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親馬鹿とバカ親

 「出藍の誉れ」――という言葉をちょっと思い出した。

 ボクサー亀田三兄弟の長男・興毅の記者会見で、である。

 タイトルマッチ戦で犯した弟・大毅のリング史上まれに見る反則行為への謝罪が眼目の会見だったが、その前に開かれた父親・史郎トレーナーと大毅自身の会見が謝罪とは到底言えないものだったため、改めて行われたものだ。

 大毅のトレーナーであり、あの対戦で反則行為を指示したことも明白な父親・史郎が再度公式に謝罪するのが筋のところ、親に代わって出てきた興毅が何と言うか興味があったが、彼の臆せぬ態度と思いがけず流暢な謝罪は、例の悪ぶったパフォーマンスになれている者には新鮮に映った。

 こんな一面もあったかと思いつつ聞いていると、最後のほうで彼はこう言いながら一瞬言葉を詰まらせた。

   (世間の見る目はどうでも)俺らにとっては・・・世界一の父親ですから・・・。

 私はこの言葉を聴いてすっかり感心してしまった。

 本当に興毅の言うようにすばらしい父親なのか、わが子を自分の思惑にはめ込み、調教師のように育てるバカ親ぶりを見ていると疑問が湧くが、少なくとも彼にとってはそうなんだからそれでいいのだろう。今回の反則行為のあおりはその悪い面が出てしまったわけだが、トレーナーを辞めさせられるという制裁となって表れたから、興毅の神妙な謝罪で一件落着だろう。

 ところでいまバカ親と言ったが、人の親は誰でも必ずまず一度は「親馬鹿」になる。

 「顔見て笑った」とか、「一足す一は、と言ったら指を二本上げた」とか、生理的現象や単なる偶然でも親にとっては一大事――という親馬鹿時代を必ず通過する。

 問題はそれに入れ込みすぎること、つまり親の思い通りに子供を育てようとし過ぎること。過ぎたるは、なお何とやらで、子供に考える暇を与えずになんでも自分の要求を通そうとする親、世間体を気にして子供の能力以上のものを期待する親は子供にとってはまことに息苦しい存在である。

 スポーツの世界ではそのようなやり方で多少うまくいく場合もある。肉体的な限界ははっきりしているからだ。どんなに調教的な親でも肉体の限界を超える訓練はできない。肉体を損なっては元も子もないのだから。

 ところが勉強の世界はどうか。もちろん通知表や得点順位があって一見客観的だが、肉体的能力ほどの客観性はない。したがって親の調教は歯止めがきかず、ついに切れた子供に逆襲されるという事件があとを絶たない

 こういうバカ親には、あの素朴な「親馬鹿」時代の感性に立ち返ってほしいと思う。

    這えば立て  立てば歩めの親心  無事な成長  祈らぬ親なし

 後の二節は私のつけたりだが、親が手出しするのも足らぬくらいが無事な成長にはちょうどよいのかもしれない。ただ、祈ると言うと大げさだが、いつも気にはかけている存在、それが子供だろう。

  さっきの興毅選手の言葉を借りると、どんな子でも子供なら次のように親に思われたい、と願っているはずだ。

   (世間の見る目はどうでも)親である私にとっては・・・世界一の子ですから・・・。

 

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大崎町郷土資料展示室

Oosakisiryoukanjinryoukofun_015 曽於郡大崎町はどことも合併していない。

単独でやっていこうという総意なのかどうかは知らないが、役場を初め諸施設が立派である。

 最初見つけたのが図書館だったが、町立としてはかなりのものだ。入って、中央公民館の場所を聞くと隣りだという。隣も新しく立派な建物。Oosakisiryoukanjinryoukofun_014

 事務室で来意を告げると、職員が鍵を持って現れた。 埋蔵文化の専門員だったので、ちょうどよかった。

 資料室を入ると、右手奥が民俗資料コーナーで、例によって古道具類の集合体だ。できれば陳列だけでなく、その頃の写真か何かで、使い方が具体的に分かるような展示がしてあればよいのにと思う。これはどこの民俗資料展示でも感じることだが、戦前に成人していた8~90歳以上の老人たちから聞き取り、使い方を絵にでも残したらどうだろうか・・・。Oosakisiryoukanjinryoukofun_013 

 それに比べ、考古資料に関しては係り氏に詳しく聞くことができた。

 大崎町の遺跡のうちつい先月まで発掘調査が行われた「神領(じんりょう)古墳群」、「原田古墳」、「沢目遺跡」、「下堀遺跡」など生々しい話が聞けた。

 神領古墳群の中の60m級の前方後円墳(10号墳)からは昨年「武人埴輪」が見つかっており、今年はそのくびれ部分の祭祀空間から初期須恵器などが出土したという。Oosakisiryoukanjinryoukofun_006 これで鹿児島大学(同大博物館・橋本准教授)が発見した初期須恵器は、串良町岡崎古墳、肝付町塚崎古墳そして今度のと、古墳を掘る度に出てくるという状況になった。

 畿内や西四国との交流が、予想以上に活発だったことが証明されそうである。

 また、沢目遺跡は弥生時代中期から古墳期の住居跡が海岸砂丘といってよい土地に展開しているが、ここでも在地系の土器に負けず劣らず、北部九州系の土器が多量に出土し、海の交流が盛んだったことを示した。

Oosakisiryoukanjinryoukofun_009_2  古墳時代の南九州の副葬品は貧弱と言われるが、鉄製の武器に限って言えばそうでもない。

 小さな地下式横穴墓からは、不釣合いなくらいの鉄刀や鉄剣が出ているし、鉄鏃に至っては相当数が出土している。

 ただ稀なのが青銅製の鏡で、これは南九州の古墳からはまず出ない。ところがここの神領古墳からは小さいが三面の鏡が出土している。Oosakisiryoukanjinryoukofun_003

 右の写真の物は「天子ヶ丘古墳」(第6号墳=消失)から発見されたといわれる「変形獣帯鏡」(左)と「日光鏡」(右)で、考古学研究者の諏訪昭千代によると、左の獣帯鏡は「倣製鏡」であり、右の日光鏡は宋代の踏み返しだという。

 どちらにしても、鏡が副葬されるという南九州では稀な現象がどうして起きたのか、大いに興味のあるところだ。また神領古墳群の南約1・5キロにある単独の大前方後円墳「横瀬古墳」(墳丘140m)との関連も考える必要がある。

Oosakisiryoukanjinryoukofun_022 資料室を出て神領古墳の10号墳に向かった。

 大崎上町交差点を右手に入ると大崎中学校があり、そこを過ぎてから左へ道をとり(旧国鉄線路跡)、小さな十字路を今度は右折する。と、100メートルほどで左に人家があり、さらに30メートル行ったら左へ入って行く。軽自動車ほどの幅しかない未舗装の小道だ。

 途中に二基ほどの墓があるが、そこからさらに2~30メートルで道なりに行き当たる。

 駐車場になりそうな広場には、ミツバチの巣箱がぎっしり並んでいた。何とOosakisiryoukanjinryoukofun_019 養蜂家がネットを被って仕事の最中なのだ。蜂たちを刺激しないようにさっさと古墳のところに行く。

 こんなにやせ細った前方後円墳は、見たことがない。特に前方部などはスカスカという感じだ(下の写真の手前側)。

 後円部(上の写真)はそれなりに丸く残っているが、それでも相当に削られて縮小しているらしい。このような状態の古墳から「武人埴輪」などが出土したのは奇跡に近いかもしれない、と思うことだった。

 後円部の埋葬石棺の調査が待たれる。

 マップ(赤い十字は神領10号墳。矢印が中央公民館=1階に資料展示室がある)

Mapoosaki

 

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九月十三夜の綱引き

 時間を間違えた!

