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肝属川流域散策(最終回)

Kimotukigawa6_001  肝属川流域散策の最後に向かう途中、以前、市役所から北田交差点までのアーケード通りからの高隈山の眺めは、信州八ヶ岳に似ていると書いたが、今日、その雄大な姿を捉えることができた。

 中央に屹立しているのは高隈山系の南の主峰「御岳(みたけ)=1182m」だ。八ヶ岳の主峰赤岳の2800mには比ぶべきもないが、標高差から見ると、アーケード街の海抜が22~3mだから1160m。

 一方の八ヶ岳は登山口の清里高原が海抜1300mなので、標高差1500mだ。その差はわずか300m余りでしかないのである。Kimotukigawa6_003

 さて、この前の最後の場所は祓川小学校だった。そこから150メートルで「祓川地峡」を通過すると、上祓川地区に入る。

 500メートルほど行って右へ折れると、大久保橋だ。下流を眺めるとここからも「祓川地峡」が手に取るように見える。向かいの田んぼは間もなく刈り取りが始まりそうだ。その奥に大久保集落がある。

Kimotukigawa6_004 再び国道504号線(高隈街道)に戻ると、西側の田は刈り取りを終えており、「架け干し」の稲がもうすっかり乾燥して薄茶色になっていた。

 向こうに見える山はさっき紹介した「御岳」。その左の尾根上のピークにはNHKをはじめ、テレビ各局のアンテナが立つ。鹿屋市全域をカバーする見晴らし抜群の岩山だ。

Kimotukigawa6_007

街道をすこし行った所で、稲刈り真っ最中の親子に出くわした。

 この農家の架け干し用の立て棒は変わっていて、ビニールハウス用のパイプを転用していた。農家の工夫は意外に大きいものがある。発明はそうざらにはないが、工夫は到るところにあるといってよい。Kimotukigawa6_010

上祓川郵便局を右手に見ると、道は左へカーブするが、約100㍍で左手に入る道がある。「瀬戸山神社」への参道だ。道はほぼ直線で神社に達する。およそ900㍍はある。

 鳥居が見えてからしばらく進むと右手にグラウンドがあり、その先に「五代寺の仁王像」のプレートが見える。

 Kimotukigawa6_033_2 五代寺はもと瀬戸山神社のすぐ下にあったというが、廃仏毀釈で伽藍が取り壊され、かろうじて残された仁王像をはじめ石仏や住職の墓石の一部がとりまとめられてここに移設されたそうだ。

 Kimotukigawa6_012  鳥居をくぐり、杉の並木を5~60㍍行くと階段になり、上がってみると意外に境内は広い。

 参拝をして「参拝者名簿」に記入しがてら、ページをめくってみると、遠い人は福岡から来ていた。

 瀬戸山神社の創建の由来は分かっていない。かっては「熊野六所大権現」といわれたそうで、修験道(山岳信仰)の拠点でもあった。目指すお山は当然高隈山で、宿坊もあったという。Kimotukigawa6_014 神社に向かって右手には祓川が流れている。水垢離をした川だったのだろう。祓川という地名の原点がここにある。

階段を上がりきった所に一対の石柱が立っていた。見ると鹿児島城下の下町に住む岩下治兵衛の奉納で、年代は「明和5年(1768)」とあり、240年前のものだった。

 階段の向こう側に見える木は椎の木で、根元には空洞もあるが直径は2㍍を超え、高さは24~5㍍だろうか、神木と言うにふさわしい貫禄がある。Kimotukigawa6_016

 参道入り口の国道まで戻り、さらに上流を目指すとほんの150㍍も行ったところに「寺街道(てらんけど)」のバス停があり、すぐそこの道の入り口に「やまでら鉱泉」の標識。導かれて左に入ると100㍍余りで鉱泉だ。

 右に入ると広い駐車場が見え、その奥に鉱泉があった。

 創業が昭和41年というこの鉱泉は、地元の木田虎男という人が作った。今は一線を退き、娘夫婦に任せている。婿は谷本氏で、岡山の出身だそうだ。

Kimotukigawa6_019 いろいろ話を聞いてみると、史跡には興味があり、よくそういう所へ出かけるという。近所にも珍しい墓があると教えてもらった。鉱泉の東側の隣家といってよい時村家の墓だ。修験にかかわって非業の死を遂げた先祖のものだった。

 やまでら鉱泉  泉質は単純泉で、傷によい

           営業時間 8時~21時  大人 360円

           定休日  火曜日
 

Kimotukigawa6_029 国道に戻り、高隈方面を目指す。

 1キロほどで上祓川の田園地帯を抜け、山間に入っていく。川は国道に付かず離れず流れるが、見る間に細い流れとなり吉ヶ別府地区(下高隈町)に入ると、もうただの小川のようになる。このあたりの海抜はまだ90mほどだが。

 吉ヶ別府のバス停を見て50㍍足らず、小さな道が交差するので、そこを左折する。

Kimotukigawa6_027 100㍍ほどで「吉ヶ別府観音堂」だ。村の鎮守様という感じだが、神様ではなく観音様、それも馬頭観音だという。Kimotukigawa6_028

物の本によると「旧暦1月18日には多数の参拝者があり、牛馬へのお守りをいただく。その守護仏は獅子王観世音菩薩」だそうだ。

本堂の前庭に立つ観音像は三面で、どの顔も実に柔和である。馬はごく少なくなったが黒毛和牛は盛んだから、まだ信仰は守られているのだろう。

 肝属川はこの観音堂から1キロ半で源流に達する。Kimotukigawa6_037_2

 帰りは国道を戻り、上祓川郵便局の手前からいったん川に降り、芝原橋を渡って 広大な笠野原台地の一角に上がることにした。

 上祓川地区を流れる肝属川はこれといって見所の無い小河川だが、芝原橋のあたりは珍しく自然な姿を見せていた。吉ヶ別府から「祓川地峡」まで約4キロを流れ潤している、やさしい母なる川の姿がそこにあった。

   マップ(赤い十字はやまでら鉱泉。矢印は吉ヶ別府観音堂)

Mapyamaderakousen

 

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かわいがり?

 大相撲の時津風部屋所属の力士が「かわいがり」で命を落とした。

 親方や兄弟子たちは「力を付けてやろうと、特別に目を掛けた」気持ちだったらしいが、「かわいがり過ぎた」のが仇となってしまった。俗に言う「しごき」事件だが、大相撲のしきたりではままあることだという。

 しかし結果として前途のある若者をあやめたことには変わりなく、時津風部屋の責任と大相撲(日本相撲協会)の体質が問われることになった。

 朝青龍の問題が片付かないうちに更なる不祥事に見舞われた相撲協会も、「国技」(法律上のしばりはないが)であることに胡坐をかかず、いかに日本の若者を大相撲に呼び戻すかを真剣に考えなくてはなるまい。

 ひとつ考えられるのは「相撲学校」ではないか。今のスカウトは、前途ありそうな若者を、相撲部屋が個別に直接会って了解を得たら自分の部屋に連れてくる、というシステムである。右も左も分からない少年にとって、そこに選択の余地はほとんどない。

 それより、まずは相撲の道に進もうという若者を「相撲学校」に入れ、そこで相撲のいろはから教えればよい。全寮制にし、費用は相撲協会の負担でやるようにする。大相撲は元来「神事」だったのであるから、そういう事も稽古の合間に教えなければならない。1~2年みっちり学んだあと、プロ野球のドラフト制度のような形で各部屋に振り分ける。

 その後も「かわいがり過ぎる」部屋だったら、本人の希望で変えられるようにしたほうがよい。人権無視などと言われるよりはすっきりしよう。

 そもそも「かわいがる(可愛がる)」という言葉は和語ではない。先にまず日本式漢文の「可愛」(愛すべき)があって、「愛すべき」と言っていたのが、漢音につられて「カ・アイ」から「カアイイ」になり「カワイイ」となったものだ。

 和語では同じ意味を「いつくし」「いつくしむ」と言う。「いとおしい」も近い言葉だ。

 「いつくし」の語源は「いつく(伊都久=斎く)」で、本来は神事にかかわる用語である。平たく言えば「うやうやしく(神に)仕える」ことで、したがって「~をいつくしむ」(かわいがる)とは可愛がる対象に「うやうやしく仕える」ことに他ならない。

 母親が子をいつくしむ(慈しむ)時、まさにそうしているではないか。ワーと泣けばそばに行って「どうしたの」と「侍り」、怪我をすればやはりそばに「侍って」手当てをする。「はらへった」と言われれば、すぐに何かを持ってきて食べさせる。傍から見れば何のことはない、文字通り子供に振り回されているのだが、母親は恬として省みずに子に「うやうやしく仕え」て倦むことを知らない。

 子供は「神様からの授かりもの」であるからできる業で、もし子供が自分の「作ったもの」という意識が強かったら、忍耐にも限度があるだろう(子供は作るもの――という観念が普及しだしてから、親子関係が「神々しく」なくなってしまったような気がする。原材料を言え、製造原価はいくらだと言ってやりたくなる)。

 「授かる」とは「預かる」と同根の言葉で、子供を授かるとは「子供を(神様から)預かる」ことだろう。預かった以上は「いつくしんで」細心の注意を払いつつ育てなければなるまい。

 いつくしむ上で「この子のこれは世間の道理に外れている」と思ったら、叱責(愛のムチ)も必要だが、行き過ぎては逆効果だ。大相撲を目指す若者が少なくなっている中、せっかく入門し親から預かった斉藤君の死は惜しむに余りある。

 

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十五夜の綱引き(肝付町川上・片野)

 今年は9月25日が旧暦の8月15日、つまり中秋の名月。昔どおり旧暦を守ってこの日に十五夜行事をすると聞いて、肝付町の中心から9キロほど高山川上流に位置する川上地区に出かけた。

 今はもう川上地区の中心「片野集落」にしか残っていないという、十五夜の綱引き

 以前、錦江町田代の大原地区に住んでいたときは、やはり旧暦通りにやっており、三回ほどカズラ、萱の採取から綱練り(大綱を作ること)まで参加したことがあった。雨に遭ったことはないが、多少の雨でも日を改めたりせずにやってしまうのが彼の地のしきたりだった。

 こちらもそうだろうと思って、夕方、ちょっとした雨が降ったけれども、川上に行くことにした。

 片野公民館に行くと、集落長(振興会会長)が居たので聞いてみたところ「雨が降っても、シートを屋根替わりにしてやってしまう」とのことだった。

 綱引きは、満月(月の神=ツキヨミノミコト)に対する成長感謝儀礼だと思うが、豊作への祈り(予祝)の神事と考えられもする。ツキヨミノミコトはアマテラス、スサノオと同時にイザナギ命によって日向のアワギ原で生まれたことになっているが、アマテラスが高天原、スサノオが海原を統治するのに対して「夜食国(よるのおすくに)」を司る神だ。

