八月口説き踊りと鉦踊り
肝属川が中流の流れとなる所、鹿屋市川東地区では旧暦8月26日(今年は新暦で10月8日)になると、水神さあ、田の神さあへの感謝を踊りでささげる「八月口説き踊り」が行われる。
口説き(くどき)とは「言って聞かせる」ことで、神々への場合は感謝の言葉が中心になる。口説くのは踊り手の女性連ではなく、座って三味線・鉦・太鼓を奏でる男たちだ。
タブの木の下には水神さんの他に、田の神さま、見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿を刻んだ物もあった。
ここの田の神は盗まれていたのを、ある男性が96歳の祝いに新しく造って寄付したという。確かに昭和31年と記銘されている。
地元の人の話では婚礼の夜、新夫婦が仲良くなるようにと一晩田の神を家に連れて行くという風習があったそうな。仲良くなるとはお分かりだろう「豊作(子供)に恵まれますように」ということ。そのまま返さない場合もあるというから、田の神さあも昔は忙しかったようだ。今は暇をもてあましているようだが・・・。
川東は初めて来たところなので、踊りが終わってから集落を走ってみた。
すると、さっきの踊りのあったところからシラスの台地まで上がり、しばらく西に向けて走ったら、教育委員会の石柱が目に入った。
おや、と単車を止めてみると「川東古墳群」の案内柱だった。狭い石段を2㍍ばかり上がるとおやおや土饅頭がぽこぽこと並んでいる。手入れの行き届いたきれいな円墳だ。
一番大きいのでも径10メートルあるかなしかで、高さも2メートルに満たない、とにかくかわいい古墳たちだ。古墳に眠るのは豪族と一応決まってはいるが、ここのはとても豪族とは思えぬ外観だ。さっき踊りのあった田んぼ地帯を治める有力者とは違うだろう。
写真でしか見たことはないが朝鮮の陵墓の形にそっくりだ。もしかしたら渡来系の人物のものかも知れない。
川東の踊り連が、午後からは王子町にある「和田井堰」の水神さあの前でも踊ると聞いて、 昼食後行ってみた。(和田井堰についてはこちら)
テントの向こうに四基の水神塔が並んでいるが、まずそこで祝詞などをあげて祈り、そのあと踊りを奉納する。
黒紋付の衣装に濃紺の被りが緩やかに舞われると、あたりまでが優美な場所のように思えてくるから不思議だ。終わった後「花代」が読み上げられて祭りの雰囲気が盛り上がる。
同じ川東地区の「光同寺の鉦踊り」もこのあと奉納された(右の写真。後方の山は御岳)。
二人の締め太鼓の後ろに五人の鉦手が並び、それぞれ違った大きさの鉦を打ち鳴らす。音楽的だが、さほど響かない鉦の音なので余韻はない。ただし独特の素朴な音色だ。
その一方、次に奉納された「王子町山中の鉦踊り」は人数も多く、動きもやや激しい。
音楽的な構成は同じだが、二人の応援団長のような役回りがいて見ごたえがする。
王子町の鉦踊りにはずいぶん若い子も参加していた。おそらく12,3歳だろう、鉢巻姿がなかなかりりしい。
踊り始めてかなり経った頃、お年寄り連が、腰に巻いたごぼう締めの藁のまわしを着けて、踊りの輪に加わった。
跳んだりはねたりの所作が多く、お年寄りにはかなり大変だ。それでも仲間内でやっている気安さか、息を上げてしまうという風には全く見えなかった。
NHKの取材があったので聞いてみると、この王子町の鉦踊りを含め、県内の四ヶ所の祭りを取り上げる予定だそうだ。今日はその下調べに来たと言う。
その一人が、県内の民俗学の泰斗、下野敏見・元鹿児島大学教授も取材に見えていると教えてくれた。そういえばカメラを盛んに写し、ビデオも三脚に据え、忙しそうにしている高齢者がいる。よく県芸能祭の舞台で民俗芸能の説明をされる先生だ。
挨拶に行くと、「大学を退官後はこうして風来坊のようにあっちこっち」とおっしゃる。フットワークはとても78歳には見えない。 「民俗研究所の設計図はできているのですが」 ―― いつかは建てたいという夢がお有りのようだ。
マップ(赤い十字は川東古墳群。矢印が川東の田の神)
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