 7時からと思ってその少し前に行くと、綱引きはもう済んでおり、相撲が始まっていた。聞けば6時からだったという。日曜日の高山流鏑馬祭りといい、今日の綱引きといい、最近時間をよく間違える。

 ともあれ、相撲だけでも鑑賞に値するだろうと気を取り直す。Yabusametomyouzubaru_045

所は、鹿屋市吾平町名主(みょうず)地区公民館の中庭。この地区では昔から旧暦九月十三日の夜、一般には「芋名月」と呼ばれる月の出の元で綱引き行事が行われている。

 旧8月15日の綱引きは大隅地方でかなり見られるが、旧9月13日の綱引きは珍しい。県下でも余り例がないのではないかと思う。

Yabusametomyouzubaru_044  お母さんと小学生の子供の対戦の最中だった。

ここの土俵は綱引きに使用した綱そのものを使っている。これは古式である。ただ、綱の材料が主に稲藁らしく、その点は簡略化されているようだ。本来は山や地区の共有の茅場などでチガヤやカズラを採ってきて練り上げる。

 件の相撲はとうとうお母さんが勝った。むむ、やはり強し・・・。

Yabusametomyouzubaru_046 つぎは下名(しもみょう)小学校の校長先生が土俵に上がった。今年新たに赴任してきた校長のようで、行司から受け取ったマイクでそう自己紹介していた。

 相手は3年生くらいか、不足のない相手と見た子供はどんどん攻め立てる。校長先生は防戦一方で、ついに藁に足をとられて負けてしまった。

 お月様に子供の元気な成長の様子を見てもらい、ともに喜び合うのがこの行事の眼目で・・・、と先生、言ったとか言わなかったとか・・・。Juusanya_002

 よく「月へん」と言ってしまうが、正確には「にくづき(へん)」で、夜、寝ている間に肉体(動物・植物を問わず)を成長または回復させる働きがお月様(ツキヨミノミコト)。その働きを「夜食国(よるのおすくに)を知らす(統括する)」とした日本神話の伝統の一端がこの行事に現れている。

 それにしてもあのお母さん、肉付きがよかったな・・・。

 児等の声 Juusanya_003 月に村雲 十三夜

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流鏑馬祭り(肝付町高山)と城山

Yabusametomyouzubaru_002  十月の第三日曜日。昨日は10度、今朝は7度とぐっと秋めいてきた。

 去年に続いて快晴の、願ってもない祭礼日和だ。流鏑馬は午後2時から始まるというが、その前に「弓取りの儀」という神事が四十九所神社で行われると聞いていたので、逆算して早くとも1時頃か、それならその1時より15分も前に神社に着いていれば見逃すことはあるまい――と高をくくりながら2丁(220㍍)ある馬場を神社へと向かった。Yabusametomyouzubaru_006_2

 ボツボツ人の出が見られる馬場には騎者道に沿って荒縄が張られ、幣がぶら 下がり、出番を待つ雰囲気がそくそくと伝わる。

 神社の階段を上がり、社殿の前に出ると、もう奉納の踊り連でごった返していた。このあと「弓取りの儀」があるのだろうな、と思いつつ、自分も社前で拍手を打つ。

Yabusametomyouzubaru_003_3  少し境内をうろうろしていると踊り連の姿も消え、参拝客が三々五々訪れるくらいになってきた。もう始まるのか、と思いつつ待ったが、一向に拝殿に人の上がる気配がない。

 しびれを切らしたころ、境内に現れた神主(宮司ではなく禰宜さんだったが)に聞いてみると・・・・・何と!もうとっくに済んでいる、とのこと。あらよう、だった。

 12時10分ぐらいでしたかな、とのたもう。 例年そんな時間ですか? そうですよ、市中パレード(武者行列のことらしい)を終えてここに上がってくるとすぐ「弓取りの儀」がありますからね。Yabusametomyouzubaru_009_2

 やれやれ流鏑馬行事まで、まだ一時間以上ある。

時間つぶしにと裏山に登ることにした。裏山は山城のあったところでその名も「弓張城(ゆみはりじょう、キュウチョウジョウとも)」、弓取りが見られなかったその代わりにはもってこい、か。中世の城でもちろん当地の肝付氏のだが、南北朝時代の一時期、武将・楡井頼仲がここを拠点にしたことがある古い城だ。

Yabusametomyouzubaru_021 神社の左手から上る道があり、ちゃんと丸太(に似せたコンクリート製)の階段がしっかりとしつらえてある。何度かジグザグを繰り返すと峠のようなところに出る。

 標識が立っていて、右を行けばすぐに下りになり、下った先は国指定の「二階堂屋敷」の建つところだ。城跡は左手を行く。

 ここまで多分80メートルほど登ったことになると思うが、展望はほんの一角でしかない。木立の間にやっと志布志湾が一部を見せるだけである。Yabusametomyouzubaru_011 これから行く尾根筋からも一切の展望は得られないのが残念だ。

 それでも道は広々として歩きやすいし、椎やタブの生い茂った照葉樹林は適当に影を作ってくれるので、おそらく真夏でもそう暑さにやられず歩けそうだ。

 標高100㍍内外の稜線上には城址を思わせる物は何にもないと言っていいが、数々の巨岩が昔を偲ばせる。中には絶対人工だろうと思わせる石組みもあった。Yabusametomyouzubaru_013

尾根筋から2~3メートル下がったところに、縦1.5m、横2m、厚さ0.5~0.8mくらいの平たい石が、四角い石に後ろを支えられて立っている。どう考えても自然の造形ではない。何かの碑かとも思ったが、表面に刻字はない。

 ドルメンを立てたような塩梅だ。

 そう感じながらやや行くと、何とまさしくそのドルメン状の石組みが現れた。上に木が立っているのも不思議だ。Yabusametomyouzubaru_020

  厚さ50センチほどの角のある楕円形の石が、3~4個の石の上に見事な水平を保って鎮座している。

 ドルメンは弥生時代の遺構で、九州でもほとんど北部にしかない。西九州ではかなり南にあるらしいが、東九州では聞いたことがないし、ましてこんな山の上にあろうはずがないのだが・・・。まあ、自然の造形としておくのが無難。

 ただし、とんでもなく古い人工物の可能性は残される、としてもよい。Yabusametomyouzubaru_028

城山で小一時間を過ごして戻ってみると、やがて大鳥居の前に騎乗の若武者が登場した。例年この若武者は中学二年生の中から選ばれるという。立候補だそうだから頼もしい。というより大変だ。

 というのも今日の晴れ舞台まで約50日の訓練が必要だそうなので、生半可な気持ちではできないらしい。乗馬のイロハから始まって、手綱を離したまま走るまでにはかなりの訓練と緊張が要るという。一週間前から家族とも「別火」つまり一種の「お篭もり」状態、さらに三日間の潮掛け(海のみそぎ)がある。Yabusametomyouzubaru_029

 若武者の家族も名誉といえば名誉、大変といえば大変だ。なにしろ騎手の矢の当たり具合で「五穀豊穣」「天下泰平(地域の安全・繁栄)」が占われるというのだから、子供以上の重圧がかかるに違いない。だからお父さんも紋付を着て、真剣な面持ちで、子供が走る馬場を念入りに「潮ふり」(みそぎをした海岸の砂を撒く)して回る。

