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肝属川流域散策(その1)

 肝属川は全長35キロの一級河川である。源流は高隈山地の東北部で、さほど深い山ではない。むしろ支流の串良川や、垂水市に河口を持つ本城川の源流の方が高く、また深い。Kimotukigawa1_006

 それでも流域にもっとも多くの人口を抱え、上流から下流まで途切れることなく人家を配しているという意味では肝属地区(大隅半島南半)の中心的河川である。

 河口は志布志湾に向けて開く。肝属川の河口といえば何といっても権現山(320m)だ。写真は西側の左岸からのものだが、東串良町の柏原方面から見ると三角錐に見えてとても美しい。

Kimotukigawa1_008 河口付近で肝属川に北から注ぎ込む汐入川(江戸時代に完成した用水路)。その河口から二番目に架かる汐入橋から見てもなかなかの独立峰だ。志布志湾全体のランドマークといってもよい。

 権現山の右手になだらかな稜線があり、小さなピークが二つ並んで見えるが、あれがホホデミの旧跡と地元で言い継がれてきた「国見岳」(887m)である。その下の谷間に白っぽく見えているのが荒瀬ダム(建設工事中)だ。

 Kimotukigawa1_013 まず、そこを流れ下る荒瀬川に行ってみた。荒瀬川は全長5キロにも満たない小河川だが、肝属山地の花崗岩の上を流れる谷川で、短いながらも豪快な川だ。

 河口にかかる有明大橋を渡りきると信号があり、そのまま荒瀬集落に入って行くと、1キロほど(途中で左へ権現山入口がある)で轟の滝に着く。うしろを振り返らなければ、随分山の中に来たな、と誰しも思うだろう。

 轟の滝は夏の間、子供たちにとってウォータースライダーの天国として有名だ。

Kimotukigawa1_018 今はもう誰もいないが、いくつも流れ落ちる滝に子供たちがはしゃぎ回っている光景が目に浮かぶようだ。Kimotukigawa1_021

 滝の入口にずらりと建つ祠とお地蔵さん。

 水神はあって当然のことだが、お地蔵さんは?と少し違和感があったが、合点するものがあった。水難地蔵(というのがあったかい?)ではないか。子供の天国はやはり危険との隣りあわせでもある。水死した子も多かろう。

「一反木綿の妖怪」で脅かしても、「ガラッパ(河童)に尻を抜かれるぞ」といい含めてもKimotukigawa1_022 ,子供はやはり子供で「馬耳東風」とばかり遊び呆けてしまうのだろう。

    とんぼ釣り 今日はどこまで 行ったやら 

                                     (加賀千代女)

 のような親の悲しみはいつの世も変わらない。

 祠のすぐそばにある「観音堂」(?)には、乳児のよだれかけがぎっしりと吊るされていた。はて安産祈願か、お礼参りかと思ってみたが、やはり地蔵のよだれかけ用か?でも、注連飾りがあるところを見ると神様?(追記:肝付町の税理士・窪田哲郎氏から「赤ん坊のお宮参りの奉納です」と御教示いただきました。多謝)

Kimotukigawa1_026  滝から引き返し、信号に出た所で、国道448号線を内之浦方面へ右折する。500メートルほどで道路端に「漁協前」のバス停がある。その山手側に波見地区で威勢をふるった海商「重家」の墓地がある。

 上を見ると権現山の頂が顔をのぞかせていた。右手に二人並んでは通れないほどの細い路地があるので、それを入って行く。左折して今度は右折すると正面に赤い鳥居が見える。重家の守護神だそうだ。

その下まで行き、左を見ると奥の方に目指す墓地があった。

Kimotukigawa1_024_3 苔むしたのも多いが、さすがは江戸の中期以降、海運で名をはせ、当代豪商番付で西の関脇に名を連ねただけのことはある。どの石塔も、彫りも大きさも申し分のない造りだ。

 江戸、上方、琉球への廻船で、幕府禁制の品々(抜け荷=密貿易)をも滑り込ませるというやり方で、巨万の富を築いたといわれている。他に堀口家、志布志には中山家があった。指宿の浜崎家はさらにその上を行っていたという。

