« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

天体ショー

 6年ぶりという皆既月食を見る。

 日が落ちて、外が完全に暗くなったので庭に出てみた。

 すると赤い月だ。東の空20度ほどの高さに、まるでノストラダムスの予言に出て来そうな、けだるい赤で染まっていた。皆既月食中の微妙な光の屈折でー―ということを知らなければ不気味に感じるに違いない。

 そんな気配が撮影にも現れたか、赤い月が写っていない・・・。ミステリーだ。Kaikigesshoku_002

 8時35分、再び庭に降りる。

 月の左下の部分が、三日月のようになった。よく見ると残りの部分は、まだほんのり赤い。

Kaikigesshoku_003_3

    8時55分、また庭に出る。

 月が半分現れていた。

 こうなると半月だ。おなじみの・・・。

Kaikigesshoku_004_3

 9時15分、さっきやけに藪蚊が耳元をぶんぶん飛んでいたので、蚊取り線香をもって出 る。

 月は9割がた姿を見せていた。

Kaikigesshoku_005_3 

 9時27分、満月に回復した。めでたし、めでたし。

 かぐや姫が現れそうだ。

 かぐや姫の伝承の起源地は、京都南部の京田辺市だそうで、京田辺市に大住という字があり、その近くの月読神社は隼人舞を代々伝えてきている。大隅とのつながりが、満更ないわけではない。

 蚊取り線香の香りと、煌々と照る月明かり。ふと、そんな想いがよぎる。

 

| | コメント (1)

串良川流域散策(その3)

Kushiragawa3_005  林田堰を対岸に渡り、今度は左岸沿いに上って行く。

「林田地峡」の上は三年前に開通した鹿屋と志布志を結ぶ農業用道路(農免道路)で、串良川に架かる「霧島大橋」が高速道路の橋のようなスマートな姿を見せている。

 この前、観音洞を見に行った中野集落から、この農免道路のあるシラス台地に上がってみた。比高40メートルほどあるだろうか、登りついて右折するとすぐにあの霧島大橋Kushiragawa3_004 だ。

 橋の上からは高隈山地の全容が見える。そして直下には青々とした串良川の流れが緩やかに蛇行し、その右手には下中地区の田園が広がっている。息を呑む美しさだ。

 とかくの批判があるものの、公共事業で造られた農免道路とこの霧島大橋ができて、初めて目にすることのできる日本の原点ここにあり、という風景だ。有り難い。Kushiragawa3_030

 橋からその美しい田園に下る。上の写真の串良川の上手に小高い山が見えているが、その山の頂上に近いところにあるのが「霧島神社」だ。

 下中地区の30ヘクタールはあろうかと思われる広い田んぼ地帯の中、まるで人工的に盛り上げたかのような山塊には、天孫降臨後のニニギの命が宮を建てたという伝説がある。Kushiragawa3_029

 急な段々坂を登りつめた所に「霧島神社」があった。

 ここはかっては大きな社が建っていたのだが、島津氏が大隅までを完全に掌握したあと、本家の霧島山から文書などを押収に来たが、直後に火が付けられて灰燼に帰した――という言い伝えもある。とにかく謎を秘めた所なのだ。

Kushiragawa3_006 霧島神社から200㍍余りで下中橋に着く。

橋から先は急にまたシラス台地が迫り、今日の目的地である国道269号線に架かる「生栗須(いけぐるす)橋」近くまでの3キロは、ずっと深山幽谷といった趣の川の姿を見せる。

 途中、物部守屋が本拠地の河内から逃れて住み着いたという伝説のある平瀬地区を通ったが、残念ながら逢う人Kushiragawa3_010 毎に聞いても、要領を得なかった。

 観音迫(かんのんざこ)という小さな谷筋を入った所の人家の山側に、古い石碑などがあったりして、それなりに由緒ありげな場所なのだが、話が古すぎて呆れられるくらいだった(話を聞いた人の三代前は加世田からの移住者だそうだ)。

 それでも沢筋の奥に滝のように流れる豊富な水の流れを見ると、人がひっそりと居着くには持って来いの所だと思われた。

2キロ足らずで平瀬地区に入り、平瀬橋を渡ると、道はシラス台地に上がる。

登り切って平地に出、右折するとすぐ畑の中に石柱が建つ。「北原氏古石塔群」の案内Kushiragawa3_015_2 柱だ。矢印にしたがって行くと民家に行き当たる。断ってから裏手の畑に上がるとそれがあった。

 北原氏は肝付氏二代目の傍流で、串良町の細山田地区を所領 とした中世の領主である。

 肝付氏の大隅治世の一翼を担い、鎌倉期以前から当地方を中心に支配していた。今、初代および二代の逆修塔が残るという。Kushiragawa3_017_2

再び川沿いの道まで降りていこうと思ったが、このままシラス台地のへりを東に向かうことにした。細山田地区を通り抜けると、国道269号線にぶつかる。それを右折すると生栗須橋までの長い下り坂だ。

 半分以上下ったとき、行く手に「北原城」のあった小山が見えてきた。Kushiragawa3_020

  生栗須(いけぐるす)橋を渡らずに橋のたもとを右に入る。少し下ると、そこは広い田園地帯だ。

 ここは普通作の田んぼが多い。ちょうど今、穂が色づき始めたところだ。田んぼの向こうには北原城跡が望まれ、さらにその後には高隈山地が青い。

 ここからは逆に串良川の右岸沿いを下っていく。Kushiragawa3_026

やがて田んぼ地帯は終り、川は急に谷あいに入る。下中橋までは深山幽谷だ。

 ところが谷あいに入りかかった所で、珍しいものに出会った。石切り場だ。不思議なことに石がみな赤味がかっている 。そのとき、あれと同じか――と、ふと思った。Kushiragawa3_025_2