 乗っている馬は今年新しく阿蘇のほうからやって来たという栗毛の馬で、少年との息もぴったりのようだ。Yabusametomyouzubaru_035

一回は歩いて、もう一回は矢を打たずに空走りをし、そのあといよいよ本番だ。

 今年は三番的で出走を待った。神社のほうからかすかなどよめきが起こり、それが伝わってくるともうすぐだ。どこからこんなに集まったかと思われる観衆の中、矢を放った瞬間を捉えようとおおぜいがカメラを向ける。

 と、少年の放った矢は、見事に命中した。Yabusametomyouzubaru_036_2

 今年は9射のうち、8射が的中した。五穀豊穣は間違いなしだ。少年も家族も大役を果たした充実感に浸っていることだろう

 900年続くという神事もこれで幕を閉じ、このあとは街中に踊り連が繰り出して、実りの秋はいよいよ深まっていく。

Yabusametomyouzubaru_042

 

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鹿屋市串良町の歴史資料室

ええ!こんな所に!というのが正直な感想。Kushirasiryoukan_028

鹿屋市の串良町歴史資料室にいっておどろいた。高級ホテルか美術館風のエントランスを持つ建物が、田んぼといくつかの事業所の間にどんと構えている。

 「串良ふれあいセンター」というのが正式名称。何のことはない社会福祉協議会が主体の建物で、その中の一室が資料室にあてられていた。

 中に入ると、これまたちょっとしたホテルのロビーという感じだが、左手にある「鹿屋海軍飛行隊基地・串良航空隊」に関するコーナーの存在で現実から目をそらされる。予科練の串良航空Kushirasiryoukan_025_3 隊の旗と軍服はレプリカだろうか、真新しく見える。

 特攻が開始されてから、串良航空隊からは300人を超える若者が本土決戦の一環として、沖縄方面へ飛び立ちかえらぬ人となった。これと鹿屋基地からの出撃と併せると千名を超える戦死者を出している。

 その数は陸軍航空基地だったかの知覧をはるかに超えるのだが、「特攻と言えば知覧」が世間の通り相場となってしまった。鹿屋としては歯がゆい思いだろう。Kushirasiryoukan_022 

それは、それとして・・・・・、歴史資料館だった。重厚な建物なので資料館としてはよくマッチしているように見える。

 教室二つ分くらいの部屋には、縄文早期の土器から最近発見された弥生時代中期の環濠らしき跡(レプリカ)まで展示され、コンパクトにまとめられているという印象が強い。

Kushirasiryoukan_001 串良町内では初めての縄文時代早期の生活址が見られた「益畑遺跡」の出土品を中心に、鹿屋市からあるいは吾平町からも考古遺物の提供を受け、展示は充実しつつある。

 左の土器は「前平式土器」で9500年ほど前の物。前平式の前には「岩本式土器」が錦江町田代川原地区で恐ろしいくらいまとまって出土している。一万年前という世界最古の土器が相当な数出ているという、考古学上なんとも贅沢な地域が鹿児島なのである。Kushirasiryoukan_007

 縄文時代といえばおなじみの「黒曜石」の原材料や石斧の類が豊富に出土しているが、弥生時代も負けてはいない。

 ベンガラできれいに赤く彩色された高杯(たかつき)はいかにも人目を惹く。Kushirasiryoukan_014_2

そのほかにも高さ1㍍はあろうかという巨大な甕も圧倒的な存在感を見せている。Kushirasiryoukan_010

古墳時代のもので注目すべきは鉄製品、なかでも「鉄剣・鉄刀」の副葬品だろう。いわゆる大隅・日向隼人の墓制と言われる「地下式横穴墓」 のなかから出る鉄剣・鉄刀の類は熊本の江田船山古墳や埼玉の稲荷山古墳のものと遜色はない。ただし、刻銘はないが・・・。Kushirasiryoukan_018 Kushirasiryoukan_019

Kushirasiryoukan_020 串良町の岡崎古墳群からは最近巨大な初期の「須恵器」が発掘されて耳目を集めたが、以前には「長方板革綴短甲」や「硬玉製の勾玉類」が見つかっており、この地域の先進性が俎上に載せられるようになった。

 今回、さらに注目されるべき遺構が展示された。それは「西ノ丸遺跡」(弥生中期)から検出された「溝状遺構」である。環濠集落があった可能性が高いという。

 西ノ丸遺跡は肝属川と串良川の合流点のすぐ内側(海抜5㍍)にあり、弥生時代には干潟の状態でとても人の住めるところではなかったと思われていたのだが、住居跡まで確認されたのだ。Kushirasiryoukan_015 

 溝状の遺構はその断面が精巧なレプリカ(2.5㍍×4㍍)として展示されている。私見ではこの環濠集落は単なる集落ではなく、港と倉庫の機能を持った港湾事務所のような存在ではなかったかと思うが、いかに・・・。

マップ(赤い十字が串良ふれあいセンター内歴史資料室。矢印は西ノ丸遺跡)

Mapkushirasiryoukan

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高須川流域散策(最終回)

 鹿屋バイパスの一里山交差点から鹿屋体育大学に向けて走り、体育大学の入り口信号を花岡町方面へ右折する。そこから500㍍行くと海道町のバス停のある四つ角がある。それを右折すると鳴之尾牧場への道だ。牧場まで10キロとある。Takasugawa3_004

 上り道が続くと思う間もなく今度は下り坂になる。ずんずん降りていくと橋に出会う。「小薄(おすき)橋」だ。かなり大きな「小薄橋架設記念碑」がそばに建っていた。

 ここまで、高須川はずうっと峡谷で人目には触れない。やっと川の流れが捉えられるかと期待して橋から見下ろすと、比高で25㍍ほどはあろうか、凝灰岩を侵食してできた流れは、周りに生えている照葉樹林のせいで全貌は捉え切れない。Takasugawa3_003

流れがナイフのように凝灰岩をえぐり、あたかも人口の運河のようにさえ見える。不思議な雰囲気を漂わせている。

 

Takasugawa3_007

橋を渡り、小薄町を抜け、次の有武町を通って次第に山道に入って行く。

 右へ御岳登山道を兼ねる林道を見ると、間もなく第一展望所だが、よい被写体が得られそうもないので、次の第二展望所まで行ってカメラを向けた。ワンダフルだ!牧場の牧舎とモルゲンルートに染まる妻岳(1145m)の対比がなんとも言えない。

 Takasugawa3_012 ここにはもう5~6回来ているが、もちろん早朝は初めてで、来た甲斐があったというものだ。

 もう少し進んで角度を変えて見ると、なんと白糸の滝が、牧舎の左奥に写っていた。高須川の最上流近くで、おそらくは削られずに残った「高隈花崗岩」の岩肌を滑り落ちているのだろう。落差は62mというから半端な滝ではない。

 滝のある所がほぼ源流地帯で、一番の先端は妻岳の直下にある。

Takasugawa3_014 牧場から、今度はさっきの入り口海道町ではなく、花岡町に下る道をとった。2キロほどで「くぬぎ橋」に出る。この橋から上流300㍍のところに「花岡用水」の取水口があるというが、道が見つからなかった。

 上流はこのように穏やかな渓谷なのだが、それにしても中流地帯の峡谷振りにはおどろくほかない。カワゴケソウの一種のカワゴロモという熱帯性の水中植物がいまだに生息しているのもそのお陰だろう(天然記念物)。

Takasugawa3_016_3   くぬぎ橋から高須川の右岸を上がっていくと花里町に出、そこからは今度は下り道となる。1キロ半ほど下ると、大隅少年自然の家前というバス停があり、右折して約1キロで「国立大隅少年自然の家」だ。

