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高山川流域散策(その5)

 川上中学校の校長先生にお願いして、中学校の裏手の丘に登ることにした。Kouyamagawa4_026 岩屋橋から川越しに見えるいわくありげな丘だ(右)。Kouyamagawa4_025

 校門はなく、オープンな入口を入ると木造校舎のオンパレードだ。築56年と言うから戦後間もなくの校舎が、まだ現役で活躍していることになる。

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Kouyamagawa4_009_1   入口に講堂、次が職員室、事務室 そして長い教室が一直線に並ぶ。教室は長いためか、四箇所に補強のバリが付いている。こういうのは非常に珍しい。

 Kouyamagawa4_010 十何年か前に竹下恵子主演のKouyamagawa4_011映画の舞台になったそうだ。さもありなん。そういう希少価値があるということだ。校長は「補修が多くて大変」とのたもうが、国産材使用のモデルとしても、ぜひ遺してもらいたいものだ。

 ああ、懐かしき友よ、少年の日よ!(この学校の卒業生に代わって絶叫) 

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 ところで肝心の裏山だった。校舎の一番奥、右手に人の踏み跡があり、そこから登ってみた。比高12メートルほど登ると東西20m、南北40mくらいの平坦地だ。中世の城跡とは聞いていない。いったい何だろうーーとよく見ると、北のはずれにコンクリート製の水塔があった。小、中学校の上水道のタンクだそうだ。

 やれやれ、古墳か何かの遺跡だと思ったのだが・・・。

 それよりも気を取り直すことがあった。裏に見事な滝があるという。

 片野橋を渡ってすぐ右折し、高山川沿いに下る。100メートルで道がわかれ、右手を取る。すると、ちょうど錦江町田代にある花瀬千畳敷に似た河原が現れ、一箇所が落ち込んでいた。そこだ。単車を停め、河原に下りると・・・・・いや、本当にすごい滝だ。見事な自然の造形だ。二段に分かれているが、一段目は比高10m、二段目は上から覗くしかないので正確ではないが、7~8mだろうか。特徴は一段目で落ちた水が二段目に行くまでの距離が長く、プール状になっていることだ。その長さ30メートルは優にある。青い水の色が何ともいい。Kouyamagawa4_065  左:一段目の滝  真ん中:長い”プール”  下:二段目の滝の落下口

Kouyamagawa4_067 Kouyamagawa4_068

 

 

Kouyamagawa4_027_2上中学校を出て、さらに上流に向かう。すると吾平町の神野地区へ山越えする分岐がある。高山川にかかる橋を折生野橋というが、橋の背景の左手の山に深く亀裂が入ったような筋が見える。これは水力発電用の落水管である。

 まもなく九州電力高山川水力発電所が川岸に建つのが見える。近くに行ってみたが、どのくらいの電力が作られているのか、設立はいつなのかの案内板はなかった。

Kouyamagawa4_037_2 それよりも、その発電用の水が、ここからずっと上の二股川キャンプ場のすぐ下から採られていることがわかった。標高400m のところで取水し、写真の350mの山の頂上近くまで配水したあと落下させ、発電機を回すという仕組みだ。

 自然の力を利用し、廃物のないリサイクル、クリーンエネルギーだ。

 話は前後したが、折生野橋の次の金弦(かねづる)橋で高山川を渡ると、道はいっきに高度を稼ぐようになる。橋の上から見る高山川は、河原を大隅花崗岩で埋め尽くされている。Kouyamagawa4_064

  これからずっと上流に行っても、どこまで行ってもこれは変わらない高山川の姿だ。肝属山地そのものが花崗岩の山塊である以上仕方あるまい(というより庭石に欲しい)。水は軟水のはずだ。酒を醸すには良い水だろう。

 200mほど高度を稼ぐと、雰囲気は高原に来たという感じになってくる。その極め付けが二股川キャンプ場だ。二股の由来はKouyamagawa4_035 、二本の川が、東は甫余志岳(968m)から、西は八山岳(941m)から流れてきて、ここでちょうど合流しているからだが、合流の仕方がすごい。線で引いたように一直線で合流しているのだ(地図を参照)。

 昔の人だったら、高山川の深い谷間からやっとの思い出ここへ上がってみると、なんとまあ広々としていることよと思うはず。それかあらぬかここは「天孫降臨」の場所だという伝承がある。Kouyamagawa4_033

 空がぐんと近くなったかのような広いサイトには、テント場はむろん、バンガロー、炊事棟、キャンプファイヤー広場、水遊び場(二股川)などがある。管理責任者は川上中学校の近くに住む人で、中学校裏手の滝のことを教えてくれたのは、実はこの人であった。

 私が甫余志岳へは次回の散策に回し、今日は反対側の二股川沿いの林道を行けるところまで行ってみると言うと、管理氏は、この前の4号台風で道はひどい状態だからどうか、と危ぶむ。Kouyamagawa4_041_1

 実際行ってみると、確かにそうだった。1,5キロも行くと道はえぐれていて、もう単車ではどうにもならな。降りて歩くことにした。

 高原とはいえ暑い。このごろ鹿児島はやけに暑いのだ。南国とはいえ36度などはめったにないことだったが、鹿児島市内ではここ6日間続いている。鹿屋も昨日、初めて36度を経験した。

 川のせせらぎの音は絶え間なく聞こえているのに、林道から沢へ降りていく場所がなかなかない。さらに2キロ歩いてようやく道路から30メートル足らずの距離にKouyamagawa4_049 流れが見えた。

