« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

吾平山陵の紅葉

4月初旬に桜の吾平山陵を紹介したが、ここは紅葉も良い。Momijiairasanryou_009

久しぶりによく晴れ渡り、絶好の紅葉狩りが楽しめた。

 案内板の隣の橋の向こうが、山陵の入り口だ。橋を渡ると「宮内庁書陵部」の管轄らしく、鉄製のスライドが設けられている。たしか開門時間は朝9時から午後4時だと思うが、年中無休のはずである。

 (正確には「吾平山上陵」というのだが、地元では「あいらさんりょう」で通っているのでここでもそう記す)

Momijiairasanryou_011  最初の橋を渡ると実は島に上がるのだが、たいていの人は知らないと思う。もっとも島というのは大げさで、中洲と言うべきだろう。姶良川はこの上流で二手に分かれているのだ。

 で、次に見える橋は中州から離れたもうひとつの島に架かっているのだが、こちらの小さな中州は「あ、小さな島だ」と子供でも分かるようになっている(上流で二手に分かれたうち東側(上流から見て右側)の川のほうが水量が多く、その川の中にかわいらしく、「島」があるというわけ)。

Momijiairasanryou_013 島の向こうの橋のたもとに、大きな見事なモミジがある。

 水辺から生えているので全容はつかみがたいが、高さ十メートルは優に超え、径もそのくらいはあるだろう。

 たまたまそこは照葉樹林が切れているため、日が差し込み、まるでライトアップしたかのように明るく映えている。Momijiairasanryou_022

  「島」を抜けると、杉の植林地を歩くようになり、100メートルほどで小さな木造銅板屋根の家が目に入る。

 宮内庁書陵部の管理者の事務所だ。

 これをまっすぐ行った先に目指す山陵はある。川は右手を流れており、山陵を示す石の鳥居の直下は小さな滝つぼで、神秘的な濃い緑の水を湛えている。

Momijiairasanryou_020  「山上陵」というにはふさわしくない「洞窟陵」である。洞窟の上は高さ30メートルはあるだろう、絶壁がオーバーハングして見える。

 だが、樹木がよく茂っているせいか、恐ろしいという感じはしない。

 古本によると、洞窟の中は広さが4畝(120坪)ほどあり、切石の墓らしき物と土壇があるという。

 それが「ウガヤフキアエズ命」と妃の「タマヨリヒメ」なのかどうかは、断定はしていない。

 さて、帰りに、というより山陵への橋を渡る前にとっくに眺めていたのだが、実は案内所と休憩所のあるちょっとした公園(庭園)のモミジこそ見頃だったのだ。どこかモミジの名所、たとえば晩秋の嵯峨野あたりを思わせる雰囲気をほんの少し垣間見せてくれていたので、どうぞ鑑賞くだされ。

Momijiairasanryou_001

 

Momijiairasanryou_038

Momijiairasanryou_034

Momijiairasanryou_035

 休憩所から川を望むと、手前のモミジ、実は桜の巨樹のヤドリギだったのには驚いた。

春は桜、晩秋は紅葉――と一本の木で二度人の目を喜ばす福樹だ。

Momijiairasanryou_031

マップ(スクロール型)はこちら

| | コメント (0)

本城川流域散策(垂水市)

鹿屋市から垂水へは国道220号線を行くが、左手に垂水栽培漁業センターという案内看板を見て間もなくフェリHonjougawa_024 ー入り口の信号がある。本城川はそれを右折すると、左岸沿いに上流へ向かうのだが、フェリーターミナルに近い河口付近に「垂水大橋」が新設されたので行ってみた。

 ターミナル側から渡ると町の中心地が近く、その向こうに大きく桜島が望まれる。これも公共事業による新しい風景のひとつだろう。悪くはない。ただ、300メートルもあるような長い橋なら、橋の途中にモニュメントの一つくらい在ってもいいような気がするが・・・。

Honjougawa_022 橋から上流方面を眺めると、わずか15キロほどの川とは思えないかなりの川幅がある。国道に架かる橋の向こうの山岳は高隈山で、そこがまさに源流になっている。向かって左側(右岸地帯)は広い沖積平野が広がるが、向かって右の左岸地帯は比高50メートルほどのシラス台地が迫る。

 

 再びさっきのフェリー入り口の信号まで戻り、そこを直進する。左岸沿いに上流を目指そうというわけである。

Honjougawa_026

信号から1.5キロほど進むと正面に岩山が近づいてくる。まだあたりは平野だが、川はすでに清流の趣をたたえている。だが川の中のシラスが生々しい。

 もう間もなく「本城址」だ。木の道しるべによって細い路地を右折して入って行く。200メートルほど行くと右手に道がわかれ、看板が立っていた。さらに行くと小さな墓地があり、すぐ空堀の跡かと思われるシラスの壁が現れた。

Honjougawa_030 Honjougawa_033 そこから上へは行けども行けども何もないので引き返し、看板のあったところからさらに舗装道路を登っていくと、紅葉のきれいな尾根筋が見渡せた。

