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土器の発明

 グラハム・ハンコックというイギリス人歴史ジャーナリストの書いた『神々の時代』(小学館・2002年)を読み終えた。

 以前の書『神々の指紋』と同様、世界の4大文明以前にあったとされる超古代文明を追跡する内容で、この本では、最終氷河期(ウルム氷期)が明けた頃にあったらしい大洪水(海面の急激な上昇)によって沈んだ海面下の人口造作物を、世界各地で調査し、その結果を纏めたものである。

 地中海のマルタ島周辺、インドの西海岸、そして最も興味のそそられるのが日本の海底遺跡(与那国島)の調査と、日本の古文明、つまり縄文時代への言及だった。

 与那国島の海底遺跡については、すでに琉球大学の木村政昭教授による綿密な調査が行われ本も出版されている(『海底宮殿』実業之日本社・2002年など)ので目新しいというわけではないが、そのことよりもハンコックが非常に興味を示しているのが縄文時代、特にその時代の土器である。

 鹿児島では約1万年前の土器があちこちに見つかっているが、これは世界最古の土器群で、いわゆるチグリス・ユーフラテス文明でみられる7000年ほど前の土器が最古と言われてきたが、それをはるかに上回る1万年という古い時代に日本列島では土器がつくられていた。

 (ただし、青森県蟹田町の大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡からは何と16000年前の土器片が30個くらい発見されている。上には上があるものだが、しかしこの16000年前と縄文時代草創期(11000年前)の土器として著名な「豆粒文土器」「隆起腺文土器」「隆帯文土器」との間が4~5千年もあいていて、その間の土器はまだ一切見つかってない。)

 ハンコックはこの点に関して、日本の指導的な考古学者・佐原真(さわら・まこと=国立歴史民俗博物館長)と会って話を交わしているが、佐原が日本の土器文化の発祥地を「・・・そこでたとえばシベリアで、考古学者が縄文(土器)に影響を与えたもっと古い土器製造の文化を発見する可能性もあります」と、日本列島外に土器の根源をもとめる姿勢を紹介し、それには疑問を呈している。

   佐原真は・・・・・縄文文化が影響を受けたのは、シベリアの土器製造文化ではないかと思っている。だが   公平に言っても、これは佐原の推測に過ぎない。確かにシベリアでは太古に土器が作られているが、縄文ほど古くはない。また土器を作るという発想は、本質的には大躍進を生む知的作業であり、大陸の他の部族の存在を必要としない(『神々の時代』下巻433ページ)。

 

 ハンコックのこの疑問はわれわれのものでもある。どうして日本の学者はなんでもかんでも外からやって来た、とするのだろう。どうして「土器は日本列島人の発明物だ」と言わないのだろう。奥ゆかしさも大概にしろと言いたい。

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雄川流域散策(南大隅町・錦江町)(その1)

Ogawa1_025  南大隅町(旧根占町)に河口を持つ雄川は全長18キロほどの短い川だが、水量は豊かで河口付近は幅100メートルもある。

 河口には根占・山川フェリーの発着所があり、写真向こうに見える開聞岳の手前の山川港までの約20キロを40分で結ぶ。

 このフェリーは鹿児島の地場企業ではでトップを争う岩崎グループが経営しているが、一年前に休業したのを公共性が高いということで近隣の一市二町が補助金を出すことになり、今年九月に再び運行を始めた。

Ogawa1_023  ごね得という批判もあったが、本土最南端のフェリーを廃止しないでよかったと思う。こんな風光明媚な路線をやらない手はあるまい。

写真を撮っていると子供が二人、河口沿いの狭い路地でボール遊びをやっていた。最近は路地で遊ぶ子供なんてほとんど見かけないので、なんとなく懐かしい気がして写してみた。Ogawa1_024 

 

 フェリー乗り場へ渡る「根占大橋」から市街地を見る。Ogawa1_026_2

 中央が南大隅町役場で、その右手に広がる丘は「神山」でおそらくかなり古い頃からの聖地であったろうと思われる。その突端には日露戦役の碑や太平洋戦争の戦没者の慰霊碑が建つ。

