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高山川流域散策(その3)

Kouyamagawa3_001  神之市橋から土手はまだ少しの間、よく整備された国管理級の出来栄えだが、それも水の流れ込みを制限する管理棟までで、それから上流はくねくねと曲がりくねった川筋になる。

 昨日の時間雨量100ミリという豪雨の証拠だろう、川中に生えている葦が、全部川下に向かって寝ていた。

 400メートルほど行くと永山橋が架かっている。それを左岸側に渡り、案内板を見て左Kouyamagawa3_006_1 に200メートル。鬱蒼とした木立の中に「良清軒跡」がある。

 ここは肝付氏族の墓地だが、それより、肝付14代兼久の時に鹿児島から遠征してきた島津11代忠昌との戦闘の際、双方に多数の戦死者が出たのを葬り、かつ供養碑を建立してあることで名高い。

Kouyamagawa3_008  遺骸は右の写真の供養碑(天文1=1532年建立)の後に立つ大きなタブの木の根元に埋められたという。

 戦闘があったのは永正3(1506)年であった。島津忠昌はこれよりもう少し上流、高山本城に対面する山腹に設営された「柳井谷陣」を本拠地として本城を攻めたが、逆に大敗して鹿児島に引き上げた。その挫折もあったのだろうか、2年後に自害して果てている。Kouyamagawa3_009_1

 高山本城へは良清軒跡からいったん右手のシラス台地に上がり、信号で国見トンネル方面の道をとる。左折し、高山川への下り坂を1キロほど行くと本城盆地だ。

 すぐ新しい橋を見るが、それが本城橋で、橋を通して真正面の小高い丘に国指定史跡「高山本城」がある。低い丘のさらに向こうに見える山は肝付山地の東端で、手前右手の丸い丘の真後ろにちょこんと国見岳が頭を出しているKouyamagawa3_010

 左は橋の上から見た本流(右)と本城川(左)の合流点。

 やはり昨日の豪雨のせいでどちらの川も流れが速く、水量も多い。ただにごりが少ないのは、豊かな森林と肝付山地特有の花崗岩のおかげだろう。

 川に挟まれた杉林と竹林の小高い丘は「道隆寺跡」で、本城川にかかる小さな橋を渡って回り込むと、入口があり鎌倉の切り通しのような凝灰岩をくりぬいた階段を入ると、開けた土地が広がる。

Kouyamagawa3_016  宝塔、五輪塔、宝匧印(ほうきょういん)塔、逆修塔などまるで中世の石塔の博物館のような光景が広がるが、近くの酒店の主人によると、道隆寺は今石塔などがある場所には無かったと言う。

 入口の手前、右手に広がる畑がもとは小高く、そこにお寺があったそうだ。でも観音堂が石塔群のある場所にあったことは間違いない、と言う。

 観音堂跡という立て札が確かにあった。2~3間四方の土壇らしきものが残るだけ。だが、平成9年に地元有志の手で観音像が建てられている。清清しく柔和なお顔である。香華の花も新しい。南無、観世音菩薩、祈る幸運!

 マップ(赤十字は永山橋と良清軒跡。丸に十字が道隆寺跡)

  肝付町のスクロール地図はこちら

Mapkouyamagawa3_1

 

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コメント

「良清軒」今一番行ってみたいところです。
宝篋印塔は相輪の部分で時代がわかるものなのでしょうか。色々な形があるので興味深いです。

投稿: hanaori | 2013年11月12日 (火) 20時32分

hanaoriさん、大隅史談会副会長・隈元信一氏によると、相輪の輪の数によって時代が分かり、多いほど時代が古く、最大九本が鎌倉時代のもので、以下一輪減るごとに新しくなり、安土桃山時代になると二本になってしまうそうです。参考までに。

投稿: kamodoku | 2013年11月13日 (水) 10時47分

kamodoku様、教えて下さり本当にありがとうございます。宝珠の下、請花の間のことでしょうか。6本くらいはよく見るようですが2本があるのですね。宝篋印塔に関して少し勉強は致しましたが、まだまだ勉強不足でした。史跡めぐりがまた一段と興味深いものになりました。ありがとうございます。

投稿: hanaori | 2013年11月13日 (水) 11時42分

kamodoku様、また失礼致します。
良清軒へ行くことができました。
先祖のお墓を知りたいと ずっと探しておりました。どの宝篋印塔かまではわかりませんでしたが、相輪を見て 年代を考えることができました。kamodoku様、本当にありがとうございます。

投稿: hanaori | 2014年1月 9日 (木) 20時25分

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