 降りていって顔を洗い、水を飲み、足を浸す。

 うむむ・・・、涼、涼、涼。冷、冷、冷。ありがたい・・・。

 セミ(ひぐらし)が頭に巻いているタオルに飛んできた。手に取ったが、ジーとも言わないので逃がしてやった。

   マップ(赤十字は川上地区。赤丸十字は二股川キャンプ場)

    肝付町のスクロール地図はこちら   

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今、塚崎古墳が面白い

 国指定史跡「塚崎古墳群」のある塚崎台地上に建つ肝付町立歴史民俗資料館で『古墳に眠る肝属の王―塚崎古墳群の時代―』展が開かれている。

 Kimotsukisiryoukan_001 肝付町教育委員会と鹿児島大学総合研究博物館の共催で、7月12日から9月10日まで休館なしの公開である。

 初日にも行ったが、再び訪れ、館長のK氏にもお会いしていろいろ話を伺った。

 ここ数年、肝付町を含む志布志湾沿岸地域で貴重な考古資料が発掘され続けているという。

 鹿児島大学研究博物館の橋本 達也准教授によると小規模Kimotsukisiryoukan_004_3 な古墳の割には、副葬されている初期須恵器類の大きさや組み合わせが他に例を見ないらしい。

 玄関を入った最も目立つ所に並べられているのは二つの須恵器の甕で、これが同じ古墳の南側に展示のように並んで発掘されたが、このような例は全国でも稀だという(どちらも高さ、幅ともに40センチくらい)。

 肝属川を挟んで塚崎台地とは反対側の串良町岡崎台地でも同様の初期須恵器が見つかったが、高さ80センチほど、胴の幅70センチもある巨大な物だった。

Kimotsukisiryoukan_023  右の写真は二つの須恵器甕が並んで発掘された31号墳だが、現状は芋畑で比高せいぜい1メートルほどの円墳にしか見えない。だが、須恵器はカメラを構えた足元辺りで見つかっているので、埋葬の当時は少なくとも直径20メートルはあっただろう。もちろん高さも4,5メートルはなくてはなるまい。

 明治以降の営利畑作農業への移行と、戦後開拓(開墾)のために相当に削られ均されてしまったという。

Kimotsukisiryoukan_024 右は資料館に近い19号墳と20号墳で、手前の20号墳から19号墳を見たところだが、間に広がる芋畑の手前にはげた部分が見える。今回、そこの土の下に石棺があることが分かった。

 墳丘など全くない場所なので、首を傾げられている。石棺がある以上、地下式墳とも土こう(土編に広の旧字)とも考えられず、ちょっとしたミステリーである。

 近隣では串良町の岡崎古墳群、大崎町の神領古墳群で次々に新発見があった。

 中でも神領10号墳から出土した「武人埴輪」は、その出色の出来栄えで他に例を見ない。志布志湾岸は古代史以前の歴史解明に大きな役割を果たすかもしれない。

       ※掲載の写真はすべてクリックすると拡大します

     マップ(塚崎台地=資料館配布の物より転載)

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水守り

気温は高いが、梅雨明け後初めての晴天に外出してみた。Mizumori_009

 吾平町の田んぼ地帯に行こうかと思って、姶良川沿いを単車で走っていると、土手の草 を焼いている所に出くわした。

 70代後半だろうか、しきりに草を集めては小さな焚き火状に3,4ヶ所に分けて燃やしているおじさんがいた。

 声をかけて、米の収穫時期を聞いた。すると「Mizumori_002 早い人で来月の2日か3日、遅くてもお盆の前には」とのこと。

 それより驚いたのは、おじさんはこの水門の水守りだということだ。十年近く前、その頃作っていた自分の田のある地区の水守り(地区の用水の管理)を一年やったことがあったが、ここのは大きな川の大きな水門の管理だ。

 「この前の4号台風のときは、土手をあと4メートルで越えるというところまで水が上がってきてなア」とおじさん。その日(14日)は午後四時に水門を締め切ったそうだ。Mizumori_004

 おじさんの田が、水門のすぐ下にあった。

 一枚だが20アール(600坪=約2000㎡)もある。用水路の川への出口が水門だから、締め切ったために排出できない水があふれ、この田の稲は穂の上十センチまで水に浸かったという。それでも浸かる時間が短かったのと、米がすでに硬く熟していたため、穂腐れにはならずに済んだそうだ。Mizumori_007

 「管理棟に入ってみらんな」 というので、中を覗かせてもらった。

 おじさんが手にしているのはエンジンを使わずに水門を上げ下げする部分。おじさんの麦わら帽子の先に見えるジーゼルエンジンが不調の時のためのやり方で、普通はエンジンで、帽子のつばの上に伸びている黄色い色の着いた昇降器を上下させる。Mizumori_005

 「昔は、建屋が無くて、ジーゼルエンジンのカバーがあっただけ。台風の時など、そりゃ大変じゃった。こけ来るのに軽トラでは風でひっくり返さるっで、歩いてくるんじゃが、それでも飛ばされそうになり、土手に生えている葦につかまりながら這って来たもんじゃった」

 もう30年近く水守りをしていると言う。手当は月に一万だそうだ。

 「台風の時は、子供たちがわっぜえ心配すっと

 用水路の排水と川からの逆流とのせめぎあい。それを見極めた上で、いつ水門を閉めるかがベテランの勘所だ。Mizumori_008

 井神さんといった。ふむ、井戸の神様・・・。

 どうやら水とは縁がありそうな名前だ。

 暑い中、水門整備に精を出す隠れた米作り協力隊といったところか。きばいやんせ!

