鹿屋市浜田地区は「芦ノ港」
鹿屋市の南部を流れる肝属川支流・大姶良川のひとつの源流は、標高わずか74mの「瀬筒峠」である。
ここを大姶良地区の方から越えると浜田地区に入る。峠から100㍍も行かない所に、右手に浜田地区を望めるところがある。正面の丘には浜田小学校があり、その右手の丘の麓には「玖玉神社」が小さく見えている(下の写真=クリックすれば拡大)。
いま田んぼになっている所は、弥生時代は入り江だったという。そしてその入り江を称して「芦ノ港」と言ったという伝承がある――このことを鹿屋市史で知って、とにかく現地を確かめなくてはと行ってみた。
なぜ「芦ノ港」に興味を持ったか、というと、それは「あし」という言葉に尽きる。「芦」は植物のアシ(葦)ではないだろうと考えたのだ。なぜなら葦は海水と真水とが交じり合う「汽水域」に生えるもので、浜田のような川らしい川のない、したがって汽水域もないような入り江に卓越して叢生するというような状況は考えにくいからだ。
それでは「あし」とは何か?思いついたのは「アジ」の転訛ということ。アジとは実は「鴨」のことである。で、この鴨だが、私見では「鴨族」のことである。 鴨族は鹿児島という地名の語源で「九州島はもとより朝鮮半島まで行き来する航海民」(水手=かこ)のことであった。
浜田からは弥生時代初期の土器が出土している(『鹿屋市史』上巻の考古記述=河口貞徳・鹿児島考古学会会長執筆=による)。その特徴は、薩摩半島でやはり弥生早期の土器が出土している「高橋貝塚」と同時期の北部九州起源の「板付Ⅰ式土器」仕様だそうだ。
上の写真は「玖玉神社」だが、神社の裏手から手前に延びる岬のような長い丘からそのタイプの土器が出土している。浜田地区にはこのほかにも2ヶ所弥生時代の遺跡があり、さらに、さっき越えてきた瀬筒峠の向こう側の大姶良地区に入ったところにも2ヶ所の弥生遺跡がある。
要するに現在の浜田小学校と瀬筒峠を結ぶライン上に、弥生遺跡の集中が見られるのだが、これは鹿児島県全体から見て比較的弥生時代の遺跡の多い大隅半島においても稀な現象というほかない。
その理由を「芦ノ港(鴨族の港)」という伝承が語っていると思う。
九州島北部と同時期に弥生時代が始まったとすれば、九州北部とここを結ぶ海上ルートがあったと考えるのが自然だろう。それを担ったのが「アジ」こと「鴨族」だったのだ。
小さい入り江ながらも、浜田には砂嘴という天然の防波堤があり、瀬筒峠を越えた所(瀬筒集落)から始まる肝属川流域の田園地帯という後背地を控えていたため、港としての機能に専念できる好条件を備えていた(右の写真は浜田海水浴場の事務所のあるその砂嘴の上だが、旧浜田小はここにあった)。
芦ノ港は大隅半島の西側、つまり錦江湾岸では当時もっとも栄えた港ではなかったかと思われる。同じように砂嘴をもつ場所としては、錦江町の神ノ川河口と南大隅町根占の雄川河口があるが、どちらも背後は山岳地帯で米どころという後背地を持たないため、多くの人口を集めることは不可能だっただろう。
浜田地区の鎮守様である「玖玉神社」の祭神が「塩土ノ翁(しおつちのおじ)」という海路の道案内者であることも、ここに航海民(鴨族)の存在の影を強く感じる。また、小字名「大王」「大王平」というのが、瀬筒峠と浜田池(灌漑用の溜池)との間あたりの土地に名付けられている。
私はここに大和葛城に鎮座する「高鴨アジスキタカヒコネ神社」の祭神「アジスキタカヒコネ」の故地を見出すのだが、どんなものだろうか・・・。まだまだ探求の旅は続く・・・。
マップ(赤い十字は玖玉神社。矢印が瀬筒峠)
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