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高山川流域散策(その1)

Kouyamagawa1_001  一級河川肝属川に南から注ぐ3本の川(姶良川、大姶良川、高山川)のうち肝属川河口に最も近く合流するのが高山川である。

 長さは姶良川とほとんど変わらない24キロほどで、源流の山地の最高点も950メートル余りと、その点でも似ている。

合流点:右が本流・肝属川      Kouyamagawa1_002

 右の写真は合流点のすぐ右岸側にある下之門集落越しに望まれる肝属川河口のランドマーク権現山(320m)だ。河口までは約6キロある。

 ここから500メートル余りで下之門橋に着く。流れを見ると、右岸(左)側の河川敷が広く、菜園として利用されているようだ。大水の時には水に浸かってしまうのだろうが、川の水位はかなり低い。Kouyamagawa1_003

 昨日、一昨日とかなりの雨が降っているのに護岸のブロックが丸見えなのだ。よほど河川工事が成果をあげているのだろう。そういえば、国土交通省の九州地方建設局大隅工事事務所というのが高山にあった。

 高山川はしてみると国の威信のかかっている管理河川なのだ。道理で土手(堤防)が広くしっかり造ってあるわけだ。Kouyamagawa1_005

 下之門橋から2キロ弱上ると、高山中学校と文化センターのある左岸と、大隅工事事務所のある右岸を結ぶ新前田橋だ。いま新橋を建設中であるが、そこからは高山町(現・肝付町)の中心部が広がっているのが見える。

 土手の上をさらに800メートルほど進むと、今度は高山(赤池)橋だが、今日は渡らずにそのまま右岸に沿って行き、左手(東方面)に道をとる。すぐに高山小学校の交叉点を右折すると、界隈は藩政時代の麓集落だ。麓は外城ともいい、城とは名ばかりで実際には「御仮屋」という名の「地頭事務所」が置かれていた。

 Kouyamagawa1_017 現在の肝付町役場がその跡地だが、ここには戦前、女学校もあった という。

 役場の通りの向かい側には武家門を備えた屋敷などがあったりする。生垣越しに中を窺うと、かなり広い庭が見える。そこは庭というよりは菜園の占める部分が大きいようだ。武士といえども自給自足に近い当時の暮らしがしのばれる。Kouyamagawa1_018_3

 役場の裏手(東)には四十九所神社がある。

 戦前から建つ石柱には「縣社 四十九所神社」と彫られており、官国弊社に次ぐ大社だったことがわかる。Kouyamagawa1_014_2

 由緒では肝付氏の入部前の、10世紀の末近くに肝付氏始祖の大宰大監・伴兼行(遠祖は大伴旅人の系譜という)が天神・地祇49神を勧請し、建立したという。

 だが、どうもそれは違うようで、本当は亡命してきた物部守屋の後裔がすでに建てていたのを、 中興しただけらしい。

 そのあたりはいまだ闇に包まれている。もし島津氏に敗れた肝付氏が天正8(1580)年に阿多地方に移封されず当地に残っていたならば、あるいは解明されたかもしれないのだが、そこは戦国の世の習い、負ければ改易、取り潰しの仕置きは避けられない。Kouyamagawa1_015_1

 神社入口に用水路がある。これは高山川上流から神社の南側に聳える城山の山裾をまわって、下流の水田地帯へ送られる用水である。水量は多い。

Kouyamagawa1_013         入口の鳥居前から続く「やぶさめ道路」の脇にも細い用水路が敷設されている。十月の第三日曜日には観衆でぎっしり埋まるこの通りも、普段は静かなものだ。

                        神社前の水路の東はずれKouyamagawa1_011

 豊かな水は広がる水田を潤す。このあたりの早期米は半分ほど穂を出していた。

  

   マップ(赤十字は新前田橋)

Mapkouyamagawa1

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垂水フェリー

Tarumizuferry_017  所用で垂水港から鹿児島・鴨池港へのフェリーに乗った。

 すべての車が乗り込むと、それまでフェリーへの橋だったグリーンの通路が立ち上がり、最後尾の壁に変身する。

  日曜日なのに豚の運搬車がいる。はて、日曜は競りや堵殺場は休みのはずだが、と思いつつ荷台を覗くと、いたいた。よう肥えている。人間で言えば高校生くらいの年齢の豚だろうか、だが普通なら「ブヒ、ブヒ」と騒々しいのだけれども妙におとなしい黒豚だ。Tarumizuferry_002_1

Tarumizuferry_001  まさか遠足ではあるまい。いや、遠足ならもっとはしゃいでうるさいはずだ。

 肉用に出荷するのではなく、他の養豚業者の種付け用あるいは母豚として繁殖用に売られていくのかもしれない。

Tarumizuferry_003_1  出港して十五分ほどで桜島が好位置に来る。だが、残念なことに島の中腹辺りから上が、すっぽりと雨雲に覆われていて姿を表さない。

 

Tarumizuferry_004_1  そんな桜島でも遠方から来た観光客には物珍しいらしく、高齢の二人連れがお互いに桜島をバックに写真を撮りあっていた。湾の真ん中にぽっかりと浮かぶ島でさえ珍しいのに、それが活火山ときた日にはなおさら希少価値があるのだろう。