 ここは子供たちが宿泊して自然体験をするところで、我が家の子供たちも小学生の時は何度か学校から出かけている。写真では背景に高隈山系が見えるだけだが、宿舎の窓からは鹿児島湾が望めるようになっている。

Takasugawa3_019

   さっきのバス停まで戻り、なおも下っていくと1キロ余りで前方が開ける。道路左手の畑の中に入っていくと、200㍍ほどで道は右にカーブするが、そのまま行くと今度は左手に上がっていく道がある。行き止まりまで行くとザア、ザアという水の音。

 鉄筋の門を入ってみると、そこには水の出口があった。上流のくぬぎ橋上の井堰からの水だ。ここまで4キロもあるというから驚く。しかも用水建設の指導者Takasugawa3_022 は女性なのである。その名を「島津岩子」(22代藩主継豊の妹)といい、花岡島津家第2代久尚の正室だった人だ。

 飲料水と農業用水を兼ね、8年の歳月をかけてついに成し遂げた(安永9年=1780)あと、水田を40町開くことができた。その成果に藩主も喜び、褒美として鹿児島城下の原良に屋敷を与えたという。その花岡屋敷は今に残るそうだ。

Takasugawa3_017_2 戦後になっても敬愛の念があったようで、右の写真で学校の裏にある小高い丘「木谷城址」の一角には岩子の顕彰の石碑が建っている(上)。

 木谷城は南北朝時代に南朝方の武将・楡井頼仲が鹿屋城から転戦し、立て篭もったという城であったが、江戸時代の一国一城制度により廃城になった。

 城の頂上はかなり広く平坦で、行ってみたら高齢者たちがグラウンドゴルフをやっていた。それはそれは見事な芝生が生えていた。

Takasugawa3_024 城の下にある鶴羽小学校は、門柱と石垣に藩政時代の石が転用されているが、ここは「御仮屋跡」なのであって、けっして「鶴羽城」という城だったわけではない。城はあくまでも後ろの丘の上にあった。

 小学校の前から道を左手にとれば鹿屋体育大学入り口の信号への道となる。それを約500㍍行くと、右手に墓地がある。これが花岡島津家7代(145年間)の墓地で、ここには菩提寺「真如院」があったという。

Takasugawa3_026

 ひときわ大きい屋根型の墓塔は初代久とし(人偏に寿の旧字)のものと思われる。

 久としは薩摩藩主20代綱貴の二男で、最初わずか1300石の持分しかなかったが、用水の完工を見た後は幕末までに5400石と大幅に増加している。家格は一所持ちで、一所一門家(加治木家、重富家、垂水家、今和泉家)に次ぐ家格であった。

Takasugawa3_029  墓地の裏手約600㍍ほど、花岡の台地が錦江湾に向かってせり出そうという辺りに「高千穂神社」が鎮座する。祭神はニニギノ尊で、伝説では高千穂に天下りしたニ二ギが大隅から阿多地方に渡る前に、ここにしばらく滞在したという。それで最初は「当座大明神」と言ったらしい。

花岡地区からは北に桜島、東に高隈山、西は広大な錦江湾が望まれ、古来より聖地視されていたのかもしれない。

  マップ(赤い十字は木谷城、矢印は花岡用水の取水堰)

 Maptakasugawa3 注:この地図には国道220号から海道、花岡への道路が記入されていない。ちょうど220号線の三角のマークあたりから海道ー花岡ー根木原ー大浜(海岸)と花岡地区を貫く道路がある。

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サツマイモの収穫風景

家の近くの畑では、朝早くからサツマイモの収穫で大にぎわいだ。Karaimoshuukaku_001

 いつも犬の散歩で通る傍らの畑で、知人が5人で軽トラックの荷台のカライモの選別をやっていた。

 芋の尻尾きりと腐れ芋の廃棄とを同時に行い、手前の大きな袋に投げ込んでいく。

 この袋はでんぷん用工場専用の500キロくらい入る大きな物で、詰め込んだあと、ここに置いておくとクレーン付きのトラックがやってきて積み込み、そのままでんぷん工場へ直行する。Karaimoshuukaku_003 

 広い畑の右側は畝を崩してカライモ(サツマイモをこちらではこう呼ぶ)がむき出しになっているが、左はまだ畝が立ったままだ。この中に白い芋、でんぷん用の「黄金千貫(こがねせんがん)」がぎっしり詰まっている。

 8月以降は晴天に恵まれ、芋もホクホクなら、人もホクホクだろう。Karaimoshuukaku_005

 大通り(県道)に面した畑では、これから一枚の畑を収穫しようというところだった。

まず四隅を手で掘り取る。そうしておかないと収穫用の機械が入らないからだ。ただし収穫機械(掘り取り機)が入る前には、芋のツルを切り、マルチの黒いビニールを除去しておかなければならない。

Karaimoshuukaku_008 芋のツル切りも昔は腰をずっと屈めたまましなければならなかったのだが、今は左の通り機械で細かく切り取ることができるようになり、農家は楽になった。

 実際、芋は今やもっとも楽に作れる作物になった。

 耕運、畝立て、保温・雑草抑制・畝の崩落防止の三役を果たすビニール張り(簡単にはマルチ張り、と言う)までの仕事はほぼ機械化され、ただそのあとの芋苗の植え付けだけがまだ人手によるが、植えつけてからは収穫までは芋虫の防除のための薬剤散布くらいで済んでしまう。Karaimoshuukaku2_003

今日のような収穫になると、ビニールはがしに若干人手がいるが、そのあとは左のような堀取り器がトラクターに装着されて活躍する。その後はさっきの知人の所のように、みんなで芋を寄せ集めることになる。

 多少、汗はかくが、無事に収穫までこぎつけたという喜びの汗に違いない。Karaimoshuukaku2_007

  ここから300㍍ほど離れた畑でも収穫していたので行ってみると、大きな袋が五つも六つも並んでいた。ほとんど収穫を終えている。昨日の続きだろうか、向こうで作業していたので、畑に入ってトラクターの近くまで行ってみた。

 するとここの収穫方法は、畑の芋を軽トラックに積み込んでから選別をしつつ袋に入れるというのではなくして、トラクターの前部にアームを取り付け、そこに袋をうまい具合に掛け、畑からKaraimoshuukaku2_006直接そこに放り込む――というやり方だった。

 なんだかミレーの「落穂拾い」を連想させる「落ち芋拾い」だ。

 カライモ――と、鹿児島で言う訳は、カラ(唐=外国・海外)から到来した芋だからで、具体的には琉球からだった。

 初渡来にはいくつかの説がある。一番有名なのは「山川の利右衛門」が、琉球から三個の芋を隠して持ってきて、それから広まった(宝永2=1705年)というものだが、種子島家当主「種子島久基」がその7~8年前にすでに琉球から手に入れていたとも言われている。

 いずれにしてもこの芋の普及のおかげで、幕府をゆるがせた「享保の大飢饉」(享保17=1732年)の時、鹿児島藩では全く餓死者を出さなかったことで注目を浴び、幕政の採用するところとなった(青木昆陽)という史実につながる。

 利右衛門は今では「甘藷翁(からいもおんじょ)」を通り越して、指宿市山川町徳光の徳光神社に「玉蔓命(たまかずらのみこと)」とかいう祭神として祭られあがめられているようである。

 

 

 

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高須川流域散策(その二)

