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大姶良川流域散策(その2)

Ooairagawa2_001  樋渡橋から土手を南下する。

 500メートル先の森の手前で、本流はほぼ90度右(西)に曲がる。昭和40年ごろの河川改修できっちりとした直線に整備したようだ。

 曲がると池園地区の田んぼ地帯に入る。池園地区は長い集落で、川沿いの田んぼと共に世代を重ねてきている。

  手前が大姶良川の土手で、向こうの丘の麓沿いに家々が続く。丘は広大な笠野原台地の突端で、所々に湧き水がある。Ooairagawa2_006 川と家々の間には豊かな田園が広がっており、藩政時代からかなり住み易い場所であった。

 田んぼは普通作の稲の苗が植えられたばかりだ。このあたりは、早期米より10月に収穫する普通作の作付けのほうが多い。大姶良川自体、水量が少ない川なので、雨量の多い時期に作る普通作のほうを選んでいるのだろう。

Ooairagawa2_007

 もう一度川が大きく右(西)へ曲がると、川筋はまっすぐになる。この状態が池園町地区を過ぎるまで続く。

 まるで人工の運河のようだ。

 運河と言えば、この大姶良川を運河に掘り、志布志湾と鹿児島湾とをつなごうというプランが提案されたことがあった。戦前の話だが、根占町(現・南大隅町)出身の代議士・津崎尚武がそう主張したと言う。肝属川河口から、大姶良川に入り上流にある瀬筒峠(74m)をぶち抜き、峠からわずか1キロほどで鹿児島湾に達するという、全長25キロの運河である。

 標高74mの峠を掘り下げて海抜ゼロメートルにすることは、重機を駆使すれば簡単なことだろう。だが、この話を聞いた川の右岸(向かって左側)の地域の人たちが「そんなことをしたら、こっちは島になってしまう」と猛反対して沙汰やみになったと言うが、それよりまず海水が入ってきたら、米作りがお手上げになる。そっちの理由のが大きかったかもしれない。Ooairagawa2_011_1

  さらに上流に向かうと、左に真新しいカラフルな屋根の学校が目に入る。鹿屋市立南小学校だ。

 創立が明治六年というとても歴史のある学校だ。もっとも創立当時はここから300メートルほど南へ行った集落の中だった。

 当時、維新直後の廃藩置県の混乱期で、南町は都城県に属したため学校は最初「都城県第五十六郷校」といい、大正の末まではそこにあったという。 Ooairagawa2_008_1

 右の写真は、ある民家の庭に立つ記念碑。

 南小学校の創立百周年記念に立てた物で、旧尋常小学校時代にあった校門の門柱を転用して造ったという。

 ところで上の写真、南小学校の赤い屋根の校舎の向こうに、こんもりとした小丘が見えるが、そこは中世の西俣城の跡である。

 西俣城主は佐々木氏で、のちに改易になったが、子孫が薩摩半島南部の山川郷の大山に移り住んだため「大山」姓を名乗り、そのまた子孫から大山巌(元帥)が出ている。

 大隅からの子孫つながりで言えば、来年のNHKの大河ドラマは「天璋院篤姫」だが、そのドラマの副主人公クラスで登場する 小松帯刀(こまつ・たてわき)は高山の肝付家の分流である喜入肝付家の出身で、婿養子に行った先の日吉の小松家というのがまた大隅・根占の祢寝家の直系なのである。つまり帯刀は体内に大隅のエッセンスを多分に持った男だったと言うことができる。そうするとドラマの見方も変わってくるのではないだろうか。

         マップ(赤い十字は西俣城跡)

Ooairagawanisimatajou_1 鹿屋市のスクロール地図はこちら

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