9月に行われる「根占ドラゴンボートレース」はすっかり定着し、当日はこの根占大橋と上流側の「溝口橋」との間約600メートルは観客でいっぱいになる。

 その溝口橋のたもとに巨大な「南蛮クス」がそびえる。Ogawa1_029

樹齢は千年、今から500年前に南蛮交易船が根占に入港すると、その頃はこのクスのあたりまで深い汽水域になっていて、船がロープを掛けて繋留されていたそうだ。

 南蛮クスを通して雄川の向こうに見える山は「辻岳」。根占富士とも呼ばれる標高722メートルの山で、この風景は根占人なら誰しも忘れがたい心の風景に違いない。

Ogawa1_031 南蛮クスから市街地を東に約500メートルで左に蛇行する雄川を渡る。これが新装成った「雄川橋」で、カラフルな歩道もついてすっかり見違えるようになった。

 向こうに見える丘の上にあったのが「富田城」で、根占周辺に6つある中世の本格的な山城ではもっとも古い。

 橋を渡るとすぐに道は二股に分かれる。右を行くのが国道269号線で行き着く先は佐多だ。だが川を追うには左手を取る。Ogawa1_033

信号からはほぼ一直線で300m足らず、赤い鳥居が二つ並んで建つ神社に行き当たる。それが旧根占の郷社「諏訪神社」だ。二つ鳥居はとても珍しい。

 初詣用のお札や破魔矢などの準備で忙しそうにしている神主らしき人にその由来を聞いたところ、三つの説があるという。①長野の諏訪大社を勧請したため。②祭神がタケミナカタとコトシロヌシの二柱だから。③鳥居も朽ちて倒れることがあるので、予備にもうひとつ建てておいた。だそうだが、②が正解だろう。

Ogawa1_037 諏訪神社からみちを左手にとっていくと、5~600メートルで再び雄川を渡り(北の口橋)、さらに行くと根占から田代へあがる県道に出る。右折して坂道になる手前で今度は左折する。

 すると前方にこんもりとした小山が目に入る。これが「鬼丸神社」だ。祭神は祢寝氏第16代「祢寝重長(しげたけ)」で、島津氏や高山の肝付氏と互角に渡り合った戦国武将である。

 祢寝氏は17代380年続いた大隅半島南端の名家で、平重盛(清盛の子)Ogawa1_036 の苗裔、と祢寝氏では信じられていた(実際は建部氏のようである)。

 幕末に島津忠光に取り立てられた「小松帯刀」は、生まれは喜入の肝付氏だが、薩摩半島の吉利(よしとし=現在は日置市の一部)に移封された祢寝氏に養子に入ったため、その伝説に基づき平重盛の通称「小松殿」にちなんで小松姓を名乗ったという。

 鬼丸神社の手前には田の神が鎮座しており、これは県指定の文化財になっている。Ogawa1_017

鬼丸神社をUターンして再びさっきの県道に戻り、道路をそのまま横切って狭い道に入る(雄川発電所の看板が立っている)。

 道はぐんと狭くなり、ここまで河口から4キロ余りというのに、まるで上流地帯に入ったかのようだ。しばらく行くと川がすぐ右手に現れ、その先に鉄道の橋のようなものが川を横切っている。実はこれは下流の田んぼ地帯に水を供給している用水路なのだ。夏になると中学生の肝試しの飛び込み台になる。

Ogawa1_013 

さらに奥へ行くと川幅全体を仕切る井堰が見えてくる。これが用水路の源だ。

 水の少ない大根占(現・錦江町)の下場地帯は、この用水のお陰で数十町の田が拓かれている。

Ogawa1_010

 井堰から500メートル、九州電力「雄川発電所」が見える。大正9(1920)年に開設されたこの発電所は、近隣の電灯はもちろん余った分は各地に送電されている。発電方法は典型的な「落下式発電」で、水は上流の滝「雄川ノ滝」の落下地点の上手50メートルに設けた取水口から2キロ余りを引いて来る。

 発電所の先にはまだ人家があり、雄川からではなく山麓に流れてくる渓流の水を使った田んぼがかなり目に付く。

 Ogawa1_005 中には幅わずか5メートルほどしかない田を、寸分の隙もないような石垣の段々で造ったものがあり、その田んぼ作りへの執念には頭が下がる思いがする。

 Ogawa1_001 河口から直線距離にして5.5キロの「牛の牧橋」が車で行ける最上流で、まだ中流なのに流れといい周りを囲む崖といい、源流地帯の趣がある。

 この崖は前に紹介した錦江町の神ノ川と同じ成因で、5万年前と言われる阿多カルデラ噴出の溶結凝灰岩をえぐり込んだものという。

 写真の中央やや右手寄りに見えるのは「滝見大橋」と言い、凝灰岩の台地を貫く大隅中央道のバイパスに架かる橋で、次回はそこから上流を目指すことにしたい。

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泣く子と地頭(政府)には勝てぬ?

