高山川流域散策(その1)
一級河川肝属川に南から注ぐ3本の川(姶良川、大姶良川、高山川)のうち肝属川河口に最も近く合流するのが高山川である。
長さは姶良川とほとんど変わらない24キロほどで、源流の山地の最高点も950メートル余りと、その点でも似ている。
右の写真は合流点のすぐ右岸側にある下之門集落越しに望まれる肝属川河口のランドマーク権現山(320m)だ。河口までは約6キロある。
ここから500メートル余りで下之門橋に着く。流れを見ると、右岸(左)側の河川敷が広く、菜園として利用されているようだ。大水の時には水に浸かってしまうのだろうが、川の水位はかなり低い。
昨日、一昨日とかなりの雨が降っているのに護岸のブロックが丸見えなのだ。よほど河川工事が成果をあげているのだろう。そういえば、国土交通省の九州地方建設局大隅工事事務所というのが高山にあった。
高山川はしてみると国の威信のかかっている管理河川なのだ。道理で土手(堤防)が広くしっかり造ってあるわけだ。
下之門橋から2キロ弱上ると、高山中学校と文化センターのある左岸と、大隅工事事務所のある右岸を結ぶ新前田橋だ。いま新橋を建設中であるが、そこからは高山町(現・肝付町)の中心部が広がっているのが見える。
土手の上をさらに800メートルほど進むと、今度は高山(赤池)橋だが、今日は渡らずにそのまま右岸に沿って行き、左手(東方面)に道をとる。すぐに高山小学校の交叉点を右折すると、界隈は藩政時代の麓集落だ。麓は外城ともいい、城とは名ばかりで実際には「御仮屋」という名の「地頭事務所」が置かれていた。
現在の肝付町役場がその跡地だが、ここには戦前、女学校もあった という。
役場の通りの向かい側には武家門を備えた屋敷などがあったりする。生垣越しに中を窺うと、かなり広い庭が見える。そこは庭というよりは菜園の占める部分が大きいようだ。武士といえども自給自足に近い当時の暮らしがしのばれる。
役場の裏手(東)には四十九所神社がある。
戦前から建つ石柱には「縣社 四十九所神社」と彫られており、官国弊社に次ぐ大社だったことがわかる。
由緒では肝付氏の入部前の、10世紀の末近くに肝付氏始祖の大宰大監・伴兼行(遠祖は大伴旅人の系譜という)が天神・地祇49神を勧請し、建立したという。
だが、どうもそれは違うようで、本当は亡命してきた物部守屋の後裔がすでに建てていたのを、 中興しただけらしい。
そのあたりはいまだ闇に包まれている。もし島津氏に敗れた肝付氏が天正8(1580)年に阿多地方に移封されず当地に残っていたならば、あるいは解明されたかもしれないのだが、そこは戦国の世の習い、負ければ改易、取り潰しの仕置きは避けられない。
神社入口に用水路がある。これは高山川上流から神社の南側に聳える城山の山裾をまわって、下流の水田地帯へ送られる用水である。水量は多い。
入口の鳥居前から続く「やぶさめ道路」の脇にも細い用水路が敷設されている。十月の第三日曜日には観衆でぎっしり埋まるこの通りも、普段は静かなものだ。
豊かな水は広がる水田を潤す。このあたりの早期米は半分ほど穂を出していた。
マップ(赤十字は新前田橋)
肝付町のスクロール地図はこちら
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