 あれが本城のあったところだ。垂水本城は城主「伊地知氏」で、加治木から移住して8代約150年続いた後、最後の重興の時に、島津氏の軍門に下っている。

 

 本城川に戻り、やはり左岸を上ること約800メートル、右手のシラス台地中腹に何やら建物が見える。勝軍Honjougawa_041_2 地蔵堂だ。後ろのシラス山には高城があったという。

 振り返ると、川向こうの右岸には水之上小学校が見え、小学校の上に桜島が顔を出していた。 Honjougawa_040

 桜島の手前を仕切る台地もシラス台地で、本城川はあの台地と、手前の(左岸の)台地との間を削り取り、平らに均しながら、今見る垂水の平野部分を形成したことになる(その幅は1.5キロ~2キロ)。

 勝軍地蔵への道しるべを右折し、200メートル足らずで道は突き当たり、右へHonjougawa_035_3 回り込むようにひと登りすると地蔵堂だ。こざっぱりとした造りで賽銭を上げて堂の中に入る。今回、地蔵さんはおいやった!去年も今頃来たが、そのときは黎明館に展示中で、もぬけの殻だったのだ。ガラスの向こうに立派な地蔵さんと、二体の脇持仏がこちらを向いている。ガラス戸は鍵がかかってあかないのでガラス越しにレンズを押し付けて撮った。

Honjougawa_036_3 Honjougawa_037_2  

Honjougawa_039_3

地蔵菩薩は高さ2mの大型で、造立年代が永正3(1506)年とはっきりしており、去年500年の開眼法要が営まれた。造立主は裏手にあった高城の城主肥後氏、製作者は加治木の岩屋寺住職快扶であることが胎内文字によって確認されている。

 また、脇持仏は向かって左が毘沙門天、右が多聞天で、それぞれ1.4m。すべて寄木造りで木造の現存仏としては県内最古という。

 Honjougawa_044 地蔵堂を後にしていよいよ川は山の中に入って行く。田畑橋を右岸へ渡り、田んぼ地帯を抜けて右手に道をとると、今度はすぐに井川橋(この橋が渡る川は高峠から流れてくる支流)を渡る。

 広くなった道をそのまま行けば新城地区の海岸地帯だが、本城川を渡らずに左手の山道に入る(猿が城キャンプ場の案内板が立つ)。約3キロで猿が城キャンプ場に達する。このあたりが海から7キロほど。すっかり山岳地帯の中だ。

 キャンプ場には下りずに、道を引き返し、川向こうに見えていた猿が城ラジウム温泉へ行ってみる。月曜日は定休だろうと思いつつ行くと、何と営業していると言うHonjougawa_049 ので早速入浴する。

  定休日  水曜日

  営業時間  9:00~16:00

  入湯料  500円 (石鹸・シャンプー有り)

Honjougawa_048

  きけば、この温泉はラドンの含有量世界一だそうで、45年ほど前から営業しているそうだ(1975年の学会誌で発表された)。

 ご主人は京都出身で、ラジウム温泉の調査にやってきてそのまま居付いたという人(奥さんは串良町生まれ)。

 温泉水も売っている(500ミリリットルのボトルから20リットルまで各種)。Honjougawa_045

湯室の入り口にある『健康こそ人生最高の宝である』という張り紙。入浴しながらラドンをいっぱいに取り入れると、その効果は一週間は持続するという。健康になりたい人は是非どうぞ。ラドン水(霊泉)の試飲もできるから、お勧めしたい。

Honjougawa_013 ラジウム温泉を出て、さっきの分岐に戻り高峠からの支流に架かる井川橋を渡る。ここから今度は右岸沿いを下流に向かって散策する。

 初めに垂水島津家墓地に行きたいところだが、道が分かりづらいので、道なりにまず市街地に入り、垂水小学校を目指す。そこは江戸時代に垂水島津家が興されたとき、仮屋(役所)があったところだ。小学校の凝灰岩製の塀の向こうに「お長屋」が現存する。

Honjougawa_008  垂水島津家は加治木、宮之城、今和泉と並んで格式の高い島津一門で、特に垂水は大隅地方を管轄する要衝の地であったから、文武に亘って風格があった。墓地の石塔群も多種多様を極めており、見るべき物が多いとされているが、残念なことに一般には開放されていない。

 墓地は小学校から東へ500メートル余り道なりに行くと、入り口を示す案内柱が見えるから、そこを左折して4~50メートル行った所にある。

 垂水とは 「岩はしる 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌えいづる 春に 成りにけるかも」(志貴皇子のHonjougawa_019 歌=万葉集第8巻・1418番)というように、渓流あるいは激流の意味で、本城川の山間部はまさにそのものずばりの様相を見せる。

 垂水はそのような水に恵まれたところというイメージだったが、近年は「温泉水ブーム」で大当たりだ。さっきの「霊泉」から「財宝温泉」「美豊泉」などなど。市立図書館の近くを通ったら「樵(きこり)の分け前」という変わったネーミングの温泉水の販売所があった。見れば国際的な賞をもらったと書いてある。どれ、どんなかなと買ってみることにした(4.5リットルあたり100円)。