Tarumizuferry_006  フェリーの内部。Tarumizuferry_008_2

 昔のイメージはなく、すべて背もたれ付きの客席で、とにかく明るい印象だ。テレビも液晶のが4ヶ所に惜しげもなく設置されている。

 いよいよ対岸の鴨池港が近づく。

 アナウンスがあると車の所有者は三々五々自分の車に戻り、エンジンをTarumizuferry_015 かけて降りる準備をする。Tarumizuferry_016_3

 正面の壁が向こうへ倒れると鹿児島市だ。

 所要時間40分の船旅が間もなく終わる。

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大隅史談会の例会

 近年では初めての大隅史談会の例会が開かれた。

 Shidankaishuukai_004_1 参加者は22名。期待していたほどの人数ではなかったが、こんなものか。

 役員紹介のあと、参加者各自の自己紹介があった。遠くからは串間の人がいたが、あとは大隅地区の人ばかりだ。

 高齢者では80歳、若手では23歳とあって、ある意味で得がたい会合であった。

 役員として史談会の設立(昭和26年)から歩みと現状を話したが、おおむねこれからの課題は浮き彫りになった。何にしても会誌の発行だけでは先行きがなくなるという危機感を皆さん感じ取ってもらえたと思う。

 出席者の意見でも、一年に一度でもいいから投稿者の顔と、その人の研究あるいは興味の中身などじかに伝えて欲しい、また、発掘や文化財のある現場の実地研修などをやって欲しいというものが多いようだった。Shidankaishuukai_005

 秋にまず現地研修会をやってみようということが決まった。それから会則についても不備があるということで近く役員会で検討することになった。

 開催場所  鹿屋市中央公民館

    時間  PM 1:30~4:30

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大姶良川流域散策(最終回)

Ooairafumoto_001  勝手に「大姶良地峡」と名付けている地峡が見えてきた。

 獅子目の田んぼ地帯を抜け、再び流路がまっすぐになると、5~600メートル先に地峡がある。ちょうどそこは県道が大姶良川を左岸へと渡る「大姶良橋}があるところだ。

 そこから大姶良町に入る。大姶良城を中心として7~800年は続く古い地域だ。

 大通りから左へ200メートルほど入り、川に近づくとそこは「大姶良麓地区」でOoairafumoto_004 、藩政時代には郷士と呼ばれる大姶良外城(とじょう)勤務の武士たちの屋敷が並んでいた。麓小路と呼ばれていた旧道を眺めると、左右に石垣と生垣を整然とめぐらした家々が、今でも建ち並ぶのが見て取れる。

 大姶良地区は「山高からず、丘低からず」の緩やかだがシラス地帯特有の絶壁状の丘が数多くあり、その上には決まって山城があった。俗に「大姶良十三城」といい、本丸に相当する本城(下の写真)を筆頭に、松尾城、内城、三河城、蜂須賀城など東は獅子目から西は瀬筒峠近くまでたくさんの城があった。Ooairafumoto_005

 最大なのはもちろん本城で、大姶良川の二つの支流に囲まれた絶妙の位置にある。実は薩摩藩島津氏第7代・島津元久はここで生まれている。父は大隅守だった氏久(第6代)。南北朝期の大混乱期に肝付兼重・兼成兄弟が世を去り、続いてここに入城した志布志城主・楡井頼仲も戦死したあとのことだ。

Ooairafumoto_006_2   ただ、最初にここに城を構えたのは祢寝(ねじめ)小太郎義兼で、頼朝が弟・義経を追捕するために全国に檄を飛ばした時のことという。1185、6年の頃だろう。

 左の写真では右の端に本城の一部が見えるが、中央の二軒の郷士屋敷の左手、手前が内城跡、奥に並ぶように松尾城、そして二軒屋の右手に見える丸い丘が三河城だが、そのうちの松尾城が最初の城だという。

Ooairafumoto_007  大姶良本城を取り囲む二本の流れのうち西側を流れるのが本流でもある平岡川(右)で、橋の上から正面に見える形のよい丘は八幡神社。ここには八幡大菩薩とともに大姶良生まれの島津元久が祭られている。

 大姶良の神社で、かっては大社だったものに「岩戸神社」(下の写真)がある。このお宮は典型的な<奥宮ー里宮>型で、本宮である奥宮は、獅士目地区からの支流を1、5キロほど遡り、さらに3~400㍍歩いた所にある山中の巨大岩だ。縦横それぞれ15メートルはありそうな巨岩である。Ooairafumoto_016

 大姶良地区にはこのほかにも社は多いが、寺院の方は残念なことに明治初期の徹底した廃仏毀釈で破壊され、今は見る影もない。旧竜翔寺にはここで過ごし藩主にもなった氏久の墓があったのだが、現在は鹿児島の島津家墓地に遷されている。

 さて、大姶良川は勾配がきわめて緩い川だ。

 というのも、河口から約24キロのこの地点で、標高がわずか30mほどなのだ。単純に計算して勾配が千分の1.25、つまり1キロ行って、たったの1.25メートルという極小河川では信じられぬほど傾斜が緩いのだ。これは100キロ級の大河に匹敵するだろう。それだけ大姶良川流域は開拓しやすい土地だったということができる。

