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肝属川流域散策(その3)

 神武天皇の父・ウガヤフキアエズ命の西洲ノ宮(にしのくにのみや)伝説地である宮下(みやげ)地区に架かる宮下橋から上Kimotukigawa3_011 流へ約1.2キロ、鹿屋市吾平町に入るとすぐに川北橋が見える。吾平町を流れる姶良川が注ぎ込む合流点だ。

 橋の手前、シラス台地の崖が川に迫る所に標識がある。「下名(しもみょう)川北の古石塔群」という。

 右手に入って行くとすぐに道路が二股に別れるが、その間に古石塔群がある。右折した瞬間にもう見えているので探す必要はない。他のいろいろな場所の石塔を訪ねているが、こんなに分かりやすい所にあるのは珍しい。

Kimotukigawa3_009_3 ずらりと並んだ五輪塔と宝塔の数は復元されたものだけで29基。部分しか残っていない物は立てられていないが、相当数あるという。

 建立の主は得丸一族だろうと、案内板にある。得丸氏は肝付氏とは縁戚の平氏で、肝付氏が大宰府の大監「平季基」の娘婿であるのに対して季基の弟「平良宗」の後裔である。父系としてはより平氏に近いことになる。

 この良宗が大宰府から吾平(姶良)にやって来て、姶良庄を開いた。その次の代になり、長男が得丸名を開拓したため姓を得丸と改めている。要するに平良宗の直系がこの得丸氏なのであった。

  マップ(赤い十字が川北古石塔群)

Mapkawakitasekitougun

Kimotukigawa3_012_3 川北橋から400㍍余りで次の橋「馬込橋」だ。この橋は吾平地区と笠野原地j区とを結ぶ要衝で、吾平山陵道路に直結しているため観光ルートとしても重要な地点になっている(写真は上流から写したもので、右手が吾平地区になる)。

  立っている土手は橋から約600㍍の大姶良川との合流地点に近いところで、右手からは20キロ弱の大姶良川が始まっている。

Kimotukigawa3_013  土手から川とは反対側を眺めると、田んぼの中にこんもりとした小さな丘が見える。一見して円墳だ。以前歩いて行った時に上にあがってみたが、墳墓は墳墓でも現役の墓地だった。

 どう見ても古墳だが、それらしい案内板はなかった。ただ古い墓があり、年代を確かめると「文化9年」のものだった。1812年だから江戸時代だ。それほど古い時代から利用されてきたということは、やはりその前から聖地的な場所だったのだろう。実際、古墳があったのかもしれない。Kimotukigawa3_015

途中「河原田橋」を過ぎ、大正時代には架けられていただろう「大正橋」を通過して行くと、黄金色の穂の垂れる一枚の田んぼの中で草を刈る人がいた。

 土手を降りて近づき、コンニチハと声をかけてみた。するとエンジンを止めて話し相手になってくれた。 収穫は?「来月の十日くらいかな」 出来具合は?「よかど。早期はやっせんかったがな。日照の違いだろうな」 品種は?「ヒノヒカリやっど」

Kimotukigawa3_017 この人はちょうど田植えの時に、MBC放送の「城山すずめ」という番組が来て同じようにいろいろ聞かれたそうだ。偶然にしてはでき過ぎ?

 田んぼからわずかで「役所の下橋」だった。変わった名だが歴史を感じさせずにはおかない名だ。おそらく郡役所の支所のような建物がこの川を見下ろす高台にあったのだろう。明治期だと思われるが、その頃この橋も架けられたに違いない。宮下橋からここまでは、約4キロ。

Kimotukigawa3_019 さらに左岸の土手を行くこと1キロ。見るからに新しい橋が架かっている。「新川田崎大橋」だ。新川地区(手前)と田崎地区(向こう側)とをつなぐ、肝属川で最も新しい(新設)橋である。

 この辺りの河谷の幅は600㍍で、さっき見た古墳のような丘のある下流からその幅はほとんど変わっていない(長さ3キロほど)。ということは肝属川も滞留することなくスムースに流れていた。したがって田んぼの維持管理 が容易だったはずで、そのため豪族が繁栄し古墳などを築く力もあったのだろう。

Kimotukigawa3_020_2  向こうに見える工場の辺りには「船塚(ふなづか)」という、いかにも前方後円墳を想起させる名の高塚があったという。明治の古地図ではそこもだが、この橋の手前にも円墳らしき突起がちょこんと描かれている。

 さてここでも「公共事業」に若干の感謝を捧げねばなるまい。左の写真の風景に関してである。橋の利便性もさりながら、橋の上からの新たな風景が加わったのだ。左は本流、右が分水路(の出口)で、人目につかなかった分水路の姿が良く分かる。打馬(うつま)地区の洪水緩和のために造られたのがこれである(後述)。Kimotukigawa3_021

 船塚のあった対岸に渡り、今度は右岸の土手を行く。川幅が急に狭くなり土手の近くまで事業所が迫ってくると市街地が近い。

 向こうにみすぼらしい橋が見えてくる。「沢尻橋」だ。沢尻エリカは可愛いが、この橋はいただけない。田崎、川西地区から鹿屋の寿・札元地区への要路に架かる橋にしてはお粗末過ぎる。すぐ向こうには焼酎工場があり、手前にもガス会社などがあるのに、これでは大型車のすれ違いもできない。

 同じ土手から田崎方面を眺めると、芝生を張ったような崖が見える。Kimotukigawa3_023

あの上に「老神遺跡」がある。そこは市営住宅のあるところで、昭和37年、建設中に素焼きの甕に入った大量の古銭が見つかっている。

 その総数18,122枚、重さ70キロというから半端な数ではない。古銭は北宋銭を中心に、古くは後漢代におよぶ種類(70種類)が確認されており、おそらく半商・半海賊のいわゆる倭寇の隠し財産であろうと言う。

Kimotukigawa3_024  久しぶりに登って現場を確かめようとしたが、かっては広場で眺望も取れたはずなのに、今行ってみるとクズが地面を覆い尽くしていた。公共事業費削減の影響がここまで来たのか?それともクズの栽培??市有地だからそんなことはないだろう。

 しかたないから、遺跡入口にできた和風のレストランを被写体にしておいた。

 Kimotukigawa3_025 この辺りは鹿屋海上自衛隊航空基地の付帯地(安全用地帯)だったため、今でも当時のままの植林が鬱蒼としている。

 川には戻らずに、そのまま植林地帯の中を西に200㍍足らずで「田崎神社」の通り(田渕・田崎線)に出る。相変わらず巨大な楠の木が天に伸びている。田崎のシンボルツリーだ。ここの赤い鳥居はよく似合う。

 いまこの神社の向い側一帯は「鹿屋グラウンドゴルフ場」に生まれ変わった。全国大会が開けるほどの広さがあるという。夕方でもう閉まっていたので、写真はまたの機会に撮ることにした。Kimotukigawa3_027

それより田崎といえば、「田崎池」を忘れてはいけない。シラス台地の下から湧き出る水は、昔から生活用水として欠かせないもの。命の次くらいに大切だった。

 今もまだ滾々と沸き続けているが、もう用水としての使命は終えた。かっては近隣の飲み水として、また田の用水として活躍した田崎池も、いまは静かに公園のたたずまいを見せるばかりだ。

  マップ(矢印は役所の下橋。赤い十字は大隅線の跡)

Mapyakushonoshitabashi

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コメント

順調に進んでいますね。
勉強になります。

いずれまた

投稿: reotaro | 2007年9月18日 (火) 15時16分

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