 

  マップ(スクロール型)はこちら

 

| | コメント (0)

住吉神社の流鏑馬(曽於市末吉町)

Sumiyosijinjayabusame_025 曽於市役所(曽於市末吉町)の東南3キロほどに鎮座する住吉神社(祭神は住吉三神=ウワツツノオノ命・ナカツツノオノ命・ソコツツノオノ命)で秋の例祭に行われる流鏑馬を見に行った。

 このところ暦通りの晩秋の冷え込みが続いているが、風が無いので日中は過ごしやすい上天気。十二時過ぎに到着したが、走るのは1時頃からというので石の鳥居の少し先で待っていると、放送があり一時半だという。

 待つほかなく待っていると、やがてポニーに乗った小学2年生という子が手綱を引かれて神社の方から現れた。本走の前の清めの意味があるらしい。Sumiyosijinjayabusame_029

石の鳥居まで行くとUターンして走り出した。近くまで来たとき、その意外な速さにびっくりした。ポニーだからと侮ってはいけない。おそらく時速30キロはあっただろう。単車と同じか少し速いくらいに思えた。

Sumiyosijinjayabusame_030

 そのあとようやく本走の馬が三頭、それぞれに騎手をのせて現れ、スタート地点の石の鳥居までパレードする。よく見ると一番手の馬には騎手の前にさっきポニーで走ったちびっ子が乗っている。ほほえましい光景だ。

 

 いよいよスタート。石の鳥居から二の鳥居までの350メートルを疾走する。Sumiyosijinjayabusame_035

 その前に急いで二の鳥居近くまで行くことにした。高山の流鏑馬では走る距離は2丁、約220メートルだが、ここのは優に1.5倍はある。そうすると最後の方は相当なスピードだろうと思ったのだ。

 案の定、下に撒いてあるシラスがひずめで巻き上げられ、砂ぼこりとなって舞っていた。乗り手も怖いだろう。

 Sumiyosijinjayabusame_036 二の鳥居前では神職らしき大人が二人がかりで手綱を握り、どうどうと押さえつけていた。

 大隅半島ではこの住吉神社の流鏑馬と、今しがた触れた高山の四十九所神社の流鏑馬が長い歴史をとどめているが、鹿児島県ではもうひとつ薩摩半島の旧吹上町(現日置市吹上町)の大奴牟遅(オオナムチ)神社で行われている。

 あちらは天文7(1538)年に時の伊作一円の領主・島津忠良(日新斎)が始めたことがはっきりしているので、470年の伝統。こちらは高山のが900年、住吉神社のは明確ではないが、おそらく中世の初めごろには行われていたようだから、かれこれ800年の伝統。大隅は特殊なところだとつくづく思う。

 Sumiyosijinjayabusame_005 そこで、住吉神社と住吉山を探索する。

 

 標高267メートルの住吉山に向かって登るような感じで参道の石段が続くが、段差の小さい広い石段なので苦にはならない。途中、左手には直径2メートル近い巨杉があって、いかにも聖域らしい雰囲気が漂う。

Sumiyosijinjayabusame_011 拝殿に前には人だかりができていた。

 それもそのはず、左手の広場で空手道場の試合が行われているのだ。

 ブルーシートの上で小学生のちびっ子たちが、大きな声を上げていた。Sumiyosijinjayabusame_014

 空手の試合もさりながら、私は向こうに見える小さなお宮の後背の丘が気になってしょうがなかった。杉の植林の下草がきれいに刈り取られて地肌が見えるのだが、どう見ても古墳にしか見えないのだ。

 そっちに歩いて登っていくことにした。少し登るとやはり上はなだらかに丸っこい。自然の造形にしてはきれい過ぎる。うむ・・・。だが、さらに上を目指すことにした。やや高みから神社を見下ろすと、本殿は朱色ではなくごく普通の木造りのそのままの姿だった。Sumiyosijinjayabusame_020_2

 

 山頂へはさしたる距離ではない。おそらく神社の位置がすでに標高にして230メートルくらいはありそうだから、標高差は40メートルほどでしかない。200メートルも歩くと、見晴らしのきく明るい広場に出る。

Sumiyosijinjayabusame_018 二つを人工的に縦に並べたとしか思えない石の造形が、マウンドの上二ヶ所にあった。

 立てられている説明板によると、大正年代(90~100年前)に鳥居龍蔵という民族学者が調査に来て、発掘を指示したところ、石組みが現れたそうだ。

 鳥居龍蔵はこれらを「ドルメン」(石のテーブル状の墓)だと言ったそうだが、それにしては小さいような気がする。

Sumiyosijinjayabusame_017  いずれにせよ、ここが聖域であったことは間違いない。住吉山は「姥が岳」という別名を持つというが、そのあたりに解く鍵はありはしないだろうか。

          マップ(スクロール型)はこちら

 

 

| | コメント (0)