水門管理棟の窓から姶良川の上流を望む

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高山川流域散策(その4)

Kouyamagawa4_001 高山本城の公民館の横を通り抜ける内之浦(国見トンネル)への道。

 左手の本城麓の公民館の真向かいから、本城川にかかる小さな橋を渡って高山川沿いの狭い道を行くと、シラス台地から下ってきた道が高山川と交差する「嶽橋(たけばし)」の所に出る。

Kouyamagawa4_003 嶽橋の上から、下流(本城方面)を望む

 川はいよいよ渓流の様相になる。幅12,3mで流量は多い。この辺りは採石場が多く、ダンプカーの通行がひっきりなしだ。橋から上流になると道路はほぼ川沿いに走り、所々に人家と、川沿いの田んぼという風景が続く。

Kouyamagawa4_021_1  途中、よく手入れされた畦と、穂が垂れ色づき始めた田んぼが余りに美しいので道路から入って降りていくと川の淀みがあった

 すると川面まで3メートルの高さの所に看板が建てられていた。 「 泳ぐな 危険!!   PTA 」と書いてある。

 なるほど親の気持ちは分かる。でも子供の気持ちも分かる。夏休みの暑い日、こんな青い涼しげな天然のプールがあれば飛び込みたくもなろう。

Kouyamagawa4_006 5分も走ると川上地区だ。まず出会うのが左から流れ込む岩屋川で、上流を望むと川上地区のランドマークと言える山が聳える。ところがこの山には名が無い。そこで川上岳と呼んでおこう。標高312メートルは、隣の吾平川・神野地区のランドマーク中岳(677m)の半分だが、でんと構えたところが貫禄十分だ。

 この岩屋川が高山川に合流する所はちょっとした滝になっている。

Kouyamagawa4_007 2段に分かれ、上段は比高5m、下段は3mくらいか。下段のほうは滝というより激流と言うべきかも知れないが、もしその部分の岩を取り除いたら、上段の滝は比高8mという立派な滝になるだろう。そうなるとこのすぐ上にある川上小・中学校は「滝ノ上小・中学校」に変えねばなるまいが・・・。Kouyamagawa4_0011

 岩屋橋を渡って右側にあるのが川上中学校、左側にあるのが小学校だ。

 中学校は「きばらんな(がんばろう)」がキャッチフレーズで、なるほど一学期の終業日だというのに、校庭では暑さの中を、生徒たちが懸命に走っていた。木造校舎が懐かしさを誘う学校だ。

Kouyamagawa4_014  対するは道を挟んだ反対側にある小学校

 なんと、校庭の隅に水車が回っている。体験学習の一環か、PTAの寄付かは分からないが、なんとも贅沢なことだ。贅沢と言えば校舎も立派だ。全学年でおそらく50人はいないだろうが「小学校は地域統合の象徴だ」とは、以前住んだことのある山間部の地域でもよく聴いていた。だから不釣合いなくらい小学校にだけは手を掛け、暇をかけ、金をかけて守る。それが住民の心意気なのだ。

Kouyamagawa4_017 中学校の左隣に鎮座する川上神社。祭神は「猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)」で、天孫降臨の時、天の八街(あめのやちまた)にいて、皇孫の道案内をつとめた神。

 この神社は棟札によると天文23(1554)年、肝付氏第17代当主の良兼(父:16代兼続かねつぐ 母:阿南おなみ=島津日新斉・忠良の長女)が建立。ただし、それ以前のことは分からない

 川上地区は高山川本流と岩屋川の合流点なので、相当古い時代に開けたことは間違いない。だが、『和名類聚抄』の諸国郡郷一覧に大隅国肝属郡川上郷とある「川上郷」をこの地に比定する説があるが、それは無理だろう(私見では川上郷は雄川上流の南大隅町田代地区である)。

 神社と中学校のある一角の裏手にこんもりとした小山がある。どうもそこに上代の川上Kouyamagawa4_013 の豪族か、信奉する神が祭られていた気がする。ちょうど姶良川の神野地区で、二本の川に挟まれた小高い山にアイラツヒメが祭られているように(姶良川流域散策その6を参照)。

 片野橋から高山川越しに見る川上神社。左の森の中に神社がある。一方、右手の建物の上にさらに小高い森が見えるが、そここそがはるか昔の遺跡ではないかと思う。道が見当たらないので登るのは断念した。

 川上地区の棚田。この辺りは普通作だ。Kouyamagawa3_018

 田植え後、一ヶ月余りというところか、老農夫婦が暑いさなか畦草刈りに精を出していた。

  マップ(赤十字が川上地区。丸に十字は嶽橋)

    肝付町のスクロール地図はこちら

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玉名と八女歴史紀行

 一泊二日(7月15日~16日)で熊本県玉名市と福岡県八女市を訪れた。

 どちらも筆者の邪馬台国探求上、はずせない、というより八女市こそが邪馬台女王国の比定地としているからだ。

 まずは玉名市。筆者はここを女王国連盟27ヶ国の内の奴国と考えている。ただし、この奴国は伊都国の隣にある佐賀奴国とは別の奴国である。玉名奴国は菊池川を挟んで狗奴国(熊襲の一国。今日のおおむね熊本県)と接していた。

