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弥五郎どん祭り2007

そんなに早いんですか――とわが耳を疑った。午前4時ごろだという。

 曽於市の商工観光課に、岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」の弥五郎人形が、身支度を整えて立ち上がる(起き上がる)時間を問うたところ、そんな返事が返ってきた。

 マジかよというのが偽らぬ本音。弥五郎どん祭りでは、例の大人・弥五郎が山車のように街中を引かれて回るという大見世物が、午後行われるが、残念ながら仕事で行けない。しかしどうしても見ておきたいものがある。それが朝早く「起きっどー」の合図で起こされる弥五郎どんの姿だ。

 小耳に挟んだ時間では6時だった。それでもこちらから一時間以上かけて行くには十分早い時間だが、4時だったとは・・・。そうなると2時半ごろには出て行かねばならない。いや、このごろ行く祭りの度に時間遅れだったりしているから、少なくともさらに30分は早く行かないといけない。とすると、2時だ。いやはや・・・、寝る時間もない・・・。

 で、2日の晩は9時に寝ることにした。何とか一眠りし、起きたら1時だった。よかった・・・。少しまどろんだあと、がバッと起きて、身支度をする。厚手のジャンパーと手袋、ポットにお茶をいれ、懐中電灯を手に外に出て単車にまたがる。

 途中、24時間やっているガソリンスタンドに寄り、燃料を満たす。さあ、40キロの道のりだ。気を引き締めて国道269号をひた走る。

 Yagoroudonmaturi2007_002 深夜の国道はさすがにガラガラで、一時間十分ほどで岩川八幡神社に到着。すぐに境内に上がると、拝殿の中では弥五郎どんの組み立ての真っ最中。

 境内を見回すと結構子供の姿が多い。こんな真夜中に眠くはないのかといぶかるが、この子達が真夜中にやってくるわけがあとで分かった。弥五郎どんの起こし方の加勢をしようというのだ。多分、その綱を引くことで、弥五郎どんの力を授かろうというようなことなのだろう。無病息災、学業成就・・・何でももらいなさい。

 拝殿横の広場では焚き火がたかれ、まるで大晦日の除夜の鐘を待つというYagoroudonmaturi2007_004 雰囲気だ。

 焚き火の奥のほうにはテントが張られ、そこで甘酒を振舞っていたので、ご馳走になる。渋茶色の法被を着ている若者たちが応対しているので、聞いたところ大隅町商工会青年部だという。

 

 もとはこの神社の周辺の集落が祭りの主Yagoroudonmaturi2007_010 催をしていたのだが、高齢化、過疎化のためできなくなり、以来引き継いでかれこれ40年になるという。もうすっかり青年部の年中行事の一つになっている。それも最大の規模だろう。900年という伝統がこうして引き継がれた。うれしいことだ。

 Yagoroudonmaturi2007_013_2 待つこと40分、弥五郎どんの組み立てが終わったらしい、サーチライトが拝殿の入り口に持ってこられ、さあ、いよいよお出まし。

 

 下半身はまだ網み竹のむき出しだが、上半身が出てくるとさすがに巨大な姿だ。頭もでかい。

Yagoroudonmaturi2007_016 大人・弥五郎どんは「武内宿禰」か「大和王朝に楯突いて敗れた隼人の親分」かで意見が分かれているが、見るものを圧倒する巨顔であり、面相だ。身の丈4.85メートルはやはり大きい。Yagoroudonmaturi2007_020_2

  足元を山車の台車に取り付け、手に薙刀のような矛をもたせ、さらに腹の辺りに三本の太いロープを縛り付けると、大人も子供も混じってロープを手に取り、まるで綱引きが始まりそうな雰囲気。

 一人の青年部青年が引き手に向かってなにやら注意を与え、それが終わると拝殿の中から太鼓の音が聞こえてきた。

 「そいじゃあ、よかや、いっどオ。そら、起きっどー、起きっどー!」Yagoroudonmaturi2007_028

青年が叫ぶと、みな一斉にロープを引き始める。

 「それ!それ!それ!」

 むむむ、そろりと起き出した!