Ooairafumoto_009  これは城跡から5~600メートル遡った平岡川べりに建つ「一級河川起点」という標柱だが、国の管理だったとは恐れ入る。

 そうか平地が多いということは、豪雨の際に冠水してしまう割合も多いという事か。くわばら、クワバラ。

 それにしても、のどかな里山地区である。

             Ooairafumoto_015_3 水量が乏しいせいだろう、このあたりは梅雨時の雨量をあてにした 普通作がほとんどだ。

今植えられたばかりの緩やかな棚田が空とともに広がっている風景は、紛れもなく誰もの「ふるさと」だし、これからもずうっとそうだろう。

 マップ(赤い十字は岩戸神社。丸に十字が大姶良本城)

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大姶良川流域散策(その3)

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 池園町の西はずれから、川は再び運河のような直線流路となる。その1キロ余り続く流れを囲むのが「獅子目(ししめ)」田んぼだ。

 幅が平均して500メートルはあろうから、単純に計算して50ヘクタールから60ヘクタールだろうか。ここも豊かな穀倉地帯である。

 低地の田んぼを取り巻く濃い緑の丘は、笠野原シラス台地が大姶良川によって削り取られた切断面なのだが、とてもそ02050012 うは見えないだろう。

 角度を変えて、まだ植えられたばかりの普通作田を写した右の写真を見ればそのことがよく分かる。杉の植林や孟宗竹で覆われた丘の真ん中に白いものが見える。

 あれがシラスの正体なのである(シラスの成因は今から2万4千年前頃に噴出した姶良カルデラの火砕流だが、鹿児島県内と宮崎県南部を覆いつくしている)。

 近くに行ってみると、そこはシラスの採取地であった。中に入ると不思議な光景が広がる。比高で25メートルはあるだろうか、ほとんど垂直に切り取られた白い崖が、ぐるりとあたりを取り囲んでいる。青年がいたので聞いてみた。

 聞くとこのシラス山は自分の家の所有山で、30年も前から採取して販売しているとい02050008 う。おもに畜舎の床に敷くためのものだそうだ。

 青年の向かって左手に立つ壁は、削り残した残部だ。底面の幅が2メートルくらい、高さ・奥行ともに10メートルほどだが、雨風の中をあの形でもう20年ばかり経っているという。シラスは水を含むと何の成分か分からぬが、シラスの粒同士をくっつける働きが生まれるらしい。だから垂直に近いまま豪雨にも耐えられる。そこが単なる砂と違うところだろう。

 02050011 青年に別れを告げ、再び田んぼ地帯に戻る。真ん中をつらぬく県道大姶良・高山線に出ると、向かいの山の間に丸い丘陵が目に入る。そこは「志々目城」があった所だ。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この前の〈その2〉で紹介した西俣城や次に紹介する予定の大姶良城と、狭い範囲に城跡が続く。

 それだけこの地方が豊かだったのと、薩摩半島からの大隅攻略つまり島津氏の対肝付氏攻略上、重要な拠点だったことによるものだ。

 特に南北朝時代(1336~1392)は、建武の新政後の中央における公家対武家の争乱が地方にも及び、武家の間に見られた離合集散の複雑な動きに呼応して、南九州も「宮方」と「武家方」双方へ揺れ動いていた。

 その中にあって肝付氏はほぼ一貫して宮方への支持で固めていたが、薩摩半島の雄・島津氏は肝付氏との対抗上、逆にほとんど武家方に回っていた。そんな中で肝付八代当主・兼重は大隅から日向南部にかけて活躍した勤王の猛将であったが、大姶良川流域は弟の兼成にゆだねていた。

 その兼成が大姶良氏、志々目氏、横山氏などの諸氏を打ち平らげた帰り道に、命を落02050013 としたという場所がある。獅子目田んぼ地帯から、南へ丘陵地帯を上がり、約1.5キロほど山手に向かって行った所のサツマイモ畑の中だ。

 正平6(1351)年のことというが、時も同じころ兄の兼重も死亡している。肝付氏の命運あやうしというところだったが、折もおり、志布志に拠点を持つ楡井頼仲が南朝方の勇将として鹿屋、大姶良に進出し、しばらくはさすがの島津氏も手を出せないでいたという。

マップ(赤い十字が池園橋。丸に十字は肝付兼成戦死地の碑)

Mapshishime

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早期米の米作り-⑪

 「穂が出るまでもう2、3日かもナ」

 いつもの米作り観察場所、吾平町の鶴峰地区の田んぼ地帯まで行くと、タマヨリヒメの「飴屋敷跡」に近い田んぼで、ひとりのおじさんがせっせとヒエ取りをしていた。02040010

 近くに行って「だいぶ大きいじゃないですか」と声をかけると、腰を伸ばしてそう答えた。聞くと3月28日に植えた田だそうだ。田の中に入ると足が5~6センチはもぐるので稲がよけいに大きく見える。70センチほどには伸びている感じだ。

