かわいがり?
大相撲の時津風部屋所属の力士が「かわいがり」で命を落とした。
親方や兄弟子たちは「力を付けてやろうと、特別に目を掛けた」気持ちだったらしいが、「かわいがり過ぎた」のが仇となってしまった。俗に言う「しごき」事件だが、大相撲のしきたりではままあることだという。
しかし結果として前途のある若者をあやめたことには変わりなく、時津風部屋の責任と大相撲(日本相撲協会)の体質が問われることになった。
朝青龍の問題が片付かないうちに更なる不祥事に見舞われた相撲協会も、「国技」(法律上のしばりはないが)であることに胡坐をかかず、いかに日本の若者を大相撲に呼び戻すかを真剣に考えなくてはなるまい。
ひとつ考えられるのは「相撲学校」ではないか。今のスカウトは、前途ありそうな若者を、相撲部屋が個別に直接会って了解を得たら自分の部屋に連れてくる、というシステムである。右も左も分からない少年にとって、そこに選択の余地はほとんどない。
それより、まずは相撲の道に進もうという若者を「相撲学校」に入れ、そこで相撲のいろはから教えればよい。全寮制にし、費用は相撲協会の負担でやるようにする。大相撲は元来「神事」だったのであるから、そういう事も稽古の合間に教えなければならない。1~2年みっちり学んだあと、プロ野球のドラフト制度のような形で各部屋に振り分ける。
その後も「かわいがり過ぎる」部屋だったら、本人の希望で変えられるようにしたほうがよい。人権無視などと言われるよりはすっきりしよう。
そもそも「かわいがる(可愛がる)」という言葉は和語ではない。先にまず日本式漢文の「可愛」(愛すべき)があって、「愛すべき」と言っていたのが、漢音につられて「カ・アイ」から「カアイイ」になり「カワイイ」となったものだ。
和語では同じ意味を「いつくし」「いつくしむ」と言う。「いとおしい」も近い言葉だ。
「いつくし」の語源は「いつく(伊都久=斎く)」で、本来は神事にかかわる用語である。平たく言えば「うやうやしく(神に)仕える」ことで、したがって「~をいつくしむ」(かわいがる)とは可愛がる対象に「うやうやしく仕える」ことに他ならない。
母親が子をいつくしむ(慈しむ)時、まさにそうしているではないか。ワーと泣けばそばに行って「どうしたの」と「侍り」、怪我をすればやはりそばに「侍って」手当てをする。「はらへった」と言われれば、すぐに何かを持ってきて食べさせる。傍から見れば何のことはない、文字通り子供に振り回されているのだが、母親は恬として省みずに子に「うやうやしく仕え」て倦むことを知らない。
子供は「神様からの授かりもの」であるからできる業で、もし子供が自分の「作ったもの」という意識が強かったら、忍耐にも限度があるだろう(子供は作るもの――という観念が普及しだしてから、親子関係が「神々しく」なくなってしまったような気がする。原材料を言え、製造原価はいくらだと言ってやりたくなる)。
「授かる」とは「預かる」と同根の言葉で、子供を授かるとは「子供を(神様から)預かる」ことだろう。預かった以上は「いつくしんで」細心の注意を払いつつ育てなければなるまい。
いつくしむ上で「この子のこれは世間の道理に外れている」と思ったら、叱責(愛のムチ)も必要だが、行き過ぎては逆効果だ。大相撲を目指す若者が少なくなっている中、せっかく入門し親から預かった斉藤君の死は惜しむに余りある。
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