日の出と菊

1120hinode_002

冷え込んだ今朝、犬(名はBタロー)にえさをやろうと外に出ると珍しく朝焼けがしていた。こんなに赤いのは珍しいので、家の中にとって返し、カメラに収めた。

 写真は高山三山のうち黒尊岳の上の朝焼け

ついでに山の端から上がる朝日を写そうと待ち構えたが、5~6分じっと眺めていたがすぐには現れず、余りの寒さに待ちきれずにUターンしてしまった(ちなみ1120hinode_003_4 にBタローのえさはちゃんとやった)。

  写真は高山三山のうち甫余志岳の上の朝焼け

 

日の出を待っているうちに、菊も撮っておこうと思った。1120hinode_004_2

右の写真の手前の藤色の菊が、庭で一番最初に植えた菊で、色もいいがこの菊の良いところは、どんなに大きく伸びていっても全体として丸く(半球形に)なるということで、7~8年前にある人の畑の菊を五、六株もらってきたときは、むしろひょろひょろと、つる性のような菊だったのだ。

 それが自分の庭に植えてから半球形の、剪定も何も要らない形状になっていったのには驚いた。

 驚きついでがもうひとつある。今の写真の後ろの白菊は手前の菊の先祖がえりらしく、鹿児島では海沿いの道路でよく見かける野生の「野菊・野路菊」にそっくりだ。1120hinode_006

 実は先祖がえりは植物の遺伝上、珍しいことではない。それよりさらに面白いのが右の写真で、この菊はどうやら今述べた「先祖がえり菊」と最初に植えた藤色の菊との交配らしい。それも自然交配のようなのだ。私は一切手を掛けていないいないのだから。

 大きさも平均の直径6センチで、藤色の菊の平均4センチ、先祖がえり白菊の平均3.5センチよりはるかに大きい。見ての通り真ん中は藤色菊、周りは白菊というキメラ状態なのである。新種登録しようかな・・・・・。

 名前?――それは「日の出菊」で決まりでしょう。

| | コメント (0)

子供のうつ病

子供にうつ病が増えているという。今夜のNHKで放映しBlue4bていた。

うつ病患者の心理状況は色で表せば「ブルー」もしくは「グレー」である。

間違っても「バラ色」とか「赤」の暖色にはならない。先行きが明るくないつまり希望がないか、見つからない状況なのだ。「五里霧中」と言い換えても良い。

こういう心理状況に子供を向かわせる原因は、主に「家庭機能不全」だろう。

子供というものは家庭がちゃんと機能していてこその子供なのだ。誰も大人になる前には子供の時代を過ごす。これはどんな大人にも共通のプロセスである。

ところが子供時代を子供らしく過ごせない「機能不全家庭」がある。夫婦間の不和、離婚、虐待、ネグレクト(放任)がそういう現象だが、このような家庭に育った子供はいわゆる「子供らしくない子供」になる。同じ子供たちとは遊ばない(遊べない)で孤立する。妙に他人に気を使う。表情に活気がない・・・・・など、特有のスタイルを持つ。

Bla9b 小学校の課程を終えないと中学校に入っても何がなんだか分からず、中学校の課程を終えなければ高校に行ってもわけが分からないのと同じで、子供時代を子供らしく過ごせないと青年時代がわびしく、青年時代が青年らしく過ごせなければ大人に成り切れない。大人に成りきれないで大人の仲間入りをするとなると、そこには齟齬(そご=ちぐはぐ)が発生し、結局、引きこもり(うつ状態)に陥るほかない。

今の子供たちはそれがずっと低年齢化してきている、という。それだけ「家庭の機能不全」が普遍的になってきているのだろう。気の毒なことだ。両親もその原因がトンとつかめず右往左往しているかもしれない。だが、子供の問題は必ず家庭のあり方に起因している。もう一度、自らの生活態度と子供への接し方を反省してみなくてはならない。必ずやそこに見つかるはずだ。そうしたらすぐにそれを改めることだ、子供のために・・・・・。

 (注)AC=アダルトチルドレン学説では、「機能不全家族」と言っているが、家族ではなく「家庭」でなければならない。なぜなら子育てでは「氏=家族=遺伝子つながり」より「育ち=家庭機能」の方が圧倒的に役割を持つからだ。非家族による子育て、つまり施設や里親制度があるのはそれに依拠しており、家庭的機能が充実していれば、子育ては必ずしも肉親である必要のないことを証明している。

| | コメント (0)

高山の三山縦走(肝付町)

かねてより希望の高山町(現・肝付町)の三山縦走だったが、ようやく昨日果たすことができた。Kouyamamitakemairi_003

 三山縦走は江戸時代からある行事と言い、以前は「三岳参り」と呼ばれ、本来は旧暦4月3日(方言でシンガサニチ)に行われていたそうだ。男女の出会いの場だったという説(歌垣=かがい=説)もあるが、それよりシンガサニチと言えば「神武天皇東征」の出航日を思い出す。

 そんな古い、確証もない話を持ち出すと笑われそうだが、東串良町でその日、凧揚げをして風向きを確かめるという風習があったことは事実である。

 それはさておいて、現代の三岳参りは「国見校区の青少年育成行事」としてKouyamamitakemairi_005 復活しているというので、参加させてもらうことにした。旧高山町の窪田哲郎税理士の紹介によるが、氏はあいにく当日の参加が不可となったので単独で行くことになった。