 「早いところは7月27日頃には刈るらしか」

 きちんと日にちまで言う所がすごい。このあたりはすべてお盆(旧盆の8月15日)前には刈るという。

02040002  Nさんの田んぼも相当伸びている。60センチはあるだろう。株列の間に見えていた水面が、もうほとんど隠れている。

 今日で田植えから75日(2ヵ月半)。水ばかりが目立つ広い水田に、頼りなげに冷たい風に身を震わせていた苗がここまで生長した。あと一週間か十日ほどで出穂となるだろう。

02040006   こちらは同じ鶴峰田んぼでもやや上の手にある Iさんの田んぼ。

 完璧な緑のじゅうたん状態だ。Nさんのより少し生育がよいのかもしれない。

 どちらも同じ4月1日が田植えだったが・・・。

 ところで、昨日の朝はえらく雨が降った。隣の錦江町の田代地区では一時間雨量が何と93ミリに達したという。梅雨の真っ只中としては最大の雨量だったらしい。空梅雨かと思われたのだが、これでは梅雨末期の豪雨が心配される。02040009

 

 鶴峰田んぼ水路の取水口のある姶良川べりをさかのぼってみると、確かに山のほうでは相当な雨だったのだろう、水の流れが速く、よく見るといつもは川の浅瀬に生い立っている葦の草むらが完全に横倒しになっていた。

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高須の金浜海岸

 メディア論の研究者一行がはるばると到来した。

 中心はT大学のM助教授、それにE大学のS教授(女性)とR大学のM准教授(女性)の三名。最後のM氏がFMかのやの事務局長と知り合いだという。

 何でも、テレビなどのドキュメンタリー制作、特に戦争体験に関わるものなどは、製作者側の型にはまった取捨選択で作られてしまう傾向が強い。戦争体験記でも従軍者のものはかなり多いが、一般国民の記録は少ないのでどうしても紋切り型の報道番組になってしまう。それには地方の生の実体験情報を訪ねるのが一番・・・・・というようなことらしい。

 で、高須の実体験者の声を聞こうと一緒に行くことにした。Mediarontakasu_005

 高須公民館で一行を待っていてくれたのは五人の戦争体験者。一組は夫婦だ。

 過酷な体験だったが、昨日の事のように皆さんよく覚えているのには感心する。高須は、鹿屋に海軍航空基地があったため米軍機の標的となり、爆撃でかなりの死傷者が出ている。

 空襲が頻繁になり、海軍志願兵が入隊したはいいが軍服も装備も無くなって帰ってきたのを見たときは「もうだめか」と心の片隅で思った。だが、それを口には出せない。特高の目や耳がいつ聞きとがめるか知れないというこわさがあった――という。Mediarontakasu_003

 高須はいくつか文集を出すほど、記録への執念が強い地域だ。

 戦後50周年記念の『合同文集』は貴重な戦争体験記であり、将来にわたる不戦への記念誌である。

 

 終戦後、高須で特筆すべきことがあった。それは連合国軍が日本で最初に占領軍海兵隊を上陸させたということで、昭和20年9月4日のことだった。

 そこは金浜(かねはま)といい、鹿屋体育大学の海洋スポーツセンターの300メートルほど垂水よりのやや内湾した海岸である。ここに三隻の上陸艇が接岸し、中から出てきた大型ブルドーザーでたちまち海岸道路を造ってしまったという。「鬼畜米英」をまじかに見た人は、彼等の行動力と機械力にすっかり度肝を抜かれたそうだ。Mediarontakasu_010

 鹿屋航空基地を接収した連合軍は、ここを根拠地として以後、続々と列島を占領下においていった。

 今、その海岸に記念碑が建つ。青い上着のY翁は毎日のように草取り、清掃を行っている。歌碑も建てている。

 「(終戦後、わずか三週間で)すっかり連合国軍人たちが、もともと敵ではなかったような気持ちになった。日本人て、ある日ころっと変わってしまうところがあるよなあ」――と別の体験者の一人が感慨をこめて言ったのが印象に残る。

 あれだけ徹底的にB29やグラマンに爆撃しつくされ、しかも物資が窮乏していたら、誰しもそんな気持ちになるのではないだろうか。米軍はそこまで読んでいたのかも知れない。このことはその人に言わなかったが・・・・・。

 さて、どれだけの情報が研究者一行に伝わったのか、「また来たいです」と言って帰途についたのであった。

       鹿屋市高須・金浜のマップ(赤い十字が進駐軍上陸地の碑)

Mapkanenohama

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憲法について

 憲法改正論議が起きている。

 日本国憲法は 国民主権 平和主義(戦争放棄) 基本的人権の尊重 象徴天皇制 を柱としている。ただ、一般には象徴天皇制をはずすが、筆者は旧憲法「大日本帝国憲法」との比較から、これこそが大きな意味を持つと考えるので、加えた。

 それはどういうことかというと、周知のように帝国憲法は「欽定憲法」と言って、天皇(国王)が国民(臣民)に一方的に与えるものだった(ただし、少なくとも日本の場合、条文はすべて当時の大臣・学者・官僚たちの造作だ)。