 石原慎太郎東京都知事が「泣く子と地頭と政府には勝てない」とぼやきつつ、しぶしぶ都に入る法人事業税、住民税2兆数千億円のうち、約3000億円を税収の豊かでない地方自治体に分与すべしとの政府案に同意したという。

 もちろんそれなりの見返りがあってのことだが、それにしても東京都の収入はすごい。しかし、これはけっして石原知事や都の役人の努力によるものではなく、首都東京に大会社の本社が集まっているから黙っていてもそういうことになる。だから石原氏は地方に対して「お前たちの努力が足りないから貧しいのだ」などと考えるべきではなく、口に出すべきでもない。

 だいたい東京を首都にしたのは明治維新政府の功績なのだ。言うまでもなく、維新政府の中心は薩長で、石原氏の好まない「田舎者集団」なのであった。彼らが多くの反対を押し切り、明治天皇を京都御所から江戸城へ「行幸」させたがゆえに、江戸が東の京都つまり「東京」となり、首都になった。石原氏は当然このような経緯を知っているはずで、東京都の税収が豊かなのも淵源はそこにあるわけだから、薩長の本貫地である鹿児島・山口に対して足を向けては寝られないのではないか。

 現代でも、大会社社長やら、高額納税者の多くは東京以外の地方出身者がほとんどだろう。石原知事にしてからが神奈川県ではなかったろうか。

 以前、石原氏がまだ衆議院議員で環境庁長官であったときに宮崎県にあった日本航空のリニアモーターカー実験線を視察したとき、「豚臭い、鶏臭い」と声を荒げて物議をかもしたり、鹿児島の離島に立派な道路が造られているのを揶揄したり、その頃から地方には厳しい人柄だった。

 石原氏の「ノーと言える日本」はアメリカへの直言として期待したのだが、あれはもう棚上げにして「ノーと言える東京」で国内の「落ちこぼれいびり」に転じたのだろうか。そうであっては困る。

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神ノ川流域散策(錦江町)

Kaminokawa_001  神ノ川は肝付山地の独立峰・八山岳(ややまだけ=941m)の西斜面に源流を持ち、錦江町の錦江湾にそそぐ全長15キロほどの小さな川だが水量は多い。

 河口の海岸は遊泳禁止だが、夏にはキャンプ場になり、ビーチバレーの大会も開かれる。

 砂浜をよく見ると砂跌が多いらしく、黒ずんだ層が模様になって見える。Kaminokawa_009

神ノ川集落を通る旧道の神ノ川橋から、現在の国道269号線に架かる神ノ川大橋(河口)を見ると、左手にこんもりした丘が目に入るが、あの頂上には「諏訪神社」が鎮座している。

 その反対には神ノ川中学校があるが、少子化のせいだろうか今年度で閉校となるらしい。ちょっとさびしいが、中学校はある程度の規模が必要だろう。

Kaminokawa_010 旧道をそのまま行き、小学校の通りから神ノ川大滝方面への道をとる。約300mほど行くと、右手に小高い丘が見える。そこは「渕ノ上神社」だ。祭神はイザナギ・イザナギノミコトで天地の万物を造った神様だ。

 石段の下には青面金剛という庚申様や宝塔、仁王像などが所狭しと立っている。

 あたりは川沿いの平坦地なのに、お宮は7~8メートルの高さに建つ。ちょっと離れて眺めるとKaminokawa_012、川に面した岩山なのかと思われるが、登ってみるとお宮は岩の上に建てられたという風ではない。

 岩盤のため川に削り残された地形ではないとすると、考えられるのは古墳ではないかということだ。このあたりは水田を拓くには持って来いで、水の苦労はほとんど無い所だ。むしろ水がありすぎて困る、つまり洪水の危険性に見舞われる地域に見える。

 それを回避するような治水に秀でた人物を祭ったのではないだろうか。Kaminokawa_013

 渕ノ上神社から500メートルも行くと周りから急に崖が迫ってくる。神ノ川が削り残した5万年ほど前の「阿多熔結(ようけつ)凝灰岩」の壁だ。

 さらに500メートルで道が二手に分かれる。右手に登っていくのは南隅台地(宿利原地区)への高原道路。左手が神ノ川大滝への道。もちろん左を行く。

 大滝公園まで約1.2キロの道は細い切り立った崖の間を行くが、さっきのKaminokawa_021 広々とした海岸からわずか3~4分でこうも景色が変わるものかと驚かされる。