 夜の食といっても夜食のカップラーメンではない。

 人間を含めて、地球上の生物は動物でも植物でも、夜、寝ている間に肉体を成長、あるいは回復する。このとき身体の中では栄養たっぷりの血液が身体の隅々まで行き渡り、その結果細胞が成長したり、受けたダメージを修復したりする。これを司るのがツキヨミノミコトである。

 十五夜の綱引き行事で綱を作る際、かっては子供が中心になって山からカズラを採ってきて材料にしたという。綱を引くのも大人も子供も一緒だし、そのあと土俵に上がって相撲をとるのは子供だけだ。成長著しい子供の元気な姿は、ほかの何にも増して月の神をよろこばせるからだろう。

Juugoyatunahikikatano_001 もう少しで川上地区というところ。 暮れなずむ田んぼと山々。Juugoyatunahikikatano_004

7時十五分前、三々五々子供たちが片野公民館へ。灯りはペット ボトル電球だ(絵も描いてある)

            

Juugoyatunahikikatano_005 土俵の真ん中に小さな砂の山がある  Juugoyatunahikikatano_007                       

さあ、7時だ。土俵の前に集合。 でも、川上小・中あわせて17名だそうだ

Juugoyatunahikikatano_012 蛇(竜?)がとぐろを巻いたように 置かれている綱に、お神酒を。Juugoyatunahikikatano_016

二人の男性がとぐろを 挟み、鉦と太鼓で神降 ろし?祭り開始のセレモニー

Juugoyatunahikikatano_017 いよいよ綱を引っ張り出す Juugoyatunahikikatano_024_2

みんな綱を持ったかァ。始めるぞォ

Juugoyatunahikikatano_025

それ引け、ワッショイ! Juugoyatunahikikatano_030_2

勝負はまだかな、ウントコショ

Juugoyatunahikikatano_027

上空はるかにお月様

Juugoyatunahikikatano_034_4 

                   やれやれ終わった。鉦と太鼓で終了のセレモニー  Juugoyatunahikikatano_035                                                                  

土俵の上の砂山は神座だった。相撲が始まる前の儀式

    Juugoyatunahikikatano_038_3

低学年は土俵に上が っても屈託がないJuugoyatunahikikatano_040_5

               高学年は真剣だ

Juugoyatunahikikatano_041 孫が楽しみ

ほら、きばらんか!Juugoyatunahikikatano_043_2

     お月様も見てござった

     

     マップ(肝付町川上・片野公民館)

Mapkouyamakatano

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肝属川流域散策(その5)

 Kimotukigawa4_030 国道220号線のバイパスに架かる鹿屋大橋から北方面を眺める。

川は左へ大きく迂回し、右手の左岸地帯に田んぼが広がる。そこは西祓川地区だ。流域には珍しくゆるい段丘になっている。

 高隈街道は右奥の山すそを走り、中央上に見える真っ白い池田病院の向こう側から丘を越えて次の大園地区に入る。

 川のほうは、池田病院の左手のこんもりとした丘の下を回り込んでいるので、Kimotukigawa5_025 病院の先、200㍍余りを左へ折れ、橋を渡って右岸に渡る。すぐ右折すると車も滅多に通らないうっそうとした樹林帯に入る。

 ほんの僅かで「外園橋」が右手に見えるので行ってみる。

 上流は見ての通り地峡になっている。川はこの先右へ大きく迂回し、この橋を渡った地区は川に突き出た袋状になっている。 Kimotukigawa5_017_2

 右岸沿いの約500メートルの道は樹林のため昼なお暗い。右手には時おり清流が姿を見せる。ウォーキングには絶好のルートだろう。沢水の音が聞こえると、井堰が目に入る。手前と奥からとダブルの井堰だ。西祓川一帯の田んぼに水を供給している。

 井堰の向かい側には「長谷観音堂」がある。奈良の長谷寺の十一面観音信仰の流れを汲むもので、16世紀初頭の銘入りの観音菩薩立像があるというが、確認はできなかった。Kimotukigawa5_019

 それより、ここはまた「長谷城址」でもある。長谷城を建造したのは富山(とみやま)氏で弁済使として入部し、城は13世紀の初めごろ造ったらしい。富山氏は平安末期から鎌倉初期にかけて大隈南部では肝付氏に並んで勢力を振るい、子孫は大姶良氏、獅子目氏、横山氏というように大姶良川流域に展開している。

 面白いのは本堂手前に建つ手水鉢である。刻銘によると明治の頃、指宿村岩本の女性が病気療養のため縁故を頼ってこの地区にやってきて、見事に2ヶ月ほどで回復した。その御礼に手水鉢を寄進したという。Kimotukigawa5_021

 また本堂の右手には「古石塔群」があるが、この作り(技法)を調べることで富山氏の進出が裏付けられた。これらは供養塔の一種である「逆修塔」で、その双輪文様によって富山氏のものと判定された。

 Kimotukigawa5_028 観音堂から約200㍍で高隈街道に出る。右へやや戻ると街道にかかる橋があるが、そこから上流側にはもうひとつの優美な石橋「大園橋」が架かっている。

 明治37年竣工のこの橋は、鹿児島の伊敷石工を招いて造らせたという。よく見ると「ピンク石」だ。串良川の北原地区でピンク石が採れたが、もしかしたらあの石かもしれない。

 車は通ることはできないが、人間なら今でも通ることが可能だ。

 Kimotukigawa5_013 ここからわずかで右へ入る道がある。笠野原台地へと上っていく道だが、橋を渡り、いよいよ上り道というところで左折する。すると直に肝属川左岸の結構広い田んぼ地帯だ。南北1キロ余り、平均の幅(東西)0.5キロの「ウツ(宇都)」状の河谷に開けた祓川地区である。

 いよいよ田んぼ地帯に入るというところで、思わず息を呑む。架け干しだ、しかも木製の馬(立て棒)じゃないか。いまどき木製は珍しく、多くはアルミ製か何かの金属棒を使うようになったのだが。

Kimotukigawa5_011_2 彼岸花もいい、背景の山もいい、ついでにせっせと架けている婆さんたちもいい。写真を撮らせてと頼む。―あら、よう・・・。 後ろを向かれてしまった。よくあることだ。

 帰り際にこう言った。―そういや、こん前も、誰かが写しっきちょった。なんだ慣れているんじゃん、と言いたかった。

 まあ、そうだろう。こんな懐かしい光景は一年にいっぺんしか見られないから・・・。

Kimotukigawa5_009 おばさんたちの田んぼからさらに北へ500㍍、秋の里山風景を満喫しつつ行くと、ああ、今年も来てしまった。小さな丘が目に入る。上にちょこんと乗った田の神が、おいでおいでをしている。Kimotukigawa5_008

 で、今年も登って(比高2.5m)、はいこんにちわでパチリ。

 高さは30センチほどのベビー田の神。今年はより一層、首をかしげているように見える。笑っているのだろう。台風もなく、高温のままだったから豊作万々歳!だ。

 それにしても、あたり一面平らな水田の中に取り残されたような小丘は、古墳の名残りか。近くの人に聞いても―分からん、と言うが、不思議な光景だ。

Kimotukigawa5_004 そこを過ぎて祓川の田んぼ地帯が終わりに近づく頃、向こうの二つの丘がせり出してきてぶつかりそうに見えるのに気づく。「祓川地峡」だ。

 一番狭いところは、川幅のほかには高隈街道だけがやっと通り抜ける程度。50メートルあるかないかで、誰が見ても「狭い!」と驚く。あの向こうはかなりの年代、池か沼だったろう。

Kimotukigawa5_003 橋を過ぎるとまもなく高隈街道に出る。そこは祓川小学校のところだ。まず目に入るのが校庭の真ん中に堂々とそびえる木。栴檀の古木である。

 学校全体が緑に覆われているような学校だ。

  栴檀や 緑したたる 過疎の校

  マップ(赤い十字は長谷観音堂。矢印は大園橋)  

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Mapharaigawa2

 

            

 

 

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肝属川流域散策(その4)

4回目は田崎池から開始した。田崎池の傍らを流れる上谷川は、肝属川の西のシラス台地を割って流れる小Kimotukigawa4_001 さな河川で、鹿屋の下町を流れたあと、池から100㍍余りで肝属川に合流する。

 川と川とが出合う内側は、古来、聖地である場合が多い。城、館、神社などがそこに営まれやすいのである。明治時代の河川改修前の古地図を見るとここでも、ははあと思わせる円形の丘があった。

 右の写真の川は上谷川で、真ん中の十階建てほどあるホテルのすぐ下を流れるのが肝属川。写真の右手100㍍ほどの所に肝属川との合流点がある。丘、つまり古墳と思しき丘は、左のブルーの屋根の建物の向こう側にあった。Kimotukigawa4_002

 今は全くの平地で、それを偲ばせるものはない。

 さて、さっき紹介したホテルの下まで行き、そこから肝属川の土手沿いの道を走る。すると川は右に曲がり、ほぼ北上していくことになる(川の流れからすれば南流)。見える橋は「古城橋」で、近くに古城があったことを示している。橋を左へ折れると、正面に「旧鹿屋駅」がある。Kimotukigawa4_035

 大隅線の中央駅がこの鹿屋駅だった。錦江湾沿いの古江駅から高須駅を通り、シラスの急勾配を登って、野里駅に出る。そこからは平坦な笠野原台地を、海上自衛隊鹿屋航空隊基地の長いフェンス沿いに走ってここに着く。

 隣は鹿屋市役所だが、この駅と庁舎を含めたあたりを伝説上「国司山」と呼んでいる。大隅国が置かれる(和銅6=713年)と、国司も選任されたが、国司は国分の大隅国庁舎にいるばかりでなく、地方にも巡察にやってきたという。

 鹿屋ではこのときに隼人の叛乱が起きて国司が殺されたとの伝承があり、そのことを伝えるのが「国司塚」のいわれだともいう。これは再考の余地があるだろう。殺された場所は国分であるのが確実だからだ。Kimotukigawa4_004

市庁舎の前から北に向かう道は高隈へ通ずる古い道だ。往年の銀座通りと言ってもよい。立派なアーケードがあるけれど、御多聞にもれずここもシャッター展示会場となりつつある。

 天気がよければこの道の正面に高隈山の御岳が堂々とした山容を見せる。どこか信州八ヶ岳の雰囲気があり、好きな風景なのだが、あいにくであった。

Kimotukigawa4_007 アーケード通りを800㍍ほど行くと、北田交叉点だ。ここは今、再開発によって大きく変わった。交叉点の先の右手「リナシティかのや」という名のビルが目玉の建物になっている。川の右岸にも面していて、最も交通量の多い橋「鹿屋橋」のすぐ向こうには、円形の面白い親水施設ができている。