 朝7時過ぎに肝付町役場の南3キロほどの所にある国見小学校に着いて、事務方の国見小の教頭先生のチェックを受ける。7時半には100名近くの参加者が三々五々集まり、国見峠まで登るというマイクロバス三台に分乗して出発。

Kouyamamitakemairi_008  約30分で国見峠(769m)に到着。そこからは国見岳無線中継所まで歩くのかと思ったら、中継所の許可を得たのだろう、レーダーサイト(888m)まで車で行ってしまった。

 ここが開会式の場所であり、縦走の出発点だ。縦走距離はほぼ10キロ、6時間を予定していると言う。育成会会長の挨拶と、高山三岳会会長の挨拶があっていよいよスタートかと思ったが、班ごとに記念写真を撮り始めた。

 Kouyamamitakemairi_014 怪訝に思っていると、完歩証に載せると聞いた。ええっ!今日の行事の終わりにそんなことがあり得るのか――と驚いたが、実際、午後4時の閉会式の時に手わたされて、2度ビックリ(このブログの最後参照)。

 出発は8時40分ごろ、班ごとに分かれて歩き出す。200メートルほどで高屋山上陵(彦ホホデミのお墓)という言い伝えのある国見山(887m)への細い道を左に見送り、なおも来た道を国見峠へ戻る。

 現代版「三岳参り」では国見岳のレーダーサイトを国見の場所とするらしい。Kouyamamitakemairi_018 確かにこちらの方が眺めが良い。おそらく大隅の山では高隈山の御岳か、南大隅町の辻岳と並ぶ展望名所だろう。これから目指す甫余志岳も優れているが、東側に若干の藪があるのが惜しまれる。

 国見峠に立ち戻り、そこからはいよいよ尾根筋に入る。黒尊岳(908m)を経て甫余志岳(968m)まで6キロの道のりだ。

 道は高山三岳会の会長はじめ会員諸氏が、先月の下旬に踏査・整備をしてくれていて、迷うことのない明瞭な行路がずっと続く。ありがたいことでKouyamamitakemairi_020 ある。

 黒尊岳までは2キロ足らず、さほどのアップダウンもなく、まだみんな元気なので大体予定通りに行き着いた。頂上のやや西寄りに「黒尊岳のほこら」こと「イワナガ姫神社」があるというので、迂回して参拝する。

 なるほど岩だ。高さ5~6メートルの巨大な花崗岩の岩で、正面から左手に回ったところの岩陰に小さなお宮があった。祭神の「イワナガ(磐長)姫」は皇孫ニニギノ命の后として、妹の「コノハナサクヤ姫」とともに差し出されたが、醜さのゆえに容れられなかったという不遇の女性だが、しかし、美人の妹をもらった皇孫は短命になってしまった。Kouyamamitakemairi_023

 それはイワナガ姫が嫉妬の余り呪ったからというわけではなく、「イワうこと」を忘れたからだと言っているらしい。イワナガとは「長く祝う」で、「祭る」ことと同じ意味だろう。一言で言えば「祭りを忘れてはいけない」という戒めになる。

 ちなみに国見岳に祭られているのは皇孫二代目の「彦ホホデミノ命(山幸彦)」で同時に御陵でもある。また甫余志岳にも同じホホデミが祭られているが、こちらは子のウガヤフキアエズノ命をタマヨリ姫が養育した場所との伝承が Kouyamamitakemairi_028 あり、そのため元来「母養子(ホヨウシ)岳」だったのが、甫余志岳と転訛したそうだ。

 イワナガ姫神社の周りには「ツチトリモチ」があちこち群生していた。よく見ないと何か赤い実でも落ちているくらいにしか見えないが、愛らしい形にやや毒々しい真紅の色が何となくイワナガ姫の情念を漂わせていた。Kouyamamitakemairi_027_2

 赤いと言えば、まだ紅葉もほとんどしていない緑一色の照葉樹林帯の山道の無聊を慰めてくれたのが、「ミヤマシキミ」の赤い実。

 初夏にチンチョウゲに似た白い花をつけるミヤマシキミの実の赤さは、濃い緑の葉に包まれてより一層鮮やかだ。

Kouyamamitakemairi_037 黒尊岳から標高差200mを下り、今度は甫余志岳の稜線へ向かって再び200m登り返す。これはきつい。

 前を行く子供たちが、何度か悲鳴を上げていたが、こちらも脚がつりそうになるのを堪えるのに必死だった。

 それで、頭の上のほうが明るくなったなと思ううちに、稜線の直前にでんと構える巨石の展望台を目にしたときは、何とも嬉しかった。

Kouyamamitakemairi_039  さっそく岩の上にあがり展望を楽しむ。

 さっき出発した国見岳のレーダーがはるか向こうに見えていた。ここまで約6キロの山中を歩いてきたが、それが実感として分かるのが醍醐味だ。高齢者も岩の上で嬉々としているではないか。