                    「まだや、気張れ!」Yagoroudonmaturi2007_029

  そら、そら、もう少し!

Yagoroudonmaturi2007_032_2  やれやれ、みんなオハヨー、長ごう寝ちょったワイ。

 さしかぶいの(久しぶりの)外ん空気はうんまかなア。

 このあと弥五郎どんは、足元まですっぽり梅の染料で染められたという丈の長い衣装をまとい、さらしの帯に二本の大刀を差した姿で完成となる。まだ2時間はかかるというので、社務所に行き、宮司さんを訪ねてみることにした。

 宮司さん、名前は谷川さんといい、中学校で長く教えていた人で、同じ社務所にいた60台半ばと見える氏子総代の山中氏を教えたという。

 もう一人話しに加わったのが宮元氏で、氏は万寿2(1025)年にここから京都の岩清水八幡宮を勧請に行ったときの供奉の10人の中の一人の子孫で、祭りでは矛を持つ役目を先祖代々継いでやっているという人だ。もし勧請の時からやっているとすれば、もう間もなく千年を迎えることになるという。まったく恐れ入る。供奉の10家は「宮仕」と書いて「みやだち」と呼ぶそうで、そんなところにも古式を感じる。

 話は八幡神社の創建のことから始まった。万寿2(1025)年に勧請したとき以来、お宮は元八幡という地区にあり、今の場所に来たのは大正3年だという。そのころの弥五郎どんはもう少しスマートだったらしい。「やはり、栄養事情が良くなったせいかな」と谷川宮司が笑う。さもありなん、巨像というものは年々大きさを増していくという傾向にある。

 祭神については、神社としては「武内宿禰」説。だが、いかんせん文献があるわけではなく、伝承だと言う。でも祭神の中に「武内宿禰」が入っている八幡神社はごく少ないので、可能性としては高いのではないか。

 もうひとつが「大和朝廷に敗れた隼人の首長」説だ。青年部の青年に聞いてもおおむねこの説を採っているようだ。ちょっぴり残念。まあ、武内宿禰は教科書には出てこないから、仕方がない。武内宿禰実在説が一世を風靡するようになるまで、神社にはがんばって頑固に「武内宿禰だ」といい続けてほしいと思う。

 もうひとつの話題。それは海岸に近いわけではないのになぜ「浜下り」と言うのか、ということ。

宮司さんは「あるところの祝詞に<里見(さとみ)>という言葉が出てきたが、要するに祭神が神社から出て、集落の中をいろいろ見て歩く、つまり民の様子を巡検(巡見)しに行くことが浜下り行事の中心ではないか」と言われる。また、「ここは確かに海からは遠いが、昔は4里も離れた志布志町まで徒歩で行って帰るのはさしたる苦労でも何でもなかったような時代で、それを考えるとかっては本当に海岸まで行っていたのかも知れない」とも。

 なるほどごもっともである。だが、私見もちゃんと述べておいた。いわく「浜下り」とは本当は「天下り」なのでYagoroudonmaturi2007_038_2 はないか。天孫ニニギノ命だけが天上界(高天原)から「天下り」したことにしたい大和朝廷の意向が貫かれ、天皇家ではない如何なる始祖も「天下ってはいけない」ようにした。だから地方の王者が使うときは「天下り」ならぬ「浜下り」と卑下させたのではないだろうか・・・、と。

 ストーブの焚かれた暖かい社務所の土間でこんな話をしているうちに6時が鳴った。少し空も白み始めている。いとまごいをして表に出ると、弥五郎どん、ついに大刀を腰に差していた。 

 Yagoroudonmaturi2007_041  提灯がまだともる参道の階段を下りる。

 鳥居の向こうは東で、あと少しで日の出だ。鳥居下の道路では、行商の屋台店が次々に開店の準備を始めていた。天気は上々。人出は大いに見込めるだろう。

  マップ(赤い十字が岩川八幡神社)

Mapiwagawahatiman

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