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高須川流域散策(その一)

高須川は高隈山系の南部を源にする長さ16キロほどの小河川だが、きわめて個性的な川である。その特徴Takasugawa1_001 は河口から表れる。

 河口はかって港町として栄えた(写真は野里から下る道路から見下ろした河口付近の町並み)。

 古くから言えば、10世紀の初期に編纂された『和名抄』(源順が編纂)の中の諸国の郡郷一覧に登場する。大隅国6郡のうち「姶羅郡」と「大隅郡」にある二つの「岐刀郷」(キトまたはフナト郷)のどちらかが高須で、野里を示す「野裏郷」と隣り合っていることから考えると、前者の「姶羅郡」に属していたことは確かだろう。それほどの古い港。

Takasugawa1_003  その野里から坂道を下って高須三文字という信号を左へ折れると、高須の町並みの中に入る。すぐに面白い欄干をもつ「高須橋」を渡る。これが高須川だが、河口は右手約250㍍のところだ。その手前には旧国鉄大隅線の小さな橋が架かっている。

 さて、高須橋を渡ると左に小さな赤い鳥居と社が目に付く。これは「川津神社」。ミズハノメという水の神を祭る。社の後ろは比高15㍍ほどの凝灰岩(ピンク石だ)の小山になっている。海蝕性の岩山はいかにも港にありそうな風景。

 もう少し行くとやはり左に、人家の塀にはめ込まれたような社がある。Takasugawa1_006

 すだれが掛かっているのは信仰する人の思いやりか、覗くと一対の陶製の狐が置かれていた。お稲荷さんだ。やはり町場なのだろう稲荷信仰には根強いものがある。祭神は稲魂(ウカノミタマ)なので農業神だったのだが、人が多く町に住むようになってから、商売繁盛、家内繁栄の守り神となった。

Takasugawa1_012

 さらに町並みを行くと100㍍足らずで、右に赤い大鳥居が見える。入っていくとそこが「波之上神社」だ。二つ目の鳥居の下には石の祠が左右に二つ、またその奥には仁王像が一対建っている。

 仁王像はこの社殿の下にあった「光明院」の廃仏毀釈遭難の名残りだが、祠は分からない。たぶん神社の門守りの神だろう(左の緑色の建物は大きな蒲鉾屋の裏の倉庫)。

Takasugawa1_014_2   石段を登るとそこに本殿がある。高須の総鎮守にしては小さな建物だ。建っている岩山の頂上の広さから言えば、こんなものか。創建は正平3(1347)年、紀州から下って来た昌光(しょうこう)というお坊さんで、紀州熊野三所権現を祭った(イザナギ、イザナミ、コトシロヌシ)。

 昌光僧都は勤皇の志の篤い人で、同じく勤皇方の肝付兼重、楡井頼仲とは気脈を通じていただろうと思われる。その時の祈願文が今に残る。

左の裏手に回るとそこに六基の板碑・石塔が立っていた。説明板によると鎌倉Takasugawa1_016_3 時代末期のもので、一番古い刻銘では嘉暦3(1328)年が確認され、興味あるのはもうひとつの板碑(心敬という僧の供養碑)の年号で、南朝年号の元弘2(1332)年と北朝年号の正慶2(1333)年が同時に刻まれていることである。南北朝時代直前の混乱した世相の表れで、大変珍しいとされている

  板碑のほとんどは山川石という同じ凝灰岩でも黄色味を帯びた石で造られている。山川石は比較的硬いため風雨にさらされても崩壊が少ないが、さっき川津神社の裏で見たピンク石系の凝灰岩はもろい。左から二つ目の板碑(もしくは石塔)はそのピンク石で造られたため、ぼろぼろになっている。

 神社をおりて裏道を港へ向かう。50㍍ほどで旧大隅線の跡の道路に出る。今は「フィットネスパースTakasugawa1_017 (健康通り)」と名づけられ、ウォーキングを楽しむ市民に開放されている。左の小山が神社の山で、向こうに見える丘が「高須城址」(南北朝期)。

 手前右手に港がある。「高須港」だ。

 高須港はかって重要な港で、古代より向かいの半島、つまり薩摩半島に渡る拠点でもあった。郷土史家の中にはここに肝付水軍の基地があったと考える人もいる。それはおおいに有り得ることと思う。