 帝国憲法は日本を当時の西洋列強に伍するために、必要以上に天皇に大権を付与して国家の統一と威信を示そうとした「絶対君主制」の憲法で、全文76か条のうち天皇条項が17条と多く、「男系の万世一系」「神聖不可侵」「統治権の総攬」「陸海軍の統帥」などがその具体的条項である。

 このうち最もそれまでの皇室の伝統になじまないのが「陸海軍の統帥」だった。陸軍大演習などで元帥服を着用し、白馬にまたがった天皇の姿は、軍人を鼓舞する役割はあっただろうが、全く似つかわしくない姿だった。北朝鮮の「偉大なる将軍様」でさえ着用してはいないのだから戦前の軍国主義はたしかに行き過ぎた観がある。

 だがひとつそのことがよい結果を生んだ。それは帝国軍人の規律の正しさだ。武器弾薬も銃もサーベルもすべてが元帥天皇の御下賜の物であり、また身も心も天皇に捧げるべきものという観念が行き渡り、軍人として恥ずかしくない行為をするという倫理観がかなり保たれていたことだ。

 それを保つためにさらに必要だったのが「慰安所」で、当時の日本では通常に営業されていた「公娼」制度を考えれば、けっしてあくどくもなく、悲惨な職業でもないのが「慰安婦」なのであった。もちろん喜び勇んで慰安婦になる女はいなかっただろうが、通常の公娼ではなく各種の性感染症に疎遠な女性が選ばれ、またそれなりに手当は高かった(軍人もそうだった)。

 いま、朝鮮、中国、インドネシアなどで日本軍が強権で以て慰安婦をかり集め、性の奴隷にしたという非難が上がっているが、それは違うだろう。むしろ慰安所なる制度を持たなかった国の軍隊の方がひどいことをしているのだ。勝てば官軍だから彼等はけっして白状しないだろうが・・・・・。

 憲法論議が横道にそれたようだが、帝国憲法と新憲法とで何が一番変わったかというと、私は「天皇制」だと思う。戦前の天皇制は伝統的な天皇には痛ましすぎた。私は象徴天皇制になってよかったと思う。日本の文化伝統の根底にあるものがこれからも守られていくだろう。

 さて、では改正について・・・・・一度、憲法を廃止してあの「五箇条の御誓文」くらいに戻ってみたらとも思うのだが、まず、現実的ではないだろう。なにしろ法治国家なのだから。イギリス流に成文化しないという手もあるが、あれは議論上手のイギリス人だからできることで、日本でやったら議論よりも取っ組み合いがすぐに始まるだろう。非生産的だ。

 戦後の憲法は前文の格調は人類の理想で、誇りにすべき内容である。天皇の地位も変える必要はなく、国民主権、基本的人権の尊重もよい。

 ただやはり、不戦条項だ。不戦はいいが、軍隊を持たないというのは現実的ではないし、国家として自主独立を享受するためには最低限の軍人・兵器は必要だ。だから第二章「戦争の放棄」の第九条②項の中の、戦力は保持しない、という部分は書き換えるべきだろう。

 あと付け加えたいのは「永世中立」条項だ。これは章立てしてもよい。日本は地政学的にも歴史的にも「他国の、あるいは他地域のよいところを収集し、自国風に咀嚼してさらに発展させ、留めておく」という能力をとてつもなく持った国だと思う。これを生かし、ますます文化的全方位外交に磨きをかけるためには「永世中立」が似合う。

 何も「敵国条項」があるからといって、国連を脱退する必要はない。また、もう常任理事国になどならなくてよい。国連中心主義を永世中立の立場から保持しつつ、自国は自国で守るという意志を毅然として唱えればよい。今のままでは他国からの「日本はアメリカの属国なのか、自分の考えがないじゃないか」という疑念・軽蔑を払拭することはできない。

 単なる字句の改正であってはならない。近現代史の動向を踏まえた日本独自の理念を、広く世界に向かって訴えるようなものでなくてはならない。おそらく世界の国々も注目しているだろう。今度、そのためのちょうどよい機会が与えられたのだと考えたい。

 

 

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大姶良川流域散策(その2)

Ooairagawa2_001  樋渡橋から土手を南下する。

 500メートル先の森の手前で、本流はほぼ90度右(西)に曲がる。昭和40年ごろの河川改修できっちりとした直線に整備したようだ。

 曲がると池園地区の田んぼ地帯に入る。池園地区は長い集落で、川沿いの田んぼと共に世代を重ねてきている。

  手前が大姶良川の土手で、向こうの丘の麓沿いに家々が続く。丘は広大な笠野原台地の突端で、所々に湧き水がある。Ooairagawa2_006 川と家々の間には豊かな田園が広がっており、藩政時代からかなり住み易い場所であった。

 田んぼは普通作の稲の苗が植えられたばかりだ。このあたりは、早期米より10月に収穫する普通作の作付けのほうが多い。大姶良川自体、水量が少ない川なので、雨量の多い時期に作る普通作のほうを選んでいるのだろう。

