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肝属川流域散策(その4)

4回目は田崎池から開始した。田崎池の傍らを流れる上谷川は、肝属川の西のシラス台地を割って流れる小Kimotukigawa4_001 さな河川で、鹿屋の下町を流れたあと、池から100㍍余りで肝属川に合流する。

 川と川とが出合う内側は、古来、聖地である場合が多い。城、館、神社などがそこに営まれやすいのである。明治時代の河川改修前の古地図を見るとここでも、ははあと思わせる円形の丘があった。

 右の写真の川は上谷川で、真ん中の十階建てほどあるホテルのすぐ下を流れるのが肝属川。写真の右手100㍍ほどの所に肝属川との合流点がある。丘、つまり古墳と思しき丘は、左のブルーの屋根の建物の向こう側にあった。Kimotukigawa4_002

 今は全くの平地で、それを偲ばせるものはない。

 さて、さっき紹介したホテルの下まで行き、そこから肝属川の土手沿いの道を走る。すると川は右に曲がり、ほぼ北上していくことになる(川の流れからすれば南流)。見える橋は「古城橋」で、近くに古城があったことを示している。橋を左へ折れると、正面に「旧鹿屋駅」がある。Kimotukigawa4_035

 大隅線の中央駅がこの鹿屋駅だった。錦江湾沿いの古江駅から高須駅を通り、シラスの急勾配を登って、野里駅に出る。そこからは平坦な笠野原台地を、海上自衛隊鹿屋航空隊基地の長いフェンス沿いに走ってここに着く。

 隣は鹿屋市役所だが、この駅と庁舎を含めたあたりを伝説上「国司山」と呼んでいる。大隅国が置かれる(和銅6=713年)と、国司も選任されたが、国司は国分の大隅国庁舎にいるばかりでなく、地方にも巡察にやってきたという。

 鹿屋ではこのときに隼人の叛乱が起きて国司が殺されたとの伝承があり、そのことを伝えるのが「国司塚」のいわれだともいう。これは再考の余地があるだろう。殺された場所は国分であるのが確実だからだ。Kimotukigawa4_004

市庁舎の前から北に向かう道は高隈へ通ずる古い道だ。往年の銀座通りと言ってもよい。立派なアーケードがあるけれど、御多聞にもれずここもシャッター展示会場となりつつある。

 天気がよければこの道の正面に高隈山の御岳が堂々とした山容を見せる。どこか信州八ヶ岳の雰囲気があり、好きな風景なのだが、あいにくであった。

Kimotukigawa4_007 アーケード通りを800㍍ほど行くと、北田交叉点だ。ここは今、再開発によって大きく変わった。交叉点の先の右手「リナシティかのや」という名のビルが目玉の建物になっている。川の右岸にも面していて、最も交通量の多い橋「鹿屋橋」のすぐ向こうには、円形の面白い親水施設ができている。

Kimotukigawa4_008 Kimotukigawa4_009

 リナシティは一階はテナント、二階以上は交流センターとなっていて、コンサートホールや研修室などがあり、運営を指定管理者に委ねている。

 リナシティの向こう側には大手スーパー・イオンが大きな店舗を構えている。24時間営業であり、この界隈の客の流れを郊外から戻そうという戦略らしい。

 Kimotukigawa4_013 北田交叉点の次が大手町交叉点で、ここを左へ折れると間もなく上り道になりやがてトンネルが見えてくる。城山トンネルで、抜けて上の台地に上がれば文化センターや図書館などのある文教地区だ。文化センターの裏手には「王子遺跡資料館」がある。

 トンネルの上には旧鹿屋城があり、トンネルの手前から左手へ上がる道がある。だが、7月の大雨でがけ崩れがあったらしく、進入禁止になっていた。

 鹿屋城は亀鶴城とも言われ、北田からの比高は40㍍を測る。鎌倉末期に津野氏によって築かれ、その後、鹿屋院を領有した肝付氏系鹿屋氏の居城となった。Kimotukigawa4_012

肝付氏が島津の軍門に下り、阿多に改易(追放)された後に、地頭として入ってきたのが、島津氏族・伊集院忠棟(幸侃=こうかん)で、忠棟は鹿屋はおろか、高山、大崎、串良など旧肝付氏が領有していたほとんどの地を管轄した。

 町割りや農業用水の整備を積極的に行ったとされるが、このあと都城を治めることになった際、余りにも石田光成に取り入り、本家を蔑ろにした事で島津家久の反感に遭い、殺害されてしまった。嫡子の忠真は庄内の乱を起こして対抗するが、家康のとりなしで何とか収まる。しかし数年後、やはり暗殺される。Kimotukigawa4_017_2

