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西郷どん、最後の保養地

 「最近アレルギーが妙なんですよ」「そうなんですか?」「もしかしたら、中国発の黄砂が原因かなあ・・・」

 ここ2週間余り、ちょうどスギ花粉のアレルギー症状そっくりが続いていて、困るのが夜寝付いてからの鼻づまりだ。口から息をするので、気管がいがらっぽく、苦しくてたびたび目を覚ましてしまう。といって目を覚ますと今度はくしゃみの連発だ。眠れねえ~~~。

 今日は錦江町の耳鼻科へ行くことにした。十年ほど前、スギ花粉症ひどかりしころ、どこの病院へ行ってももてあましていた時、そこの先生に処方された薬で著効を見たことがあった。最後の頼み、単車で三十分かけて診察を受けに行った。

 おや~、ひどく症状が出ていますね――鼻の中をのぞいた先生の第一声。そのあとのやり取りはトップに続く。強い薬を出してくれたらしい。今晩が楽しみだ、待ち遠しい。

Nejimesegodon_005  錦江町まできたら南大隅町の旧根占町はすぐ目と鼻の先。足を伸ばさない手はあるまい――と出かけたのが、西南戦争の直前、前陸軍大将・西郷隆盛の大隅半島での逗留先。根占町川北の平瀬家だ。

 西郷さん愛用の石風呂、手水鉢が今も残る。

 明治10年2月初め、西郷さんは大隅半島では鹿屋市高須町と並ぶ逗留先であるここで、鹿児島からの急使によって、私学校の生徒たちが陸軍の弾薬庫数ヶ所を襲ったとの情報を得た。

 「ちょっ、しもたっ」 というのが西郷さんの第一声であったそうだ。〈もう、後には引けんな〉と、西郷さんは心の奥底から思ったに違いない。〈政府の挑発にまんまと乗ってしもうたな・・・。こうなれば、仕方あるまい〉Nejimesegodon_001_1

  急きょ鹿児島に帰った西郷は篠原国幹、村田新八、桐野利秋らと相談の上、「新政厚徳」の幡を押し立て、そのころ珍しく降り続いて一尺にも積もっていた雪の中を、2月15日の朝、東京に向けて進軍を開始した。

 熊本の鎮台に宣戦布告をした時点で、西郷らは官位剥奪、賊軍となる。官軍最高の地位に昇った西郷自らが賊軍の首魁になるとは前代未聞の椿事だ。

 文字通り、地位など弊履(へいり)の如く捨ててしまった男たちがそこにいたのだ。このあと9月に城山に帰ってきた「賊軍」はほぼ壊滅。首魁西郷隆盛も岩崎洞窟にその生涯を閉じた。西郷に従い、死した者およそ6千は、今、揃って南州墓地に眠っている。

 戊辰戦争以降、反幕府軍すなわち官軍の総指揮官であり、もっとも官軍らしい官軍だった西郷軍の士官たちは、靖国神社には祭られていない。西郷は明治22年2月、ちょうど帝国憲法公布に合わせて「賊名」を取り除かれたにもかかわらず、靖国の御霊としてはいまだに扱われないままなのだ。

 ちょうど日本が太平洋戦争後は平和に徹し、一度たりとも戦争を仕掛けることなどないにもかかわらず、相変わらず国連憲章の上では「敵国」扱いされているのと似ている。アメリカもイギリスも同盟国だ、友好国だと持ち上げはするが、日本が「敵国」であることを積極的に取り下げようという気はない。当然といえば当然だ。国連憲章の根幹は英米が日本と戦う直前に作った「大西洋憲章」が下敷きになっているのだから・・・。

 ・・・・・で、根占川北の平瀬屋敷は錦江湾までわずか7,80メートルのところ、雄川河口まで150メートル位の所にある。夜になれば波の音が子守唄になっただろう。Nejimesegodon_007_1

 幕末に思いをはせると、見所が一つある。

 雄川河口から国道269号を佐多方面に行けば、約4キロで大浜海浜公園(海水浴場)だが、さらに1キロ余り行くと海岸沿いにあるのが「台場公園」だ。東京の「お台場」もそうだが、幕末に海からの攻撃を防ぐために造った施設でここのは砲台跡がきれいに残っている。

Nejimesegodon_008 説明板の横に見えるのが砲台で、映っている大砲はレプリカである。

 文久二年(1862)は薩摩藩超多忙の年で、3月に久光が上京したその同じ月に「寺田屋事件」が起き、過激派藩士9名が殉難、久光帰国の途中の8月、今度は「生麦事件」に遭遇。イギリス人商人一人を殺してしまい、イギリスからは下手人の公開処刑と賠償金約100億円(25万ポンド)まで請求される始末(ボッタクリもいいところだ)。

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  薩摩藩は知らぬぞんぜぬを通し、見かねて幕府が支払ったものの、下手人云々が未解決とばかり、イギリス艦隊が鹿児島湾にやってきたのは、翌文久3(1863)年8月。

 ここの大砲で向こうに見える錦江湾に向かってぶっ放すことはなかったが、鹿児島城下では上町一帯が焼き払われ、ならばとばかり放ったタマがイギリス艦隊の旗艦に命中、艦長と副艦長が吹き飛んだという大成果。

 この薩英戦争後、喧嘩のあとの仲直りよろしくお互いに友好的になった。ほどなくして幕府に隠れて留学生を送り、以降、薩摩藩は世界の趨勢という大海に目覚めていく。

 それはこのあとわずか五年という短期間での王政復古、維新につながるのだが、余りに西洋化を急ぎすぎたせいか、維新後は価値観に相容れぬものを感じ続けた西郷はついに身を引いた。そして私学校を建てて後身を指導しつつ、ときどき大隅半島や国分、山川、入来、吹上温泉などで保養しながら余生を送ろうとしていた西郷さんだったが、それも叶わぬこととなってしまったのだった。

 

 

 

 

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