 さあ、甫余志岳まであと1キロ。稜線上のプロムナードだ。きばい(気張り)もんそ!Kouyamamitakemairi_043

展望岩から約20分でいよいよ頂上だ。われわれの班は最後尾なので着いたはいいが足の踏み場もない。何せ100人近い大人数。芋の子を洗う状態。

 いつもは足元に見えている巨岩の頂上がこんなに狭く感じられるとは、思いもよらなかった。うれしい悲鳴!時計を見ると何と1時半。道理で腹が空いているわけだ。

 ようやく一番北寄りの岩畳の緩い斜面に腰を降ろし、おにぎりをほうばる。Kouyamamitakemairi_044

 腰を下ろした正面には錦港湾越しに開聞岳の麗姿(逆光で撮れず)。右手の北方向には高隈山系が全容を見せていた(右の写真)。天気は快晴で無風という最高の登山日和なのだが、惜しいのは霞んでいること。

 (これ、まさか中国製ではなかろうな。何でも作ってしまう中国は偽ブランド商品に飽き足らず、光化学スモッグの原因物資まで輸出(?)し始めたらしいから・・・。今度開かれた全人代という日本で言う「国会」で、胡主席が「環境問題」を大きな政策課題に挙げていたようなので、やや安心だが、早いとこ頼むよ。)Kouyamamitakemairi_051

 Kouyamamitakemairi_054 昼食を30分で終え、甫余志岳を後にしたのが2時だった。いつも利用される二股川林道が通行止めということで、今回はそちら側(西側)には下らず、姫門地区(南側)に下った。どちらをとっても1時間の下りだが、姫門コースは強烈な坂道がずっと続く。その上、沢(水場)もないから、登りには使いたくないコースだ。

 ひざがガクガクし始めるころようやく登山口に下り着いた(左上の写真は同じ班Kouyamamitakemairi_056 の仲間たちで、国見小学校のPTA会員)。おやっとさあ。

 姫門登山口からマイクロバスで閉会式会場の二股川キャンプ場に向かった(約6キロある)。着くとすぐ、ぜんざいが振舞われた。青少年育成会のお母さんたちと、多分、村作り(振興会)婦人部の人たちの合作だと思われるが、心づくしが温かかった。

 

 閉会式ではくだんの「完歩証」が授与された。むむ・・、すごい早業だ。今回の行事で事務方を取り仕切った国見小Kouyamamitakemairi_060 学校の教頭先生の手作りだという。

 育成会会長が班ごとの代表者に手渡すのを見ていると何とも微笑ましかった。

 小学生も高齢者も同じ賞状をもらうなんて滅多にないことだろうし、育成会長が挨拶の中で言っていたように「苦しさをみんなと共有して乗り越えたという経験は、ふるさとを強く思い出すきっかけになり、将来の心の糧となる」その証しには十分なるだろう。

    その「完歩証」(裏には参加者全員の名が、班ごとに書かれている)

Kouyamamitakemairi_061   

 マップ(赤い十字は国見峠。矢印は甫余志岳稜線上の巨石展望台)

Mapkouyamasanzan

| | コメント (0)

鹿屋市浜田地区は「芦ノ港」

鹿屋市の南部を流れる肝属川支流・大姶良川のひとつの源流は、標高わずか74mの「瀬筒峠」である。Hamada_029_2  

 ここを大姶良地区の方から越えると浜田地区に入る。峠から100㍍も行かない所に、右手に浜田地区を望めるところがある。正面の丘には浜田小学校があり、その右手の丘の麓には「玖玉神社」が小さく見えている(下の写真=クリックすれば拡大)。

 いま田んぼになっている所は、弥生時代は入り江だったという。そしてその入り江を称して「芦ノ港」と言ったという伝承がある――このことを鹿屋市史で知って、とにかく現地を確かめなくてはと行ってみた。Hamada_005_2

 なぜ「芦ノ港」に興味を持ったか、というと、それは「あし」という言葉に尽きる。「芦」は植物のアシ(葦)ではないだろうと考えたのだ。なぜなら葦は海水と真水とが交じり合う「汽水域」に生えるもので、浜田のような川らしい川のない、したがって汽水域もないような入り江に卓越して叢生するというような状況は考えにくいからだ

 それでは「あし」とは何か?思いついたのは「アジ」の転訛ということ。アジとは実は「鴨」のことである。で、この鴨だが、私見では「鴨族」のことである。Hamada_014 鴨族は鹿児島という地名の語源で「九州島はもとより朝鮮半島まで行き来する航海民」(水手=かこ)のことであった。

 浜田からは弥生時代初期の土器が出土している(『鹿屋市史』上巻の考古記述=河口貞徳・鹿児島考古学会会長執筆=による)。その特徴は、薩摩半島でやはり弥生早期の土器が出土している「高橋貝塚」と同時期の北部九州起源の「板付Ⅰ式土器」仕様だそうだ。

 上の写真は「玖玉神社」だが、神社の裏手から手前に延びる岬のような長い丘からそのタイプの土器が出土している。浜田地区にはこのほかにも2ヶ所弥生時代の遺跡があり、さらに、さっき越えてきた瀬筒峠の向こう側の大姶良地区に入ったところにも2ヶ所の弥生遺跡がある。Hamada_018