Kimotukigawa4_008 Kimotukigawa4_009

 リナシティは一階はテナント、二階以上は交流センターとなっていて、コンサートホールや研修室などがあり、運営を指定管理者に委ねている。

 リナシティの向こう側には大手スーパー・イオンが大きな店舗を構えている。24時間営業であり、この界隈の客の流れを郊外から戻そうという戦略らしい。

 Kimotukigawa4_013 北田交叉点の次が大手町交叉点で、ここを左へ折れると間もなく上り道になりやがてトンネルが見えてくる。城山トンネルで、抜けて上の台地に上がれば文化センターや図書館などのある文教地区だ。文化センターの裏手には「王子遺跡資料館」がある。

 トンネルの上には旧鹿屋城があり、トンネルの手前から左手へ上がる道がある。だが、7月の大雨でがけ崩れがあったらしく、進入禁止になっていた。

 鹿屋城は亀鶴城とも言われ、北田からの比高は40㍍を測る。鎌倉末期に津野氏によって築かれ、その後、鹿屋院を領有した肝付氏系鹿屋氏の居城となった。Kimotukigawa4_012

肝付氏が島津の軍門に下り、阿多に改易(追放)された後に、地頭として入ってきたのが、島津氏族・伊集院忠棟(幸侃=こうかん)で、忠棟は鹿屋はおろか、高山、大崎、串良など旧肝付氏が領有していたほとんどの地を管轄した。

 町割りや農業用水の整備を積極的に行ったとされるが、このあと都城を治めることになった際、余りにも石田光成に取り入り、本家を蔑ろにした事で島津家久の反感に遭い、殺害されてしまった。嫡子の忠真は庄内の乱を起こして対抗するが、家康のとりなしで何とか収まる。しかし数年後、やはり暗殺される。Kimotukigawa4_017_2

肝付川は大手町のすこし北から大きく東へ蛇行する。このあたりが鹿屋平野のもっとも狭いところで、相当古い時代はここが地峡になって流れを堰き止めていたのではないかと思われる。

 川は鹿屋小学校の南を洗うように流れている。このあたり、川の中の両岸に木の歩道が設けられている。

Kimotukigawa4_019  川筋が再び北へ向かうところに分水路の入り口があった。分水路は、小学校を含むこの地区が東と南をシラス台地でさえぎられているためよく浸水するが、それを解消するために造られた。

 正面に見える比高30㍍のシラス台地を削る長さ3キロ弱、うちトンネル部分が1,6キロという放水路で、出口は「肝付川流域散策 その2」で見たように、新しい橋「新川・田崎大橋」の近くである。Kimotukigawa4_022

分水路から「山中橋」は目と鼻の先である。橋の隅にはレリーフが施されていた。「山中地区の鉦踊り」の動きのあるレリーフだ。この踊りは肝属川下流の川東地区に伝わる「八月口説き踊り(水神祭り)と同じ日に行われる(どちらも市の指定民俗文化財)。

 実は川東地区にはここから農業用水が行っているという。その感謝を込めて川東の水神祭りは山中までやって来るらしい。Wadaizekikouen_002山中橋のすぐ上手に「和田井堰(いぜき)公園」があるが、旧暦8月28日(今年は10月8日)には、公園の中で祭りが盛大に行われるという。

 昔は写真左手方向に川が蛇行し、その部分に和田井堰があったという。たしかにそこは低くなっており、湧水も見られる。

 また写真の奥のこんもりとした丘は「一の谷城(萩原城)」という古い城跡らしい。由緒は不明とされているが、おそらく鹿屋城(亀鶴城)が築かれる以前の城ではないかと思われる。

Kimotukigawa4_020 山中橋を渡ってまもなく左手に「春日神社」が鎮座する。祭神はアメノコヤネ命ほか三神。鳥居の手前左に江戸時代中期の「観音像」と「大乗妙典読碑」が建ち、どちらも市の指定文化財になっている。

 この神社の地番は「打馬(うつま)」であるが、「うつま」とは「全(うつ)間・内間」のことで、「すべてが揃った・過不足のない場所」の意味だろう。住むには最適な場所ということに他ならない。

 しかもこの神社、どうも円墳の上に乗っかっているように見えてしょうがない。Kimotukigawa4_025

 さて、春日神社からは再び山中橋を渡り、和田井堰公園を左に見ながら台地を上がっていくことにした。台地上に「王子遺跡」があるからだ。山中橋の標高は23m、王子遺跡が70m余りだから50㍍を登ることになる。

 上がりきり、真北に向かって600㍍ほどで国道220号線鹿屋バイパスに行き当たる。ちょうどそこが王子遺跡だ。道をまたぐ橋の上から見るとグリーンベルトの先が遺跡の場所で、2100年近く前、こんな高い所に住居群があったとは驚きだ。Kimotukigawa4_031

写真の手前には「鹿屋大橋」がある。幸い歩道があった。滅多にないことだがそこを歩いて橋の中央へ行ってみた。歩道の先、橋の下に茶色の屋根が見える。あれが西祓川公民館で、そのあたりにあった地下式古墳から「短甲、冑」などが見つかっている。

 また2年前には近くで、何と地下式横穴墓が30基近くまとまって発掘され、大きな話題になった。今度はヨロイ、カブトは出なかったが、隼人の墓らしく「剣、太刀、鉄鏃」などの鉄製武器が多かったという。いずれにしても鹿屋地域では群集墓がこれまで見つかっていなかったが、今回それを覆す発見となった。Kimotukigawa4_029

   橋の真ん中から南を見ると、そこは鹿屋の打馬地区だ。川を真ん中に、川の削りこんだ平野と周りを取り囲む台地が目に入る。ポコッとくぼんだような地形をしているので、打馬を「宇都間(うとま)」と解釈する郷土史家が多い。「うと」とは「洞(うろ)」のことで凹んだ地形を言う。

 だが地形だけで地名を解釈するのは考えものだ。なぜならやはり古代人といKimotukigawa4_028 えども地形プラス何らかの情念的な名を付けるだろうからだ

ここから目に入る縦(南北)1.5キロ、横(東西)0.5キロの打馬地区は川による米作り、シラス台地の裾からは生活用水、平らな台地の上では狩猟、薪取りときわめて暮らしやすそうだ。それを表す名が「うつ・ま」なのだろう。

  マップ(矢印は田崎池。赤い十字は和田井堰公園)

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Mapkanoyachuushin

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彼岸花(マンジュシャゲ)

Higanbana_001  毎朝6時前後に犬の散歩をする。

 駄犬「ビータロー」は平成5年生まれ、満14年の老犬。

 去年の初夏、突然足がふらつき、もうだめかと思いつつも”洗濯”に精を出してやったところ、再びよみがえった。

 どうやら、ダニかなんかだったらしい。以来、春から夏にかけては月に2回は”洗濯”するようにした。

 一年余り、散歩は中止していた。本人もそうせがまなくなったこともあるが、とにかく草むらに入ることの好きな犬なので、また、草からダニをうつされるのもかなわないし、と手を抜いた。

 だが、朝がすっかり秋めいてくると、飼い主もだが駄犬も立小便が恋しくなったらしい、9月に入ってから再び散歩に出るようになった。もう、往年の元気はない。以前は鎖持つ手が痛くなるほど、はあ、はあ、とむやみに引っ張ったのだが、今はおおむねこちらの歩調に合わせている。年を取るのも悪いばかりではないようだ。Higanbana_002_3

 三日前に行ったコースの途中(散歩コースは4つある)で、彼岸花を見つけた。あたり一面のサツマイモ畑の畦際である。

 今朝、行ってみたところ、ちょうど満開に近い見頃になっていた。この赤さは毒々しいが、緑の中の良いアクセントにはなっている。

 サフランもどき同じヒガンバナ科の代表だが、似ているのは球根性であるのと茎くらいか、あとは似ても似つかぬ花たちだ。

 秋の彼岸に合わせたかのように咲いている。律儀なものだ。

 ごんしゃん、ごんしゃん、どこ行くの 赤い花なら マンジュシャゲ 

 (北原白秋「思ひ出」より・・・ごんしゃんはお嬢さん)

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サフランもどき

やっと名前が判明!Safuranmodoki_001サフランもどき〉だった。みともり 花のホームページさん、ありがとう。

 5月に家の犬走りに沿って植えつけた球根が、梅雨の終わりごろから咲き始め、3日咲いては花を落とし、また10日ほどしてから花を咲かせる、というパターンを繰り返してきた。

 咲くときは誰が教えたか、次々にほぼいっせいに咲く。これは満開、それはまだ蕾、あれは半開というようなばらばらの咲き方をしないのが不思議だ。

 最初、うろ覚えの「コルチカム」だったとか何とか調べていたのだが、どうも違う。サフランに似ている。いやちょっと違うな。あ、イヌサフランだろう。ほぼ決めかけていたが、やはり違う。Safuranmodoki_002

そうこうする内に、肝心の花がしぼんでしまい、調べる気が失せてそのままにしておいたが、今朝、久しぶりの快晴のためか、いっせいに咲き出したので、今度は女房に調べさせたところ、ようやく判明となった次第。

 花の名など知らなくてもそれ自体を楽しめばいいのだが、それでは気がすまない性か、つい追究する。でも、生来の根気なしのせいであきらめかけていた。

 しかし、たかが名前、されど名前。

「懐く、懐かしい」の語意は「名付く、名付かしい」ということで、人でもイヌでも、名をちゃんと呼ぶことで向こうもこっちも親しみがぐんと増す。Safuranmodoki_003_2

 ふるさとが「懐かしい」のも「○○ちゃん」「××おじさん、おばさん」「何とか先生」「何とか山、川」「何とか菓子屋」「何とかたばこ屋」「何とか食堂」という、すぐに思い出せる名があるから、余計に無性に懐かしいのである。

 で、サフランもどきとは、ちと可愛そうだな、良い花なのに。

 ひがんばな科だそうである。学名が「ゼフィランサス・カリナタ」。カタリーナなら覚えやすいのに。そうだ、カリーナにしておこう。 

    

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肝属川流域散策(その3)

 神武天皇の父・ウガヤフキアエズ命の西洲ノ宮(にしのくにのみや)伝説地である宮下(みやげ)地区に架かる宮下橋から上Kimotukigawa3_011 流へ約1.2キロ、鹿屋市吾平町に入るとすぐに川北橋が見える。吾平町を流れる姶良川が注ぎ込む合流点だ。

 橋の手前、シラス台地の崖が川に迫る所に標識がある。「下名(しもみょう)川北の古石塔群」という。

 右手に入って行くとすぐに道路が二股に別れるが、その間に古石塔群がある。右折した瞬間にもう見えているので探す必要はない。他のいろいろな場所の石塔を訪ねているが、こんなに分かりやすい所にあるのは珍しい。