 玉名といえば銀の象嵌で「ワカタケル大王」と刻んでいた太刀の発見された「江田船山古墳」で有名だ。Tamanoyame_002江田の地は、高速道路「菊川インター」で降り、すぐ右折したあとは標識にしたがって玉名市方面を目指していけば、2キロ足らずで到着する。確か「縄文の森公園」と言った中にある。

 全長61メートルというから小規模古墳に属するが、副葬品がすごい。上の太刀のほか、金銅製冠帽・純金製耳飾(ペア)・金銅製靴など朝鮮半島のみならず大陸系の副葬品が出土している。

 横穴式石室の中には家型石棺(長さ2,9m、幅1,1m、高さ1,5m)が安置されており 、室内は自由に見学できる。Tamanoyame_007

 寄棟式家屋の形で、妻入り。材質は阿蘇凝灰岩で、親子三人が十分に入れる大きさである。ダンボールハウスやテントより、はるかに過ごしやすそうだ。

 一角に資料館がある。飾ってある副葬品はすべて模造だが、よくもこれだけの物が眠っていたものだと思う。Tamanoyame_021 Tamanoyame_020

 圧巻はなんといっても銀象嵌銘の入った太刀だろう。復元されたものが展示されているが、反りが無いことを除いては中世以降の刀と変わらない。

 埼玉の稲荷山古墳からは金の象嵌入りの同じワカタケルに使えていたオワケノ臣の墓に埋納され、あちらが杖刀人(武人)の頭領だったのに対して、こちらは典曹人(文官)であった。文官とはいえやはり刀を差していたのだろうか、ワカタケル大王の5世紀後半の時代相が垣間見える。

 江田から南へ7キロほどで玉名市中心部だ。その少し手前にある玉名市歴史博物館を訪れる。Tamanoyame_028

 この中で一番興味をそそられたのは、古墳時代の阿蘇凝灰岩製の「舟形石棺」分布図である。九州は今の熊本県、東隣の宮崎県を中心に分布し、九州以外では、瀬戸内地方から河内地方の海岸部に及んでいる。

 玉名市には中世以降栄えた「高瀬津」があり、戦国期にはその名が宣教師によって海外にまで宣伝されたという。

 また阿蘇凝灰岩の一種「ピンク石」は宇土地方の特産だが、継体天皇陵と言われる「今城塚古墳」(大阪・高槻市)の石棺に使われていたことで有名である。石棺は熊本から海路大阪まで運ばれており、6世紀当時も水運が盛んであったと読み取ることができる。

 翌日は早朝から八女地方を回った。Tamanoyame_043

 最初に行ったのが「童男山(どうなんざん)古墳群(十二基)」だ。ここの一号墳は国の指定だが横穴式石室の入口がむき出しになっており、自由に中に入ることができる。

 石室の石積みは見事で、近くを流れる星野川河原の石(粘板岩)を利用しているようだ。全長(奥行)は5m余り、内部の高さは大人が立って歩けるほどのものだ。二室になっていてTamanoyame_038 奥の一室が玄室(遺体安置室)で、そこにはさらに天井付きの石のベッドがしつらえてある。

 内部の壁はベンガラで赤く彩色されて、暗いイメージは全くない。

 一号墳の下の広場からは星野川に沿う家並みが見える。比高は20メートル弱だろう。

 この「童男山」という名は「徐福の渡来」に基づくという説がある。Tamanoyame_047 現在発掘された被葬者は6世紀以降の人物だが、実はその前にすでに墳墓があったのを取り壊し、新たに造った墓に合葬したのだという。

 たしかに右の写真のように足元に見える水田地帯はお世辞にも広いとは言えない。こういうところに十二もの高塚を造るというのは、権力者の墓としてはどうも常識的ではない。何かそうせざるを得ないものがあったのだろうか。

 徐福一行の童男・童女にゆかりの豪族が、荒れていた墳墓を整備がてら自らの墓に造り変え、そこに合葬したという構図だろうか。これは一見考えやすい。

 だが筆者はそうは思わない。これに対して、卑弥呼の墓ではないかという仮説を掲げたいと思う。卑弥呼の女王国を筆者はこの下流域、すなわち星野川、矢部川合流によってできた広大な扇状地にあったと考えている(八女市郡域)。卑弥呼の死は不可解であった。倭人伝からはどうやら帯方郡使・張政の告諭により殺害されたようなのだ。

 すると墓(径百余歩)は当然、統治している平野のど真ん中に堂々と造るわけには行くまい。山奥にひっそりとという感じで造られるのではないか。この古墳群は今でこそ車の通る道路から、5,60メートルという至近距離にあるが、当時は辺鄙な所だったろう。

 しかし殉死者が「百人」もいたという。百人はオーバーだろうが、14,5人はいておかしくない。となると一号墳を盟主として、十数基の小古墳群はそのような殉死者のものと考えてよくはないか。横穴式石室にしたのはもちろん後の時代の豪族である。彼等は卑弥呼の苗裔なのかもしれない。

 Tamanoyame_064  以上は、妄想的仮説だが、童男山古墳群の前を流れている星野川のすぐ南側を流れる矢部川に沿って上流に行くと、不思議な伝説地に至る。そこは「日向神社」である。