 要するに現在の浜田小学校と瀬筒峠を結ぶライン上に、弥生遺跡の集中が見られるのだが、これは鹿児島県全体から見て比較的弥生時代の遺跡の多い大隅半島においても稀な現象というほかない。

 その理由を「芦ノ港(鴨族の港)」という伝承が語っていると思う。

 九州島北部と同時期に弥生時代が始まったとすれば、九州北部とここを結ぶ海上ルートがあったと考えるのが自然だろう。それを担ったのが「アジ」こと「鴨族」だったのだ。Hamada_022

小さい入り江ながらも、浜田には砂嘴という天然の防波堤があり、瀬筒峠を越えた所(瀬筒集落)から始まる肝属川流域の田園地帯という後背地を控えていたため、港としての機能に専念できる好条件を備えていた(右の写真は浜田海水浴場の事務所のあるその砂嘴の上だが、旧浜田小はここにあった)。

 芦ノ港は大隅半島の西側、つまり錦江湾岸では当時もっとも栄えた港ではなかったかと思われる。同じように砂嘴をもつ場所としては、錦江町の神ノ川河口と南大隅町根占の雄川河口があるが、どちらも背後は山岳地帯で米どころという後背地を持たないため、多くの人口を集めることは不可能だっただろう。

 浜田地区の鎮守様である「玖玉神社」の祭神が「塩土ノ翁(しおつちのおじ)」という海路の道案内者であることも、ここに航海民(鴨族)の存在の影を強く感じる。また、小字名「大王」「大王平」というのが、瀬筒峠と浜田池(灌漑用の溜池)との間あたりの土地に名付けられている。

私はここに大和葛城に鎮座する「高鴨アジスキタカヒコネ神社」の祭神「アジスキタカヒコネ」の故地を見出すのだが、どんなものだろうか・・・。まだまだ探求の旅は続く・・・。

 マップ(赤い十字は玖玉神社。矢印が瀬筒峠)

Maphamada

| | コメント (0)

弥五郎どん祭り2007

そんなに早いんですか――とわが耳を疑った。午前4時ごろだという。

 曽於市の商工観光課に、岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」の弥五郎人形が、身支度を整えて立ち上がる(起き上がる)時間を問うたところ、そんな返事が返ってきた。

 マジかよというのが偽らぬ本音。弥五郎どん祭りでは、例の大人・弥五郎が山車のように街中を引かれて回るという大見世物が、午後行われるが、残念ながら仕事で行けない。しかしどうしても見ておきたいものがある。それが朝早く「起きっどー」の合図で起こされる弥五郎どんの姿だ。

 小耳に挟んだ時間では6時だった。それでもこちらから一時間以上かけて行くには十分早い時間だが、4時だったとは・・・。そうなると2時半ごろには出て行かねばならない。いや、このごろ行く祭りの度に時間遅れだったりしているから、少なくともさらに30分は早く行かないといけない。とすると、2時だ。いやはや・・・、寝る時間もない・・・。

 で、2日の晩は9時に寝ることにした。何とか一眠りし、起きたら1時だった。よかった・・・。少しまどろんだあと、がバッと起きて、身支度をする。厚手のジャンパーと手袋、ポットにお茶をいれ、懐中電灯を手に外に出て単車にまたがる。

 途中、24時間やっているガソリンスタンドに寄り、燃料を満たす。さあ、40キロの道のりだ。気を引き締めて国道269号をひた走る。

 Yagoroudonmaturi2007_002 深夜の国道はさすがにガラガラで、一時間十分ほどで岩川八幡神社に到着。すぐに境内に上がると、拝殿の中では弥五郎どんの組み立ての真っ最中。

 境内を見回すと結構子供の姿が多い。こんな真夜中に眠くはないのかといぶかるが、この子達が真夜中にやってくるわけがあとで分かった。弥五郎どんの起こし方の加勢をしようというのだ。多分、その綱を引くことで、弥五郎どんの力を授かろうというようなことなのだろう。無病息災、学業成就・・・何でももらいなさい。

 拝殿横の広場では焚き火がたかれ、まるで大晦日の除夜の鐘を待つというYagoroudonmaturi2007_004 雰囲気だ。

 焚き火の奥のほうにはテントが張られ、そこで甘酒を振舞っていたので、ご馳走になる。渋茶色の法被を着ている若者たちが応対しているので、聞いたところ大隅町商工会青年部だという。

 

 もとはこの神社の周辺の集落が祭りの主Yagoroudonmaturi2007_010 催をしていたのだが、高齢化、過疎化のためできなくなり、以来引き継いでかれこれ40年になるという。もうすっかり青年部の年中行事の一つになっている。それも最大の規模だろう。900年という伝統がこうして引き継がれた。うれしいことだ。

 Yagoroudonmaturi2007_013_2 待つこと40分、弥五郎どんの組み立てが終わったらしい、サーチライトが拝殿の入り口に持ってこられ、さあ、いよいよお出まし。

