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串良川流域散策(その1)

 一級河川・肝属川の最大の支流が串良川でKushiragawa1_001 、その長さは40キロ近く、本流の肝属川(別名 鹿屋川)が35キロほどなので5キロも長い。

 本来ならより長いほうの川の名が付きそうなものだが、鹿屋川は24、5キロの長さの支流を3本も持っており、流域面積が数倍広いため、全体を代表する川名を与えられたのだろう。

 肝属川河口から4キロの所に俣瀬橋があるが、その上からは500メートル先の合流点を見ることができるKushiragawa1_002 川幅がぐんと広くなり、河口までは大河の趣きで悠然と流れるようになる。

 串良川左岸の土手を遡ると、白い工場のような建物がすぐそこに見えるが、これは肝属東部浄水センターで、上下水道の最終末処理場である。明治の古地図を見ると肝属川はこの建物の向こう(上流)側を流れて、串良川に合流していた。だから、建物の建つ土地は、今も旧高山町に属している(地続きから言えば串良町なのだが・・・)。Kushiragawa1_003

 合流点から、2、5キロ余りで「吉元橋」だ。

 平成8年完成の新しい橋で、串良の田んぼ地帯とと東串良のそれとをつなぐ、重要な橋である。土手の先にこんもり茂った林があるが、明治まで串良川はその向こうへ大きく蛇行していた。右手つまり東へ最大1,5キロも膨らんでいた。

Kushiragawa1_005_2  次の橋「堅田橋」の架かる場所は、その大きな蛇行が始まる部分だ。橋と橋の間が約1,4キロだから、蛇行した川で囲まれた面積は1平方キロ(100ヘクタール)もの広さを測る。洪水さえ防げれば良い田んぼになるが、おそらく乾田化されたのは戦後のことだろう。「堅田」は「硬い土壌の田」ではなく、「片(傍)田」が語源ではないだろうか。

 堅田橋から川越しに台地が見えるが、あれが古墳地帯「岡崎台地」だ(後述)。Kushiragawa1_006

 堅田橋を過ぎると右手(串良川左岸地帯)に広大な田んぼが広がるが、串良町と東串良町を画する大穀倉地帯である。

 これは串良川の沖積平野だが、それだけではなく、水分を含むと泥流化しやすい豊富なシラス土壌と、縄文時代前期の海進とのコラボレーションも大きな要素であった。

 Kushiragawa1_008_3 堅田橋から2,5キロ余りで、串良町の中心部に架かる「豊栄橋」にたどり着く。18年度の改修で、新しく生まれ変わった。

 以前の橋は鉄橋様式で、頑丈至極の物々しい橋だったが、今度のは気が抜けたようにさっぱりとモダンだ。川幅も広げられたらしく、橋よりも川のほうが本来の存在感を見せているのはうれしい。

 Kushiragawa1_010 橋を右岸に渡ると、串良町の中心だ。信号を右折すると旧串良町役場(現・鹿屋市串良総合支所)が右に見え、その向こうに藩政時代の仮屋跡がある。さらにその向こうのこんもりとした丘は、中世の城跡「鶴亀城」である。

 串良郷(近世薩摩藩外城のひとつ)は大郷で、二万石近い米が採れた所だ。外城と言っても城があったわけではなく、藩士(外城士)の住む地域(麓=府下)が行政地域であり、その中心に「仮屋」があって郷支配の万端を司った。

Kushiragawa1_009  串良郷は藩の直轄地で、地頭の仮屋跡が公民館・文化センターなどの施設に隣接する。凝灰岩製の門柱と塀だけが当時の面影を伝えるのみである。

仮屋跡の石碑と門柱(道路の向こうは串良小学校)

 ところで堅田橋から右岸の串良田んぼに下り、そのまま田んぼの中の直線道路を岡崎台地に向かって進むと県道高山・串良線に出る。県道を曲がらずに旧道を真っ直ぐ行くと4~50メートルで、左手へ上がる道がある。Kushiragawa1_011_2

 その台地が岡崎台地で「岡崎古墳群」があるところだ(右の写真で、電柱のすぐ左の杉の生えている所一帯)。現在確認されているのは21基で、15号墳からは「長方板皮綴短甲」という5世紀の鎧や硬玉製の勾玉、18号墳に付随する地下式横穴墳には高さ70センチもある巨大な須恵器の甕が副葬されており、串良川下流域全体を支配する王者が眠っている可能性が高い。

 マップ(赤十字が「堅田橋」で、左上の鳥居マークあたりが岡崎古墳群)

  鹿屋市のスクロール地図はこちら

Mapkushiragawa1

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