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肝属川流域散策(その2)

 巨大なタブの木だ。人家の入口に、これほどの大木を見るのは初めてだ。Kimotukigawa2_017

高さ、径ともに20mはあろうか、少なくとも200年は経っている樹だろう。場所は下之門(したんかど)集落の中、西の丸と呼ばれたかっての水運の砦のあった近くだ。

 高山川が肝属川に注ぎ込むここ下之門も、川を盛んに上り下りする時代には港の機能を持っていたのではないか。そんな時代をこのタブは見つめていたのかもしれない。Kimotukigawa2_014

 下之門集落をやや高山川沿いに行くと橋があり、渡ってすぐ土手を下る。高山川と肝属川に挟まれた土手だ。700㍍ほどで「高良(こうら)橋」に着く。この橋は高山と串良とを結ぶ要衝の橋で、高山の高、串良の良をとって名付けた。

 かってはこの橋に並行して国鉄・大隅線が走っていたが、今は川の中に鉄橋の橋げたの跡が、中の島のように残されているばかりだ。橋のたもとの串良側には、集成材で有名な製材工場がある。

Kimotukigawa2_015  串良町方面へ橋を渡り、300㍍ほど行くと小さな橋(新馬庭橋)がある。北西方向から流れ込む「柳谷(やねたん)川」だが、かって肝属川はこの橋の向こう側まで蛇行して流れていた。つまり写真の向こうにみえる台地のすぐ下まで、大きく迂回して流れていた。

 そしてその辺りを「本役所」と呼んでいた。現在に残る小字名である。さらに本役所の隣りが「出口」。要するに川への出口ということだろう。水運の存在を濃厚に示す地名である。ここから集落に上り、北北西に600㍍、ほぼ直線上に「万八千(まんはっせん)神社」が鎮座する。旧串良郷の大社である。マップ(矢印が本役所と出口)

Mapsimokobaru_2

 高良橋に戻り、土手を行くこと約1.2キロ、今度は肝属川5番目の橋「永田橋」だ。高山と笠野原台地の十三塚とを 結ぶ県道に架かるが、交通量は多くない。幹線道路ではないということである。

 しかし上代は違った様相を見せる。写真で橋を渡った先の東側(右手)の田んぼ(栄田=えいでん=遺跡)からきわめて珍しい「磨製石剣」が出土し、その上の田之上地区からも後年、同じような石剣が出ているのだ。Kimotukigawa2_012_2

Kimotukigawa2_013 この台地は上小原地区で、肝属川がちょうど台地の西を洗うように流れている。そのためか、多数の古墳を持つ岡崎台地では、串良川を見下ろせる東側に集中して築かれているのに対して、ここの上小原古墳群は台地の西側に古墳や遺跡が多い。

 事実、弥生時代前期の「吉ヶ崎式土器」を出土した吉ヶ崎遺跡も、台地の西にあった。同時に須玖式土器も出土しているので、北部九州との交流があったらしいことも分かっている。肝属川の水運を利用したのは間違いない。

 Kimotukigawa2_008 永田橋を渡ったところから、今度はそのまま左岸沿いの土手を上流に向かう。1.8キロほどで「宮下(みやげ)橋」に着く。途中で右手から、つまり北西の方から中山川用水が注ぎ込むが、江戸時代この用水を完成させるために加世田から人夫が来ていたという。

 西目(薩摩半島)の人口過多の「狭郷」から東目(大隅半島)の「寛郷」へ移されたいわゆる「人配(にんべ)政策」は有名だが、このような形の移住もあったようだ。

Kimotukigawa2_009  宮下橋から上流を見ると直ぐそこに井堰があるが、今は使われていない。これが無かった時代は、ここからまだ遥かに上流の鹿屋市田崎地区辺りまで船運が通ったという。

 流れの前方に見える笠野原シラス台地の末端、右手の土手の下には「神武天皇お誕生の地」の碑がある。Kimotukigawa2_007 これは太平洋戦争の直前に建てられたいわゆる皇威発揚のシンボルであり、今はすっかり忘れ去られている。

 だが同じ場所から撮った右の写真に写る「宮冨小学校」と、その左手になだらかに盛り上がる照葉樹林の丘に古代史の謎が隠されていた。

 橋から笠野原方面へ向い、300㍍余り行くと宮冨小学校入口がある。右折して小学校へ突き当たった左手に桜迫(おうさこ)神社」が鎮座するが、ここは上代のウガヤフキアエズ命の「西洲(にしのくに)ノ宮」(日本書紀)であるといい、ここで神武天皇が養育されたというのである。Kimotukigawa2_003_2

天喜2年(1054)の記録(神階記)にこの宮を「大隅三宅大明神」として祭神は皇孫三代を祭るとあり、また肝付氏が鵜戸六所権現を勧請したという説もあり、創建の由来についての詳細は不明である。

 上の神武養育説は後者を採ったものだろうが、神武東征を史実とする筆者からすれば、ここが始発点であるとの考えは大いに是としたいところだ。Kimotukigawa2_005_2  

桜迫神社という名称は明治5年からだそうだが、社領500石というから並みの神社ではない。社司を近間氏が代々勤めているが、その家を「ハシ家」と呼び習わしているという。意味は分からないが、孝徳天皇(645~654)の皇后を「間人(はしひと)皇后」と言ったと日本書紀に見えているので、「間」をハシと言うことから「ハシ家」なのだろう。

 社殿の前には一対の仁王像が立つ。後背の丘が手付かずの照葉樹林であるのが、古くからの聖地であることを表しているようだ。

 マップ(赤い十字は吉ヶ崎遺跡。矢印が桜迫神社)

Mapmiyage

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コメント

 いつも楽しみに読ませていただいております。
今朝、「桜迫神社、宮司近間家」が「ハシ家」と称されることに接し、驚きました。
 「阿多の小橋の妹、阿比良比売」を思い浮かべました。

「小橋」も、阿多には「土師迫」の地名が中世の記録にはあり、系譜記録では「阿多命」の裔に出雲「土師氏」族が、妄想の内にあります。

 和名抄「姶羅郡」に「ハシ氏」は「古代隼人史」を裏付けるものと確信しました。

 興味深い地域情報を、ぜひ、世界に発信してくださいますよう、ねがっております。

投稿: 八代新一 | 2007年9月18日 (火) 08時35分

たまたま 地元の記事を検索し
当方22歳くらいまで住んでいましたが

伝説の話は知りませんでした(たぶん小学生当時
隣のですから・・神社の話は聞いてたとは思いますが)

棒踊りも出たことがあり 大変懐かしく
拝見させていただきました

現在 名古屋方面在住ですが
また いろいろと拝見します。

投稿: hirou | 2011年8月16日 (火) 03時19分

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