Kimotukigawa3_009_3 ずらりと並んだ五輪塔と宝塔の数は復元されたものだけで29基。部分しか残っていない物は立てられていないが、相当数あるという。

 建立の主は得丸一族だろうと、案内板にある。得丸氏は肝付氏とは縁戚の平氏で、肝付氏が大宰府の大監「平季基」の娘婿であるのに対して季基の弟「平良宗」の後裔である。父系としてはより平氏に近いことになる。

 この良宗が大宰府から吾平(姶良)にやって来て、姶良庄を開いた。その次の代になり、長男が得丸名を開拓したため姓を得丸と改めている。要するに平良宗の直系がこの得丸氏なのであった。

  マップ(赤い十字が川北古石塔群)

Mapkawakitasekitougun

Kimotukigawa3_012_3 川北橋から400㍍余りで次の橋「馬込橋」だ。この橋は吾平地区と笠野原地j区とを結ぶ要衝で、吾平山陵道路に直結しているため観光ルートとしても重要な地点になっている(写真は上流から写したもので、右手が吾平地区になる)。

  立っている土手は橋から約600㍍の大姶良川との合流地点に近いところで、右手からは20キロ弱の大姶良川が始まっている。

Kimotukigawa3_013  土手から川とは反対側を眺めると、田んぼの中にこんもりとした小さな丘が見える。一見して円墳だ。以前歩いて行った時に上にあがってみたが、墳墓は墳墓でも現役の墓地だった。

 どう見ても古墳だが、それらしい案内板はなかった。ただ古い墓があり、年代を確かめると「文化9年」のものだった。1812年だから江戸時代だ。それほど古い時代から利用されてきたということは、やはりその前から聖地的な場所だったのだろう。実際、古墳があったのかもしれない。Kimotukigawa3_015

途中「河原田橋」を過ぎ、大正時代には架けられていただろう「大正橋」を通過して行くと、黄金色の穂の垂れる一枚の田んぼの中で草を刈る人がいた。

 土手を降りて近づき、コンニチハと声をかけてみた。するとエンジンを止めて話し相手になってくれた。 収穫は?「来月の十日くらいかな」 出来具合は?「よかど。早期はやっせんかったがな。日照の違いだろうな」 品種は?「ヒノヒカリやっど」

Kimotukigawa3_017 この人はちょうど田植えの時に、MBC放送の「城山すずめ」という番組が来て同じようにいろいろ聞かれたそうだ。偶然にしてはでき過ぎ?

 田んぼからわずかで「役所の下橋」だった。変わった名だが歴史を感じさせずにはおかない名だ。おそらく郡役所の支所のような建物がこの川を見下ろす高台にあったのだろう。明治期だと思われるが、その頃この橋も架けられたに違いない。宮下橋からここまでは、約4キロ。

Kimotukigawa3_019 さらに左岸の土手を行くこと1キロ。見るからに新しい橋が架かっている。「新川田崎大橋」だ。新川地区(手前)と田崎地区(向こう側)とをつなぐ、肝属川で最も新しい(新設)橋である。

 この辺りの河谷の幅は600㍍で、さっき見た古墳のような丘のある下流からその幅はほとんど変わっていない(長さ3キロほど)。ということは肝属川も滞留することなくスムースに流れていた。したがって田んぼの維持管理 が容易だったはずで、そのため豪族が繁栄し古墳などを築く力もあったのだろう。

Kimotukigawa3_020_2  向こうに見える工場の辺りには「船塚(ふなづか)」という、いかにも前方後円墳を想起させる名の高塚があったという。明治の古地図ではそこもだが、この橋の手前にも円墳らしき突起がちょこんと描かれている。

 さてここでも「公共事業」に若干の感謝を捧げねばなるまい。左の写真の風景に関してである。橋の利便性もさりながら、橋の上からの新たな風景が加わったのだ。左は本流、右が分水路(の出口)で、人目につかなかった分水路の姿が良く分かる。打馬(うつま)地区の洪水緩和のために造られたのがこれである(後述)。Kimotukigawa3_021

 船塚のあった対岸に渡り、今度は右岸の土手を行く。川幅が急に狭くなり土手の近くまで事業所が迫ってくると市街地が近い。

 向こうにみすぼらしい橋が見えてくる。「沢尻橋」だ。沢尻エリカは可愛いが、この橋はいただけない。田崎、川西地区から鹿屋の寿・札元地区への要路に架かる橋にしてはお粗末過ぎる。すぐ向こうには焼酎工場があり、手前にもガス会社などがあるのに、これでは大型車のすれ違いもできない。

 同じ土手から田崎方面を眺めると、芝生を張ったような崖が見える。Kimotukigawa3_023

あの上に「老神遺跡」がある。そこは市営住宅のあるところで、昭和37年、建設中に素焼きの甕に入った大量の古銭が見つかっている。

 その総数18,122枚、重さ70キロというから半端な数ではない。古銭は北宋銭を中心に、古くは後漢代におよぶ種類(70種類)が確認されており、おそらく半商・半海賊のいわゆる倭寇の隠し財産であろうと言う。

Kimotukigawa3_024  久しぶりに登って現場を確かめようとしたが、かっては広場で眺望も取れたはずなのに、今行ってみるとクズが地面を覆い尽くしていた。公共事業費削減の影響がここまで来たのか?それともクズの栽培??市有地だからそんなことはないだろう。

 しかたないから、遺跡入口にできた和風のレストランを被写体にしておいた。

 Kimotukigawa3_025 この辺りは鹿屋海上自衛隊航空基地の付帯地(安全用地帯)だったため、今でも当時のままの植林が鬱蒼としている。

 川には戻らずに、そのまま植林地帯の中を西に200㍍足らずで「田崎神社」の通り(田渕・田崎線)に出る。相変わらず巨大な楠の木が天に伸びている。田崎のシンボルツリーだ。ここの赤い鳥居はよく似合う。

 いまこの神社の向い側一帯は「鹿屋グラウンドゴルフ場」に生まれ変わった。全国大会が開けるほどの広さがあるという。夕方でもう閉まっていたので、写真はまたの機会に撮ることにした。Kimotukigawa3_027

それより田崎といえば、「田崎池」を忘れてはいけない。シラス台地の下から湧き出る水は、昔から生活用水として欠かせないもの。命の次くらいに大切だった。

 今もまだ滾々と沸き続けているが、もう用水としての使命は終えた。かっては近隣の飲み水として、また田の用水として活躍した田崎池も、いまは静かに公園のたたずまいを見せるばかりだ。

  マップ(矢印は役所の下橋。赤い十字は大隅線の跡)

Mapyakushonoshitabashi

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昨日の午後、晴れつつある西空に虹が出ていた。

そうしたら今日も、今度は東の方に出ていた。二日連続で見るのは、そう記憶には無い。

昨日もだったが、今日のも天辺あたりは途切れている。弱々しい虹だ。Kimotukigawa3_031_2

虹が何かの前触れということは聞いたことがないので、異変でも何でもないのだろう。

それにしても、自民党総裁選は盛り上がらない。

平成の二代目黄門様で決まりか・・・、はたまた派閥抜きの下馬評では評価の高い九州男児タローが勝つか・・・。

群馬県からの4人目が選ばれるか、九州から3人目が選ばれるかという視点もある(ただし戦後の話)。

思えば福田、中曽根、小渕の上州勢。大変なことだ。

冬の空っ風とカカア天下に鍛え抜かれた男たちなのに違いない。

その一方で九州。細川(熊本)、村山(大分)と二人が出るには出たが、どっちも短命内閣。どういう違いだろう・・・。確かに空っ風はない。カカア天下もない。要するに甘やかされているのだろう、九州男児は・・・。

比べてさらに面白いのは、細川、村山の九州組は自民党の総裁ではなかったことだ。ひょんな成り行きで、総理になってしまったことも似ている。タローもそんなハプニングから総理になる可能性はある。

 もっともその前に、粘り強さではピカ一の東北(岩手)のイチローが待ち構えているが・・・。

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肝属川流域散策(その2)

 巨大なタブの木だ。人家の入口に、これほどの大木を見るのは初めてだ。Kimotukigawa2_017

高さ、径ともに20mはあろうか、少なくとも200年は経っている樹だろう。場所は下之門(したんかど)集落の中、西の丸と呼ばれたかっての水運の砦のあった近くだ。

 高山川が肝属川に注ぎ込むここ下之門も、川を盛んに上り下りする時代には港の機能を持っていたのではないか。そんな時代をこのタブは見つめていたのかもしれない。Kimotukigawa2_014

 下之門集落をやや高山川沿いに行くと橋があり、渡ってすぐ土手を下る。高山川と肝属川に挟まれた土手だ。700㍍ほどで「高良(こうら)橋」に着く。この橋は高山と串良とを結ぶ要衝の橋で、高山の高、串良の良をとって名付けた。

 かってはこの橋に並行して国鉄・大隅線が走っていたが、今は川の中に鉄橋の橋げたの跡が、中の島のように残されているばかりだ。橋のたもとの串良側には、集成材で有名な製材工場がある。

Kimotukigawa2_015  串良町方面へ橋を渡り、300㍍ほど行くと小さな橋(新馬庭橋)がある。北西方向から流れ込む「柳谷(やねたん)川」だが、かって肝属川はこの橋の向こう側まで蛇行して流れていた。つまり写真の向こうにみえる台地のすぐ下まで、大きく迂回して流れていた。

 そしてその辺りを「本役所」と呼んでいた。現在に残る小字名である。さらに本役所の隣りが「出口」。要するに川への出口ということだろう。水運の存在を濃厚に示す地名である。ここから集落に上り、北北西に600㍍、ほぼ直線上に「万八千(まんはっせん)神社」が鎮座する。旧串良郷の大社である。マップ(矢印が本役所と出口)

Mapsimokobaru_2

 高良橋に戻り、土手を行くこと約1.2キロ、今度は肝属川5番目の橋「永田橋」だ。高山と笠野原台地の十三塚とを 結ぶ県道に架かるが、交通量は多くない。幹線道路ではないということである。

 しかし上代は違った様相を見せる。写真で橋を渡った先の東側(右手)の田んぼ(栄田=えいでん=遺跡)からきわめて珍しい「磨製石剣」が出土し、その上の田之上地区からも後年、同じような石剣が出ているのだ。Kimotukigawa2_012_2

Kimotukigawa2_013 この台地は上小原地区で、肝属川がちょうど台地の西を洗うように流れている。そのためか、多数の古墳を持つ岡崎台地では、串良川を見下ろせる東側に集中して築かれているのに対して、ここの上小原古墳群は台地の西側に古墳や遺跡が多い。

 事実、弥生時代前期の「吉ヶ崎式土器」を出土した吉ヶ崎遺跡も、台地の西にあった。同時に須玖式土器も出土しているので、北部九州との交流があったらしいことも分かっている。肝属川の水運を利用したのは間違いない。