 黒木町月足(つきたり)地区の中心に鎮座する日向神社は、祭神アマテラス大神、ニニギノミコト。おもしろいのはここが天孫降臨の地だとの伝承で、一説によるとニニギノミコトはこの地で三人の皇子(ホアカリ、ホスセリ、ホホデミ)を生んだが、ホスセリ、ホホデミは日向に下り、ホアカリだけが現地に留まったという。Tamanoyame_057_1

 正面の鳥居をくぐると広場があり、広場には拝殿だけを置き、本殿は比高十メートルの小山の上にある。頂上はさして広くなくどこにでもありそうな正木造りの古びたお宮だ。

 だがこの小山、たしかに広場からはわずか十メートルほどしかないが、広場の反対側は日向峡と呼ばれる取水ダムサイトになっていて、Tamanoyame_060 頂上からそこを覗くと、優に三十メートルはあろうかという高さだったのである。

 右の写真は神社の小山の下の棚田から写したものだが、ダムサイト水面から小山の比高は30メートルだが、まだダムができていない頃は、川面は少なくとも十メートルは下だから、比高はさらに大きく40メートル以上あったはずだ。

 十二、三階建てのビルに匹敵する高さの断崖だ。川を覗いたら足元がすくんだろう。月足地区の周囲にはピラミッド型の尖峰がやたらに多い。こんなのも神話の里をつよく印象付ける。八女邪馬台国の天孫降臨神話の現場ではないだろうか。

 Tamanoyame_067 ここから再び下流方面に引き返し、今度は黒木城(猫尾城)に行く。  

 城山学園という看板を見て上っていくが、頂上の城の標高は240mということなので、かなり登る。途中に広い野球場があり、ちょうど少年野球の大会が行われていた。

 山頂に城跡を偲ばせるものは石組みくらいしかなかった。今はそこに英彦山神社が建っている。Tamanoyame_068 石組みの上の平坦地には城の説明板がある。

 それによると1160年代に大蔵大輔・源助能(すけよし)が瀬高荘(筑後国山門郡)を統括するため、大隅国肝属郡根占北俣(大根占)から、現地に移りここに城を築いたと言う。

 大根占のような大河のないところから矢部川の轟々たる流れのある当地に来て、源助能もさぞひったまがった(おどろいた)事だろう。以後黒木氏を名乗り、連綿400年余り、この地に根を張ったという。

 黒木から再び童男山古墳群の下を抜けて、今度は岩戸山歴史資料館を目指した。Tamanoyame_143_1

 資料館への狭い道をたどると、ちょうど神社の祭礼準備に出くわした。老人が多いが、みんなで手分けして清掃やら何やら忙しそうだ。この神社「吉田大神宮」といい、立派なお宮だ。しかも建っている場所がいい。こんもりとした小山を背景に、森閑として清々しい。

 聞くと、何と後の小山こそが「岩戸山古墳」だという。道理で資料館がすぐ目の前だ。

 中に入って入館料を払い、入場者の記帳を終えるとネクタイ姿の老紳士が案内すると言う。願ってもないことで、早速付いて回る。展示室は40畳くらいの一室だが天井が高く、真ん中のほか、壁のぐるり全部に展示してあるので量的に少なくはない。Tamanoyame_146

 何といっても石人、石馬が八女地域の古墳群の特徴だ。加工しやすい阿蘇凝灰岩が豊富にあったからだろう。現在の八女市・黒木町の特産が石灯籠というのももっともなことだ。

 八女地区の古墳は、筑後市の石人山古墳を西の端として、東はさっき紹介した童男山古墳に至る7~8キロに及ぶ洪積台地上にずらりと並んでいる。古墳の数およそ300。うち前方後円墳は11あるという。

 最も大きいのが資料館の目前に横たわる岩戸山古墳で、全長177メートルは6世紀半ばの築造では九州一、全国的にもその時代としては最大級だろう。 

 さて展示品の圧巻は「立山古墳」出土の「金製耳飾り」だ。Tamanoyame_149

左の写真で青い敷物の上にあるのが「金製耳飾り」(写真をクリックすると拡大。他の写真も同様)

 全国的に見ても稀有なもので、おそらくは朝鮮との交易によって手に入れた物だという。筑紫はもともと白日別と言われていたくらいだから(古事記・国生み神話)、さもありなん。

Tamanoyame_151  乗場古墳という岩戸山古墳とは国道3号線を挟んだ位置にある小さな古墳からは、環頭太刀の立派なのが出ている。また短甲も二領出土した。

 初期須恵器類も上質なのが出ているし、埴輪なども種類が多く大きなものが出ている。

Tamanoyame_148  案内氏は館長の太郎良(たろうら)さんで、筆者が邪馬台国八女説を出すと、怪訝な顔をされた。

 邪馬台国九州説では一昔前は筑後の山門郡説、特に女山(ぞやま)を持つ瀬高町説が強かったのだが、甘木市説、吉野ヶ里説に押されて今や見る影もなくなった。惜しいことだ。

 一時間ほど見せてもらって、館を後にした。

 巨大な岩戸山古墳の周囲を歩き、反対側(東北)までくると、古墳の一角がソフトボールのできそうなくらいに広い芝生だ。遠くに石人だろうか5,6基並んでいるのが見える。説明板には「別区」と書いてある。Tamanoyame_152