 シラス台地の所々には溶結凝灰岩という火砕流起源の 軟らかい石(軟らかいと言っても、シラスよりははるかに硬い)がある。シラスをえぐって流れる川でも凝灰岩盤のところは削り残してしまう。それが「深山幽谷」を生む。

 この凝灰岩の岩盤は、かっては墓石、門柱、塀など の用途として引っ張りだこだった。加工がし易いせいもある。古墳時代には石棺の材料にも使われた。Kushiragawa3_022_4

 中でも「阿蘇のピンク石」と言われる阿蘇山由来のピンク色の凝灰岩は、はるばる海を越えて畿内の古墳にも使われた。継体天皇陵ではないか とされる大阪高槻市の「今城塚古墳」の石棺がまさにそれだった。

 そのピンク石に似ていると思ったのだ。

  マップ①(赤い十字は霧島山。緑の矢印は下中橋)

Mapshimonaka

マップ②(赤い十字は石切り場。下流の下中橋までは渓谷となる)

鹿屋市のスクロール地図はこちら

Mapikegurisu

| | コメント (0)

串良川流域散策(その2)

Kushiragawa2_003  串良町の中心に架かる新しい豊栄橋から7~800㍍で、国道220号線に架かる「串良橋」だ。

 さすがに大隅半島横断路線らしく、土手からは車がひっきりなしに通過するのが見える。

 川はこのあたりから、串良川が切り開いた(開析した)大塚原田んぼ(東隣りの東串良町から見れば岩弘田んぼ)に入る。Kushiragawa2_004

 串良橋からほんの200㍍上流に架かる「小間瀬橋」のたもとから、その広大な田んぼ地帯を望むと、特徴がよく分かる。

 左右の小高い丘がシラス台地で、串良川が真ん中の白い標識の奥の辺りから流れ下って、洪水のたびに右に流れ、左に流れしてシラスの台地を削り、遂に広々とした平野を造りだしたのだ。Kushiragawa2_006

 小間瀬橋から左岸を上って行くと、800㍍で堰を見る。「昭和堰」だ。現在、水田は早期はすでに刈り取り、普通作ももう穂が出ていて湛水の必要がないため、取水口は開けられていて水が勢いよく流れ下っている。

 白サギと青サギが何羽か、仲良く堰のコンクリートに止まって川の中を覗き込んでいた。

Kushiragawa2_009  そこから500㍍ほどで「大塚原前橋」だ。ここからは串良町側のシラス台地の展望台「大塚山」がすぐそこに見える。

 高さは108mと低いが、標高50㍍ほどののっぺりとした台地にとっては、目立つ存在だ。頂上には最近建てられたばかりのNTTの無線中継塔が見える。

Kushiragawa2_011 1キロ余りで「十五社橋」に着く。

 橋から西(串良町側)を望むと、小さく赤い鳥居が見えるが、そこが十五社神社(後述)で、橋の名はそれから来ている。

 橋の一直線上の先の崖が白いが、あれはシラスである。

橋の少し上流の左岸から東(東串良町側)を見ると、あたかも崖にコンクリートを吹き付けたかのような、異様に切り立った崖が目に入る。これもシラスだ。Kushiragawa2_014

 ここのは事業としてシラスを採取している。家畜舎の床敷き用に、また道路工事の路床の基礎材としても多く使われている。それにしても急傾斜だ。シラス特有の不思議な粘着力のため、あんなに切り立っていても持つのだという。川の削り取った跡が急な崖の理由もこれだろう。Kushiragawa2_016

 十五社橋から1800㍍ほどで、この大塚原田んぼ地帯の最上流部に架かる「林田橋」に着く。ここまで串良町中心の豊栄橋から約5,5キロ。標高差は7㍍だ。

 林田橋の200㍍上流には「林田堰」がある。

 林田堰によって潤される田は400ヘクタールを超え、下流にあった昭和堰とあわせると600ヘクタール以上、Kushiragawa2_020 まさに串良川流域田園地帯の心臓部だ。

 ここでももう田んぼへの通水は終えており、本来の流れが轟々と音を立てていた。

この上は急に谷間が狭くなっている。これを仮に「林田地峡」と名付けておくが、今回はその地峡をくぐらずに、Uターンして西(串良町)の崖沿いに走る県道を戻った。Kushiragawa2_022

林田橋を右岸に渡り、県道を約500㍍下ると、大隅交通の「中野バス停」がある。そのすぐ手前の右への道に入る。そこは中野集落だが、道はほぼ真っ直ぐに続き、500㍍で左に折れる。そうしたらほんの10㍍ですぐに右手に細い道がある。その奥が「中野観音洞」だ。

 洞穴(ガマ)の入口に観音堂と古い水神らしき祠が建っている。左手には大きな地蔵さん(?)も建つ。Kushiragawa2_025

結構遠くからの参拝客があるらしい。何のご利益かは分からないが、衆生済度ならみんなに平等だ。

 それより、ガマへ上がる小さな橋の右手の崖下から流れてくる水の多いのには驚く。シラス台地下によくある湧水だが、ここのは惜し気もなく湧き出している。これこそ観音のご利益だろう。Kushiragawa2_028