 Kimotukigawa2_008 永田橋を渡ったところから、今度はそのまま左岸沿いの土手を上流に向かう。1.8キロほどで「宮下(みやげ)橋」に着く。途中で右手から、つまり北西の方から中山川用水が注ぎ込むが、江戸時代この用水を完成させるために加世田から人夫が来ていたという。

 西目(薩摩半島)の人口過多の「狭郷」から東目(大隅半島)の「寛郷」へ移されたいわゆる「人配(にんべ)政策」は有名だが、このような形の移住もあったようだ。

Kimotukigawa2_009  宮下橋から上流を見ると直ぐそこに井堰があるが、今は使われていない。これが無かった時代は、ここからまだ遥かに上流の鹿屋市田崎地区辺りまで船運が通ったという。

 流れの前方に見える笠野原シラス台地の末端、右手の土手の下には「神武天皇お誕生の地」の碑がある。Kimotukigawa2_007 これは太平洋戦争の直前に建てられたいわゆる皇威発揚のシンボルであり、今はすっかり忘れ去られている。

 だが同じ場所から撮った右の写真に写る「宮冨小学校」と、その左手になだらかに盛り上がる照葉樹林の丘に古代史の謎が隠されていた。

 橋から笠野原方面へ向い、300㍍余り行くと宮冨小学校入口がある。右折して小学校へ突き当たった左手に桜迫(おうさこ)神社」が鎮座するが、ここは上代のウガヤフキアエズ命の「西洲(にしのくに)ノ宮」(日本書紀)であるといい、ここで神武天皇が養育されたというのである。Kimotukigawa2_003_2

天喜2年(1054)の記録(神階記)にこの宮を「大隅三宅大明神」として祭神は皇孫三代を祭るとあり、また肝付氏が鵜戸六所権現を勧請したという説もあり、創建の由来についての詳細は不明である。

 上の神武養育説は後者を採ったものだろうが、神武東征を史実とする筆者からすれば、ここが始発点であるとの考えは大いに是としたいところだ。Kimotukigawa2_005_2  

桜迫神社という名称は明治5年からだそうだが、社領500石というから並みの神社ではない。社司を近間氏が代々勤めているが、その家を「ハシ家」と呼び習わしているという。意味は分からないが、孝徳天皇(645~654)の皇后を「間人(はしひと)皇后」と言ったと日本書紀に見えているので、「間」をハシと言うことから「ハシ家」なのだろう。

 社殿の前には一対の仁王像が立つ。後背の丘が手付かずの照葉樹林であるのが、古くからの聖地であることを表しているようだ。

 マップ(赤い十字は吉ヶ崎遺跡。矢印が桜迫神社)

Mapmiyage

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肝属川流域散策(その1)

 肝属川は全長35キロの一級河川である。源流は高隈山地の東北部で、さほど深い山ではない。むしろ支流の串良川や、垂水市に河口を持つ本城川の源流の方が高く、また深い。Kimotukigawa1_006

 それでも流域にもっとも多くの人口を抱え、上流から下流まで途切れることなく人家を配しているという意味では肝属地区(大隅半島南半)の中心的河川である。

 河口は志布志湾に向けて開く。肝属川の河口といえば何といっても権現山(320m)だ。写真は西側の左岸からのものだが、東串良町の柏原方面から見ると三角錐に見えてとても美しい。

Kimotukigawa1_008 河口付近で肝属川に北から注ぎ込む汐入川(江戸時代に完成した用水路)。その河口から二番目に架かる汐入橋から見てもなかなかの独立峰だ。志布志湾全体のランドマークといってもよい。

 権現山の右手になだらかな稜線があり、小さなピークが二つ並んで見えるが、あれがホホデミの旧跡と地元で言い継がれてきた「国見岳」(887m)である。その下の谷間に白っぽく見えているのが荒瀬ダム(建設工事中)だ。

 Kimotukigawa1_013 まず、そこを流れ下る荒瀬川に行ってみた。荒瀬川は全長5キロにも満たない小河川だが、肝属山地の花崗岩の上を流れる谷川で、短いながらも豪快な川だ。

 河口にかかる有明大橋を渡りきると信号があり、そのまま荒瀬集落に入って行くと、1キロほど(途中で左へ権現山入口がある)で轟の滝に着く。うしろを振り返らなければ、随分山の中に来たな、と誰しも思うだろう。

 轟の滝は夏の間、子供たちにとってウォータースライダーの天国として有名だ。

Kimotukigawa1_018 今はもう誰もいないが、いくつも流れ落ちる滝に子供たちがはしゃぎ回っている光景が目に浮かぶようだ。Kimotukigawa1_021

 滝の入口にずらりと建つ祠とお地蔵さん。

 水神はあって当然のことだが、お地蔵さんは?と少し違和感があったが、合点するものがあった。水難地蔵(というのがあったかい?)ではないか。子供の天国はやはり危険との隣りあわせでもある。水死した子も多かろう。

「一反木綿の妖怪」で脅かしても、「ガラッパ(河童)に尻を抜かれるぞ」といい含めてもKimotukigawa1_022 ,子供はやはり子供で「馬耳東風」とばかり遊び呆けてしまうのだろう。

    とんぼ釣り 今日はどこまで 行ったやら 

                                     (加賀千代女)

 のような親の悲しみはいつの世も変わらない。

 祠のすぐそばにある「観音堂」(?)には、乳児のよだれかけがぎっしりと吊るされていた。はて安産祈願か、お礼参りかと思ってみたが、やはり地蔵のよだれかけ用か?でも、注連飾りがあるところを見ると神様?(追記:肝付町の税理士・窪田哲郎氏から「赤ん坊のお宮参りの奉納です」と御教示いただきました。多謝)

Kimotukigawa1_026  滝から引き返し、信号に出た所で、国道448号線を内之浦方面へ右折する。500メートルほどで道路端に「漁協前」のバス停がある。その山手側に波見地区で威勢をふるった海商「重家」の墓地がある。

 上を見ると権現山の頂が顔をのぞかせていた。右手に二人並んでは通れないほどの細い路地があるので、それを入って行く。左折して今度は右折すると正面に赤い鳥居が見える。重家の守護神だそうだ。

その下まで行き、左を見ると奥の方に目指す墓地があった。

Kimotukigawa1_024_3 苔むしたのも多いが、さすがは江戸の中期以降、海運で名をはせ、当代豪商番付で西の関脇に名を連ねただけのことはある。どの石塔も、彫りも大きさも申し分のない造りだ。

 江戸、上方、琉球への廻船で、幕府禁制の品々(抜け荷=密貿易)をも滑り込ませるというやり方で、巨万の富を築いたといわれている。他に堀口家、志布志には中山家があった。指宿の浜崎家はさらにその上を行っていたという。

    マップ(赤い十字が重家墓地。448のあたりが戸柱神社)Kimotukigawa11

漁協前から再び元に引き返し、右折して有明橋を渡る。途中の商店街右手に大きな鳥居があKimotukigawa1_029 る。戸柱神社だ。30段余りの石段を上がると左手にまた鳥居が見える。そこが戸柱神社で、スサノオノミコトとヤチマタノ神を祭る。

 神武天皇がここ柏原から東征に出発したという由緒の神社で、初めは現在地ではなかったという。さもありなん、およそ2000年前の当時、まだこの砂丘(柏原新砂丘)は流動的で、標高の低い平坦な砂嘴でしかなかったはずだ。

 次回に登場する「宮下(みやげ)」の旧跡のほうがより現実的だろう。

 だが、Kimotukigawa1_030神社の向い側の黒松林の中には、神武東征発航の地記念碑が建つ。これは戦時中の戦意高揚のために建てられた物で、この場所から、ということであればそれは間違っている。

 私見ではそもそも東征の主体が違う。大隅からの東征の主体、それは「投馬国の王、タギシミミ」だったのである。出航地も、今しがた述べたように、この柏原新砂丘は当時ようやく出来始めたばかりだったので、もっと上流から出航したはずである。

 かって、出航日とされる4月3日には凧を揚げて風を占うという風習があったそうだが、敗戦とともに廃れたらしい。残念なことだ。敗戦とは何の関係もないのに・・・。Kimotukigawa1_028

 階段を下り、再び商店街を抜けて汐入川に向う。

今度は渡らずに、柏原小学校の方へ右折する。

 正面に小学校入口を見て道なりに左手へ回り、直進すると突き当たりに熊野神社がある。突き当たったら左折するとすぐに、右手への小道があ る。

Kimotukigawa1_031_2 そのずっと奥に大きな石塔が見える。近づくと左右には小さな石塔がずらりと並び、その手前には仁王像が立っていた。

 整然としているこの並べ方は、生前の身分関係を如実に表しているのだろう。正面にひときわ大きく構えているのが、主人(夫婦)のもので、昭和52年に調査に当たった古石塔研究家によると、これは「肝付兼経(かねつね)」夫婦の宝キョウ印塔(生前に建てる供養塔)だそうだ。

 兼経は肝付氏第2代当主で、平安時代末期に肝属郡の公領を統括する「弁済使」であった。船運に至便の肝属川河口に拠点を設けていたらしく、そのためこのような供養塔を建てて一族の安泰を祈ったのだろう。Kimotukigawa1_035_2

 今度は汐入川を渡り、低湿な田んぼ地帯を通って上流を目指す。田んぼ地帯を抜けると、住宅地に入る。新川西地区である。ここは縄文後期にはあったろうとされる砂丘(旧砂丘)の上に開けている。この地区のど真ん中に「唐仁大塚(唐仁古墳・一号墳)」がある。

 今回は立ち寄らずに川沿いの土手を急ぐことにした。(詳しくはこちら

 唐仁大塚を背に、肝属川の土手(左岸)に上がる。川向こうは旧高山町の波見から野崎地区が国見山系をバックに美しく広がっている。中でひときわ目に付くのはKimotukigawa1_005 波野小・中学校だ。田園の中の小さな学校が、その存在感をたっぷりと示している。高隈小学校の所でも触れたが、こんな学校に都会の生徒を連れてきたいものだ。

 右手の谷筋の下流には東田遺跡があり、縄文晩期から古墳時代までの連続した住居跡が総数で40基余り確認されており、古くから住み易い地区だったようだ。

 今写っている川は、昔は大きく蛇行していて、いったん波野の学校の方へ流れ、大きく迂回してからこちらへ流れ込んでいた。その出島のような地形を利用して造られたのが「下伊倉城」という古城である。

 Kimotukigawa1_037 土手を上流へ約1,2キロで「俣瀬橋」。それを高山側(右岸)に渡り、左折してすぐに土手を離れて小さな橋を渡ると、左手へ伸びる道がある。それは小河川(波見川)に沿う道で、約500メートルで下伊倉城跡という看板に着く。