 筑後国風土記逸文によると、そこは裁判をする場所で、「解部(ときべ)」という役人が豚を盗んだ者を裁いているのだという。

 律令制が布かれる170年も前に筑紫君イワイはそんな進んだ制度を整備していたのだろうか。そうするとやはりイワイは大王にも匹敵した者だったのだろうか。別区は余りにあっけらかんとして広く、何も語ろうとしないが・・・。

     マップ(マピオンで。熊本県玉名市および福岡県八女市)

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台風4号が接近

 梅雨明け直前の大雨だと思っていたら、台風のお出ましだ。

 7月のまだ前半だというのに、秋台風型のコースをたどって来た、恐れ入る。異常気象もここまで来ればたいしたものである。

 昨日からの気象情報によれば930ヘクトパスカル、最大風速50メートル(瞬間最大風速65メートル)というこの時期では見たことも聞いたこともない大きさだ。しかもどうやら南九州直撃の動きだ。何てこった!

 Taifuu4gou_001 昨日は朝から、パイプ車庫のシート取り、植木鉢類の倉庫いれなど、雨の合間に汗を流した。そして、はじめて東の出窓のガラスにガムテープを貼って補強した。

 ここ3年の間でもう9回、台風の直撃ないしは接近にあっているが、貼らずに何とかしのいでいた。だが、ガラスにも金属疲労のようなことがあろうかと、予防をしてみた。

 6時15分、急に風雨ともに強くなってきた。予報図を見るとどうやら暴風圏に入ったようだ。中心は枕崎市の南西約200キロの所にあるという。

 速度が少し遅くなっているから、上陸するとすれば午後4時頃だろう。それまでの10時間、上陸後の7~8時間、大略20時間は被害ないことを願いつつじっとしている他ない。

 

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高山川流域散策(その3)

Kouyamagawa3_001  神之市橋から土手はまだ少しの間、よく整備された国管理級の出来栄えだが、それも水の流れ込みを制限する管理棟までで、それから上流はくねくねと曲がりくねった川筋になる。

 昨日の時間雨量100ミリという豪雨の証拠だろう、川中に生えている葦が、全部川下に向かって寝ていた。

 400メートルほど行くと永山橋が架かっている。それを左岸側に渡り、案内板を見て左Kouyamagawa3_006_1 に200メートル。鬱蒼とした木立の中に「良清軒跡」がある。

 ここは肝付氏族の墓地だが、それより、肝付14代兼久の時に鹿児島から遠征してきた島津11代忠昌との戦闘の際、双方に多数の戦死者が出たのを葬り、かつ供養碑を建立してあることで名高い。

Kouyamagawa3_008  遺骸は右の写真の供養碑(天文1=1532年建立)の後に立つ大きなタブの木の根元に埋められたという。

 戦闘があったのは永正3(1506)年であった。島津忠昌はこれよりもう少し上流、高山本城に対面する山腹に設営された「柳井谷陣」を本拠地として本城を攻めたが、逆に大敗して鹿児島に引き上げた。その挫折もあったのだろうか、2年後に自害して果てている。Kouyamagawa3_009_1

 高山本城へは良清軒跡からいったん右手のシラス台地に上がり、信号で国見トンネル方面の道をとる。左折し、高山川への下り坂を1キロほど行くと本城盆地だ。

 すぐ新しい橋を見るが、それが本城橋で、橋を通して真正面の小高い丘に国指定史跡「高山本城」がある。低い丘のさらに向こうに見える山は肝付山地の東端で、手前右手の丸い丘の真後ろにちょこんと国見岳が頭を出しているKouyamagawa3_010

 左は橋の上から見た本流(右)と本城川(左)の合流点。

 やはり昨日の豪雨のせいでどちらの川も流れが速く、水量も多い。ただにごりが少ないのは、豊かな森林と肝付山地特有の花崗岩のおかげだろう。

 川に挟まれた杉林と竹林の小高い丘は「道隆寺跡」で、本城川にかかる小さな橋を渡って回り込むと、入口があり鎌倉の切り通しのような凝灰岩をくりぬいた階段を入ると、開けた土地が広がる。

Kouyamagawa3_016  宝塔、五輪塔、宝匧印(ほうきょういん)塔、逆修塔などまるで中世の石塔の博物館のような光景が広がるが、近くの酒店の主人によると、道隆寺は今石塔などがある場所には無かったと言う。

 入口の手前、右手に広がる畑がもとは小高く、そこにお寺があったそうだ。でも観音堂が石塔群のある場所にあったことは間違いない、と言う。

 観音堂跡という立て札が確かにあった。2~3間四方の土壇らしきものが残るだけ。だが、平成9年に地元有志の手で観音像が建てられている。清清しく柔和なお顔である。香華の花も新しい。南無、観世音菩薩、祈る幸運!