Ooairagawa2_007

 もう一度川が大きく右(西)へ曲がると、川筋はまっすぐになる。この状態が池園町地区を過ぎるまで続く。

 まるで人工の運河のようだ。

 運河と言えば、この大姶良川を運河に掘り、志布志湾と鹿児島湾とをつなごうというプランが提案されたことがあった。戦前の話だが、根占町(現・南大隅町)出身の代議士・津崎尚武がそう主張したと言う。肝属川河口から、大姶良川に入り上流にある瀬筒峠(74m)をぶち抜き、峠からわずか1キロほどで鹿児島湾に達するという、全長25キロの運河である。

 標高74mの峠を掘り下げて海抜ゼロメートルにすることは、重機を駆使すれば簡単なことだろう。だが、この話を聞いた川の右岸(向かって左側)の地域の人たちが「そんなことをしたら、こっちは島になってしまう」と猛反対して沙汰やみになったと言うが、それよりまず海水が入ってきたら、米作りがお手上げになる。そっちの理由のが大きかったかもしれない。Ooairagawa2_011_1

  さらに上流に向かうと、左に真新しいカラフルな屋根の学校が目に入る。鹿屋市立南小学校だ。

 創立が明治六年というとても歴史のある学校だ。もっとも創立当時はここから300メートルほど南へ行った集落の中だった。

 当時、維新直後の廃藩置県の混乱期で、南町は都城県に属したため学校は最初「都城県第五十六郷校」といい、大正の末まではそこにあったという。 Ooairagawa2_008_1

 右の写真は、ある民家の庭に立つ記念碑。

 南小学校の創立百周年記念に立てた物で、旧尋常小学校時代にあった校門の門柱を転用して造ったという。

 ところで上の写真、南小学校の赤い屋根の校舎の向こうに、こんもりとした小丘が見えるが、そこは中世の西俣城の跡である。

 西俣城主は佐々木氏で、のちに改易になったが、子孫が薩摩半島南部の山川郷の大山に移り住んだため「大山」姓を名乗り、そのまた子孫から大山巌(元帥)が出ている。

 大隅からの子孫つながりで言えば、来年のNHKの大河ドラマは「天璋院篤姫」だが、そのドラマの副主人公クラスで登場する 小松帯刀(こまつ・たてわき)は高山の肝付家の分流である喜入肝付家の出身で、婿養子に行った先の日吉の小松家というのがまた大隅・根占の祢寝家の直系なのである。つまり帯刀は体内に大隅のエッセンスを多分に持った男だったと言うことができる。そうするとドラマの見方も変わってくるのではないだろうか。

         マップ(赤い十字は西俣城跡)

Ooairagawanisimatajou_1 鹿屋市のスクロール地図はこちら

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大姶良川流域散策(その1)

 大姶良川なのに姶良川より「小さい」(短い)川とは・・・・不思議だ。

 共に肝属川の支流で隣り合っているから、地図の上でもすぐに分かるのだが、肝属川Ooairagawa_004 河口から13キロほど遡行した所で流入する姶良川は、合流点から南方の八山岳の源流まで約14キロ。

 これに対して大姶良川は、姶良川合流点から1、2キロ上流で肝属川に注ぐ(写真1)が、そこから南西の源流・横尾岳(426m)まで11キロ余りと3キロも短い。

 そのわけは古代からの地名にある。10世紀初めに世に出た『和名類聚抄』(源順著)の諸国郡郷一覧の部に、姶良(吾平)は「大隅国大隅郡姶良郷」として、また大姶良は「大隅国大隅郡大阿郷」として。「大阿」は大姶良の略字らしいのだ。「大」が付くのは川の長さではなく「流域の米の生産量が多い(大きい)から」だろう。姶良川に比べて大姶良川流域は標高が低く、米作りに適した低平な土地が広いのである。Ooairagawa_006    

 さて、一キロ行くと「永野田橋」が架かる。左方面が姶良川の流れる吾平地区、右方面が鹿屋市街地だ。

 橋を渡って写真の右手のこんもりした丘を目指すと、川のそばに澱粉工場がある。そこを行き過ぎて丘の向こう側に回りこむ。すると不思議な空間がある。

 そこを「国司塚」と言う。Ooairagawa_008_1

 塚の奥は径12~3mの円状の平地になっていて、叢生したヤダケの密林に囲まれている。よく見ると真向かいにヤダケをバックにして白い紙がたくさん立てられている。

 入って行って見ると、それはただの紙ではなく御幣なのだった。

 しかもその数は半端ではない。3~40本は立てられているだろう。周りには注連飾りが張られており、聖なる空間を仕切っている感じだ。Ooairagawa_009   

 通りに面して立つ教育委員会の説明によれば

 「養老4~5年(720~721)にかけて隼人の叛乱が勃発したが、そのとき殺された大隅国司・陽候史麻呂(やこのふひとまろ)は、実は大隅の巡見に来ていた時に、大隅隼人たちの叛乱に遭い、白馬に乗って落ち延びたが、ついにここで落命した」

 のだそうだ。そしてその国司の子孫がいまに到るまで、ここで供養を絶やさずにいると言う。祭りの日は毎年、節分の日と決められており、当主・永田氏が祭主を務めることになっている。実に1300年近い歳月を数えることになろう。全く、驚き入るほかないではないか。 

