« 台風4号が接近 | トップページ | 高山川流域散策(その4) »

玉名と八女歴史紀行

 一泊二日(7月15日~16日)で熊本県玉名市と福岡県八女市を訪れた。

 どちらも筆者の邪馬台国探求上、はずせない、というより八女市こそが邪馬台女王国の比定地としているからだ。

 まずは玉名市。筆者はここを女王国連盟27ヶ国の内の奴国と考えている。ただし、この奴国は伊都国の隣にある佐賀奴国とは別の奴国である。玉名奴国は菊池川を挟んで狗奴国(熊襲の一国。今日のおおむね熊本県)と接していた。

 玉名といえば銀の象嵌で「ワカタケル大王」と刻んでいた太刀の発見された「江田船山古墳」で有名だ。Tamanoyame_002江田の地は、高速道路「菊川インター」で降り、すぐ右折したあとは標識にしたがって玉名市方面を目指していけば、2キロ足らずで到着する。確か「縄文の森公園」と言った中にある。

 全長61メートルというから小規模古墳に属するが、副葬品がすごい。上の太刀のほか、金銅製冠帽・純金製耳飾(ペア)・金銅製靴など朝鮮半島のみならず大陸系の副葬品が出土している。

 横穴式石室の中には家型石棺(長さ2,9m、幅1,1m、高さ1,5m)が安置されており 、室内は自由に見学できる。Tamanoyame_007

 寄棟式家屋の形で、妻入り。材質は阿蘇凝灰岩で、親子三人が十分に入れる大きさである。ダンボールハウスやテントより、はるかに過ごしやすそうだ。

 一角に資料館がある。飾ってある副葬品はすべて模造だが、よくもこれだけの物が眠っていたものだと思う。Tamanoyame_021 Tamanoyame_020

 圧巻はなんといっても銀象嵌銘の入った太刀だろう。復元されたものが展示されているが、反りが無いことを除いては中世以降の刀と変わらない。

 埼玉の稲荷山古墳からは金の象嵌入りの同じワカタケルに使えていたオワケノ臣の墓に埋納され、あちらが杖刀人(武人)の頭領だったのに対して、こちらは典曹人(文官)であった。文官とはいえやはり刀を差していたのだろうか、ワカタケル大王の5世紀後半の時代相が垣間見える。

 江田から南へ7キロほどで玉名市中心部だ。その少し手前にある玉名市歴史博物館を訪れる。Tamanoyame_028

 この中で一番興味をそそられたのは、古墳時代の阿蘇凝灰岩製の「舟形石棺」分布図である。九州は今の熊本県、東隣の宮崎県を中心に分布し、九州以外では、瀬戸内地方から河内地方の海岸部に及んでいる。

 玉名市には中世以降栄えた「高瀬津」があり、戦国期にはその名が宣教師によって海外にまで宣伝されたという。

 また阿蘇凝灰岩の一種「ピンク石」は宇土地方の特産だが、継体天皇陵と言われる「今城塚古墳」(大阪・高槻市)の石棺に使われていたことで有名である。石棺は熊本から海路大阪まで運ばれており、6世紀当時も水運が盛んであったと読み取ることができる。

 翌日は早朝から八女地方を回った。Tamanoyame_043

 最初に行ったのが「童男山(どうなんざん)古墳群(十二基)」だ。ここの一号墳は国の指定だが横穴式石室の入口がむき出しになっており、自由に中に入ることができる。

 石室の石積みは見事で、近くを流れる星野川河原の石(粘板岩)を利用しているようだ。全長(奥行)は5m余り、内部の高さは大人が立って歩けるほどのものだ。二室になっていてTamanoyame_038 奥の一室が玄室(遺体安置室)で、そこにはさらに天井付きの石のベッドがしつらえてある。