 マップ(赤十字は永山橋と良清軒跡。丸に十字が道隆寺跡)

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梅雨の末期

 今朝のテレビを見ていると、鹿児島は到るところ大雨洪水警報だ。

 梅雨の上がる前は決まって集中豪雨があり、「人が死なないと梅雨が上がらない」という諺にもなっている。所によっては「人が(川に)流されんと、ナゲシ(梅雨)ぁ終わらん」とも言う。

 大雨によるがけ崩れや土石流が、もう熊本では現実のものとなった。ニュースで現地の避難者が「こんなこと初めてですタイ」と言っていたが、今年は熊本あたりがかねての鹿児島になったな、地球温暖化の影響だろうか――などと思い、それなら鹿児島は空梅雨気味のまま明けそうだ、と期待していたのだが、やっぱり来たか・・・・・。

 足掛けもう五日くらい、ほとんど雨に降り込まれている。02280001

 今朝は明け方前に土砂降りだったようで、肝付山地や佐多の方では、時間雨量90ミリ~100ミリが記録されたという。

 我が家も(どの家もだが)ガラス戸越しに見ると、まるで水底に沈んだかのような朝の始まりだった。

 少し小降りになったところで庭に出てみると、菜園は冠水し、縁取りの花が水草に化していた。

 02280002 雨に濡れた石は風情があっていいものだが、庭の砂利の間に芽を出して、ここまで伸びてきた乾燥と日光にはめっぽう強いセロシアが、うんざりして「腐り」はしないか心配だ。

 遠くから雷も鳴って来た。

 台風の進路も気になる。「八大竜王、雨やめ給え」の祈りの句を捧げたという俳人・向井去来の故事を思い出す。

 とにかく、頼むから雨止みたまえ。

 

 

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高山川流域散策(その2)

 鹿屋、吾平町方面から旧高山町の中心部に入るときに渡るのが「高山橋」だが、これは通称で正式には「赤池橋」と言う(右の写真)。Kouyamagawa2_014

 この辺りから次の屋治橋まで、河川敷がかなり広い。昔は川が曲がりくねっていたのを、国の管理で流路を真っ直ぐにし、さらに浚渫や護岸工事を行って現在の姿になったものだろう。

 写真手前の左岸土手を上流に向かうと、街の上に穏やかな峯が広がって見える。城山である。高さは109mあり、南北朝時代にはあったと言われる「弓張城」の跡でもある。Kouyamagawa2_012

 山の手前下に見えるのが屋治橋で、左手から来る役場などのある中心街と、右手の西方・前田地区とをつなぐ橋だ。

 橋のたもとまで行き、右に折れて200メートルほどで盛光寺(じょうこうじ)跡入口を示す案内標式がある。左折して住宅の間を5,60メートル進むと大きな看板と五輪塔が見えてくる。それが肝付氏累代の墓だ。

Kouyamagawa2_009 一番右が第八代兼重(南北朝の勤王方重鎮)で、左へ九代、十代と居並ぶ。

 時代は下って16世紀の前半、大隅地方はいよいよ戦国末期の様相を呈し、薩摩、大隅、日向三州に勢力を扶植し何とかまとめあげたい島津氏の中興の祖といわれる日新斎こと伊作島津家の当主・島津忠良は、実の娘阿南(おなみ)を、肝付第十六代兼続(かねつぐ)に嫁がせた。

 政略結婚だが、当時としてはさほど珍しいものではない。ところがやはり、と言うべきか兼続の代に一時大いに奮ったものの、やがて日新斎の目論見どおり、次の代に家運が傾き、その次の代で島津方に降伏する(天正2=1574年)。阿南(おなみ)は肝付氏が阿多に改易される(天正8=1580年)のを見届けるかのように、翌年この地で没した。阿南の墓もここにある。

 再びさっきの屋治橋に戻り、渡って今度は右岸沿いに少し行くと国指定重要文化財「二階堂家」がある。ここは前回の時参拝した四十九所神社とは、城山を挟んだ裏側に当たる位置にある。Kouyamagawa2_018

 あいにく天候不順のため雨戸が閉ざされており、見学はできなかった(右の写真)。

 それならと、この道続きにあるという肝付氏第五代兼石の墓を訪ねることにした。約300メートルだろうか、川が間近に迫り、土手に上がろうかという所の左手に標柱が建っていた。行くと伸び放題の草の道の奥、少し山林の中を上がった所に石塔が立ち並んでいた。

Kouyamagawa2_003  驚いたのは、石塔の上に覆いかぶさる椎に木の倒木だ。

 枯れ具合から見るとおそらく去年の台風の時に倒れたままのようだ。さぞ鬱陶しかろうと取り除けたい気持ちはあるのだが、十メートルはあろうかという倒木だ。

 すぐに地元の文化財の先生である T先生に連絡を入れた。すると去年の台風ではないけれども、早速手配しますということだった。

 雨が本降りになってきた。少し上手にある「神之市橋」まで行き、そこから山手に1キロほど上がったところにある高山温泉ドーム(やぶさめの湯)に向かうことにした。

Kouyamagawa2_007  神之市ー―とはどんな由緒なのか、興味がそそられる地名だ。橋の向こうの小高い丘の下あたり一帯が小字「神之市」だ。市という名称にはふさわしくない静かな、むしろ辺鄙な所なので「市」は何かの転訛だろう。ウツか、イツか・・・。

 橋からちょうど1キロでやぶさめの湯である(城山の南麓)。ここのは本物の温泉だ。ただ温度は30度くらいしかないが、入ってみるとそれなりに湯当たりが違う。Kouyamagawa2_001_1

 ドームと名付けられているのは、向かって右のドーム型の浴場があるためだ。当地で生産している木材会社が開発した集成材による木組みで、ドームが造られているという。

 それよりも野菜の百円市がいい。入口の長い屋根の下には左右にぎっしりと地元生産者の野菜が並ぶ。顔写真入りだ。安い安いと買っているとすぐ温泉代(300円)の三倍にもなってしまうから、要注意(重すぎて腕が痛くなっては、何のために温泉に入りに来たのか分からなくなるよナ)。