 仏教の次は、神道。中野バス停に戻って、県道を1,5キロ下ると赤い鳥居が道路に面して建つ。そこは「十五社神社」だ(写真は神社から串良川方面を見たところ)。

 物部守屋が聖徳太子と蘇我馬子の連合軍に敗れたあと、ひそかに大隅へ落ちのび、その後裔が綿々と続いた。最後は肝付氏の阿多移封後も高山郷に残り、神官として重きをなした「守屋家」となるが、その何十代か前Kushiragawa2_043 の先祖がこの地で祖神を祭っていたという由緒を持つ。

 さて、大塚原田んぼ地帯の最下流の小高い丘の上には「月読神社」が鎮座する。これも物部守屋の後裔が祭ったと言うが、この丘はどう見ても古墳だ。隼人時代つまり投馬国時代の王者の墓にふさわしい高台の一等地ではないだろうか。

 Kushiragawa2_033

 月読神社まで下ったが、そこからUターンすること500㍍、大塚原公民館を見てすぐ左へ上がる道がある。これを登り切ると、右手が大塚山公園入口だ。

 円を描くようにして登ると、頂上に着く。大きなクスなどが生え、意外に広い山頂だ。

きれいな和風トイレの方(南側)に展望所があったのでいってみると素晴らしい風景が待っていた。 Kushiragawa2_034_2 串良川つまり東を見下ろすと、串良川の造りだした大塚原(岩弘)田んぼはもとより、その向こう側の台地のはるか先に志布志湾が広がり、真ん中には何とビロウ島が浮かんでいたのだ。

 また、展望所とは逆の西側の高みからは、鹿屋のバラ園のある「霧島が丘」の低いなだらかな一続きの向こうに、開聞岳がその優美な山容を現していた(クリックで確認)。

  マップー①(赤い十字は大塚山。緑の矢印は十五社神社)

Mapkushiragawa21

 

 

 マップー②(赤い十字は十五社橋。緑の矢印は林田橋)

鹿屋市のスクロール地図はこちら

Mapkushiragawa22

| | コメント (2)

またかァ(子供はつらいよ)

 今年に入って異常に目立つ、両親へあるいは親族への殺傷行為。

 つい一昨日の日曜日にも祖父を殺害して逃げ、今朝の報道では東京の秋葉原で捕まったという少年がいた。

 報道によれば「父親が医者、母親が歯科医」という超エリート家庭の二男だという。といって、こういう家庭でも殺人事件(加害者側だろうと、被害者側だろうと)とは全く無縁でないのは、どこの家庭とも同じだ。

 そうであるにしても、今年の冬は歯科医の息子が妹を殺害し、医者の息子が母親と二人の弟妹を道づれに放火して殺害している。そういうのを見ると、いったいどうなっているのかと息を呑む思いがする。

 「医者は人助けの仕事なのに、その息子が・・・」というような先入観的な見方はとるまい。医者の子もまずは普通の子として生まれてくるのだ。問題はその後の育て方にある。といって、医者の子だから子供も医者に、という育て方は一見すじが通っているようで大人の側の勝手な思い込みに過ぎない。つまりそこには肝心の子供の側の視点がほとんど欠落している。

 むしろ子供にとって、医者とは常に人から「先生」と呼ばれるゆえ、両親のどちらかでも「先生」であると、子供時代が大変なのだ。何故なら、先生の子だと「成績がよくて当たり前、品行もよくて当たり前」で、ある意味で生まれながらにして学校生活上、プレッシャーがかかりっ放しなのだ。先生の子はつらいよ――と言われるゆえんである。

 両親は、子供の立場に立ってそこの所を十分斟酌するべきなのに、先生(医者)である自分の子がこんな成績でよいものか、と逆にプレッシャーの上塗りをしてし、窮地に立たせてしまったのではないか(今度の事件の場合は祖父だったが)。

 先生の子であることで「成績がよくなくてはならぬ」と、すでに自らにプレッシャーをかけ続けている子供は、成績が下がったりした場合、すぐに強い自己処罰的感情に陥るはずだ。その際、親はむしろ慰めこそすれ決して叱ってはならない。その時、叱られなかった子供はどんなにかうれしいだろう。次回こそ、自分を慰め、ゆるしてくれた親に報いようと懸命に努力するに違いない。

 次回にたとえ目に見えて成績が上がらなくても、親はぐっとこらえ「よくやった」と言ってやればいい。次々回はさらに頑張るだろう。そしていずれは・・・・・。子育てとはこれの繰り返しだろう。

 かくのごとく、親は子供に安心感を与え、幸せ感を与えることに熱中すればよい。そこには金は一銭もいらない。文字通り、お安い御用だ。余りにも安すぎて歯牙にもかけない親が多いのは残念である。子供は認められること・褒められることでまず心が伸びやかになり、結果としていろいろなものが伸びてゆくものだ――たとえ親の思い通りにはならないにしても。

 

| | コメント (0)

串良川流域散策(その1)

 一級河川・肝属川の最大の支流が串良川でKushiragawa1_001 、その長さは40キロ近く、本流の肝属川(別名 鹿屋川)が35キロほどなので5キロも長い。

 本来ならより長いほうの川の名が付きそうなものだが、鹿屋川は24、5キロの長さの支流を3本も持っており、流域面積が数倍広いため、全体を代表する川名を与えられたのだろう。