    マップ(赤い十字が重家墓地。448のあたりが戸柱神社)Kimotukigawa11

漁協前から再び元に引き返し、右折して有明橋を渡る。途中の商店街右手に大きな鳥居があKimotukigawa1_029 る。戸柱神社だ。30段余りの石段を上がると左手にまた鳥居が見える。そこが戸柱神社で、スサノオノミコトとヤチマタノ神を祭る。

 神武天皇がここ柏原から東征に出発したという由緒の神社で、初めは現在地ではなかったという。さもありなん、およそ2000年前の当時、まだこの砂丘(柏原新砂丘)は流動的で、標高の低い平坦な砂嘴でしかなかったはずだ。

 次回に登場する「宮下(みやげ)」の旧跡のほうがより現実的だろう。

 だが、Kimotukigawa1_030神社の向い側の黒松林の中には、神武東征発航の地記念碑が建つ。これは戦時中の戦意高揚のために建てられた物で、この場所から、ということであればそれは間違っている。

 私見ではそもそも東征の主体が違う。大隅からの東征の主体、それは「投馬国の王、タギシミミ」だったのである。出航地も、今しがた述べたように、この柏原新砂丘は当時ようやく出来始めたばかりだったので、もっと上流から出航したはずである。

 かって、出航日とされる4月3日には凧を揚げて風を占うという風習があったそうだが、敗戦とともに廃れたらしい。残念なことだ。敗戦とは何の関係もないのに・・・。Kimotukigawa1_028

 階段を下り、再び商店街を抜けて汐入川に向う。

今度は渡らずに、柏原小学校の方へ右折する。

 正面に小学校入口を見て道なりに左手へ回り、直進すると突き当たりに熊野神社がある。突き当たったら左折するとすぐに、右手への小道があ る。

Kimotukigawa1_031_2 そのずっと奥に大きな石塔が見える。近づくと左右には小さな石塔がずらりと並び、その手前には仁王像が立っていた。

 整然としているこの並べ方は、生前の身分関係を如実に表しているのだろう。正面にひときわ大きく構えているのが、主人(夫婦)のもので、昭和52年に調査に当たった古石塔研究家によると、これは「肝付兼経(かねつね)」夫婦の宝キョウ印塔(生前に建てる供養塔)だそうだ。

 兼経は肝付氏第2代当主で、平安時代末期に肝属郡の公領を統括する「弁済使」であった。船運に至便の肝属川河口に拠点を設けていたらしく、そのためこのような供養塔を建てて一族の安泰を祈ったのだろう。Kimotukigawa1_035_2

 今度は汐入川を渡り、低湿な田んぼ地帯を通って上流を目指す。田んぼ地帯を抜けると、住宅地に入る。新川西地区である。ここは縄文後期にはあったろうとされる砂丘(旧砂丘)の上に開けている。この地区のど真ん中に「唐仁大塚(唐仁古墳・一号墳)」がある。

 今回は立ち寄らずに川沿いの土手を急ぐことにした。(詳しくはこちら

 唐仁大塚を背に、肝属川の土手(左岸)に上がる。川向こうは旧高山町の波見から野崎地区が国見山系をバックに美しく広がっている。中でひときわ目に付くのはKimotukigawa1_005 波野小・中学校だ。田園の中の小さな学校が、その存在感をたっぷりと示している。高隈小学校の所でも触れたが、こんな学校に都会の生徒を連れてきたいものだ。

 右手の谷筋の下流には東田遺跡があり、縄文晩期から古墳時代までの連続した住居跡が総数で40基余り確認されており、古くから住み易い地区だったようだ。

 今写っている川は、昔は大きく蛇行していて、いったん波野の学校の方へ流れ、大きく迂回してからこちらへ流れ込んでいた。その出島のような地形を利用して造られたのが「下伊倉城」という古城である。

 Kimotukigawa1_037 土手を上流へ約1,2キロで「俣瀬橋」。それを高山側(右岸)に渡り、左折してすぐに土手を離れて小さな橋を渡ると、左手へ伸びる道がある。それは小河川(波見川)に沿う道で、約500メートルで下伊倉城跡という看板に着く。

 そこが城跡の一番西で、旧河川はここから南へ、つまり波野の学校方面に向かって流れていた。

 旧流路は篠竹にびっしりと覆われていたが、うまい具合に熊本から来たという学生と先生らしい一行によって、かなり切り開かれて川筋が分かるようになっていた。聞けば測量調査だという。Kimotukigawa1_046