 そこが城跡の一番西で、旧河川はここから南へ、つまり波野の学校方面に向かって流れていた。

 旧流路は篠竹にびっしりと覆われていたが、うまい具合に熊本から来たという学生と先生らしい一行によって、かなり切り開かれて川筋が分かるようになっていた。聞けば測量調査だという。Kimotukigawa1_046

まだ切り倒したばかりの竹で足の踏み場もないほどだが、確かに測量の道具がそこここに立てられたり、置かれたりしていた。ちょうど昼飯時で学生たちは間もなく食べに何処かへ行ってしまった。

 何とか歩いてずっと奥まで行き(200mくらい)、左手へ折れると、内郭を守るための堀の跡に出た。現在は畑として使われていて、直前に耕したらしく、すぐそれと分かった。Kimotukigawa1_041

Kimotukigawa1_048 内郭(本丸)の中には土を盛って造った馬場まであって、訓練で走らせたというが、今は全く無くなり、飼料畑が広がっている。

 もともと肝属から大崎方面までの支配地の物産を集積しておくための倉庫群を建てた所で、その防御用に高い土塁を築いたようである。

 一説では、ここは「東の丸」といい、もっと上流の現・城ヶ園地区にさらに古い「西の丸」が築かれていたという。肝付氏初代は最初そのあたりに居住し、高山には居なかったのではないかともいう。で、そこに行ってみることにした。Kimotukigawa1_050

俣瀬橋まで戻り、さらに右岸を上流に向かう。やがて500㍍で串良川の合流を見る。さらに500㍍行くと、池之園橋だ。橋を渡った先は串良の広大な田んぼ地帯で、その向こうには岡崎の丘陵地帯が広がっている。

 橋からやや行くと右手に水門が見える。甫ノ木川(用水)の合流口である。そのちょうど反対側が「西の丸」だ。ここも肝属川が南側に大きく蛇行して、袋状の半島になっていた(今は下伊倉と同じく盲腸のように切られてしまった)。

Kimotukigawa1_053_2  南への蛇行の始まりは下之門(しものかど)集落の東外れのこの家のあたりのようだ。向こうに樹木が連なっているように見えるが、あれが旧河道だろう。

 河川改修工事はもちろんやらなくてはならないが、往々にして歴史を分かり辛くさせてしまう。大河ほどその影響は大きい。

 肝付氏は長久9年(1036)に弁済使という官位を得て、間もなく肝属郡に入って来たとされるが、最初から高山に居たわけではなかった。肝属川下流域こそ肝付氏の揺籃の地であったろう。今回歩いてみて確信を得た。

    マップ(赤い十字は下伊倉城跡。西の丸は池之園橋の左の楕円形にあった)

Kimotukigawa12

 

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ポスト安倍政権

 青天の霹靂とはこのことか。

 安倍首相が辞任を表明した。

 表向きの理由は、民主党党首・小沢一郎が直接会談を拒否したからだそうだ。会って、インド洋の自衛隊活動をどうしても支持してくれ、と言いたかったのだろうか。日米豪の3カ国会談の直後だから、まずその線は考えられる。

 もしかしたら、ブッシュに「日本の自衛隊が対テロ活動の一環である燃料補給活動をしないとなれば、北朝鮮の拉致問題をアメリカは見限るぞ」とでも言われたのか。拉致事件では最大の理解者である安倍首相にとって、そう言われたら身も蓋もない。

 真相は知る由もないが、現実は本人の言うとおり「対テロ特措法の成立に職を賭して」しまったことになる。

 で、時期政権担当者の第一の候補は麻生太郎

 略歴を見ると、彼の母方は錚々たるもので、吉田茂、牧野伸顕(大久保利通の子)、三島通庸など、顕官キラ星の如くで、元をたどれば土佐と薩摩だ。

 その一方で辞める安倍さんは誰も知る長州の出身。

 何のことはない、小泉さんから言えば <薩摩―長州―薩摩(土佐)> と明治の薩長閥内閣交代劇の再来だ。

 もっとも、麻生さんは自民党総裁にはなるだろうが、解散総選挙となれば今度は民主党が天下を取るだろうから、それまでの「三日天下」の可能性が強い。

 すると薩摩(土佐)のすぐ先に小沢一郎という <陸奥(岩手)>が待っている。どっちにしろ辺境だ。アメリカは嫌がるだろうな。しかし二大政党制の現実はこんなものだろう。本場のアメリカにとっては皮肉な結果になるかもしれない。

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2本のセロシア

 どの花もいい――なんて歌が流行った。2honnoserosia_001_2

 花にはいろいろな種類があり、色があり、形がある。咲く時期も違うし、球根だったり、種だったり、殖え方も違う。

 それぞれに個性的で、それぞれの仕方で自分を表現する。そこに満足していれば、花自体は人生極楽だ。

 ・・・だが、同じ花で、芽が出る時期も一緒なら天水で育ったのも一緒の、2本のセロシアがこうも違うと・・・。

 同じ種なのに、どうしてこうも・・・、どっちも高さは60センチの、たぶん「同い年」の2本のセロシア。 

 右のセロシアの種は、たまたま菜園の中にこぼれ、左のは庭の花壇でもない砂利の中にこぼれただけの違い。

 2honnoserosia_002_3 何とも見事な違い・・・。

  左のは、けなげにも、自分の幹よりも太い花を頭に着けて、天を仰いでいる。演歌でも歌いながら、負けるもんかと踏ん張っているようにも見える。

 しかし、優に十倍はある菜園のセロシアは、まるで人生を謳歌しているかのようだ。交響曲「田園」でも奏でているのか――悠然と、堂々と構えている。

 土壌だ、土壌の違いがこれほどの差を生んだのだ。種(遺伝子)の違いではないことは明らかだ。

 人間も・・・、種は同じでも、土壌を誤ると・・・。

 いや人間は植物と違って、自らよりよい土壌を求めに行くことがでる・・・。できる?いや本当はできないのだ。人間にとっての土壌は家族関係であり、家庭なのだから。土壌の管理者は親なのだから。

 

 

 

 

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串良川流域散策(最終回)

Kushiragawa6_001 前回の続きは鹿屋市民族館のすぐ上にある「井手橋」から始まる。

 写したのは井出橋の上からだが、写っているのは「新井手橋」だ。県道71号(垂水ー南之郷線)の改良工事でショートカット工事が随所で行われ、くねくね道が直線あるいはなだらかなカーブに生まれ変わった。

 橋のあたりは「鶴地峡」(勝手に命名)で、その向こうの「鶴集落」は、地峡がまだ開削されていない時代は沼か湖だったと思われる。

Kushiragawa6_003_2 「鶴地峡」を過ぎて間もなく右へ降りる道があり、下っていくとすぐに「鶴橋」がある。

そこから見た上流は何にも変えがたい故郷の風景だ。川がそう深くえぐれていないのがここの特徴だろう。これなら幼児でも水遊びが出来そうだ。

渡った先の鶴集落は、おそらく十数戸、交通の便は悪いとはいえないのだが、小学校、中学校の遠いことを考えると、ここに住み続けようという若者がいないだろうことは察しがつく。Kushiragawa6_043

 鶴地区からおよそ600㍍で「瀬戸野公民館」を見る。右手から川へ降りる道があった。川には井堰がある。この瀬戸野地区と鶴地区へ供給する用水の取り入れ口だろうが、右手には魚道が見える

 魚道とは川を堰き止めることで上流に上ることのできなくなった魚たちのための「バイパス」である。「環境に配慮した優しい土木工事」のシンボルともいえる。こんな山奥でも取り入れられているとは、ちょっと感激する。

Kushiragawa6_010 瀬戸野橋を渡っていくと、右手にオレンジ色の屋根を持つこの辺には似つかわしくない御殿のような家が目に入った。近づいてみると家の下には養豚場らしきものがあった。そうか「養豚御殿」だったか・・・。

 黒豚ブームが久しく続いているので、今、鹿児島の養豚界は好景気なのだ。たしかに、こんなに自然あふれる所で育った豚は健康だろうし、安全だろう。消費者にこの風景を見せたら驚くだろう、喜ぶだろう。

 ――で、まさかプールまでは無いだろうな。Kushiragawa6_008

瀬戸野橋を渡った突き当りを左へ200㍍で、赤い鳥居が目に入る。「霧島神社」だ。串良川中流の下中地区に鎮座する霧島神社の分社だと思うが、鳥居をくぐって登って行くと、コンクリート製の朱塗りの社殿がなかなか立派で、過疎地によくある草に埋もれたというような雰囲気は全くない。

 よく手入れされており、階段の途中にでんと構える巨石がなにやらいわくありそうなのだが、これといって説明板のようなものは無かった。Kushiragawa6_040_2

瀬戸野からは急に高度を稼ぐようになり、川もいよいよ渓谷となるので、直接、串良川源流に向かうことにした。

瀬戸野から約3キロで峠に差し掛かる。そこはそのまま下れば垂水、左は大野小・中学校。右手がこれから行く源流のあるという「鹿児島大学農学部付属高隈演習林」だ(写真は峠を行き過ぎ、垂水側から写したもの)。

Kushiragawa6_038 右折して200㍍足らずで演習林事務所入口だ(道路の反対側にはジャパンファーム垂水工場の正門がある。ブロイラー養鶏では全国屈指の規模である)。中に入って行き、事務所に事情を言って源流に入る許可を得る。気さくにOKを出してもらい、演習林の地図まで頂いた。

 Kushiragawa6_022事務所から300㍍強で演習林の入口だ。「寄宿舎林道」という普通の林道ではあり得ない名が付けられている。約700㍍で分岐に差し掛かると、そのいわれが解けた。

 それはこの演習林が開設されて間もない頃からあったという「旧寄宿舎跡地」に至る道だったのだ。演習林が開設されたのは明治42(1909)年というから古い話である。鹿児島大学農学部がまだ「鹿児島高等農林学校」と言われていた時代だ。初代校長は玉利喜造農学博士。かなりの奇人だったらしい。

 入口から約1,5キロで源水地があった。「冷水谷」という名の湧水地だ。Kushiragawa6_018_3

比高で10mくらいの、そう高くないシラスの崖の下から、水が滴り落ちていた。その名の通り冷たい水だ。よく学校の生徒たちが学習に来る所らしい。案内板に彼等の集合写真が刷り込まれていた。

 だが本当の源頭はまだこの上にある。距離にして300㍍くらいだろうか。

Kushiragawa6_021

演習林の中に屋久杉があるとは思わなかった。

 「ヤクスギ巨樹林」の案内板に誘われていってみると、真っ直ぐに立つ太い幹が現れてきた。上を見ても頂上が分からないほどだ。

 しばらく行くと案内板が立ち、その傍にひときわ大きな杉が立っている。説明によると展示林の中では最大の「直径101センチ、高さ37メートル」という巨木だった。演習林が開設されて間もなく植えられたと言うから、樹齢90年余り、屋久杉では「小杉」だが、堂々たるもの。この展示林には屋久杉が134本あるという。