 さて、ここを過ぎるとすぐに支流・名貫川を横切る。橋を渡ると見渡す限り、耕地整理された田んぼ地帯が広がる。飯隈(いいぐま)地区だ。Ooairagawa_011  

 田んぼの中を2キロ余り、まっすぐな道が貫いている。大姶良川も、写真左手の丘陵の下を、人工水路のようにまっすぐ流れる。明治頃の地図を見ると、川はこの地域をうねうねと曲がりくねって流れていた。

 それじゃ、たしかに耕作は制限されていただろう。おまけに相当な湿田(沼田)だったようだ。いまはすっかり整然とした田んぼが並んでおり、鹿屋では一大穀倉地帯である。

 この道の突き当りが、県道吾平・横山線だ。突き当って右折すると西俣小学校だが、左折する。そうするとすぐに「樋渡橋」が架かる。 

 橋の向こうに住宅が見えるが、その奥の丘陵の突端近くで「堀木田地下式横穴墳」が発掘されている。たしか長さが3.5メートルを超えるような、最大級の墓室を持ち、副葬のOoairagawa_012 大刀もかなりのものだったらしい。

 面白いことに、残っていた頭骨の耳に「外耳道骨腫(がいじどうこっしゅ)」が見られたという。この腫瘍は潜水などで耳に冷たい水が入りやすい環境で発症するというから、墓の主は海人系の可能性が考えられる。

 近くには川しかないから海洋性ではないかも知れないが、航海民だった可能性はあるだろう。何らかの理由で海上交易を捨ててこの地に入り、耕作に従事したか、あるいは耕作民を従えて開田を行った首領であった可能性は否定できない。

     マップ(赤い十字は「国司塚」の場所)

Ooairagawakokusizuka鹿屋市のスクロール地図はこちら                  

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紫陽花

 一昨日、鹿児島は梅雨入りしたそうだ。

 一週間前からボツボツ咲き始めた紫陽花、と言ってもガク紫陽花だが、曇天の空の下がやはり似合う。Ajisai_002

 いま家で咲いているのは、パンジー、グラジオラス、何とか菊(ハーブの一種らしく香りがよい)、それに春菊もあったが余りにほこりすぎていたので刈り取った。どれも咲き終わり状態だ。

 紫陽花がそれを埋めてくれるのか、いや、ちょっと役者が違う。おとなしすぎる・・・か。

 さて昨日で姶良川の散策が終了した。初めての試みでうまく流域の状況が伝えられたか心もとないが、何度も通っていると故郷に戻っていくような感覚になり、愛着を感じるようになる。筆者の古里は東京だが・・・。

 姶良(あいら)という地名は相当に古い。8世紀の末、ちょうど平安京遷都の年(794)に撰修された『続日本紀』の中に大隅国建国の記事として「日向国から大隅・曽於・肝杯・姶羅の四郡を割いて新たに大隅国とする」(和銅六=713年)とある。

 このうち大隅、曽於、肝坏は現在でも大きな地名として使われているが、姶羅の方は吾平地区として鹿屋市の一地域になってしまった。もとは姶羅郡の中に鹿屋郷が入っていたので、まさに逆転したことになる。

 そんな歴史を振り返ると、文字通り「今昔の感に堪え得ない」ということになるが、最近の世相にも同様の事を感じることが多い。

 五十有余年生きてきて、最も今昔の感にたえ得ないのが「女性の社会進出」だろうか。大学は出るは、車は運転するは、海外旅行はするは・・・・・で、子供の頃の情景からするとそれが一番変わった点ではなかろうか。

 子供の頃、街の辻辻には、もちろん子供たちの遊ぶ姿が沢山あったが、それに負けず劣らず割烹着姿の母親たちが歩いていた記憶が残る。買い物、用足しが主な目的だったろうが、子供の風景と母親たちの風景とがどこかダブり、調和していたように思う。

 それが・・・・・。子供たちが辻々から消え去ったのと、母親たちが街角からいなくなったのとどっちが先か。子供は託児所へ保育園へ子供部屋へ。母親は仕事へキャリアアップへ。二者択一ではなく、二者両択。それでも子供はやはり子供、両択なんか分からない。

 たしかシャンソンにこんな詞があった。

  「最も美しい子供。それは、まだ一度も大人になったことのない子供」

 早く大人にする必要はない。乳児には乳児の、幼児には幼児の、少年には少年のステージというものがある。小学校を終えなければ中学校へ、中学校を終えなければ高校へ、高校を終えなければ大学へは行けないのと同じだ。

 トヨタマヒメはウガヤ皇子を生み捨てて海に帰ってしまった。でも妹のタマヨリヒメが代わりに育ててくれた、乳も出ないのに・・・。「赤ちゃんポスト」の走りみたいだが、叔母ということでウガヤ皇子もそう違和感は感じなかったろう。神話だから史実とは受け取れないが、無きにしも非ずではないか。

 紫陽花にタマヨリヒメを重ねてみる。今の世にもタマヨリヒメはいるだろうか。

 まだいるような気がする。

 

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姶良川流域散策(最終回)