肝付川は大手町のすこし北から大きく東へ蛇行する。このあたりが鹿屋平野のもっとも狭いところで、相当古い時代はここが地峡になって流れを堰き止めていたのではないかと思われる。

 川は鹿屋小学校の南を洗うように流れている。このあたり、川の中の両岸に木の歩道が設けられている。

Kimotukigawa4_019  川筋が再び北へ向かうところに分水路の入り口があった。分水路は、小学校を含むこの地区が東と南をシラス台地でさえぎられているためよく浸水するが、それを解消するために造られた。

 正面に見える比高30㍍のシラス台地を削る長さ3キロ弱、うちトンネル部分が1,6キロという放水路で、出口は「肝付川流域散策 その2」で見たように、新しい橋「新川・田崎大橋」の近くである。Kimotukigawa4_022

分水路から「山中橋」は目と鼻の先である。橋の隅にはレリーフが施されていた。「山中地区の鉦踊り」の動きのあるレリーフだ。この踊りは肝属川下流の川東地区に伝わる「八月口説き踊り(水神祭り)と同じ日に行われる(どちらも市の指定民俗文化財)。

 実は川東地区にはここから農業用水が行っているという。その感謝を込めて川東の水神祭りは山中までやって来るらしい。Wadaizekikouen_002山中橋のすぐ上手に「和田井堰(いぜき)公園」があるが、旧暦8月28日(今年は10月8日)には、公園の中で祭りが盛大に行われるという。

 昔は写真左手方向に川が蛇行し、その部分に和田井堰があったという。たしかにそこは低くなっており、湧水も見られる。

 また写真の奥のこんもりとした丘は「一の谷城(萩原城)」という古い城跡らしい。由緒は不明とされているが、おそらく鹿屋城(亀鶴城)が築かれる以前の城ではないかと思われる。

Kimotukigawa4_020 山中橋を渡ってまもなく左手に「春日神社」が鎮座する。祭神はアメノコヤネ命ほか三神。鳥居の手前左に江戸時代中期の「観音像」と「大乗妙典読碑」が建ち、どちらも市の指定文化財になっている。

 この神社の地番は「打馬(うつま)」であるが、「うつま」とは「全(うつ)間・内間」のことで、「すべてが揃った・過不足のない場所」の意味だろう。住むには最適な場所ということに他ならない。

 しかもこの神社、どうも円墳の上に乗っかっているように見えてしょうがない。Kimotukigawa4_025

 さて、春日神社からは再び山中橋を渡り、和田井堰公園を左に見ながら台地を上がっていくことにした。台地上に「王子遺跡」があるからだ。山中橋の標高は23m、王子遺跡が70m余りだから50㍍を登ることになる。

 上がりきり、真北に向かって600㍍ほどで国道220号線鹿屋バイパスに行き当たる。ちょうどそこが王子遺跡だ。道をまたぐ橋の上から見るとグリーンベルトの先が遺跡の場所で、2100年近く前、こんな高い所に住居群があったとは驚きだ。Kimotukigawa4_031

写真の手前には「鹿屋大橋」がある。幸い歩道があった。滅多にないことだがそこを歩いて橋の中央へ行ってみた。歩道の先、橋の下に茶色の屋根が見える。あれが西祓川公民館で、そのあたりにあった地下式古墳から「短甲、冑」などが見つかっている。

 また2年前には近くで、何と地下式横穴墓が30基近くまとまって発掘され、大きな話題になった。今度はヨロイ、カブトは出なかったが、隼人の墓らしく「剣、太刀、鉄鏃」などの鉄製武器が多かったという。いずれにしても鹿屋地域では群集墓がこれまで見つかっていなかったが、今回それを覆す発見となった。Kimotukigawa4_029

   橋の真ん中から南を見ると、そこは鹿屋の打馬地区だ。川を真ん中に、川の削りこんだ平野と周りを取り囲む台地が目に入る。ポコッとくぼんだような地形をしているので、打馬を「宇都間(うとま)」と解釈する郷土史家が多い。「うと」とは「洞(うろ)」のことで凹んだ地形を言う。

 だが地形だけで地名を解釈するのは考えものだ。なぜならやはり古代人といKimotukigawa4_028 えども地形プラス何らかの情念的な名を付けるだろうからだ

ここから目に入る縦(南北)1.5キロ、横(東西)0.5キロの打馬地区は川による米作り、シラス台地の裾からは生活用水、平らな台地の上では狩猟、薪取りときわめて暮らしやすそうだ。それを表す名が「うつ・ま」なのだろう。

  マップ(矢印は田崎池。赤い十字は和田井堰公園)

  鹿屋市のスクロール地図はこちら

Mapkanoyachuushin

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