 肝属川河口から4キロの所に俣瀬橋があるが、その上からは500メートル先の合流点を見ることができるKushiragawa1_002 川幅がぐんと広くなり、河口までは大河の趣きで悠然と流れるようになる。

 串良川左岸の土手を遡ると、白い工場のような建物がすぐそこに見えるが、これは肝属東部浄水センターで、上下水道の最終末処理場である。明治の古地図を見ると肝属川はこの建物の向こう(上流)側を流れて、串良川に合流していた。だから、建物の建つ土地は、今も旧高山町に属している(地続きから言えば串良町なのだが・・・)。Kushiragawa1_003

 合流点から、2、5キロ余りで「吉元橋」だ。

 平成8年完成の新しい橋で、串良の田んぼ地帯とと東串良のそれとをつなぐ、重要な橋である。土手の先にこんもり茂った林があるが、明治まで串良川はその向こうへ大きく蛇行していた。右手つまり東へ最大1,5キロも膨らんでいた。

Kushiragawa1_005_2  次の橋「堅田橋」の架かる場所は、その大きな蛇行が始まる部分だ。橋と橋の間が約1,4キロだから、蛇行した川で囲まれた面積は1平方キロ(100ヘクタール)もの広さを測る。洪水さえ防げれば良い田んぼになるが、おそらく乾田化されたのは戦後のことだろう。「堅田」は「硬い土壌の田」ではなく、「片(傍)田」が語源ではないだろうか。

 堅田橋から川越しに台地が見えるが、あれが古墳地帯「岡崎台地」だ(後述)。Kushiragawa1_006

 堅田橋を過ぎると右手(串良川左岸地帯)に広大な田んぼが広がるが、串良町と東串良町を画する大穀倉地帯である。

 これは串良川の沖積平野だが、それだけではなく、水分を含むと泥流化しやすい豊富なシラス土壌と、縄文時代前期の海進とのコラボレーションも大きな要素であった。

 Kushiragawa1_008_3 堅田橋から2,5キロ余りで、串良町の中心部に架かる「豊栄橋」にたどり着く。18年度の改修で、新しく生まれ変わった。

 以前の橋は鉄橋様式で、頑丈至極の物々しい橋だったが、今度のは気が抜けたようにさっぱりとモダンだ。川幅も広げられたらしく、橋よりも川のほうが本来の存在感を見せているのはうれしい。

 Kushiragawa1_010 橋を右岸に渡ると、串良町の中心だ。信号を右折すると旧串良町役場(現・鹿屋市串良総合支所)が右に見え、その向こうに藩政時代の仮屋跡がある。さらにその向こうのこんもりとした丘は、中世の城跡「鶴亀城」である。

 串良郷(近世薩摩藩外城のひとつ)は大郷で、二万石近い米が採れた所だ。外城と言っても城があったわけではなく、藩士(外城士)の住む地域(麓=府下)が行政地域であり、その中心に「仮屋」があって郷支配の万端を司った。

Kushiragawa1_009  串良郷は藩の直轄地で、地頭の仮屋跡が公民館・文化センターなどの施設に隣接する。凝灰岩製の門柱と塀だけが当時の面影を伝えるのみである。

仮屋跡の石碑と門柱(道路の向こうは串良小学校)

 ところで堅田橋から右岸の串良田んぼに下り、そのまま田んぼの中の直線道路を岡崎台地に向かって進むと県道高山・串良線に出る。県道を曲がらずに旧道を真っ直ぐ行くと4~50メートルで、左手へ上がる道がある。Kushiragawa1_011_2

 その台地が岡崎台地で「岡崎古墳群」があるところだ(右の写真で、電柱のすぐ左の杉の生えている所一帯)。現在確認されているのは21基で、15号墳からは「長方板皮綴短甲」という5世紀の鎧や硬玉製の勾玉、18号墳に付随する地下式横穴墳には高さ70センチもある巨大な須恵器の甕が副葬されており、串良川下流域全体を支配する王者が眠っている可能性が高い。

 マップ(赤十字が「堅田橋」で、左上の鳥居マークあたりが岡崎古墳群)

  鹿屋市のスクロール地図はこちら

Mapkushiragawa1

| | コメント (0)

全国戦没者追悼式

 東京武道館で行われた62回目の「戦没者追悼式」。

 国民注視の下、行政府の最高位者である総理大臣と天皇が同じ舞台の上で、ほとんど同じと言ってよい思いを捧げるという稀有なシチュエーション。いや、一般国民とてほぼ同じ思いだろう。

 戦場で命を落とし、また、国土の上で非道なアメリカの無差別大量殺人の標的となった人々やシベリア抑留、あるいは満州の荒野で亡くなった人たち――に同じ国民として追悼の意を捧げる日。

 追悼に異議を挟む人間は居るまい。戦時ならずとも身近に亡くなった人がいれば、誰でもその人への追悼の念は持つ。そこには宗教もなければ、主義主張もないはずだ

 ところがここに「靖国神社」が加わると、ややこしくなる。靖国神社は現在の神社本庁には属さず単立だ、とはいっても神道系の宗教法人であることに変わりはない。今朝の報道で「全閣僚が参拝を見合わせた」とあった。ここ20年で初めてのことだという。閣僚の言い分でもっとも説得力があったのは、公明党の冬柴国土交通大臣だ。いわく「宗旨が違うものですから」。