 姶良川の源流で滝ウォッチング。

 吾平町を流れる姶良川の散策も最後になった。

神野地区のバスの終点である永野牧から、右に小さな橋を渡ると正面に丘が横たわるが、それが大川内神社で、神武天皇を生んだアイラツヒメを祭る(紹介済み)。

 神社を左手に見ながら、道を大川の源流方面にとる。あたりは段々田の広がるいかにも山村らしいたたずまいだ。どの田もゴルフ場のグリーン状にみどり豊かである。

  Turuminekamino_011 山合いの道へ入り人家を過ぎると、橋を渡って大川の左岸沿いのくねくね道となる。スギの植林が尽きると南隅らしい照葉樹林帯だ。シイ類が圧倒的に多い。一キロほどで最初の滝「杖立Turuminekamino_010_1ての滝」だ。

写真右は一番下の滝つぼ。比高3m。

写真左は上部の滝。比高12~3m。

上部の滝の上にはまだ滝があるようなのだが、これ以上登れないので分からない。実に神秘的。上から下まで一枚の花崗岩らしいのには驚く。驚くのはまだ早い。あと三つ見た滝もすべて一枚(と言うか、ひとかたまり)なのだ。

 「一本松の滝」は杖立ての滝から3~400メートルの所、何と砂防ダムのすぐ下にあTuruminekamino_014 る。というより砂防ダムがこの滝の上部の岩盤を利用して造られている。不粋なダムだがそのダム壁の上に乗って見下ろすことができる。比高20メートルほどか。

 大きな花崗岩が下に落ちそうだ。いつか豪雨の際の出水で流されはしないかと気になる。

 ここから100メートルほどにあるのが「特攻の滝」だ。

 Turuminekamino_015 なんとも言えないネーミングだが、どういういわれからなのか今度調べてみよう。これは道路から降りる道はないので、遠くから眺めるのみ。

 巨大な花崗岩の小山の天辺からしなだれ落ちる水が、白く泡立っている。こういうのでは「布引の滝」などという名が付けられそうなもんだが・・・。

 さらに登ること数百メートル、道が右へカーブしている所にあったのが「おしどりの滝」。Turuminekamino_016

 道路からほんの三十メートルで滝の中間(第一の滝と第二の滝の間)のテラスに行き当たる。広さはかなりあって、親子連れで来たらここで弁当を広げたい所だ。

 上の滝から落ちてくる水が、ぽっこりと突き出た花崗岩を滑り落ちた所が丁度よい水飲み場になっている。試しに飲んでみると、これが実にうまい。甘露なのだ。おそらく超軟水だろう。Turuminekamino_017

 酒、特に日本酒をこの水で仕込んだら、いい味が出るのではないか。そこまでしないまでも焼酎の割り水(湯)に使えるなー。今度来るときは、大きな水筒を持参することにしよう。

 ここからあと500メートルほどで八山(ややま)岳登山口だが、道々思いがけずきれいな鳥の鳴き声を聞いた。アカショウビンだ(と思う)。「ひゅるるるるる」と啼いていた。頭のすぐ上の茂みの中だった。

 Turuminekamino_023

 入山口に立つ看板によると、神野地区のこのあたり約14ヘクタールは遺伝資源保存林という事だ。

 樹種はイスノキとアカガシだそうだ。どっちも硬い木として著名で、入山してみると登山道沿いに普通にイスノキの大木があり、板根がすさまじい。Turuminekamino_018

 こんなフィトンチッド一杯の森林を歩くことわずか5分。道は滝の出会いに到達する。二本の沢が出会うのだが、どちらも滝の形で出会っているのだ。滝だらけの大川ならではのシーンだろう。おかげで沢の出会い部分は見られないのだが・・・・・。Turuminekamino_021

←この沢を渡ると、いよいよ八山岳(941m)への本格的な登りになる。

 以前、一度登ったことがあるが、結局山頂らしきものが分からず、引き返したことだった。

 帰る途中、往きには気付かなかった所に水田があった。道路から少し入った木立の間Turuminekamino_032 に、満々と水が貯められた姿は神秘的でさえあった。もう すぐ普通作の苗が植えられるのだろう。

 Mapyayamadake_2 マップ(赤い十字は一番山奥の水田)

  

鹿屋市のスクロール地図はこちら

 

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早期米の米作り-⑩

 分けつは、ほぼ終わったようだ。

 分けつとは、一本の株から5~6本(多いものは十本ほど)にも株が増えることだが、見Turuminekamino_007 たところ、N さんの稲も、I さんの稲も両手でつかみ回して丁度よいくらいに株が増えている。Turuminekamino_004

 N さんの田は水を切っているようで床土が見えている。水を干すと床土に酸素が供給されるので、それなりに必要な措置なのだがまだ早い気もする。

 現に、I さんの所は水を張ったままだ(気温21度。水温25度だった)。丈の高いのは40センチもある。

 04010001 04010002 何にしても大きくなったものだ。4月1日の田植え当時の苗を見ると、赤ん坊と青年の差がある。いや、赤ん坊と白鵬くらいの差か。

 (それにしても両横綱がモンゴル人とは情けない。モンゴル大相撲の日本場所になってしまった。国技も国際化したものだなあ)

 

 

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