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大姶良川流域散策(その3)

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 池園町の西はずれから、川は再び運河のような直線流路となる。その1キロ余り続く流れを囲むのが「獅子目(ししめ)」田んぼだ。

 幅が平均して500メートルはあろうから、単純に計算して50ヘクタールから60ヘクタールだろうか。ここも豊かな穀倉地帯である。

 低地の田んぼを取り巻く濃い緑の丘は、笠野原シラス台地が大姶良川によって削り取られた切断面なのだが、とてもそ02050012 うは見えないだろう。

 角度を変えて、まだ植えられたばかりの普通作田を写した右の写真を見ればそのことがよく分かる。杉の植林や孟宗竹で覆われた丘の真ん中に白いものが見える。

 あれがシラスの正体なのである(シラスの成因は今から2万4千年前頃に噴出した姶良カルデラの火砕流だが、鹿児島県内と宮崎県南部を覆いつくしている)。

 近くに行ってみると、そこはシラスの採取地であった。中に入ると不思議な光景が広がる。比高で25メートルはあるだろうか、ほとんど垂直に切り取られた白い崖が、ぐるりとあたりを取り囲んでいる。青年がいたので聞いてみた。

 聞くとこのシラス山は自分の家の所有山で、30年も前から採取して販売しているとい02050008 う。おもに畜舎の床に敷くためのものだそうだ。

 青年の向かって左手に立つ壁は、削り残した残部だ。底面の幅が2メートルくらい、高さ・奥行ともに10メートルほどだが、雨風の中をあの形でもう20年ばかり経っているという。シラスは水を含むと何の成分か分からぬが、シラスの粒同士をくっつける働きが生まれるらしい。だから垂直に近いまま豪雨にも耐えられる。そこが単なる砂と違うところだろう。

 02050011 青年に別れを告げ、再び田んぼ地帯に戻る。真ん中をつらぬく県道大姶良・高山線に出ると、向かいの山の間に丸い丘陵が目に入る。そこは「志々目城」があった所だ。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この前の〈その2〉で紹介した西俣城や次に紹介する予定の大姶良城と、狭い範囲に城跡が続く。

 それだけこの地方が豊かだったのと、薩摩半島からの大隅攻略つまり島津氏の対肝付氏攻略上、重要な拠点だったことによるものだ。

 特に南北朝時代(1336~1392)は、建武の新政後の中央における公家対武家の争乱が地方にも及び、武家の間に見られた離合集散の複雑な動きに呼応して、南九州も「宮方」と「武家方」双方へ揺れ動いていた。

 その中にあって肝付氏はほぼ一貫して宮方への支持で固めていたが、薩摩半島の雄・島津氏は肝付氏との対抗上、逆にほとんど武家方に回っていた。そんな中で肝付八代当主・兼重は大隅から日向南部にかけて活躍した勤王の猛将であったが、大姶良川流域は弟の兼成にゆだねていた。

 その兼成が大姶良氏、志々目氏、横山氏などの諸氏を打ち平らげた帰り道に、命を落02050013 としたという場所がある。獅子目田んぼ地帯から、南へ丘陵地帯を上がり、約1.5キロほど山手に向かって行った所のサツマイモ畑の中だ。

 正平6(1351)年のことというが、時も同じころ兄の兼重も死亡している。肝付氏の命運あやうしというところだったが、折もおり、志布志に拠点を持つ楡井頼仲が南朝方の勇将として鹿屋、大姶良に進出し、しばらくはさすがの島津氏も手を出せないでいたという。

マップ(赤い十字が池園橋。丸に十字は肝付兼成戦死地の碑)

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