 宗教法人である以上、こうなるのは目に見えている。もしクリスチャンだったら、あるいは無宗教主義者だったら堂々とそう言って、参拝しなくなるだろう。

 そもそも靖国神社の前身は京都の東山に維新後に建てられた「招魂社」である。その趣旨は「ぺりー来航の1853年以降、維新への激流の中で命を落とした維新政府樹立者側(官軍)の殉難者の魂を祭る」ことであった。したがって当時「朝敵」となった徳川側の戦死者は祭っていない。さらに明治10年、政府に弓を引いた西郷隆盛はじめ薩軍側の死者も除外されている。

 明治維新最大の功労者たる西郷さんの一党が祭られないのは、シンパとしては寂しい。徳川政権を倒し、自分で作ったような明治政府に、盾を衝いたことは衝いた。だが明治22年には「国賊」の汚名は返上されているのだ。・・・もっとも西郷一党には鹿児島の「南洲神社」(西郷南洲顕彰館に隣接)があるが・・・。

 それはそれとして、いずれにしても筆者は宗教色抜きの、まさに今日の「追悼式」で感じられた「天皇、総理大臣、国民共通の思い」で、今日いちにちだけでなく「いつでも、誰でも(外国人でも)主義主張抜きで御参りできる公営の施設」があればよいと切に思う。その上でさらに「敵・味方戦没者追悼の碑(恒久平和記念碑)」もあったらいい、とも思うのだ。

 

| | コメント (0)

真夏だ!妖怪だ!

 何と、肝付町で言い習わされている妖怪「一反木綿(いったんもめん)」が、鳥取県境港市(漫画家・水木しげるの故郷)の観光協会主催の「第一回妖怪人気投票」で、堂々の一位になった、あの「目玉おやじ」を抑えて・・・。

 肝付町立歴史民俗資料館に行ったところ、館長の K氏から新聞の切抜きを見せられた。毎日新聞8月7日版の文化面で、いま「妖怪のこころ」シリーズを載せているが、上の成果を見てわざわざ記者が取材に訪れたという。

 館長の K氏ともうひとりの郷土史家 T氏にインタビューしたそうだ。「一反木綿」とは一反(約11メートル)もある木綿の布が、たいてい夕方に高い所からヒラヒラと舞い降りて人を襲うという妖怪だ。この話が伝承されているのは肝付町高山だが、それも全域ではなくごく限られた範囲だという。それが、何らかのつてで水木しげるの知るところとなり、漫画化されて広まったことになる。

 二人の見解では、遅くまで遊びほうける子供たちに、「暗くなると一反木綿が出るぞ。早く帰って来い」という戒めのために話されたのが真相であろう。そして「一反木綿」がなぜ使われたかについては、次のことが前提だろうという。

 昔は死者が出ると集落の墓地に土葬した。一番新しい墓の周りには、白や赤の吹流しのような布が立てられ、風が吹くとヒラヒラと舞うものだった。中には強い風で宙に舞い上がり、思わぬ方向へ飛んで行ったりした。それをみんな気味悪がったが、そんな事実があったので一種の妖怪として扱われたのではないか・・・・・。

 遊びほうけて時間を忘れる子供は、今は少なくなったろうが、30年前まではごくありふれた風景だった。筆者の生い育ったところでは「人さらいが来るよ」が威し文句だった。そして友達に「カラスが鳴くから帰ろう」などと言い合いながら別れたものだ。そんな光景が今でもまぶたに浮かぶ。古き、良き時代だった・・・。

   鳥取県境港市観光協会のホームページ(水木しげるコーナー)

        肝付町立歴史民俗資料館

| | コメント (0)

参議院不要論?

 この前の参議院議員選挙で、自民党は惨敗した。

 だが、安倍総理は辞めようとしない。党内の相当な大物議員からのブーイングにも、われ関せず、を貫いている。構造改革(教育、公務員、憲法・・・)こそ天与の使命とばかり頑張っているのだろう。

 そもそも参議院のいわゆる「衆議院のカーボンコピー」性にかんがみれば、この選挙の去就は無視してよい――安倍さんはそう思っているのではないか。

 参議院議員は6年間安泰補償付きの特別国家公務員である。とすれば参議院議員は衆議院議員以上の高度な知性と不断の努力で、衆議院立法への睨みと国家の長期にわたる政策ビジョンの策定に奮闘すべきなのに、失礼ながら、まともに「日本国憲法」すら読んでいないような人物が議員になっているのが実情だろう。

 安倍さんはその辺りのことを、疾うに見抜いて、「参議院議員選挙重んずべからず」と高を括っているのかも知れない。もしかしたら「公務員改革」には、そこまでを念頭に置いているのか・・・。

 筆者もその一人だ。二院制(両院制)を採っている民主国家、たとえばアメリカにしてもイギリスにしても、日本の参議院にあたる「上院」は、かっての「貴族もしくは国家功労者」に与えられたポストで、「下院」のお目付け役あるいは相談役である。俸給もぐんと安いはずだ。日本の場合は参議院は「衆議院のカーボンコピー」なので、俸給までもちゃんと「コピー」しているため高い。税金の無駄遣いといわれるゆえんである。

 そこで、参議院は不要とは言わないが、「参議」という言葉の本来の意味からして「知性と品性があり、不偏不党の政策通・経験者で、衆議院議員の議論にも耐え得る者」であるならば、各省の事務次官経験者や都道府県知事経験者の中から選ぶようにすれば良い。俸給は原則無し。ただ実費弁償は行い、日当、交通費、宿泊費など「活動してなんぼ」の日当制にする(要するに政府委員のような制度)。

