書いた本によると、洞窟の中は広さが120坪もあり、大きな切り石の上に3メートル余りのお宮が建っているという。それがお墓なのだそうだ。
このような洞窟を鹿児島では「うど(鵜戸)」と言い、それゆえこれを祭る神社は「鵜戸神社(神宮)」と呼ばれる。鹿児島ではこの吾平に一社、吾平の南の旧田代町・大原地区にもう一社の二つあるが、現在は宮崎の日南の鵜戸神宮のほうが本社のようになっている。
明治7年の神代三山陵の裁定によりすべてが鹿児島県内に決まってしまったが、敗戦後、鹿児島のほうの分が悪くなり、日南の鵜戸神宮の観光性にすっかりお株を奪われた形だ。
しかしお墓としての静謐さ、荘厳さにはこちらが勝る。史実かどうかは別として、何らかの御霊がまつられていることに異論はない。もしかしたらとんでもなく古い時代のものかもしれない。
もともと洞窟遺跡といえば、縄文のそれも早期とか草創期という時代のものが多い。そこで私見だが、 あの南九州を襲った6500年前の「鬼界カルデラ大噴火」の降灰と火砕流を生き延び得た装置(避難所)がこれだったのではないだろうか・・・・・・(笑)。
吾平山陵(公式には吾平山上陵)の地図はこちら。
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