全国戦没者追悼式
東京武道館で行われた62回目の「戦没者追悼式」。
国民注視の下、行政府の最高位者である総理大臣と天皇が同じ舞台の上で、ほとんど同じと言ってよい思いを捧げるという稀有なシチュエーション。いや、一般国民とてほぼ同じ思いだろう。
戦場で命を落とし、また、国土の上で非道なアメリカの無差別大量殺人の標的となった人々やシベリア抑留、あるいは満州の荒野で亡くなった人たち――に同じ国民として追悼の意を捧げる日。
追悼に異議を挟む人間は居るまい。戦時ならずとも身近に亡くなった人がいれば、誰でもその人への追悼の念は持つ。そこには宗教もなければ、主義主張もないはずだ。
ところがここに「靖国神社」が加わると、ややこしくなる。靖国神社は現在の神社本庁には属さず単立だ、とはいっても神道系の宗教法人であることに変わりはない。今朝の報道で「全閣僚が参拝を見合わせた」とあった。ここ20年で初めてのことだという。閣僚の言い分でもっとも説得力があったのは、公明党の冬柴国土交通大臣だ。いわく「宗旨が違うものですから」。
宗教法人である以上、こうなるのは目に見えている。もしクリスチャンだったら、あるいは無宗教主義者だったら堂々とそう言って、参拝しなくなるだろう。
そもそも靖国神社の前身は京都の東山に維新後に建てられた「招魂社」である。その趣旨は「ぺりー来航の1853年以降、維新への激流の中で命を落とした維新政府樹立者側(官軍)の殉難者の魂を祭る」ことであった。したがって当時「朝敵」となった徳川側の戦死者は祭っていない。さらに明治10年、政府に弓を引いた西郷隆盛はじめ薩軍側の死者も除外されている。
明治維新最大の功労者たる西郷さんの一党が祭られないのは、シンパとしては寂しい。徳川政権を倒し、自分で作ったような明治政府に、盾を衝いたことは衝いた。だが明治22年には「国賊」の汚名は返上されているのだ。・・・もっとも西郷一党には鹿児島の「南洲神社」(西郷南洲顕彰館に隣接)があるが・・・。
それはそれとして、いずれにしても筆者は宗教色抜きの、まさに今日の「追悼式」で感じられた「天皇、総理大臣、国民共通の思い」で、今日いちにちだけでなく「いつでも、誰でも(外国人でも)主義主張抜きで御参りできる公営の施設」があればよいと切に思う。その上でさらに「敵・味方戦没者追悼の碑(恒久平和記念碑)」もあったらいい、とも思うのだ。
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