大姶良川流域散策(最終回)
獅子目の田んぼ地帯を抜け、再び流路がまっすぐになると、5~600メートル先に地峡がある。ちょうどそこは県道が大姶良川を左岸へと渡る「大姶良橋}があるところだ。
そこから大姶良町に入る。大姶良城を中心として7~800年は続く古い地域だ。
大通りから左へ200メートルほど入り、川に近づくとそこは「大姶良麓地区」で 、藩政時代には郷士と呼ばれる大姶良外城(とじょう)勤務の武士たちの屋敷が並んでいた。麓小路と呼ばれていた旧道を眺めると、左右に石垣と生垣を整然とめぐらした家々が、今でも建ち並ぶのが見て取れる。
大姶良地区は「山高からず、丘低からず」の緩やかだがシラス地帯特有の絶壁状の丘が数多くあり、その上には決まって山城があった。俗に「大姶良十三城」といい、本丸に相当する本城(下の写真)を筆頭に、松尾城、内城、三河城、蜂須賀城など東は獅子目から西は瀬筒峠近くまでたくさんの城があった。
最大なのはもちろん本城で、大姶良川の二つの支流に囲まれた絶妙の位置にある。実は薩摩藩島津氏第7代・島津元久はここで生まれている。父は大隅守だった氏久(第6代)。南北朝期の大混乱期に肝付兼重・兼成兄弟が世を去り、続いてここに入城した志布志城主・楡井頼仲も戦死したあとのことだ。
ただ、最初にここに城を構えたのは祢寝(ねじめ)小太郎義兼で、頼朝が弟・義経を追捕するために全国に檄を飛ばした時のことという。1185、6年の頃だろう。
左の写真では右の端に本城の一部が見えるが、中央の二軒の郷士屋敷の左手、手前が内城跡、奥に並ぶように松尾城、そして二軒屋の右手に見える丸い丘が三河城だが、そのうちの松尾城が最初の城だという。
大姶良本城を取り囲む二本の流れのうち西側を流れるのが本流でもある平岡川(右)で、橋の上から正面に見える形のよい丘は八幡神社。ここには八幡大菩薩とともに大姶良生まれの島津元久が祭られている。
大姶良の神社で、かっては大社だったものに「岩戸神社」(下の写真)がある。このお宮は典型的な<奥宮ー里宮>型で、本宮である奥宮は、獅士目地区からの支流を1、5キロほど遡り、さらに3~400㍍歩いた所にある山中の巨大岩だ。縦横それぞれ15メートルはありそうな巨岩である。
大姶良地区にはこのほかにも社は多いが、寺院の方は残念なことに明治初期の徹底した廃仏毀釈で破壊され、今は見る影もない。旧竜翔寺にはここで過ごし藩主にもなった氏久の墓があったのだが、現在は鹿児島の島津家墓地に遷されている。
さて、大姶良川は勾配がきわめて緩い川だ。
というのも、河口から約24キロのこの地点で、標高がわずか30mほどなのだ。単純に計算して勾配が千分の1.25、つまり1キロ行って、たったの1.25メートルという極小河川では信じられぬほど傾斜が緩いのだ。これは100キロ級の大河に匹敵するだろう。それだけ大姶良川流域は開拓しやすい土地だったということができる。
これは城跡から5~600メートル遡った平岡川べりに建つ「一級河川起点」という標柱だが、国の管理だったとは恐れ入る。
そうか平地が多いということは、豪雨の際に冠水してしまう割合も多いという事か。くわばら、クワバラ。
それにしても、のどかな里山地区である。
水量が乏しいせいだろう、このあたりは梅雨時の雨量をあてにした 普通作がほとんどだ。
今植えられたばかりの緩やかな棚田が空とともに広がっている風景は、紛れもなく誰もの「ふるさと」だし、これからもずうっとそうだろう。
マップ(赤い十字は岩戸神社。丸に十字が大姶良本城)
鹿屋市のスクロール地図はこちら
| 固定リンク
「大姶良川流域散策」カテゴリの記事
- 大姶良川流域散策(最終回)(2007.06.20)
- 大姶良川流域散策(その3)(2007.06.17)
- 大姶良川流域散策(その2)(2007.06.08)
- 大姶良川流域散策(その1)(2007.06.05)
コメント
大隅の歴史、ブログともに興味深く、また、楽しく拝見させて頂いております。ブログを読ませて頂きますと、その後を追って、私自身も、大姶良川流域等、散策してみようと思っています。
投稿: 志々目昌史 | 2010年9月14日 (火) 13時38分