Kushiragawa6_035 演習林をでたあと、高峠のランドマークの美しい円錐形の山(722m)に登ってみた。

 高峠には今回で4回来ているが、高峠公園のツツジ(春)やコスモス(秋)を目当てに来ただけで、ついぞ登ったことはなかった。気温28度と下界よりは3~4度低いものの、登り出した途端に汗が噴き出してくる。

 歩くこと20分、ようやく頂上らしいと思ったら、そこからがいけない。何と階段が延々と続いている。Kushiragawa6_027上を見ないようにしながら、足元の階段の数を一歩一歩数えながら登る。苦しさの気が紛れる。数え終わった所が山頂だ(何と、303段もあった)。結局30分かかってしまった。

 360度のパノラマの景色、と言いたいところだが、あいにく雲が山々の中腹以上を覆っていた。頂上には、眺望の先にある県内の主なスポットを真鍮製の円盤の上に刻んでいたが、佐多岬が一番遠くて60キロ、霧島は43キロ、開聞岳が45キロ、そして鹿児島市は意外に近く20キロだという。

 桜島のくっきりした写真が取れるかも、と期待していたが残念ながら雲の中だった。Kushiragawa6_025_2 この山はれっきとした独立峰だが名前が無い。登山口にも「登山道」とあるだけで「○○山登山口」とは書いていない。

 マアいいかと登ってみたが、山頂にも山名を表したものはない。下山後に演習林事務所の先生に問い合わせてみた。すると「高峠って呼んでますよ」との答。―では地元では何と言っているんですか?「やはり、高峠ですよ」―!??山が峠なんですか?「そうですねえ・・・」 ・・・そうらしい、地図でもこの山を高峠としてあった。大隅の不思議な地名発見か・・・。

 マップ(赤い十字は県道71号最高点。右に折れると鹿大演習林入口)

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串良川流域散策(その5)

 今回は、谷田橋を渡って左折し、串良川左岸沿いの道から始めた。Kushiragawa5_002

 農道を行くと周りは右岸と同じく、やはり広い田んぼ地帯だ。遠くに前回行った「観音渕」の後に迫る丘が、丸く盛り上がって見える。川がそこに突き当たって左折している所だ。

 真っ直ぐの農道を行き、右手からの市道を併せると100㍍余りで柚木原(ゆのきはら)バス停がある。停留所でバスを待っているおばさんに、「柚木原の六地蔵」のある場所を聞くと、すぐ裏手にある墓地の中だと言う。

 バス停の所を右折するとすぐ登り道だ。それを50㍍足らずでKushiragawa5_003_2右手に入る細道がある。

 入った右手はゲートボール場で、その先にもう墓石が見えている。 六地蔵は墓地の左手に 立っていた。刻まれた銘文によると建立は天文4(1535)年である。鹿屋市の六地蔵の中では最も古いという。 

 加工しやすい凝灰岩製で、かなり痛んではいるものの、文字通り風雪に耐えた貴重なものだ。釈迦入滅後、次に弥勒菩薩が降臨するまでの間、衆生を救うために現れたという地蔵菩薩。笠の下は六角形で、六面に六道それぞれを教化するという六体の地蔵さんが彫られているのがよく分かる。Kushiragawa5_004

 柚木原(ゆのきはら)は今の道をさらに登っていった細長い谷間の集落だが、さっきのバス停まで下り、元の道を上がることにする。すると100㍍余りで地峡を通過する。「柚木原地峡」と名付けておく。谷田田んぼ地帯と高隈田んぼ地帯を分ける地峡だ。川遊びには持って来いの場所で、二昔前くらいは子供等の絶好の遊び場だったろう。

 高隈の田んぼ地帯に入ると、新学期前の一斉清掃があったのだろうか、どの田んぼも畦がきれいに刈られていて、見るからに清々しい。Kushiragawa5_005

どの穂も垂れ始めている。あと一ヶ月ほどで刈り取りになるはずだ。今年の普通作は、7月下旬からの高温と日照のおかげで豊作間違いなしだ。ただ心配なのが台風で、これさえクリアーできれば秋には評価の高い「高隈米」が食卓を賑わせるだろう。Kushiragawa5_007

 道の突き当りが高隈の中心で、左折するとすぐに高隈小学校がある。ご多分にもれずここも過疎で、子供がどんどん減っている。おそらく全学年併せても50人にならないだろう。校門入口の塀に「山村留学生募集」の案内が見えるが、どこも生徒集めには知恵を絞っているものの、なかなかままにならないようだ。いっそのこと「教育改革」の一環で、都市部の生徒に山村留学を義務付けたらどうか。文科省よ考えてくれ、都会が子供の墓場にならぬうちに・・。

Kushiragawa5_006  過疎のため既に廃止された学校がある。高隈高校だ。今そこには勤労者体育センターと鷲峰(しゅうほう)館という名のコミュニティー施設が建っている。中には鹿屋市の高隈出張所もある。

 この建物の裏がすごい。串良川が凝灰岩をえぐって、見事な峡谷になっているのだ。以前行ったことのある宮崎県の高千穂峡を思い出す。規模はあれの5分の1だが、人家のすぐそこにあるというところがすごいではないか。(前方の橋は県道にかかる高隈橋で、鷲峰館はその右手に白く見える。クリックで確認Kushiragawa5_009

いま来た道を引き返すと、正面に信号が見え、その先に大きな鳥居が見える。中津神社だ。行ってみると何と工事中で、県指定文化財に指定されている「本殿」がむき出しになっていた。いつ行っても拝殿の中から正面部分しか見えなかったのが、丸見えだ。ラッキーだった。

 工事中の人に聞くと、拝殿を新築し、本殿を覆う建物も造るそうだ。来年の「かぎひき祭り」までには完成するという。2月が楽しみだ。

Kushiragawa5_013_2  中津神社の鳥居の右手手前の高台には「西方(さいほう)寺」という寺がある。いつもは上がることもないのだが、境内に上ってみて驚いたのは、日清、日露、そして今度の大戦で亡くなった人々の慰霊碑が並んでいることだった。Kushiragawa5_012

鹿屋と昭和30年に合併する前、高隈村(もっと前は高隈郷)は大村で、藩政時代は島津氏の直轄領として地頭が置かれたが、明治になってからは上と下に分かれて自治組織になった。

 戦時にはそのどちらからも兵員が繰り出され、明治、大正、昭和と世界を相手に戦い抜いてきたわけだが、そんな歴史を垣間見せる石碑(塔)である。

Kushiragawa5_019 高隈中央からさらに上流へ(西へ)向かう。集落を抜けきった所で高隈バイパス(国道504号)の道を合わせ、約1.5キロで左にダムの堰堤が見えてくる。そこが「高隈ダム」だ。上高隈の2地区204戸が移転させられて昭和42年に完成し、現在、笠野原4000ヘクタールがその水利の恩恵にあずかっている。

 このごろの晴れ続きの渇水のせいなのだろう、放流する水はごくわずかで、近寄っても音もしない。

 事務所の横を左折すると堰堤の上だ。湖水(大隅湖)を見てもさほど減っているようには見えない。適度に串良川の水が流れ込んでいるからだろう。Kushiragawa5_021_2

 向こうに見えるトンネルをくぐると、すぐそのあたりから笠野原のシラス台地への水が取り込まれているらしい。残念ながら確かめられなかったが、湖面の標高が160㍍余り、送り込む台地の高さもほぼ160㍍と標高差はほとんど無い。よほど精巧な勾配技術で送水されているのだろう。

 トンネルの先は大隅湖の南岸を走るアジサイロードだ。Kushiragawa5_024 アジサイは確かに水辺に似合う。だが、今はもう咲いているはずはない。梅雨明けと同時くらいに急激に咲かなくなる。事実、どのアジサイも、茶色く変色したドライフラワーになっていたが、あるカーブであれ、と思った。咲いていたのだ、生々しく。

 わが目を疑ったが、よく見ながら行くと、無いことはない。百株に1株くらいの割でありそうだ。うーむ、遅咲きも遅咲き、狂い咲きとは言うまい。個性だ!もしかしたらこの花(株)にはアンチエイジング・ホルモンがあるのかも知れぬ。誰か抽出して研究せよ・・。

Kushiragawa5_026  湖の先端の少し手前に、ボート乗場があった。

 事務所を覗いてみたら、九月からは土、日、祝日のみの営業とあった。普通のボートが30分300円、スワンの形をした足こぎボートが30分1000円だそうだ。

 もう恋人よりも、孫を連れて乗りに来よう(まだいないけれど)。それにしても人里離れ過ぎている。子供を遊ばせる遊具などがあったら、家族連れも来るのではないだろうか。

Kushiragawa5_027 ボート乗場の向こうに見えたのが、県立アジア・太平洋農村研修村。大隅湖の一番上流に位置し、そこはかって鹿屋市立柏木小学校があったところで、過疎化で廃校になった用地を再利用して平成6年に開設された。

 国際交流と国際協力がテーマの施設で、国際交流員の研修や県内外の学校や団体が学びにやってくる。筆者も一度、韓国の団体と交流したことがある。

 もうひとつ珍しい建物がある。鹿屋市民族館だ(入館無料)。タイかインドネシアかそれ 風の外観をしている。

Kushiragawa5_038_2 中に入ると目に付くのが楽器類。自由に叩いたり、鳴らしたりできるところが面白い。フィリピンの二弦楽器が「アタ族」のものと聞いて驚いた。阿多じゃないか。フィリピンには別にイフガオ族というのがいてこれは「ヒュウガ(日向)族」の祖先だろう、などという説もあり、鹿児島民族(?)の由来はやはり・・・、それとも向こうへ渡った・・・?世界最古級の縄文早期土器がざくざく出る鹿児島の来歴も考えなければならぬ。

 インドネシアの仮面(バロン)も面白い。死神と永遠に戦う、というのがいい。生があるということは死があるということ。その逆もしかり。Kushiragawa5_037

それにしてもタイの少数民族の衣装は派手だ。日本人には考えられないデザインだ。もし日本人が向こうから渡って来たのなら、こんな仕様の一部でも残っていておかしくない。衣食住は意外と保守的なものだからだ。

 そんなことを思いつつ、館内で最近はじめたというコーヒーを飲んでみた。こくがあってなかなかのものだ。聞けば女性職員の実家がコーヒー豆の卸をしているという。さもありなん。ついでにうまい本場のカレーでも出せばいいのにと言っておいた。

Kushiragawa5_041 同じ道を引き返したが、ダムから国道504号に出たあと途中の集落「重田地区」に寄ってみた。国道を約1キロ下ると、道路の右に小さな噴水がある。その角にはグループホーム「泉の里」が新しくできているが、そこを右折すると、すぐに小さな橋がある。重田橋だ。