 どの道、こういう人たちは多額の年金をもらっているはずだ。国のお役に立つ――という金に換算できない名誉のほうを選ぶべきだろう。

 わが町からも「さくらパパ」が比例代表で議員になったが、残念ながら何百枚目かの「カーボン紙」だろう。教育改革に物申すと言うスタンスらしいが、まずは「日本国憲法」をじっくり読んでもらいたいものだ。

 

| | コメント (0)

海水浴場めぐり

 肝属郡錦江町田代と同郡南大隅町根占の二ヶ所に所用があり、出かけた。海岸線の国道269号を走っていると、ようやく真夏の日差しが戻り、海が紺碧の美しさ輝いていた。Kaisuiyokujou_005

 所用を済ませてから、根占町南部の大浜海岸へ行ってみた。ここは8年ほど前に整備され、その名も「ゴールドビーチ大浜」となり、シャワー、トイレ、売店が設けられた。

 ゴールドの名にふさわしい花崗岩質の砂浜で、鉄分を帯びているため赤味がかり、強い日差しの下では金色っぽく見えるというゴージャスな海水浴場だ。

                                                                                  開聞岳を望む  

 指宿方面を望む 

                                             Kaisuiyokujou_006   朝の十時半だが、客はほとんどいない。ただ一組の親子連れが、パチャパチャやっているに過ぎない。完全貸しきり状態だ。もったいない。

 駐車場もあり(無料)、すぐ上を佐多へ通じる国道269号線が通り、国道を渡ると「道の駅・大浜」という超便利な場所なのに、である。水の澄んでいることでは錦江湾沿いの海水浴場では随一だろう。

  

 今度は269号線を北上する。約18キロ(30分)で鹿屋市の浜田海水浴場に着く。Kaisuiyokujou_007今どき数少ない松林を持っている海水浴場で、何組かの家族連れが松の大木の日陰にシートを広げ、子供たちが水遊びするのを見守っていた。

 木陰はたいへん涼しく、受験生はこんな所で教科書を広げるのも悪くないと思った(勉強に自信があればの話だが)。

 ここは駐車料金をとる。普通乗用車が一回、300円。一回ということは一回停めたら、半日でも、一日でも時間制限はない。Kaisuiyokujou_008 だからゆっくり、のんびり過ごすには持って来いの海岸である。

 事実、多くの訪問客は夕方近くやって来て、日が暮れたらバーベキューなどをしているようだ。夜の涼しさはまた格別で、おまけに藪蚊の少ない所なので大いに楽しめる。キャンプも可能だ。

Kaisuiyokujou_013 

浜田海水浴場からわずか2キロ北に高須海水浴場がある。

 海の家、ちょっとしたよしずの屋根などがあり、いちばん海水浴場らしい所だ。高須の街中にあるので入口は目立たない。高須警察署(駐在所)が目印だ。

Kaisuiyokujou_011

 海岸にせり出した緑したたる丘から吐き出されたかのように、沖へ向かって点在する奇岩。これが高須海岸のランドマークである。

ここも駐車料金が必要。駐車場は狭いので、お盆のシーズンは早朝に行くほうが良い。

    

| | コメント (0)

高山川流域散策(最終回)

 源流をたずねて、甫余志岳(967m)を登ることに・・・・・。Kouyamagawa6_001

 再び二股川キャンプ場まで上がり、管理者のS氏に単車を置かせてもらう断りを入れ、甫余志林道を歩き始める。11時だった。

 キャンプ場の向い側、太平洋に面した岸良地区へ伸びる県道高山・岸良線の左手に入ると、甫余志林道だ。約3,5キロで登山口という道しるべが立つ。Kouyamagawa6_005

 林道に入ると50メートルも行かないうちにせせらぎの音が聞こえ始めた。やがて沢の流れがすぐそこに見えてくる。この前歩いた, この甫余志川とは正反対に流れ込む二股川沿いの林道とはえらい違いだ。

 沢が道に沿ってほぼ平行にどこまでもついて来る、と言う塩梅だ。Kouyamagawa6_031_2 時に、差し渡し2メートルもあるような巨岩が文字通りゴロゴロと転がったような流れもあり、度肝を抜かれる。

 林道からせいぜい10m、高低差はわずかに2mほどの所にあるから子供でも十分楽しめるはず。せっかくキャンプに来てこういう所に連れて来ないのはどういうわけだろう。ただ、バーベキューを喰いに来るだけが目的なのか(来ないよりはいいが・・・)。Kouyamagawa6_009

 歩き出して40分、なにやら道しるべが見える。「清純の滝」入口だ。案内にしたがって細道に入り、約5分。突然、道の正面が明るくなった。そして、滝が全貌を現す。

  Kouyamagawa6_012 高さは10m余りとたいしたことはないが、落ち方がいい。末広がりなのだ。清純の滝とKouyamagawa6_013 は誰がどうしてつけたか分からないが、滝の形状から言うなら「末広の滝」だ。

 6段くらいに分かれた岸壁を、右半分はなだれ落ちるように、左半分は絹糸のようにすだれ落ちてくる。そのコントラストがいい。見ていて飽きることがない。滝つぼも大きくはないから、幼児でも遊ばせることができるはず。来ない手はないだろう。

 ここから登山口まであと一キロ。車、十台は停められそうな広場がKouyamagawa6_015 あり、そのすぐ横が登山口だ。

 道しるべの脇に杖が7,8本立てかけてあるので、一本を選んで登ることにする。杖はおそらく高山三岳会の好意だろう。三岳会は、甫余志、黒尊、国見の三山を縦走する藩政時代からの行事を今に伝えようというグループで、登山道の整備を定期的に行っていると聞く。

