串良川流域散策(その3)
「林田地峡」の上は三年前に開通した鹿屋と志布志を結ぶ農業用道路(農免道路)で、串良川に架かる「霧島大橋」が高速道路の橋のようなスマートな姿を見せている。
この前、観音洞を見に行った中野集落から、この農免道路のあるシラス台地に上がってみた。比高40メートルほどあるだろうか、登りついて右折するとすぐにあの霧島大橋 だ。
橋の上からは高隈山地の全容が見える。そして直下には青々とした串良川の流れが緩やかに蛇行し、その右手には下中地区の田園が広がっている。息を呑む美しさだ。
とかくの批判があるものの、公共事業で造られた農免道路とこの霧島大橋ができて、初めて目にすることのできる日本の原点ここにあり、という風景だ。有り難い。
橋からその美しい田園に下る。上の写真の串良川の上手に小高い山が見えているが、その山の頂上に近いところにあるのが「霧島神社」だ。
下中地区の30ヘクタールはあろうかと思われる広い田んぼ地帯の中、まるで人工的に盛り上げたかのような山塊には、天孫降臨後のニニギの命が宮を建てたという伝説がある。
急な段々坂を登りつめた所に「霧島神社」があった。
ここはかっては大きな社が建っていたのだが、島津氏が大隅までを完全に掌握したあと、本家の霧島山から文書などを押収に来たが、直後に火が付けられて灰燼に帰した――という言い伝えもある。とにかく謎を秘めた所なのだ。
橋から先は急にまたシラス台地が迫り、今日の目的地である国道269号線に架かる「生栗須(いけぐるす)橋」近くまでの3キロは、ずっと深山幽谷といった趣の川の姿を見せる。
途中、物部守屋が本拠地の河内から逃れて住み着いたという伝説のある平瀬地区を通ったが、残念ながら逢う人 毎に聞いても、要領を得なかった。
観音迫(かんのんざこ)という小さな谷筋を入った所の人家の山側に、古い石碑などがあったりして、それなりに由緒ありげな場所なのだが、話が古すぎて呆れられるくらいだった(話を聞いた人の三代前は加世田からの移住者だそうだ)。
それでも沢筋の奥に滝のように流れる豊富な水の流れを見ると、人がひっそりと居着くには持って来いの所だと思われた。
2キロ足らずで平瀬地区に入り、平瀬橋を渡ると、道はシラス台地に上がる。
登り切って平地に出、右折するとすぐ畑の中に石柱が建つ。「北原氏古石塔群」の案内 柱だ。矢印にしたがって行くと民家に行き当たる。断ってから裏手の畑に上がるとそれがあった。
北原氏は肝付氏二代目の傍流で、串良町の細山田地区を所領 とした中世の領主である。
肝付氏の大隅治世の一翼を担い、鎌倉期以前から当地方を中心に支配していた。今、初代および二代の逆修塔が残るという。
再び川沿いの道まで降りていこうと思ったが、このままシラス台地のへりを東に向かうことにした。細山田地区を通り抜けると、国道269号線にぶつかる。それを右折すると生栗須橋までの長い下り坂だ。
半分以上下ったとき、行く手に「北原城」のあった小山が見えてきた。
生栗須(いけぐるす)橋を渡らずに橋のたもとを右に入る。少し下ると、そこは広い田園地帯だ。
ここは普通作の田んぼが多い。ちょうど今、穂が色づき始めたところだ。田んぼの向こうには北原城跡が望まれ、さらにその後には高隈山地が青い。
やがて田んぼ地帯は終り、川は急に谷あいに入る。下中橋までは深山幽谷だ。
ところが谷あいに入りかかった所で、珍しいものに出会った。石切り場だ。不思議なことに石がみな赤味がかっている 。そのとき、あれと同じか――と、ふと思った。
シラス台地の所々には溶結凝灰岩という火砕流起源の 軟らかい石(軟らかいと言っても、シラスよりははるかに硬い)がある。シラスをえぐって流れる川でも凝灰岩盤のところは削り残してしまう。それが「深山幽谷」を生む。
この凝灰岩の岩盤は、かっては墓石、門柱、塀など の用途として引っ張りだこだった。加工がし易いせいもある。古墳時代には石棺の材料にも使われた。
中でも「阿蘇のピンク石」と言われる阿蘇山由来のピンク色の凝灰岩は、はるばる海を越えて畿内の古墳にも使われた。継体天皇陵ではないか とされる大阪高槻市の「今城塚古墳」の石棺がまさにそれだった。
そのピンク石に似ていると思ったのだ。
マップ①(赤い十字は霧島山。緑の矢印は下中橋)
マップ②(赤い十字は石切り場。下流の下中橋までは渓谷となる)
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