 高隈の山塊がすぐ目の前に広がり、山青く、水清い高隈でも一級の風景だ。山紫水明という言葉が、これほど当てはまる場所もそうは無いだろう。

 再び国道に出て帰路となる。今度は高隈バイパスを通って、直接シラス台地のKushiragawa5_042 突端・三角峠まで行く。途中、「高隈4号橋」といったと思うが、そこから眺める串良川の清流ぶりにはジンとくる。この風景はバイパスが出来たればこそ、得られた風景だ(下中の霧島大橋と同じだ。公共事業よ、ありがとう)

 清流の先、右手から、こんもりとした丘が左へなだらかに続くが、あれが高隈城(松尾城ともいう)の跡である。高隈城は南北朝時代初期に、肝付氏によって造られた山城(中津神社も同じ頃)で、南北朝の攻防と戦国期、島津氏との戦いの舞台だったが、三州統一後の慶長年間に廃城となった。城跡の向こう側はちょうど重田地区である。

   マップ(赤い十字は中津神社。矢印は高隈城)

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Maptakakumadamu

 

  

 

 

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高級な出稼ぎ

 昨日も今日も、横綱の朝青龍の話題で持ちきりだ。

 モンゴルに戻っていることは確かなのだが、見たの見ないのと報道は何度も繰り返している。

 朝青龍の兄が出てきて、あと三週間くらいで精神的な問題は解決する。そうしたら日本に戻る――と言っていた。

 一族は朝青龍の稼いだ金で、モンゴルで大事業をやっているらしい。一説では、今、朝青龍は一年の収入が約4億円。これをモンゴルへもっていくと10倍の価値になるという。日本でも、もし裸一貫のスポーツ選手が40億稼いだら、間違いなく英雄だろう。あのホリエモンも真っ青だ。

 結局、彼は「出稼ぎ」に来ていたのだ。もちろん出稼ぎ自体、悪いことではない。プロ野球でアメリカ大リーグに移籍した連中も、やはり出稼ぎなのだ。ただ、日本の伝統ある大相撲という「土俵」を選んだのがまずかった。

 いろんな意見があろうが、文部科学省の所属団体(社団法人)である日本相撲協会が主催し、天皇が必ず親しく観覧に訪れるスポーツは「国技」なのだ。「国技法」などという法律はないが、慣習的には(歴史的にも)十分に国技足りうる超法規的存在が大相撲なのだ。 

 朝青龍はその超法規的慣習を甘く見てしまった。モンゴルでの事業の方が大切だったらしい。彼はモンゴルでのあの行動を「腰骨骨折で夏巡業を休む」と協会に出した手前、自分では「まずいかな」とは思っていたに違いない。だからこそ何の反論もできなかったのだ。決して「うつ病の一歩手前」でも「解離性障害」でもなんでもない。まして、相撲協会の重すぎる処罰からでもない。

 現に、フィギュアスケートのオリンピック代表で武将・織田信長の末裔である織田信成は、数ヶ月前に何かの会合で酒を飲んだあと自分のミニバイクを運転し、たまたま検問に引っかかって酒気帯び運転現行犯で書類送検されたが、何の事故も起こしていないにもかかわらず、「公式競技への参加、年内は禁止」という重い処分を受けている。

 これを見ると、朝青龍の処分は軽すぎるくらいだ。もうやめて帰国し、事業家の道を歩めばよかろう。

 思うに、「国技」大相撲はこてこての伝統に立ち返り、例えば「日本国籍でなければ土俵に上げない」くらいの制限を持ってもいい。その代わり、国籍を問わない「世界相撲協会」を作って相撲レスリングを普及すればよい。

 国際化は時代の流れではあるが、中には国際化に染まらないものがあってもいい。皮肉だが、むしろその方が世界に受け入れられる気がする。大相撲が世界遺産になることはないと思うが、日本にはかたくなに伝統を守るスポーツがあるということで、逆に評価と羨望を受けるかもしれない。

 

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串良川流域散策(その4)

Kushiragawa3_019 生栗須橋を渡って振り返ると、北原氏の拠った「北原城跡」が 屹立して見える。難攻不落の山城だったろう。

 しかしここも肝付氏が島津氏の軍門に下ると、廃城となる。

 この橋の向こうも手前もどっちも急な長い坂道(国道269号線)で、シラス台地を削り込んだ串良川の働きが思われる。Kushiragawa4_001

  国道から串良川の左岸沿いの細い道に入る。

 杉の植林帯を抜けると、川は遥か向こうに流れるようになり、道路との間に広い田んぼ地帯が広がる。草を刈った農婦がせっせとその草を軽トラックに積み込んでいた。牛にやるのだろう。

Kushiragawa4_003 約800㍍で山宮神社のすぐ下に架かる「堂園橋」だ。

 神社に行こうと橋を渡ると、橋のたもとに石柱が立っていた。新しい御影石の小さな石柱だ。Kushiragawa4_005 見ると、映画「望郷」のロケ地だったことを記念する碑だった。1992年とある。

Kushiragawa4_006 山宮神社は祭神スサノオノミコト、毎年2月の例祭に「カギヒキ」「田起こし」の神事があるお宮で、これは県の指定文化財(無形民俗)に登録されている。

お宮の建物自体はお世辞にも文化財にふさわしいとはいえないが、川沿いの田んぼ地帯が開かれた頃からの存在とすれば、少なくとも千年以上の歴史はあるだろう。

 Kushiragawa4_007 ここから山宮神社側の道、つまり串良川右岸を上って行く。

 堂園集落の最後の田んぼを向こう岸に見ると、道は川を離れて左手の台地に向かう。

 川はここから長い「深山幽谷」に入る。その3で紹介した、ピンク色凝灰岩の石切り場から下中地区までの峡谷と同じ成因だ。そことこことを併せると約5キロがこんな人跡未踏の峡谷というこKushiragawa4_009_2 とになる。大学の探検部なんかには持って来いの場所だろう。水も澄んでいる。

さて、台地方面へ1キロ余り行くと馬掛(まかけ)集落に入る。ここは川からの比高30㍍、上のシラス台地からは80㍍下がった所にある楕円形の段丘だ。かなり広く、バスも巡回している。昔、狩猟の神様が馬で駆け巡ったから「馬駆け」→「馬掛け」と名付けられたそうだ。「ウマ」く説明したもんだ。Kushiragawa4_010_2

馬掛地区から登ること1キロでシラス台地の上に出る。すると正面に高隈山が見えた。写真を撮りに脇道に入ると、輝くものが目に入った。パンパスグラスだ。菜園の一角がやけに明るいのはそのせいだった。

 県道<串良・高隈線>を北西に走ると、2キロ足らずで信号がある。Kushiragawa4_012_3 その角に建つのが「笠野原土地改良区事務所」だ。笠野原の開発の拠点がこれで、見過ごすわけにはいくまい。

 大正の終わりに、水道敷設事業で始まった共同開発は、やがて土地改良事業に引き継がれた。戦後の昭和35年にこの事務所が設立されると事業は国営化され、高隈ダムの完成が核となって土地整理、水利事業は飛躍的に進んで今日がある。現在でも年に2億程度の事業が行われているという。

 Kushiragawa4_014_2 さて、信号を右折し、台地から1.6キロほど下ると谷田橋に差し掛かる。

 もし川筋を遡ってくれば、きつい峡谷から解放されて、広々とした田園に歓声を上げるに違いない。そんな風景が待っていた。

 橋を渡ってすぐ右折すると300㍍で道が二手に分かれる。そのまま下っていく道と、大きく左へ曲がる道とだ。そのまま行くと谷田発電所に降りる。Kushiragawa4_019

白壁の新しい・・・と思ったら、よく見ると凝灰岩製のブロック積みで、白い塗料を吹きかけてあるらしい。物の本によると大正11年に送電開始した、とあるから古い歴史がある。建物が当時のものかどうかは判らないが、もしそうなら遺産ものだろう。

 水は谷田橋の下200㍍に堰を設けて取っている。発電所の下の串良川には、仕事を終えた水が轟々流れ込んで行く。リサイクルだ。Kushiragawa4_020

道を戻り、さっきの二又から、今度は大きく左へ曲がる道の方を行く。600㍍で「ふれあいの森」がある。夏の暑い盛りとあって誰も来ていない。入口の説明板によると、樹齢250年からのスダジイの大木があるらしいが、マムシはごめんだ。

 道端にちょっとした湧水の池があったので手を入れてみた。冷たい。口に含んでもみたが、うまい。近くで草を刈っている人に聞いたら、一般人はあまり来ないが、よく学校の生徒たちが来るという。なるほど例の総合学習か。Kushiragawa4_033_2

  再び谷田橋を渡って、串良川右岸を上る。谷田地区の穂を垂れつつある田んぼを右に左に見ながら1キロ余りで、左手から丘がせり出してくる。

 そこが「観音渕」だ。名だたる水の名所で、観音様を祭るという大きな洞穴(ガマ)の奥から、とうとうと水が湧いてくる。 Kushiragawa4_031_2

 道路からすぐそこに滝が見える。その下には水神が祭られ、さあ汲んで行きなさいとばかり、何本もの竹やパイプから水が流れ落ちている。

 水を大きなペットボトルに汲んでいた女性がいたので聞いてみると、近くなのでよく汲みにくるが、注意して見れば細かい砂粒のようなものが混じっているという。

 また、昔、自分の同級生に、このガマの入口付近に住んでいて、そこから学校に通っていた子がいたという。「法者(ほっしゃ)どん」という修験者がいて、ここで修行をしていたなどという話は聴くが、本当かよそれ、と耳を疑ってしまった。Kushiragawa4_030

洞穴は入口の幅20㍍、奥行は30㍍はあろうかという大きなもので、左右には五輪塔、宝塔類が数十基並び、奥の壁の前には、光背を負った仏像(観音その他)が左右に5,6体こちらを向いて壇の上に立っている。Kushiragawa4_026

壇の前には人のすわれるような座が設えてある。ここでお経でも唱えるのだろう。霊験あらたかとは聞いていないが、さっきの女性の話では、某町からわざわざ夜中に水を汲みに来ていた人は、この水で目を洗って白内障を治したという。

 観音渕の前の道路には駐車帯も設けられ、カラー舗装もされてずいぶん優遇されるようになった。Kushiragawa4_032_2

 駐車帯のすぐ向こうには串良川が流れる。以前来た時は竹やぶで下りられそうもなかったが、今見るとその一部に抜け道が出来ていた。下りてみると、川が手前に蛇行して迫り、心地よい田園が広がっていた。

 マップ(赤い十字は谷田発電所。右下の鳥居は山宮神社。発電所の左上の橋が谷田橋で、そこからさらに左上の川が大きくL字に曲がった所が観音渕)

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Mapkushiragawa4

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