 さあ、登山開始。七月の4号台風と今度の5号台風の影響だろうか、登山道が川になっている所がある。だが、道はしっかり付いているから問題はない。杉林を抜けて沢の音が近くなると、最後の水場だ。しっかり喉を潤し、ペットボトルに水を満タンにする。

 ここまでが約三十分。行程としてはもう三分の二は来ているのだが、ここからが本格的な登りだ。この水場が標高750mくらいだから、あと200m余り。距離にして一キロもないのだが、ずーっと一本調子の登りなのだ。

Kouyamagawa6_017  十分ほどのジグザグの登りで、尾根筋に出る。木漏れ日が明るく、周りは照葉樹林で覆われている。照葉樹林帯は夏でも日は通さず、木漏れ日程度で歩きやすい。

 だが杉の植林に追われて、今はある程度の高さにしかないから、そこまで上がるのに難儀をしなければならない。

Kouyamagawa6_018_2  明るくなったと思ったら、肩に出た

 木に札がぶら下がっている。見ると、山頂まであと二十分という道しるべだ。 ふくろうの絵が添えられている。岸良中学校の手作りだ。あとわずか二十分だが、ここから先は照葉樹林が途切れ、強い日差しの中を行くほかない。やれやれ。

Kouyamagawa6_019  三十歩歩いては立ち止まって息を整え、あえぎながら登っていった。ちょうど真ん中辺りに来た時だろうか、蝶が目の前に飛んで来た(アサギマダラか)。すぐ二匹になり、登山道の脇に生えている何やら細かい白い花に止まっては蜜を吸うらしかった。そのうちに三匹目も現れて止まった。すぐ目の前だ。

 そうっとカメラを向けるが、少しも意に介さず鷹揚なものだ。感心していたら、少し疲れも飛んだようだった。気を取り直して登り始め、十分ほどでようやく山頂に到着。Kouyamagawa6_024

Kouyamagawa6_022 山頂は巨岩である。見た所、奥行14~5メートル、幅6~7メートルだが、岩自体はそれよりふた周りは大きいだろう。

 山頂の一角には、国土地理院の一等三角点を表す小さな石柱が建っていた。

 晴れてはいるが、湿度が高いせいで風景はもやがかかったように霞んでいる。それでも稜線の先には黒尊岳国見山が望まれた。また、この巨岩の下、天保年間に寄進された「常夜灯篭」らしき石造物の安置された岩陰の所からは、はるかに岸良地区と太平洋をうっすらとと見ることができた(右)。Kouyamagawa6_026

 Kouyamagawa6_025 12時20分に登り始め、水場までが三十分、きつい登りが四十分、所要時間は一時間十分というところか。夏以外なら、一時間で十分のコースだ。

 林道を歩いたおかげで、いつもなら目に付かない清流を堪能した一日だった。

   マップ(赤の十字は「清純の滝」。林道から300メートルの所)

  肝付町のスクロール地図はこちら

Maphoyoshilindou

| | コメント (0)

台風5号がやってきた

 7月としては異例の早さで到来した台風4号の記憶も生々しいのに、もう今年二度目とは・・・。

 今度は東側からやってきた。強風域に入ったのが、けさ(2日)の7時過ぎで、今10時現在、12~3mの北西の風が雨とともに吹いている。

 このまま行けば、あと2時間足らずのうちに暴風域に入ると言う。直撃は免れそうだが、それでも最大30mくらいの風は吹くだろう。家の周りは、この間の4号の時に倉庫に片付けたおいたままなので、暴風対策は少し植木鉢などを取り込むくらいだった。

 テレビのニュースは、台風の話題よりも参院選がらみと、作詞家・阿久悠の死、朝青龍への厳罰、がどのチャンネルでも報じられている。

 まず、阿久悠のこと――まだ70歳だったとは驚いた。僕らが学生だった頃にすでに大ヒットを飛ばしていたのだから。その十年後にピンクレディーが大流行した時、作詞が阿久悠と聞いて唖然とした覚えがある。それにしても、何と幅広い詞を書いていたものだ。こういう人はもう出ないだろう。

 参院選――自民党の惨敗はもう分かっていたことだ。安部さんも分かっていたからこそ開票前から、負けても辞めぬ、と言っていたのだろう。予防線を張っていたわけだ。開票後の完敗が判明した時点で、NHKの参院選特集の番組の中の某論説委員が珍しく声を荒げ、ゲスト出演(映像)していた安部首相に「責任を感じないのか」と詰問していたのが印象的だった。このまま行けば民主党政権も現実味を帯びてくる。

 アメリカとの関係で言えば、民主党の方が良い。物申すべきは、ちゃんと筋を通して言うべきだ。いつまでも「日米同盟は最重要」では日本の身が持つまい。今までは経済、財政が中心だったが、今後、軍事同盟化へシフトしていけば日本の歴史的存在価値はなくなろう。「つまらない小規模な紛争は、俺たちの徹底的な指揮管理の下で日本軍にやらせよう。」というようなことになれば、かっては対共産主義で太平洋の防波堤だったのが、今度は対テロで太平洋の防波堤、つまりアメリカの身代わりになりかねない。

 日本はいかなる大国とも軍事同盟化しない、というスタンスを堅持しなければならない。それが、20世紀という人種差別的植民地主義、夜郎自大の帝国主義の嵐を自らの力でなんとかくぐりぬけて来た非欧米の有色人独立国家日本の使命だろう。