 国道269号が高須川を渡る「岡留橋」から、左岸を上って行くこと500㍍で「野里地峡」に入り、道はほぼ直角に東向きに折れる。Takasugawa2_001

 一番狭いところでわずか30㍍くらいだろうか、といって川自体は峡谷かといえば全くそうではない。緩やかな、どこにでもありそうな川底の高い流れである。

 そこを抜けると広大な野里大津地区だ。

 この「大津(うつ)」という地名の由来は諸説があり、おおむね二つに絞られる。ひとつは近江の国の大津から有力者がやってきて住みついたからというもの。Takasugawa2_005 もうひとつは、昔この地は水はけが悪く(野里地峡のせいで?)、大雨が降ると一面が湖のようになる。その時に大津集落がまるで大きな津に臨んだように見えるからというもの。

 どちらも「大津」という漢字に囚われた解釈で、私見では「ウツ」という音の意味するところを汲む。これはかって肝属川流域の中心だった「打馬(うつま)」と同じ由来で、ウツ(宇都)とは「すべてがまとまってある状態」つまり「生存条件の完全な」ということである。大津(うつ)地区はまさに野里宇都の広い田んぼ地帯の中心に位置している。

 その広い(およそ70㌶はあろう)野里田んぼを上流に向かうと、珍しい物に行き会った。「稲こづみ」だ。稲藁のとんがり帽子だが、今はほとんど見かけない。藁が腐らないようにする積み方だが、近くで作業していた人に聞くと園芸用の敷き藁だそうだ。リサイクルの見本がここにある。

Takasugawa2_006 野里田んぼのど真ん中、「大津橋」のすぐそばに県指定の「野里の田の神」がある。約250年前に造られた田の神は、端正で福々しい。よく見ると例のピンク石のようだ。左には水神様が二基建っている。

 説明板がいい。花崗岩製の重々しい本のスタイル。洒落た事をする。ずいぶん金を掛けたなとも思うが、こういうのもあっていい。

Takasugawa2_010 大津橋から上流を見る。晴れていれば高隈山が遠望できる所だ。

 川はすぐそこから左、つまり北の方角に向きを変える。その向きは最上流の高隈連山中のピラミッド「妻岳」(1145m)の南斜面の源流域までほぼ変わらない。

 橋を左手に渡れば大津地区だが今回は渡らずに、そのまま左岸沿いを上流に向かう。野里小学校のすぐ下に田の神があると聞いたからだ。Takasugawa2_013

小ぶりの田の神だった。しかも顔がえぐれ、両手も落ちている。珍しいのは座っていることだ。有名な田の神はほとんどが立った姿のはず。行き会った人が「一昨日まで周りが草ぼうぼうだったのに」と言っていた。

 隣の石碑は耕地整理記念碑だ。田の神に負けず劣らず多いのがこの手の記念碑であるが、田の神と並んでいるのは余り見かけない。

Takasugawa2_014  田の神の筋向いの道路下に池のような物がある。行ってみると野里小学校の「メダカの池」だった。睡蓮がびっしり浮かび、池の周りの草も自然だ。ビオトープという生態系観察のための施設ということだろう。

 いわゆる総合学習の一環だが、文科省は「そんな時間があったらもっと机に向かって勉強せい」と国際学力調査の成績が落ちたことでカリカリしているらしい。なんとも短絡なことだが、こっちを学習したほうが探究心は付くし、ましてこれからの環境問題を考える糸口になろう。 

Takasugawa2_015 それにしても野里小学校の校舎のすばらしさには舌を巻く。どこぞの有名私立小学校という雰囲気だ。

 ここに限らず、鹿児島の小学校は地域のシンボルの意味合いもあってどこに行っても豪華に造ってある。イザというときの避難所にもなるから頼もしい。これに温泉があれば完璧だが・・・。Takasugawa2_017

おやおやと思うほど野里田んぼには田の神が多い。シラス台地の下に広がる集落から田んぼ地帯に出る際に必ずあると言ってよい。

 ここ吉国集落では田の神が二基並んでいる。耕地整理記念碑とも同席だ。それだけではない、向こうの四角いのは「戦災復興記念碑」で、海軍基地のあった鹿屋は米軍の爆撃の標的になることが多く、この地区もひどい目にあったらし い。時代の証人だ。Takasugawa2_020_2 

吉国橋のすぐ上手には井堰がある。

 橋を渡って吉国集落を通り抜け、さらに上流を目指すと300㍍ほどで峡谷の入り口になる。急に林が迫り、川も近づいてくる。程なく国道220号線に出る。そこに架かる橋が高橋(下の写真)で、これは峡谷をかなり下に見る「高い橋」には違いない。そのためか、このあたり一帯も高橋地区になっている。Takasugawa2_021

高橋を渡ると、道は峡谷とは離れ、1キロ余り上流の一里山交差点を右折し、約150㍍先の「一里山橋」の上からしか川は望まれない。ところがあったのだ、峡谷へ降りる道が。

 一里山交差点からは250㍍ほど手前になるが、右手に入る細い道がある。うっかりすると見過ごしてしまいそうな道だが、ちゃんと舗装はされている。右折すると緩い下り坂で、100㍍も行くと先に小さな橋が架かり、左手には立派な石碑が立つ。

Takasugawa2_023 これが知る人ぞ知る「磯吉橋」で、大正年間に国道の川向こうの台地を開墾しようという熱意を持った「郷原磯吉」が私財を投じ、川幅の最も狭いここに橋を渡したという。峡谷の川面からは優に30㍍はある高い所に、80年以上前の当時どのように橋を渡したのか、凝灰岩製の頑丈な橋は今でも車を通している。

 磯吉橋を渡り、50㍍ほどいくと川に降りる道がある。

Takasugawa2_024 国道220号線鹿屋バイパスに架かる一里山橋が、すぐ向こうに高く見える。川面との比高は40メートル以上はあるだろう。見ているとひっきりなしに車が通る。一里山の一里とは、花岡町にある花岡島津家の仮屋(役所)からの距離だそうだ。

 再び磯吉橋を渡り、さっきの国道に戻る。一里山交差点を右折して一里山橋に至り、そこから下を眺める。すると川の右岸に見事な田んぼがある。磯吉橋開設の功徳のひとつだろう。

Takasugawa2_026 川はこの上で二股に分かれ、左手の川が鳴之尾牧場の近くを流れ、源流を妻岳に持つ高須川本流だ。

  

 マップ(赤い十字は磯吉橋。矢印は吉国の二体の田の神)

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八月口説き踊りと鉦踊り

Hatigatuodori_001  肝属川が中流の流れとなる所、鹿屋市川東地区では旧暦8月26日(今年は新暦で10月8日)になると、水神さあ、田の神さあへの感謝を踊りでささげる「八月口説き踊り」が行われる。

 口説き(くどき)とは「言って聞かせる」ことで、神々への場合は感謝の言葉が中心になる。口説くのは踊り手の女性連ではなく、座って三味線・鉦・太鼓を奏でる男たちだ。

 タブの木の下には水神さんの他に、田の神さま、見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿を刻んだ物もあった。Hatigatuodori_008

 ここの田の神は盗まれていたのを、ある男性が96歳の祝いに新しく造って寄付したという。確かに昭和31年と記銘されている。

 地元の人の話では婚礼の夜、新夫婦が仲良くなるようにと一晩田の神を家に連れて行くという風習があったそうな。仲良くなるとはお分かりだろう「豊作(子供)に恵まれますように」ということ。そのまま返さない場合もあるというから、田の神さあも昔は忙しかったようだ。今は暇をもてあましているようだが・・・。

Hatigatuodori_016  川東は初めて来たところなので、踊りが終わってから集落を走ってみた。

 すると、さっきの踊りのあったところからシラスの台地まで上がり、しばらく西に向けて走ったら、教育委員会の石柱が目に入った。

 おや、と単車を止めてみると「川東古墳群」の案内柱だった。狭い石段を2㍍ばかり上がるとおやおや土饅頭がぽこぽこと並んでいる。手入れの行き届いたきれいな円墳だ。

Hatigatuodori_014  四基の円墳が重なり合うように築かれていた。

一番大きいのでも径10メートルあるかなしかで、高さも2メートルに満たない、とにかくかわいい古墳たちだ。古墳に眠るのは豪族と一応決まってはいるが、ここのはとても豪族とは思えぬ外観だ。さっき踊りのあった田んぼ地帯を治める有力者とは違うだろう。

 写真でしか見たことはないが朝鮮の陵墓の形にそっくりだ。もしかしたら渡来系の人物のものかも知れない。Hatigatuodori_029 

川東の踊り連が、午後からは王子町にある「和田井堰」の水神さあの前でも踊ると聞いて、 昼食後行ってみた。(和田井堰についてはこちら

 テントの向こうに四基の水神塔が並んでいるが、まずそこで祝詞などをあげて祈り、そのあと踊りを奉納する。

 黒紋付の衣装に濃紺の被りが緩やかに舞われると、あたりまでが優美な場所のように思えてくるから不思議だ。終わった後「花代」が読み上げられて祭りの雰囲気が盛り上がる。

Hatigatuodori_041_2  同じ川東地区の「光同寺の鉦踊り」もこのあと奉納された(右の写真。後方の山は御岳)。

 二人の締め太鼓の後ろに五人の鉦手が並び、それぞれ違った大きさの鉦を打ち鳴らす。音楽的だが、さほど響かない鉦の音なので余韻はない。ただし独特の素朴な音色だ。Hatigatuodori_053

 その一方、次に奉納された「王子町山中の鉦踊り」は人数も多く、動きもやや激しい。

 音楽的な構成は同じだが、二人の応援団長のような役回りがいて見ごたえがする。

Hatigatuodori_055_2  王子町の鉦踊りにはずいぶん若い子も参加していた。おそらく12,3歳だろう、鉢巻姿がなかなかりりしい。

 踊り始めてかなり経った頃、お年寄り連が、腰に巻いたごぼう締めの藁のまわしを着けて、踊りの輪に加わった。Hatigatuodori_059

 跳んだりはねたりの所作が多く、お年寄りにはかなり大変だ。それでも仲間内でやっている気安さか、息を上げてしまうという風には全く見えなかった。

 NHKの取材があったので聞いてみると、この王子町の鉦踊りを含め、県内の四ヶ所の祭りを取り上げる予定だそうだ。今日はその下調べに来たと言う。

 その一人が、県内の民俗学の泰斗、下野敏見・元鹿児島大学教授も取材に見えていると教えてくれた。そういえばカメラを盛んに写し、ビデオも三脚に据え、忙しそうにしている高齢者がいる。よく県芸能祭の舞台で民俗芸能の説明をされる先生だ。Hatigatuodori_056_2

 挨拶に行くと、「大学を退官後はこうして風来坊のようにあっちこっち」とおっしゃる。フットワークはとても78歳には見えない。 「民俗研究所の設計図はできているのですが」 ―― いつかは建てたいという夢がお有りのようだ。

 マップ(赤い十字は川東古墳群。矢印が川東の田の神)

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平田家の墓

平田家と聞いて「平田靱負(ゆきえ)」を思い浮かべる人はかなりの歴史通だろう。

 靱負は徳川幕府の要請(というより強制)により、薩摩藩が「お手伝い普請」として木曽川三川(木曾、長良、揖斐)の洪水防止工事(木曽川治水工事)に駆り出された時の薩摩藩総奉行で、完工の報告を出した翌々日に岐阜県大牧の宿営において、割腹自殺を遂げた人物である(時に宝暦5=1755年5月25日)。Hiratakehaka_004

肝付町の高山にその墓があると聞いて、一瞬耳を疑った。物の本によれば墓は京都の薩摩藩伏見屋敷のちかくにある「大黒寺」にあるとなっているからだ。

 治水工事に成功しながらなぜ彼が自死しなければならなかったのか。三つの理由がある。

 ひとつは、治水工事の期間中に藩士、従者併せて84名もの死者を出していることで、うち33名だけが病死、あとはすべて自害、という工事の過酷(肉体的ではなく精神的なもの。幕吏および幕府に対する抗議であった)が原因。

 二つめは、工事費が予定をはるかに超え、当初、9万両ほどと見積もられていたのが、実に4倍の37万両に膨らんでしまったこと。薩摩藩の家老としては自責に耐えられなかった。

 Hiratakehaka_005 最後は、上の二つのまとめになるが、ここで死んだ藩士、従者を置いていけないという気持ちと、幾分は幕府への抗議の気持ちもあったろうが、手塩にかけて完成させた大工事の行く末を見守りたいという「人柱」的な存念もあったかと思われる。

 事実、この工事の完成度は高く、幕府時代に一度、明治以降に二度ほどの小手直しはあったものの、宝暦5(1755)年の完工の姿をほぼそのまま留めているそうだ。(以上は伊藤信著『宝暦治水と薩摩藩士』を参照した)

 平田家の墓はもともと鹿児島市内にあったが、道路拡張工事に引っかかり移転せざるを得なくなった。その移転先が高山町の「丸岡墓地」である。

 Hiratakehaka_003 その時の当主が、高山に嫁いでいた直系のハナだった。ハナの先代(正直:ハナは正直の二女)で男系が絶えていたのだ。高山の日高氏に嫁してはいたものの、主人の一彦が昭和16年に亡くなると、同じ高山の宇都宮家から養子を得て平田氏を継がせ、平田家の墓もこちらに移すことになった。しかしハナも昭和19年8月に61歳で亡くなった。

 ハナの墓は先祖墓(刻字では元祖墓とある)の左前方に建っている。

 先祖墓には靱負(正輔)の名も刻まれている。先祖はかの平清盛だそうで、庶流が「平田」を姓としたのが始まりという。そうすると仕えた島津は公式には源頼朝の庶流だから、中世には敵同士だったことになる。歴史というものはそんなところが面白い。

 ところで、木曽川治水工事に汗を流し、そこで命を落とした藩士たちを「薩摩義士」という。義士というと鹿児島では「赤穂義士」の顛末を語り・学ぶ「赤穂義士輪読会」が城下で行われているが、筆者は大石内蔵助以下47名の旧赤穂藩士たちを義士と言うべきではないと思う。

 「忠臣蔵」の名の通り、「忠士」ではあるだろう。亡くなった主人の汚名を雪ぐべく2年もの間チャンスを窺がいつつ、見事に主人の仇を討ったあの沈着と計画性は賞賛に値する。だが、彼らは結局は、自分たちと主人との間の「封建的主従関係」を全うしたに過ぎない(極度に時間を掛けた殉死といってもよい)。

 その一方で薩摩藩士は自分たちとは全く無関係な他国の河川の治水工事にかかわり、40万両近い経費も自分持ちであり、その結果としての堤防完成による利益は一切享受することがなかった。命を落とさなかったとしても十分に賞賛に値するのに、文字通り「自腹を切った」のである。これこそ「義人」と言わずして何と言おうか。

 かって一度、「治水神社」を訪れたことがあるが、広大な美濃・尾張の平野を画する千本松原の締め切り堤防の上には、優美な日向松が亭々と枝を広げていたのを思い出す。

  マップ(赤い十字が「丸岡墓地公園」。特老「国見園」前から入り、約80㍍行った左側に平田家の墓群がある)

Maphiratakehaka

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高須川流域散策(その一)

高須川は高隈山系の南部を源にする長さ16キロほどの小河川だが、きわめて個性的な川である。その特徴Takasugawa1_001 は河口から表れる。

 河口はかって港町として栄えた(写真は野里から下る道路から見下ろした河口付近の町並み)。

 古くから言えば、10世紀の初期に編纂された『和名抄』(源順が編纂)の中の諸国の郡郷一覧に登場する。大隅国6郡のうち「姶羅郡」と「大隅郡」にある二つの「岐刀郷」(キトまたはフナト郷)のどちらかが高須で、野里を示す「野裏郷」と隣り合っていることから考えると、前者の「姶羅郡」に属していたことは確かだろう。それほどの古い港。

Takasugawa1_003  その野里から坂道を下って高須三文字という信号を左へ折れると、高須の町並みの中に入る。すぐに面白い欄干をもつ「高須橋」を渡る。これが高須川だが、河口は右手約250㍍のところだ。その手前には旧国鉄大隅線の小さな橋が架かっている。

 さて、高須橋を渡ると左に小さな赤い鳥居と社が目に付く。これは「川津神社」。ミズハノメという水の神を祭る。社の後ろは比高15㍍ほどの凝灰岩(ピンク石だ)の小山になっている。海蝕性の岩山はいかにも港にありそうな風景。

 もう少し行くとやはり左に、人家の塀にはめ込まれたような社がある。Takasugawa1_006

 すだれが掛かっているのは信仰する人の思いやりか、覗くと一対の陶製の狐が置かれていた。お稲荷さんだ。やはり町場なのだろう稲荷信仰には根強いものがある。祭神は稲魂(ウカノミタマ)なので農業神だったのだが、人が多く町に住むようになってから、商売繁盛、家内繁栄の守り神となった。

Takasugawa1_012

 さらに町並みを行くと100㍍足らずで、右に赤い大鳥居が見える。入っていくとそこが「波之上神社」だ。二つ目の鳥居の下には石の祠が左右に二つ、またその奥には仁王像が一対建っている。

 仁王像はこの社殿の下にあった「光明院」の廃仏毀釈遭難の名残りだが、祠は分からない。たぶん神社の門守りの神だろう(左の緑色の建物は大きな蒲鉾屋の裏の倉庫)。

Takasugawa1_014_2   石段を登るとそこに本殿がある。高須の総鎮守にしては小さな建物だ。建っている岩山の頂上の広さから言えば、こんなものか。創建は正平3(1347)年、紀州から下って来た昌光(しょうこう)というお坊さんで、紀州熊野三所権現を祭った(イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ)。

 昌光僧都は勤皇の志の篤い人で、同じく勤皇方の肝付兼重、楡井頼仲とは気脈を通じていただろうと思われる。その時の祈願文が今に残る。

左の裏手に回るとそこに六基の板碑・石塔が立っていた。説明板によると鎌倉Takasugawa1_016_3 時代末期のもので、一番古い刻銘では嘉暦3(1328)年が確認され、興味あるのはもうひとつの板碑(心敬という僧の供養碑)の年号で、南朝年号の元弘2(1332)年と北朝年号の正慶2(1333)年が同時に刻まれていることである。南北朝時代直前の混乱した世相の表れで、大変珍しいとされている

  板碑のほとんどは山川石という同じ凝灰岩でも黄色味を帯びた石で造られている。山川石は比較的硬いため風雨にさらされても崩壊が少ないが、さっき川津神社の裏で見たピンク石系の凝灰岩はもろい。左から二つ目の板碑(もしくは石塔)はそのピンク石で造られたため、ぼろぼろになっている。

 神社をおりて裏道を港へ向かう。50㍍ほどで旧大隅線の跡の道路に出る。今は「フィットネスパースTakasugawa1_017 (健康通り)」と名づけられ、ウォーキングを楽しむ市民に開放されている。左の小山が神社の山で、向こうに見える丘が「高須城址」(南北朝期)。

 手前右手に港がある。「高須港」だ。

 高須港はかって重要な港で、古代より向かいの半島、つまり薩摩半島に渡る拠点でもあった。郷土史家の中にはここに肝付水軍の基地があったと考える人もいる。それはおおいに有り得ることと思う。

Takasugawa1_008_2 現在は防波堤で囲まれた漁業基地で、海運は北にある古江港にその座を明け渡したが、それまでは高須川の入り江は底が深いため造船・停泊に適した良港であった。

 高須漁業の一番の目玉は「ミナミグダエビ」という深海性のエビだろう。なんでも100㍍以上の海底を底引き網ですくってとるというが、網の長さが半端ではないらしい。初夏から秋までの漁期しかなく、貴重な海の蛋白源だ。

 港から再び町並みに戻る途中、伊地知さんという家の塀の中、道路からすぐのところに巨大な五輪塔が見える。Takasugawa1_009 これは刻銘はないが、波之上神社と光明院を創建した昌光僧都の供養塔とされる。

 説明では県下でもっとも大きな五輪塔であるという。それほどのものでありながら、普通の家の庭にさりげなく石灯籠のように立っているのがほほえましい、というより驚きだ。市の指定文化財だが、県指定になってもおかしくない代物なのである。石材は山川石を使っており、対岸の指宿・山川との交流が偲ばれる。

Takasugawa1_020本通りに出て南に向かい、300㍍で左へカーブするところに警察署があり、そこから右に入ったところが高須海水浴場である。 そこは素通りし、カーブして約300㍍、左手に新聞販売店があるのでそこを左折し、100㍍足らずで高須小学校に着く。

 校舎の上に高須古城跡の丘があるはずと思い、確認しに訪れてみた。すると確かに小奇麗な校舎の向こうに山頂が頭を出していた。入ろうとして校門の周りをせっせと草取りする先生に気づいた。実はこれこれで・・・。ああ、どうぞ、どうぞ。ちょっと先生もそこに立ってくださいよ。え、あ、そうですか、それじゃ。

Takasugawa1_022 小学校の裏手に回ると、坂の途中にまず中学校(高須中)があり、校門の前を左手へさらに登ると、そこは確かに見晴らしのよい丘の上で、山頂部にはなんらそれらしきものは無く、鹿屋市営墓地になっていた

 古城といっても、波之上神社近くの高須本城よりえらく古いというわけではなく、同じように南北朝期に造られたものだ。

 墓地のすぐ下は高須中で、校舎の向こうには錦江湾南部の波頭が望まれる。

Takasugawa1_026 墓地から北へ向かい再び高須の町並みに下り、今度は高須橋の袂から右手、つまり高須川左岸をさかのぼった。すると川の左岸の先に何やら子供の赤い帽子の群れがうごめいている。目を凝らすと小学生らしき一団が、ワイワイやっている。

 登り坂になって川から離れようとするところで、左へ下りる道があったので、それを下っていくと、高須にこんなところがあったのかと思うようなちょっとした田んぼ地帯だ。小学生の稲刈りだった。

Takasugawa1_028 バインダーという刈り取り結束機をあやつる農家の人の後を、生徒たちが金魚の糞よろしくくっついて行く。見ていてほほえましい光景だ。向こうで写真を撮っているのは担任の先生らしい。やはりデジカメでチャンスを窺がっている。

 高須川は向こうの崖の下を流れている。その上流はすぐに約1キロの渓谷になり、その間は一般道路はない。ここは高須の隠れ里のようなところだ。Takasugawa1_030

手伝いをしているお年より二人に聞く。

子供たちの加勢ですね? ああ、こんたモチ米じゃっど。架け干ししてから、学校で餅つきばすっと。 子供たちはお孫さんみたいですね! うんにゃ、ひ孫ほどじゃらい。 (あら、よう・・・。)

Takasugawa1_024 さっきの左岸道路にもどり、500㍍ばかり行くと、国道269号線のバイパスに出る。信号があるので右へ折れる。これをどこまでも行けば佐多に達するが、右折して間もなくの左側一帯に遺跡がある。右の写真は逆向きに撮ったので右手の丘陵部分がそれだが、遺跡名を「榎木原(えのきばる)遺跡」という。

 縄文早期からの複合遺跡だが、特筆すべき出土物は縄文中期に属する「船元式土器」だろう。岡山県の船元貝塚の物を指標とする縄文中期の代表的土器だが、高須という地には5000年近くも前から海人(航海民)が住んでいたという証拠になろう。

川はこれから上流1キロは深い渓谷になっているので、バイパスをそのまま鹿屋方面に向かう。

立派な「高須大橋」で渓谷ををはるか下に望み、さらに1キロ行くと野里のホンダ自動車が見えてくるが、そのTakasugawa1_047 少し手前から川に降りる道がある。降りると言ってもそこはもう渓谷の上流で、ごく普通の穏やかな流れになっている。

 川に架かる「小天(おてん)橋」を渡り、右手の道をとる。川を逆に上流からたどってみようというわけで、幸いにも旧国鉄大隅線の跡が歩き専用道(フィットネスパース)になっていて、川の様子を垣間見ることができる。

 小天橋から300mほどでそのパースだ。ここでも右への道をとる。高須方面へのパースである。約500㍍行くと、「磨崖仏」の標識。それに従って右へ下りTakasugawa1_035_2 Takasugawa1_037_3 て行く。比高で20㍍も下りると川面に面した岩があり、その一番下に 三体の仏が彫りこまれている。小ぶりの仏で真ん中の釈迦如来でも1メートルほどである。

 川との間は2メートル足らずしかないので、何人も並ぶことはできない。まるで隠れ念仏の場所のようだ。惜しいことに一対の石灯籠がどちらも倒れていた。

Takasugawa1_044 Takasugawa1_045_2  フィットネスパースに戻り、さらに高須方面へ50㍍、瀬音が聞こえてきた。右側の林に立つとはるか下に岩らしき物が見える。足元には踏み跡がある。よし、とばかり、かなりの傾斜を木につかまりながら下りてみた。

 いや、驚くべき光景!左の写真はよくある川の井堰だが、落ちる水の先がすごい!

 右の写真に到っては、いったいどうしてこんな形に?と驚くやら呆れるやらの自然の造形。自然の美にも端正な美もあれば、こんなにシュールなやつもあるんだ、と感じ入った次第。

 こうも言い換えられる。前者が「弥生の美」なら、後者は「縄文の美」。岡本太郎に見せたら喜んだろう。

 もう一度パースまでよじ登り、今度は野里方面へ引き返す。もとの田園風景にTakasugawa1_050 帰るとちょっとほっとするのは、筆者の弥生人根性のなせる業か。

田んぼを通りかかるとおばさんが帰り支度をしていた。

 今、ちょうどコンバインの刈り取りが終わったんよ。もう一枚向こうに田んぼがあって、あそこは架け干しにする。コンバインを人に頼むとモミの乾燥までやってくれるけれど、田んぼ一枚で4~5万円もかかるもの。

Takasugawa1_052

小天橋まで戻ると、橋越しに小さな丘がこんもりと見える。あれは「岡泉の古墳」で、この田んぼ地帯を開いた豪族の眠る岡のようだ。ただ、今は集落の墓地と化していて、それらしき遺物・遺構は見られない。

Takasugawa1_054 川の左岸をさらに行く。見渡す岡留地域は「岡泉」ともいい、現に公民館は「岡泉公民館」である。だが、古地図では岡泉はない。首を傾げつつ田んぼ地帯の上手に架かる橋にたどり着いて納得した。

 「岡留橋」とある。やはり岡留が先にあった地名なのだ。橋のさらに上流は地峡になっている。「野里地峡」と名づけておく。地峡から先は次回に・・・。

 それにしても高須は見所が多い。志布志も史跡が多く、犬も歩けば史跡にあたる、と言えるが、高須はさらに凝縮されている。カメも歩けば、とでも言おうか。

 マップ(赤い十字は子供の稲刈り田んぼ、矢印は磨崖仏)

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Maptakasugawa1

 

 

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裸の王国

 裸の王国―の裸にしたら典型的なポッコリおなかの王様が、久々に南の同じ朝鮮族の大統領に会って話をしていた。

 ノドン・テポドンを打ち上げ、核開発を仕掛け、マカオの銀行口座を差し押さえられるという、世界から丸見えのおろかな失態を繰り返す、裸の王国。

 6年前に小泉首相が直談判してようやく拉致を認めながら、のらりくらりと言い逃れ続ける裸の王国、北朝鮮。

 あのポッコリおなかの影で多大な国民が餓えに苦しみ、涙を流しているにもかかわらず、相変わらず世界に向かって子供のように駄々をこね続ける裸の王様、キム・ジョンイル。

 早く、ポッコリおなかの王朝を無くして、少なくとも南朝鮮(韓国)並みの、民主国家になったらいいのにと思うのは筆者だけではあるまい。

 ――話は3世紀の朝鮮半島に飛ぶ。

 その頃、大漢帝国のくびきを脱した北部朝鮮は、北に戸数8万戸の「夫余」、その南に戸数3万戸の「高句麗」、さらに南にあった「ワイ(さんずいに歳)」(2万戸)の三ヶ国に分裂していた(ただし夫余の領域は満州が中心)。

 魏志の「夫余伝・高句麗伝・ワイ(さんずいに歳)伝」によると、この三ヶ国の本貫は一番南の現在のピョンヤンを含む大同江の中・上流域を支配していたワイである。ワイこそが北朝鮮人のルーツと言っていい。

 このワイに、殷王朝の末裔である「箕子(きし)」が亡命してきてワイ人を教えたところ(八条の教え)、門戸を開け放ったままでも、誰も盗みをしなくなった(魏志ワイ伝)――というほどワイ人は純朴・素直だったらしい。それに箕子もよい統治をしたのだろう。40数代続いたというからよほど君臣間に信頼感があったに違いない。

 このワイ人の純朴を、今、ポッコリおなかの王様(先代もポッコリしていた)がもてあそんでいる姿が「マスゲーム」にダブって見えてしょうがない。ワイ人の末裔が気の毒だ。ジョンイルもワイ人ではないのか、というとどうだろうか。金姓は南朝鮮の金海地方が本貫だというから、たぶん違うだろう。 

 ジョンイルに箕子のつめの垢でも煎じて飲ましてやりたいものだ。飲まないのならポックリいってほしいものだ。けっして北朝鮮にポッカリと穴が開きはしまい。ワイ人の末裔のために世界が喜ぶはずだ。

 問題は中国の対応だろう。ポッコリがポックリと倒れる(倒される)前に中国に亡命して助けを求めることはあり得る。その時、中国がどう出るかで、南朝鮮(韓国)とギクシャクするかもしれない。場合によってはアメリカの介入もあるだろう。

 それでも戦争になることはあるまい、多少の小競り合いはあっても。

 一日でも早い南朝鮮(韓国)主導の統一を願うばかりだ。その時、日朝間懸案の拉致問題も解決をみるはずだ。

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