Takasugawa1_008_2 現在は防波堤で囲まれた漁業基地で、海運は北にある古江港にその座を明け渡したが、それまでは高須川の入り江は底が深いため造船・停泊に適した良港であった。

 高須漁業の一番の目玉は「ミナミグダエビ」という深海性のエビだろう。なんでも100㍍以上の海底を底引き網ですくってとるというが、網の長さが半端ではないらしい。初夏から秋までの漁期しかなく、貴重な海の蛋白源だ。

 港から再び町並みに戻る途中、伊地知さんという家の塀の中、道路からすぐのところに巨大な五輪塔が見える。Takasugawa1_009 これは刻銘はないが、波之上神社と光明院を創建した昌光僧都の供養塔とされる。

 説明では県下でもっとも大きな五輪塔であるという。それほどのものでありながら、普通の家の庭にさりげなく石灯籠のように立っているのがほほえましい、というより驚きだ。市の指定文化財だが、県指定になってもおかしくない代物なのである。石材は山川石を使っており、対岸の指宿・山川との交流が偲ばれる。

Takasugawa1_020本通りに出て南に向かい、300㍍で左へカーブするところに警察署があり、そこから右に入ったところが高須海水浴場である。 そこは素通りし、カーブして約300㍍、左手に新聞販売店があるのでそこを左折し、100㍍足らずで高須小学校に着く。

 校舎の上に高須古城跡の丘があるはずと思い、確認しに訪れてみた。すると確かに小奇麗な校舎の向こうに山頂が頭を出していた。入ろうとして校門の周りをせっせと草取りする先生に気づいた。実はこれこれで・・・。ああ、どうぞ、どうぞ。ちょっと先生もそこに立ってくださいよ。え、あ、そうですか、それじゃ。

Takasugawa1_022 小学校の裏手に回ると、坂の途中にまず中学校(高須中)があり、校門の前を左手へさらに登ると、そこは確かに見晴らしのよい丘の上で、山頂部にはなんらそれらしきものは無く、鹿屋市営墓地になっていた

 古城といっても、波之上神社近くの高須本城よりえらく古いというわけではなく、同じように南北朝期に造られたものだ。

 墓地のすぐ下は高須中で、校舎の向こうには錦江湾南部の波頭が望まれる。

Takasugawa1_026 墓地から北へ向かい再び高須の町並みに下り、今度は高須橋の袂から右手、つまり高須川左岸をさかのぼった。すると川の左岸の先に何やら子供の赤い帽子の群れがうごめいている。目を凝らすと小学生らしき一団が、ワイワイやっている。

 登り坂になって川から離れようとするところで、左へ下りる道があったので、それを下っていくと、高須にこんなところがあったのかと思うようなちょっとした田んぼ地帯だ。小学生の稲刈りだった。

Takasugawa1_028 バインダーという刈り取り結束機をあやつる農家の人の後を、生徒たちが金魚の糞よろしくくっついて行く。見ていてほほえましい光景だ。向こうで写真を撮っているのは担任の先生らしい。やはりデジカメでチャンスを窺がっている。

 高須川は向こうの崖の下を流れている。その上流はすぐに約1キロの渓谷になり、その間は一般道路はない。ここは高須の隠れ里のようなところだ。Takasugawa1_030

手伝いをしているお年より二人に聞く。

子供たちの加勢ですね? ああ、こんたモチ米じゃっど。架け干ししてから、学校で餅つきばすっと。 子供たちはお孫さんみたいですね! うんにゃ、ひ孫ほどじゃらい。 (あら、よう・・・。)

Takasugawa1_024 さっきの左岸道路にもどり、500㍍ばかり行くと、国道269号線のバイパスに出る。信号があるので右へ折れる。これをどこまでも行けば佐多に達するが、右折して間もなくの左側一帯に遺跡がある。右の写真は逆向きに撮ったので右手の丘陵部分がそれだが、遺跡名を「榎木原(えのきばる)遺跡」という。

 縄文早期からの複合遺跡だが、特筆すべき出土物は縄文中期に属する「船元式土器」だろう。岡山県の船元貝塚の物を指標とする縄文中期の代表的土器だが、高須という地には5000年近くも前から海人(航海民)が住んでいたという証拠になろう。

