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高山川流域散策(その2)

 鹿屋、吾平町方面から旧高山町の中心部に入るときに渡るのが「高山橋」だが、これは通称で正式には「赤池橋」と言う(右の写真)。Kouyamagawa2_014

 この辺りから次の屋治橋まで、河川敷がかなり広い。昔は川が曲がりくねっていたのを、国の管理で流路を真っ直ぐにし、さらに浚渫や護岸工事を行って現在の姿になったものだろう。

 写真手前の左岸土手を上流に向かうと、街の上に穏やかな峯が広がって見える。城山である。高さは109mあり、南北朝時代にはあったと言われる「弓張城」の跡でもある。Kouyamagawa2_012

 山の手前下に見えるのが屋治橋で、左手から来る役場などのある中心街と、右手の西方・前田地区とをつなぐ橋だ。

 橋のたもとまで行き、右に折れて200メートルほどで盛光寺(じょうこうじ)跡入口を示す案内標式がある。左折して住宅の間を5,60メートル進むと大きな看板と五輪塔が見えてくる。それが肝付氏累代の墓だ。

Kouyamagawa2_009 一番右が第八代兼重(南北朝の勤王方重鎮)で、左へ九代、十代と居並ぶ。

 時代は下って16世紀の前半、大隅地方はいよいよ戦国末期の様相を呈し、薩摩、大隅、日向三州に勢力を扶植し何とかまとめあげたい島津氏の中興の祖といわれる日新斎こと伊作島津家の当主・島津忠良は、実の娘阿南(おなみ)を、肝付第十六代兼続(かねつぐ)に嫁がせた。

 政略結婚だが、当時としてはさほど珍しいものではない。ところがやはり、と言うべきか兼続の代に一時大いに奮ったものの、やがて日新斎の目論見どおり、次の代に家運が傾き、その次の代で島津方に降伏する(天正2=1574年)。阿南(おなみ)は肝付氏が阿多に改易される(天正8=1580年)のを見届けるかのように、翌年この地で没した。阿南の墓もここにある。

 再びさっきの屋治橋に戻り、渡って今度は右岸沿いに少し行くと国指定重要文化財「二階堂家」がある。ここは前回の時参拝した四十九所神社とは、城山を挟んだ裏側に当たる位置にある。Kouyamagawa2_018

 あいにく天候不順のため雨戸が閉ざされており、見学はできなかった(右の写真)。

 それならと、この道続きにあるという肝付氏第五代兼石の墓を訪ねることにした。約300メートルだろうか、川が間近に迫り、土手に上がろうかという所の左手に標柱が建っていた。行くと伸び放題の草の道の奥、少し山林の中を上がった所に石塔が立ち並んでいた。

Kouyamagawa2_003  驚いたのは、石塔の上に覆いかぶさる椎に木の倒木だ。

 枯れ具合から見るとおそらく去年の台風の時に倒れたままのようだ。さぞ鬱陶しかろうと取り除けたい気持ちはあるのだが、十メートルはあろうかという倒木だ。

 すぐに地元の文化財の先生である T先生に連絡を入れた。すると去年の台風ではないけれども、早速手配しますということだった。

 雨が本降りになってきた。少し上手にある「神之市橋」まで行き、そこから山手に1キロほど上がったところにある高山温泉ドーム(やぶさめの湯)に向かうことにした。

Kouyamagawa2_007  神之市ー―とはどんな由緒なのか、興味がそそられる地名だ。橋の向こうの小高い丘の下あたり一帯が小字「神之市」だ。市という名称にはふさわしくない静かな、むしろ辺鄙な所なので「市」は何かの転訛だろう。ウツか、イツか・・・。

 橋からちょうど1キロでやぶさめの湯である(城山の南麓)。ここのは本物の温泉だ。ただ温度は30度くらいしかないが、入ってみるとそれなりに湯当たりが違う。Kouyamagawa2_001_1

 ドームと名付けられているのは、向かって右のドーム型の浴場があるためだ。当地で生産している木材会社が開発した集成材による木組みで、ドームが造られているという。

 それよりも野菜の百円市がいい。入口の長い屋根の下には左右にぎっしりと地元生産者の野菜が並ぶ。顔写真入りだ。安い安いと買っているとすぐ温泉代(300円)の三倍にもなってしまうから、要注意(重すぎて腕が痛くなっては、何のために温泉に入りに来たのか分からなくなるよナ)。

  マップ(赤十字が神之市。丸に十字は二階堂家)

Mapkouyamagawa2 肝付町のスクロール地図はこちら

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