 朝青龍問題――国技である以上、厳罰は当然だ。これはモンゴル人だからという人種差別ではない。日本人の相撲取りでも、あのような虚偽に近い診断書を出して巡業を休み、里帰りした挙句に、自らの意思ではなかったとはいえサッカーに出場するというようなことをすれば当然、ブーイングは起きる。まして横綱なのだ。トップは常に下の者の模範であれというのは、どこの集団でも同じだ。巡業などしなくても俺は強い、巡業じゃ懸賞金も出ないし実入りが悪い、後輩に稽古をつけるのもかったるい――というのであれば即刻辞めるべきだろう。

 ひとり横綱で相撲協会が大目に見ていた、という点もある。それにしても日本人相撲取りはなぜこんなに弱くなったのか。サッカーや野球人気に候補になる子供たちを取られたことも大きいが、それよりもハワイアン巨大力士ばかり招聘した時代の悪弊だろう。

 ああなると少年相撲でも「巨漢、いわゆる百貫デブ」がもてはやされ、ろくに運動神経もないのに体力に物言わせて圧倒する。相撲は好きで神経もそこそこあるのだが、軽量の少年の勝ち目はない。勢い、目はサッカーを中心とするほかのスポーツに移ってしまう。

 大相撲に体重別はないが、高校くらいまでの試合には階級制を設けてもよいのではないか?そうすれば軽量な少年もその技と夢で大きく活躍できるだろう。体重を増やすのは入門後でも十分間に合うはずだ(経験上、痩せるのは難しいが、太るのは簡単だョ)。

| | コメント (0)

早期米の米作り―⑬(最終回)

 収穫だ!天気も上々、うれしいね(下手な俳句になってます)。Komedukurishuukaku_010

 鹿屋市吾平町の鶴峰地区の田んぼでは、黄金色に色づいた田があるなか、とっくに刈り取りを済ませ「架け干し」をしている田、さらには脱穀中の田もあったりして、あちこちに人が出て仕事に精を出していた。

 いつも観察していたN さんの田、I さんの田は、もうコンバインで刈り取ったあとだった。あさってに迫っている台風5号の来る前に刈り取ってもらったのだろう。Komedukurishuukaku_004 その代わり、と言っては何だが、道路向いの田で夫婦が刈り取り作業を行っていた。

 いつもながら農作業中の夫婦の仕事は息も合って手馴れたものだ。夫がバインダーという刈り取り結束機で一条ごとに刈って行くと、妻がその稲束を程よく田面に置き並べていく。次の作業である「架け干し」に備えてのことだ。

                Komedukurishuukaku_008_2 200メートルくらい離れた田で、ちょうどその架け干し最中の人がいたので、撮影させてもらった。

 この地方では一本足の支柱だが、二本足の所も多い。現に筆者が田んぼを作っていた時は、二本足だった。その姿から「架け馬」とも言った。このまま天気がよければ夏だから5日ほどでよく乾き、脱穀をする。Komedukurishuukaku_012_3

  これまた同じ地区内に脱穀中の田んぼがあったので、撮らせてもらう。

 四人が一台のハーベスターという脱穀(脱粒)機に張り付く。他にもうひとりがいて、彼はモミが米袋に一杯になるとハーベスターから下ろして軽トラックに積んでいく。

Komedukurishuukaku_014

  米袋には満タンにして35キロは入るから、トラックに載せるのも一苦労だ。だが、無事の収穫の喜びが、その35キロを「至福の重さ」に変える。このときばかりは「デブが格好いい」に違いない。籾スリさえすれば、明日からでも新米が食べられるのだ。

Komedukurishuukaku_007_2  さっきの田では、老夫婦が昔ながらのバインダーで刈り取っていたが、左上の写真は小型コンバインでの刈り取りと脱穀、左下の写真は中型コンバインでの刈り取りと脱穀で、どちらも刈り取りながら、脱粒までやってしまうという優れものだ。

 ただ、モミの乾燥はお天道様ではなく、モミ乾燥機でやる。たしか48時間くらいの行程だったと思うが、昔気質の人に言わせるKomedukurishuukaku_015_2 「天日でなければ、うまくはなか」だそうだ。また、機械乾燥では来年の梅雨までもたん、とも言う。

 食味研究家でなければ軍配の上げようがないが、新米なら、なんにしても美味いことはうまい。中でも、山がちの冷たい用水の地帯の米は、収量はやや落ちるが「味付き米」とよく言われる。

 つまり、米粒がしまっており、うまみが強いせいで「米に味が付いているから、おかずは要らぬ」というわけ。

 今年は梅雨までは日照時間が短くて心配されたが、梅雨明け後のかんかん照りのおかげで持ち直したようだ。一反(300坪=1000㎡)当たり、モミで16~20袋(約500~600キロ)、白米にして300キロ弱は採れただろう。

 04010002 4ヶ月前のまだ肌寒い4月1日前後に植えた苗が見事に実を結び、収穫の運びになった。

 ちょうどその頃、例年より遅かった桜が満開だった。季節はめぐり、今は田の上を04010013 赤とんぼが舞い、巣立ちを迎えたツバメたちが飛び交う。

 今年の早期米のバージョンはこれにて終了。だが、まだ普通作が青々と田を埋めている。そんな様子もお届けしたいと思う。

            満開の桜(吾平山陵入口にて=4月1日)→

| | コメント (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »