« 高須川流域散策(その一) | トップページ | 八月口説き踊りと鉦踊り »

平田家の墓

平田家と聞いて「平田靱負(ゆきえ)」を思い浮かべる人はかなりの歴史通だろう。

 靱負は徳川幕府の要請(というより強制)により、薩摩藩が「お手伝い普請」として木曽川三川(木曾、長良、揖斐)の洪水防止工事(木曽川治水工事)に駆り出された時の薩摩藩総奉行で、完工の報告を出した翌々日に岐阜県大牧の宿営において、割腹自殺を遂げた人物である(時に宝暦5=1755年5月25日)。Hiratakehaka_004

肝付町の高山にその墓があると聞いて、一瞬耳を疑った。物の本によれば墓は京都の薩摩藩伏見屋敷のちかくにある「大黒寺」にあるとなっているからだ。

 治水工事に成功しながらなぜ彼が自死しなければならなかったのか。三つの理由がある。

 ひとつは、治水工事の期間中に藩士、従者併せて84名もの死者を出していることで、うち33名だけが病死、あとはすべて自害、という工事の過酷(肉体的ではなく精神的なもの。幕吏および幕府に対する抗議であった)が原因。

 二つめは、工事費が予定をはるかに超え、当初、9万両ほどと見積もられていたのが、実に4倍の37万両に膨らんでしまったこと。薩摩藩の家老としては自責に耐えられなかった。

 Hiratakehaka_005 最後は、上の二つのまとめになるが、ここで死んだ藩士、従者を置いていけないという気持ちと、幾分は幕府への抗議の気持ちもあったろうが、手塩にかけて完成させた大工事の行く末を見守りたいという「人柱」的な存念もあったかと思われる。

 事実、この工事の完成度は高く、幕府時代に一度、明治以降に二度ほどの小手直しはあったものの、宝暦5(1755)年の完工の姿をほぼそのまま留めているそうだ。(以上は伊藤信著『宝暦治水と薩摩藩士』を参照した)

 平田家の墓はもともと鹿児島市内にあったが、道路拡張工事に引っかかり移転せざるを得なくなった。その移転先が高山町の「丸岡墓地」である。

 Hiratakehaka_003 その時の当主が、高山に嫁いでいた直系のハナだった。ハナの先代(正直:ハナは正直の二女)で男系が絶えていたのだ。高山の日高氏に嫁してはいたものの、主人の一彦が昭和16年に亡くなると、同じ高山の宇都宮家から養子を得て平田氏を継がせ、平田家の墓もこちらに移すことになった。しかしハナも昭和19年8月に61歳で亡くなった。

 ハナの墓は先祖墓(刻字では元祖墓とある)の左前方に建っている。

 先祖墓には靱負(正輔)の名も刻まれている。先祖はかの平清盛だそうで、庶流が「平田」を姓としたのが始まりという。そうすると仕えた島津は公式には源頼朝の庶流だから、中世には敵同士だったことになる。歴史というものはそんなところが面白い。

 ところで、木曽川治水工事に汗を流し、そこで命を落とした藩士たちを「薩摩義士」という。義士というと鹿児島では「赤穂義士」の顛末を語り・学ぶ「赤穂義士輪読会」が城下で行われているが、筆者は大石内蔵助以下47名の旧赤穂藩士たちを義士と言うべきではないと思う。

 「忠臣蔵」の名の通り、「忠士」ではあるだろう。亡くなった主人の汚名を雪ぐべく2年もの間チャンスを窺がいつつ、見事に主人の仇を討ったあの沈着と計画性は賞賛に値する。だが、彼らは結局は、自分たちと主人との間の「封建的主従関係」を全うしたに過ぎない(極度に時間を掛けた殉死といってもよい)。

 その一方で薩摩藩士は自分たちとは全く無関係な他国の河川の治水工事にかかわり、40万両近い経費も自分持ちであり、その結果としての堤防完成による利益は一切享受することがなかった。命を落とさなかったとしても十分に賞賛に値するのに、文字通り「自腹を切った」のである。これこそ「義人」と言わずして何と言おうか。

 かって一度、「治水神社」を訪れたことがあるが、広大な美濃・尾張の平野を画する千本松原の締め切り堤防の上には、優美な日向松が亭々と枝を広げていたのを思い出す。

  マップ(赤い十字が「丸岡墓地公園」。特老「国見園」前から入り、約80㍍行った左側に平田家の墓群がある)

Maphiratakehaka

|

« 高須川流域散策(その一) | トップページ | 八月口説き踊りと鉦踊り »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 高須川流域散策(その一) | トップページ | 八月口説き踊りと鉦踊り »