大姶良川流域散策(その1)
大姶良川なのに姶良川より「小さい」(短い)川とは・・・・不思議だ。
共に肝属川の支流で隣り合っているから、地図の上でもすぐに分かるのだが、肝属川 河口から13キロほど遡行した所で流入する姶良川は、合流点から南方の八山岳の源流まで約14キロ。
これに対して大姶良川は、姶良川合流点から1、2キロ上流で肝属川に注ぐ(写真1)が、そこから南西の源流・横尾岳(426m)まで11キロ余りと3キロも短い。
そのわけは古代からの地名にある。10世紀初めに世に出た『和名類聚抄』(源順著)の諸国郡郷一覧の部に、姶良(吾平)は「大隅国大隅郡姶良郷」として、また大姶良は「大隅国大隅郡大阿郷」として。「大阿」は大姶良の略字らしいのだ。「大」が付くのは川の長さではなく「流域の米の生産量が多い(大きい)から」だろう。姶良川に比べて大姶良川流域は標高が低く、米作りに適した低平な土地が広いのである。
さて、一キロ行くと「永野田橋」が架かる。左方面が姶良川の流れる吾平地区、右方面が鹿屋市街地だ。
橋を渡って写真の右手のこんもりした丘を目指すと、川のそばに澱粉工場がある。そこを行き過ぎて丘の向こう側に回りこむ。すると不思議な空間がある。
塚の奥は径12~3mの円状の平地になっていて、叢生したヤダケの密林に囲まれている。よく見ると真向かいにヤダケをバックにして白い紙がたくさん立てられている。
入って行って見ると、それはただの紙ではなく御幣なのだった。
しかもその数は半端ではない。3~40本は立てられているだろう。周りには注連飾りが張られており、聖なる空間を仕切っている感じだ。
通りに面して立つ教育委員会の説明によれば
「養老4~5年(720~721)にかけて隼人の叛乱が勃発したが、そのとき殺された大隅国司・陽候史麻呂(やこのふひとまろ)は、実は大隅の巡見に来ていた時に、大隅隼人たちの叛乱に遭い、白馬に乗って落ち延びたが、ついにここで落命した」
のだそうだ。そしてその国司の子孫がいまに到るまで、ここで供養を絶やさずにいると言う。祭りの日は毎年、節分の日と決められており、当主・永田氏が祭主を務めることになっている。実に1300年近い歳月を数えることになろう。全く、驚き入るほかないではないか。
さて、ここを過ぎるとすぐに支流・名貫川を横切る。橋を渡ると見渡す限り、耕地整理された田んぼ地帯が広がる。飯隈(いいぐま)地区だ。
田んぼの中を2キロ余り、まっすぐな道が貫いている。大姶良川も、写真左手の丘陵の下を、人工水路のようにまっすぐ流れる。明治頃の地図を見ると、川はこの地域をうねうねと曲がりくねって流れていた。
それじゃ、たしかに耕作は制限されていただろう。おまけに相当な湿田(沼田)だったようだ。いまはすっかり整然とした田んぼが並んでおり、鹿屋では一大穀倉地帯である。
この道の突き当りが、県道吾平・横山線だ。突き当って右折すると西俣小学校だが、左折する。そうするとすぐに「樋渡橋」が架かる。
橋の向こうに住宅が見えるが、その奥の丘陵の突端近くで「堀木田地下式横穴墳」が発掘されている。たしか長さが3.5メートルを超えるような、最大級の墓室を持ち、副葬の 大刀もかなりのものだったらしい。
面白いことに、残っていた頭骨の耳に「外耳道骨腫(がいじどうこっしゅ)」が見られたという。この腫瘍は潜水などで耳に冷たい水が入りやすい環境で発症するというから、墓の主は海人系の可能性が考えられる。
近くには川しかないから海洋性ではないかも知れないが、航海民だった可能性はあるだろう。何らかの理由で海上交易を捨ててこの地に入り、耕作に従事したか、あるいは耕作民を従えて開田を行った首領であった可能性は否定できない。
マップ(赤い十字は「国司塚」の場所)
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コメント
いつもわくわくしながら、読ませて頂いております。私は錦江町田代地区出身、神奈川在住のわんと申します。すばらしいブログで田代地区が出てきたときには、とても楽しく読ませて頂きました。
その他の地区でも、いつもウイスキーのロックを片手にじっくりと古代のロマンにしばしの癒しの時間を楽しませて頂いております。ちょと気づいたのは、川の件は大姶良(大姶良町)にある川と、姶良(姶良町)にある川と考えた方が素直なのではないでしょうか?
投稿: わん | 2007年9月22日 (土) 18時30分