 内部の壁はベンガラで赤く彩色されて、暗いイメージは全くない。

 一号墳の下の広場からは星野川に沿う家並みが見える。比高は20メートル弱だろう。

 この「童男山」という名は「徐福の渡来」に基づくという説がある。Tamanoyame_047 現在発掘された被葬者は6世紀以降の人物だが、実はその前にすでに墳墓があったのを取り壊し、新たに造った墓に合葬したのだという。

 たしかに右の写真のように足元に見える水田地帯はお世辞にも広いとは言えない。こういうところに十二もの高塚を造るというのは、権力者の墓としてはどうも常識的ではない。何かそうせざるを得ないものがあったのだろうか。

 徐福一行の童男・童女にゆかりの豪族が、荒れていた墳墓を整備がてら自らの墓に造り変え、そこに合葬したという構図だろうか。これは一見考えやすい。

 だが筆者はそうは思わない。これに対して、卑弥呼の墓ではないかという仮説を掲げたいと思う。卑弥呼の女王国を筆者はこの下流域、すなわち星野川、矢部川合流によってできた広大な扇状地にあったと考えている(八女市郡域)。卑弥呼の死は不可解であった。倭人伝からはどうやら帯方郡使・張政の告諭により殺害されたようなのだ。

 すると墓(径百余歩)は当然、統治している平野のど真ん中に堂々と造るわけには行くまい。山奥にひっそりとという感じで造られるのではないか。この古墳群は今でこそ車の通る道路から、5,60メートルという至近距離にあるが、当時は辺鄙な所だったろう。

 しかし殉死者が「百人」もいたという。百人はオーバーだろうが、14,5人はいておかしくない。となると一号墳を盟主として、十数基の小古墳群はそのような殉死者のものと考えてよくはないか。横穴式石室にしたのはもちろん後の時代の豪族である。彼等は卑弥呼の苗裔なのかもしれない。

 Tamanoyame_064  以上は、妄想的仮説だが、童男山古墳群の前を流れている星野川のすぐ南側を流れる矢部川に沿って上流に行くと、不思議な伝説地に至る。そこは「日向神社」である。

 黒木町月足(つきたり)地区の中心に鎮座する日向神社は、祭神アマテラス大神、ニニギノミコト。おもしろいのはここが天孫降臨の地だとの伝承で、一説によるとニニギノミコトはこの地で三人の皇子(ホアカリ、ホスセリ、ホホデミ)を生んだが、ホスセリ、ホホデミは日向に下り、ホアカリだけが現地に留まったという。Tamanoyame_057_1

 正面の鳥居をくぐると広場があり、広場には拝殿だけを置き、本殿は比高十メートルの小山の上にある。頂上はさして広くなくどこにでもありそうな正木造りの古びたお宮だ。

 だがこの小山、たしかに広場からはわずか十メートルほどしかないが、広場の反対側は日向峡と呼ばれる取水ダムサイトになっていて、Tamanoyame_060 頂上からそこを覗くと、優に三十メートルはあろうかという高さだったのである。

 右の写真は神社の小山の下の棚田から写したものだが、ダムサイト水面から小山の比高は30メートルだが、まだダムができていない頃は、川面は少なくとも十メートルは下だから、比高はさらに大きく40メートル以上あったはずだ。

 十二、三階建てのビルに匹敵する高さの断崖だ。川を覗いたら足元がすくんだろう。月足地区の周囲にはピラミッド型の尖峰がやたらに多い。こんなのも神話の里をつよく印象付ける。八女邪馬台国の天孫降臨神話の現場ではないだろうか。

 Tamanoyame_067 ここから再び下流方面に引き返し、今度は黒木城(猫尾城)に行く。  

 城山学園という看板を見て上っていくが、頂上の城の標高は240mということなので、かなり登る。途中に広い野球場があり、ちょうど少年野球の大会が行われていた。

 山頂に城跡を偲ばせるものは石組みくらいしかなかった。今はそこに英彦山神社が建っている。Tamanoyame_068 石組みの上の平坦地には城の説明板がある。

 それによると1160年代に大蔵大輔・源助能(すけよし)が瀬高荘(筑後国山門郡)を統括するため、大隅国肝属郡根占北俣(大根占)から、現地に移りここに城を築いたと言う。