 

 下半身はまだ網み竹のむき出しだが、上半身が出てくるとさすがに巨大な姿だ。頭もでかい。

Yagoroudonmaturi2007_016 大人・弥五郎どんは「武内宿禰」か「大和王朝に楯突いて敗れた隼人の親分」かで意見が分かれているが、見るものを圧倒する巨顔であり、面相だ。身の丈4.85メートルはやはり大きい。Yagoroudonmaturi2007_020_2

  足元を山車の台車に取り付け、手に薙刀のような矛をもたせ、さらに腹の辺りに三本の太いロープを縛り付けると、大人も子供も混じってロープを手に取り、まるで綱引きが始まりそうな雰囲気。

 一人の青年部青年が引き手に向かってなにやら注意を与え、それが終わると拝殿の中から太鼓の音が聞こえてきた。

 「そいじゃあ、よかや、いっどオ。そら、起きっどー、起きっどー!」Yagoroudonmaturi2007_028

青年が叫ぶと、みな一斉にロープを引き始める。

 「それ!それ!それ!」

 むむむ、そろりと起き出した!

                    「まだや、気張れ!」Yagoroudonmaturi2007_029

  そら、そら、もう少し!

Yagoroudonmaturi2007_032_2  やれやれ、みんなオハヨー、長ごう寝ちょったワイ。

 さしかぶいの(久しぶりの)外ん空気はうんまかなア。

 このあと弥五郎どんは、足元まですっぽり梅の染料で染められたという丈の長い衣装をまとい、さらしの帯に二本の大刀を差した姿で完成となる。まだ2時間はかかるというので、社務所に行き、宮司さんを訪ねてみることにした。

 宮司さん、名前は谷川さんといい、中学校で長く教えていた人で、同じ社務所にいた60台半ばと見える氏子総代の山中氏を教えたという。

 もう一人話しに加わったのが宮元氏で、氏は万寿2(1025)年にここから京都の岩清水八幡宮を勧請に行ったときの供奉の10人の中の一人の子孫で、祭りでは矛を持つ役目を先祖代々継いでやっているという人だ。もし勧請の時からやっているとすれば、もう間もなく千年を迎えることになるという。まったく恐れ入る。供奉の10家は「宮仕」と書いて「みやだち」と呼ぶそうで、そんなところにも古式を感じる。

 話は八幡神社の創建のことから始まった。万寿2(1025)年に勧請したとき以来、お宮は元八幡という地区にあり、今の場所に来たのは大正3年だという。そのころの弥五郎どんはもう少しスマートだったらしい。「やはり、栄養事情が良くなったせいかな」と谷川宮司が笑う。さもありなん、巨像というものは年々大きさを増していくという傾向にある。

 祭神については、神社としては「武内宿禰」説。だが、いかんせん文献があるわけではなく、伝承だと言う。でも祭神の中に「武内宿禰」が入っている八幡神社はごく少ないので、可能性としては高いのではないか。

 もうひとつが「大和朝廷に敗れた隼人の首長」説だ。青年部の青年に聞いてもおおむねこの説を採っているようだ。ちょっぴり残念。まあ、武内宿禰は教科書には出てこないから、仕方がない。武内宿禰実在説が一世を風靡するようになるまで、神社にはがんばって頑固に「武内宿禰だ」といい続けてほしいと思う。

 もうひとつの話題。それは海岸に近いわけではないのになぜ「浜下り」と言うのか、ということ。

宮司さんは「あるところの祝詞に<里見(さとみ)>という言葉が出てきたが、要するに祭神が神社から出て、集落の中をいろいろ見て歩く、つまり民の様子を巡検(巡見)しに行くことが浜下り行事の中心ではないか」と言われる。また、「ここは確かに海からは遠いが、昔は4里も離れた志布志町まで徒歩で行って帰るのはさしたる苦労でも何でもなかったような時代で、それを考えるとかっては本当に海岸まで行っていたのかも知れない」とも。

 なるほどごもっともである。だが、私見もちゃんと述べておいた。いわく「浜下り」とは本当は「天下り」なのでYagoroudonmaturi2007_038_2 はないか。天孫ニニギノ命だけが天上界(高天原)から「天下り」したことにしたい大和朝廷の意向が貫かれ、天皇家ではない如何なる始祖も「天下ってはいけない」ようにした。だから地方の王者が使うときは「天下り」ならぬ「浜下り」と卑下させたのではないだろうか・・・、と。

 ストーブの焚かれた暖かい社務所の土間でこんな話をしているうちに6時が鳴った。少し空も白み始めている。いとまごいをして表に出ると、弥五郎どん、ついに大刀を腰に差していた。 

 Yagoroudonmaturi2007_041  提灯がまだともる参道の階段を下りる。

 鳥居の向こうは東で、あと少しで日の出だ。鳥居下の道路では、行商の屋台店が次々に開店の準備を始めていた。天気は上々。人出は大いに見込めるだろう。

  マップ(赤い十字が岩川八幡神社)

Mapiwagawahatiman

| | コメント (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »