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高須の金浜海岸

 メディア論の研究者一行がはるばると到来した。

 中心はT大学のM助教授、それにE大学のS教授(女性)とR大学のM准教授(女性)の三名。最後のM氏がFMかのやの事務局長と知り合いだという。

 何でも、テレビなどのドキュメンタリー制作、特に戦争体験に関わるものなどは、製作者側の型にはまった取捨選択で作られてしまう傾向が強い。戦争体験記でも従軍者のものはかなり多いが、一般国民の記録は少ないのでどうしても紋切り型の報道番組になってしまう。それには地方の生の実体験情報を訪ねるのが一番・・・・・というようなことらしい。

 で、高須の実体験者の声を聞こうと一緒に行くことにした。Mediarontakasu_005

 高須公民館で一行を待っていてくれたのは五人の戦争体験者。一組は夫婦だ。

 過酷な体験だったが、昨日の事のように皆さんよく覚えているのには感心する。高須は、鹿屋に海軍航空基地があったため米軍機の標的となり、爆撃でかなりの死傷者が出ている。

 空襲が頻繁になり、海軍志願兵が入隊したはいいが軍服も装備も無くなって帰ってきたのを見たときは「もうだめか」と心の片隅で思った。だが、それを口には出せない。特高の目や耳がいつ聞きとがめるか知れないというこわさがあった――という。Mediarontakasu_003

 高須はいくつか文集を出すほど、記録への執念が強い地域だ。

 戦後50周年記念の『合同文集』は貴重な戦争体験記であり、将来にわたる不戦への記念誌である。

 

 終戦後、高須で特筆すべきことがあった。それは連合国軍が日本で最初に占領軍海兵隊を上陸させたということで、昭和20年9月4日のことだった。

 そこは金浜(かねはま)といい、鹿屋体育大学の海洋スポーツセンターの300メートルほど垂水よりのやや内湾した海岸である。ここに三隻の上陸艇が接岸し、中から出てきた大型ブルドーザーでたちまち海岸道路を造ってしまったという。「鬼畜米英」をまじかに見た人は、彼等の行動力と機械力にすっかり度肝を抜かれたそうだ。Mediarontakasu_010

 鹿屋航空基地を接収した連合軍は、ここを根拠地として以後、続々と列島を占領下においていった。

 今、その海岸に記念碑が建つ。青い上着のY翁は毎日のように草取り、清掃を行っている。歌碑も建てている。

 「(終戦後、わずか三週間で)すっかり連合国軍人たちが、もともと敵ではなかったような気持ちになった。日本人て、ある日ころっと変わってしまうところがあるよなあ」――と別の体験者の一人が感慨をこめて言ったのが印象に残る。

 あれだけ徹底的にB29やグラマンに爆撃しつくされ、しかも物資が窮乏していたら、誰しもそんな気持ちになるのではないだろうか。米軍はそこまで読んでいたのかも知れない。このことはその人に言わなかったが・・・・・。

 さて、どれだけの情報が研究者一行に伝わったのか、「また来たいです」と言って帰途についたのであった。

       鹿屋市高須・金浜のマップ(赤い十字が進駐軍上陸地の碑)

Mapkanenohama

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