まだ切り倒したばかりの竹で足の踏み場もないほどだが、確かに測量の道具がそこここに立てられたり、置かれたりしていた。ちょうど昼飯時で学生たちは間もなく食べに何処かへ行ってしまった。

 何とか歩いてずっと奥まで行き(200mくらい)、左手へ折れると、内郭を守るための堀の跡に出た。現在は畑として使われていて、直前に耕したらしく、すぐそれと分かった。Kimotukigawa1_041

Kimotukigawa1_048 内郭(本丸)の中には土を盛って造った馬場まであって、訓練で走らせたというが、今は全く無くなり、飼料畑が広がっている。

 もともと肝属から大崎方面までの支配地の物産を集積しておくための倉庫群を建てた所で、その防御用に高い土塁を築いたようである。

 一説では、ここは「東の丸」といい、もっと上流の現・城ヶ園地区にさらに古い「西の丸」が築かれていたという。肝付氏初代は最初そのあたりに居住し、高山には居なかったのではないかともいう。で、そこに行ってみることにした。Kimotukigawa1_050

俣瀬橋まで戻り、さらに右岸を上流に向かう。やがて500㍍で串良川の合流を見る。さらに500㍍行くと、池之園橋だ。橋を渡った先は串良の広大な田んぼ地帯で、その向こうには岡崎の丘陵地帯が広がっている。

 橋からやや行くと右手に水門が見える。甫ノ木川(用水)の合流口である。そのちょうど反対側が「西の丸」だ。ここも肝属川が南側に大きく蛇行して、袋状の半島になっていた(今は下伊倉と同じく盲腸のように切られてしまった)。

Kimotukigawa1_053_2  南への蛇行の始まりは下之門(しものかど)集落の東外れのこの家のあたりのようだ。向こうに樹木が連なっているように見えるが、あれが旧河道だろう。

 河川改修工事はもちろんやらなくてはならないが、往々にして歴史を分かり辛くさせてしまう。大河ほどその影響は大きい。

 肝付氏は長久9年(1036)に弁済使という官位を得て、間もなく肝属郡に入って来たとされるが、最初から高山に居たわけではなかった。肝属川下流域こそ肝付氏の揺籃の地であったろう。今回歩いてみて確信を得た。

    マップ(赤い十字は下伊倉城跡。西の丸は池之園橋の左の楕円形にあった)

Kimotukigawa12

 

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コメント

 なつかしい写真 子供のころを 思い出します。
  国鉄の蒸気機関車で高山から川西まで通っていました。
  50年まえの話です 国分まで通じて 間も無く廃線 
  故郷は いつまでも変わってほしくないです??
   

投稿: 波野の山猿 | 2013年7月 7日 (日) 10時54分

波野の山猿さんコメント感謝します。
 高山町も平成の大合併で内之浦町と一緒になり、古地名である肝付町になりました。
 正史『続日本紀』の西暦700年の記事に大隅半島を支配していた肝坏(肝付)難波という首長が出てきますから、少なくとも1300年は使われ続けている名称です。
 こういう点は変わっていません。歴史に思いを馳せて下さるようお願いします。

投稿: kamodoku | 2013年7月16日 (火) 14時48分

大変懐かしい気持ちで画像見させて
頂き涙がでました
私は その1に撮影された場所で誕生しました
昔は三軒の家がありました あったんですよ
中島って呼ばれて大変不思議な 島でした

投稿: 上園みどり | 2013年12月13日 (金) 11時10分

上園みどりさん、コメント感謝します。
そうですか、下伊倉城の中に三軒あったんですね。
今は人家はないけれども畑として使われていますので、草ぼうぼうの忘れ去られたような地区と違って、これからなお古代・中世の肝付氏の動向解明の重要な拠点になると思いますよ。

投稿: kamodoku | 2013年12月13日 (金) 22時18分

本当に懐かしい場所です。
船外機が写っている写真の所で少年時代を過ごしました。
ちょうど緑色の潮の観測小屋?みたいなのがあるあたりで
川に落ちたことがあります。たまたま近くに居た近所のおじさんに
気付いてもらい助けてもらってなかったら今の私はいなかったと思います。権現山も轟の滝も柏原小学校も本当に思い出の場所です。

投稿: よかにせ | 2014年8月11日 (月) 00時02分

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