  マップ(赤十字が神之市。丸に十字は二階堂家)

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防衛大臣の辞任

 久間防衛大臣が舌禍により辞任した。

 アメリカが長崎に原爆を落としたのは「しょうがなかった」と言ったそうだ。それをアメリカ人が言うのならまだしも、日本の現役防衛大臣が話すのはいかにもまずい。というよりあほらしい。

 彼は長崎人なのだから、なお一層馬鹿なことを言ったものだ。

 長崎という民間人の圧倒的に多く住んでいた都市に、あのような殺傷力の強い爆弾を堂々と落とすなどということは、戦時国際法にさえ違反する残虐行為なのだ。いくら戦勝国とはいえアメリカの非道は消えない。

 戦闘で相手戦士を切りつけるあるいは機関銃で撃つ、敵陣めがけてバズーカ砲を発射するなどという通常の戦場における殺傷行為は、戦時においては正当なことと認められているが、学校もあり、病院もありそこで非戦闘市民が普通に暮らしている所に爆弾を落とすのは明らかに違法だ。

 しかもすでに広島に無差別殺戮行為(原爆投下)をやっているのだ。それでなくてもその前からアメリカは、日本各地の非軍事都市にこれでもかこれでもかと弾薬の雨を降らせている。

 日本軍が進攻して「30万」の中国人を殺害したと共産党政府に100倍もでっち上げられているあの南京においてさえ日本軍は、南京在住外国人たちとの話し合いで安全地区を設け、そこには一切手を出さないでいる(相手はラーベを代表とする安全地区委員会)のに・・・。

 アメリカにしてみれば「大都市への空襲が行われた段階で日本がギブアップすればよかったのに、そうしなかったので最後の切り札の原爆をお見舞いしてやったのさ」だろうが、落とす場所が違反だった。軍事都市か軍港ならまだしも、広島も長崎も一部に軍需工場や造船所はあるが非軍事都市だったのだ。

 1年ほど前に、広島へ原爆リトルボーイを落とした空軍機のパイロットだった人物を広島に招いて原爆資料館を見せ、被爆者が謝罪を要求するという内容のテレビドキュメンタリー番組を見たが、そのパイロットは決して謝罪に応じなかった。彼が「しょうがなかった」と言ったかどうかは記憶に無いが「リメンバー・パールハーバー卑怯な真珠湾奇襲攻撃のお返しさ)」と言ったのだけは覚えている。

 そうなのだ。アメリカは日本軍が宣戦布告もせずにいきなり真珠湾を攻撃(しかも予想を上回る見事さで)したのを、国民への戦意を煽るスローガンとしたのだ。あのパイロットもそう洗脳されていたのだろう。その二週間前に日本に示されたハル・ノート(16年11月26日)こそが事実上の宣戦布告だったのだが・・・。

 とまれ、昭和16年8月にルーズベルトとチャーチルによって盟約された「大西洋憲章」の英米主導の世界戦略のいびつなシナリオに日本もまんまと引き込まれていったというのが日米戦争の真相だろう。

 久間防衛大臣の発言はそんなアメリカのお先棒を担ぐようなもので、彼が一時アメリカの対イラク戦争に批判的だったのと相容れないことおびただしい。

 これだとアメリカが世界各地で「自由と民主が無いからお前の国はだめだ。俺が力で自由と民主を実現させてやるよ」とばかり武器の押し売りや在庫一掃セールをした挙句に、進攻して「劣化ウラン弾ショー」をやってしまうのを停めることはできまい。それどころかアメリカが今後、核を使うようになるのを容認することになってしまう

 日本は唯一の被爆国として核廃絶をひとつの国是としているのだからアメリカに対してもそのスタンスをはっきり示すべきだろう。アメリカはぐうの音も出ないはずだ。その上で改正憲法にも「非核・武装・中立」を謳うべきではないだろうか。

 

 

 

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早期米の米作りー⑫

Soukimai_001 吾平温泉センター・悠遊ランドの前に広がる「吾平田んぼ」は見渡す限りの穂の海。

 西風のやや強い梅雨の晴れ間、少し色づいた穂が揺れるさまはまさに波のようだ。稲特有の尖った硬い葉が、葉擦れの音を立てるのももうすぐだろう。

 5キロ上流の鶴峰地区まで行ってみると、Soukimai_003_1 こっちも出ていた。

 N さんの田んぼは、2週間前は他の田よりいくらか成長が遅いようだったが、見事に穂が出ていた。株の高さも優に70センチは超えている。

 3月1日頃のモミの浸水から四ヶ月、田植えから三ヶ月の姿がこれだ。

  一方、I さんの田は相変わらず生育がいい。

 いいどころか、もう垂れ始めた穂がちらほら見える。Soukimai_006

 人間の妊娠にたとえるなら4ヶ月目に入ったというところか。穂の膨らみが目立ち出し、自然に垂れ始める状態だ。

 その一方で長い穂の下のほうのモミ粒はまだおしべが見えていて、受精したばかりらしい。収穫まであとひと月だが、それまでには均質のモミにになって行くのだろう。

Soukimai_007  梅雨明けを思わせる強い日差しに、清流が恋しくなるが、I さんの田から帰る途中の橋を通ると、流れの中で親子連れが水遊びをしているのに出くわした。

 さもありなん、今日は日曜日だった。

 

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