川はこれから上流1キロは深い渓谷になっているので、バイパスをそのまま鹿屋方面に向かう。

立派な「高須大橋」で渓谷ををはるか下に望み、さらに1キロ行くと野里のホンダ自動車が見えてくるが、そのTakasugawa1_047 少し手前から川に降りる道がある。降りると言ってもそこはもう渓谷の上流で、ごく普通の穏やかな流れになっている。

 川に架かる「小天(おてん)橋」を渡り、右手の道をとる。川を逆に上流からたどってみようというわけで、幸いにも旧国鉄大隅線の跡が歩き専用道(フィットネスパース)になっていて、川の様子を垣間見ることができる。

 小天橋から300mほどでそのパースだ。ここでも右への道をとる。高須方面へのパースである。約500㍍行くと、「磨崖仏」の標識。それに従って右へ下りTakasugawa1_035_2 Takasugawa1_037_3 て行く。比高で20㍍も下りると川面に面した岩があり、その一番下に 三体の仏が彫りこまれている。小ぶりの仏で真ん中の釈迦如来でも1メートルほどである。

 川との間は2メートル足らずしかないので、何人も並ぶことはできない。まるで隠れ念仏の場所のようだ。惜しいことに一対の石灯籠がどちらも倒れていた。

Takasugawa1_044 Takasugawa1_045_2  フィットネスパースに戻り、さらに高須方面へ50㍍、瀬音が聞こえてきた。右側の林に立つとはるか下に岩らしき物が見える。足元には踏み跡がある。よし、とばかり、かなりの傾斜を木につかまりながら下りてみた。

 いや、驚くべき光景!左の写真はよくある川の井堰だが、落ちる水の先がすごい!

 右の写真に到っては、いったいどうしてこんな形に?と驚くやら呆れるやらの自然の造形。自然の美にも端正な美もあれば、こんなにシュールなやつもあるんだ、と感じ入った次第。

 こうも言い換えられる。前者が「弥生の美」なら、後者は「縄文の美」。岡本太郎に見せたら喜んだろう。

 もう一度パースまでよじ登り、今度は野里方面へ引き返す。もとの田園風景にTakasugawa1_050 帰るとちょっとほっとするのは、筆者の弥生人根性のなせる業か。

田んぼを通りかかるとおばさんが帰り支度をしていた。

 今、ちょうどコンバインの刈り取りが終わったんよ。もう一枚向こうに田んぼがあって、あそこは架け干しにする。コンバインを人に頼むとモミの乾燥までやってくれるけれど、田んぼ一枚で4~5万円もかかるもの。

Takasugawa1_052

小天橋まで戻ると、橋越しに小さな丘がこんもりと見える。あれは「岡泉の古墳」で、この田んぼ地帯を開いた豪族の眠る岡のようだ。ただ、今は集落の墓地と化していて、それらしき遺物・遺構は見られない。

Takasugawa1_054 川の左岸をさらに行く。見渡す岡留地域は「岡泉」ともいい、現に公民館は「岡泉公民館」である。だが、古地図では岡泉はない。首を傾げつつ田んぼ地帯の上手に架かる橋にたどり着いて納得した。

 「岡留橋」とある。やはり岡留が先にあった地名なのだ。橋のさらに上流は地峡になっている。「野里地峡」と名づけておく。地峡から先は次回に・・・。

 それにしても高須は見所が多い。志布志も史跡が多く、犬も歩けば史跡にあたる、と言えるが、高須はさらに凝縮されている。カメも歩けば、とでも言おうか。

 マップ(赤い十字は子供の稲刈り田んぼ、矢印は磨崖仏)

鹿屋市のスクロール地図はこちら

Maptakasugawa1

 

 

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コメント

おやっとさあ~。

楽しく拝見させて頂きました。
これも何かの縁なのか
高須漁協で検索したところ、このブログに当たりました。
あなたは、どこの方ですか?

おいは、高須出身の54歳、埼玉県居住です。
波之上神社下の國生蒲鉾は先輩じゃっど。

さしつかえなかったら、おしえて。

投稿: tibimomo406 | 2009年1月31日 (土) 03時37分

tibimomo406さん。コメント有り難し。
どういう人物かはプロフィールをご覧下され。

古日向(鹿児島・宮崎)から神武東征は本当にあった――と考えている大馬鹿者のたぐいです。

投稿: kamodoku | 2009年1月31日 (土) 17時30分

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