 大根占のような大河のないところから矢部川の轟々たる流れのある当地に来て、源助能もさぞひったまがった(おどろいた)事だろう。以後黒木氏を名乗り、連綿400年余り、この地に根を張ったという。

 黒木から再び童男山古墳群の下を抜けて、今度は岩戸山歴史資料館を目指した。Tamanoyame_143_1

 資料館への狭い道をたどると、ちょうど神社の祭礼準備に出くわした。老人が多いが、みんなで手分けして清掃やら何やら忙しそうだ。この神社「吉田大神宮」といい、立派なお宮だ。しかも建っている場所がいい。こんもりとした小山を背景に、森閑として清々しい。

 聞くと、何と後の小山こそが「岩戸山古墳」だという。道理で資料館がすぐ目の前だ。

 中に入って入館料を払い、入場者の記帳を終えるとネクタイ姿の老紳士が案内すると言う。願ってもないことで、早速付いて回る。展示室は40畳くらいの一室だが天井が高く、真ん中のほか、壁のぐるり全部に展示してあるので量的に少なくはない。Tamanoyame_146

 何といっても石人、石馬が八女地域の古墳群の特徴だ。加工しやすい阿蘇凝灰岩が豊富にあったからだろう。現在の八女市・黒木町の特産が石灯籠というのももっともなことだ。

 八女地区の古墳は、筑後市の石人山古墳を西の端として、東はさっき紹介した童男山古墳に至る7~8キロに及ぶ洪積台地上にずらりと並んでいる。古墳の数およそ300。うち前方後円墳は11あるという。

 最も大きいのが資料館の目前に横たわる岩戸山古墳で、全長177メートルは6世紀半ばの築造では九州一、全国的にもその時代としては最大級だろう。 

 さて展示品の圧巻は「立山古墳」出土の「金製耳飾り」だ。Tamanoyame_149

左の写真で青い敷物の上にあるのが「金製耳飾り」(写真をクリックすると拡大。他の写真も同様)

 全国的に見ても稀有なもので、おそらくは朝鮮との交易によって手に入れた物だという。筑紫はもともと白日別と言われていたくらいだから(古事記・国生み神話)、さもありなん。

Tamanoyame_151  乗場古墳という岩戸山古墳とは国道3号線を挟んだ位置にある小さな古墳からは、環頭太刀の立派なのが出ている。また短甲も二領出土した。

 初期須恵器類も上質なのが出ているし、埴輪なども種類が多く大きなものが出ている。

Tamanoyame_148  案内氏は館長の太郎良(たろうら)さんで、筆者が邪馬台国八女説を出すと、怪訝な顔をされた。

 邪馬台国九州説では一昔前は筑後の山門郡説、特に女山(ぞやま)を持つ瀬高町説が強かったのだが、甘木市説、吉野ヶ里説に押されて今や見る影もなくなった。惜しいことだ。

 一時間ほど見せてもらって、館を後にした。

 巨大な岩戸山古墳の周囲を歩き、反対側(東北)までくると、古墳の一角がソフトボールのできそうなくらいに広い芝生だ。遠くに石人だろうか5,6基並んでいるのが見える。説明板には「別区」と書いてある。Tamanoyame_152

 筑後国風土記逸文によると、そこは裁判をする場所で、「解部(ときべ)」という役人が豚を盗んだ者を裁いているのだという。

 律令制が布かれる170年も前に筑紫君イワイはそんな進んだ制度を整備していたのだろうか。そうするとやはりイワイは大王にも匹敵した者だったのだろうか。別区は余りにあっけらかんとして広く、何も語ろうとしないが・・・。

     マップ(マピオンで。熊本県玉名市および福岡県八女市)

|

« 台風4号が接近 | トップページ | 高山川流域散策(その4) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 台風4号が接近 | トップページ | 高山川流域散策(その4) »