 駐車場から橋を渡って少し行くと渓谷の中に「大滝茶屋」が見え、そのはるか上に赤い吊り橋が空をよぎっている。

 左手につり橋へ登るらせん階段があるのだが、落石のためあいにく通行止めになっていた。

Kaminokawa_016 大滝茶屋を過ぎ、100メートルも行かないうちに大滝が見えてきた。周りには水しぶきが上がっている。マイナスイオンの塊りだ。

 高さ25メートル、幅20メートルの堂々たる滝。

 阿多熔結凝灰岩の岩盤を、少しずつ少しずつ削ってここまで退行し、高くなって生まれた、見映えは大隅半島随一と言われる大滝。

Kaminokawa_023 どうしても吊り橋から見下ろしてみたかったので、いったん海岸まで3キロ余りを引き返し、国道269号線に出て根占方面への道をとる。

 鳥浜を過ぎ、大根占港を右手に見てから最初の信号を通過してすぐの小さな交差点を左折する。そこには「神ノ川大滝公園へ」と「青山荘へ」という看板が立つ。

 道は急傾斜の登りで、1キロ余り行くとやはり同じ看板の立つ交差点があるから左折し、200㍍ほどで今度は右折する。ここには「青山荘へ」の看板だけ。

 そこからしばらく行くと、右手に老人施設「青山荘」の立派な建物が現れる。

Kaminokawa_026_2  道は急に細くなるが、なおもそのまま行けば、1キロほどで吊り橋のたもとに出る。そこは十台くらいはとめられる駐車場になっていた。

 平成二年に竣工したこのつり橋は「虹の大吊り橋」だそうだ。たしかに高い。滝の高さの三倍から四倍はあろうから、川面から100メートル近い。

 滝の上流側はいたって平坦に見える。あの部分もあと何千年かすると削られて、滝はさらに退行して何メートルかは高くなるはずだ。5万年でここまで約2キロを削ってきたわけだから、あと10キロ削るには25万年。その時の滝の高さは実に900メートル。華厳の滝も真っ青だ(ただし理論値)。Kaminokawa_031

吊り橋の架かる台地まで来たわけだが、川は台地をえぐっているのでしばらくはお目にかかれない。かなり上流の池田地区から、この川はやっと人に親しくなる。

 いま台地の上は干し大根の真っ盛りだ。あちこちに白とグリーンのカーテンが出現している。車から降りて近づいてみると、杉の丸太と孟宗竹の組み合わせでやぐらに組んであるのだが、その太いことには驚く。高さもかなりのもので、写真のは、大根が11段も掛かっていた。Kaminokawa_037

 池田地区は宿利原地区と並んで、南隅台地の中心地だが、その信仰の中心は何といっても「旗山神社」だ。ここで正月の2日から行われる祭事「柴祭り」は民俗学では有名で、南九州の狩猟儀礼の古俗と言われている。

 境内を見て唖然とした。何という美しさ!イチョウの落ち葉の分厚い絨毯ができていた。

Kaminokawa_062

 池田からは南大隅中央線を田代(佐多)方面へ走る。わずかで下り道になり、その先にようやく神ノ川の姿がとらえられる。

 そこは壱崎という地区で、上流の水を利用した水田が広がっている。ここからさらに上流の半ヶ石地区まで、川の右岸に水田が細長く広がっている。

Kaminokawa_061 田んぼが途切れたところに12~3年前に開業した「小平温泉」がある。山の方に湧いている冷泉をここまで引っ張ってきて、沸かして営業していると言う。皮膚病や切り傷などに良いらしい。

  小平温泉   営業時間 13:00~21:00  料金 330円

           休業日  毎週月曜日

Kaminokawa_040 小平温泉から200メートル、道が右手にカーブした先に「さき(木へんに奇)山ノ滝」がある。道路の右端に寄らなければ見えないが、滝というよりも岩畳を流れ落ちる緩やかなもの。でも印象的な眺めではある。

 それより、ここに来れば美味い水が汲めると評判の自然水がある。滝を眺めるのとは反対側の崖の下だ。

 二本の6~7センチの塩ビパイプが崖の下に突っ込まれており、口からかなりKaminokawa_057 の勢いで出続けている。

 日曜とあって、三組もの人たちが、いったい幾つのポリタンクに汲むんだというくらい、相当な数のタンクを手にやって来ていた。おそらく人に頼まれた分もあるのだろう。

 小さな女の子の後ろに見える石のオブジェのような水神碑の前には、米と塩と何がしかの小銭が置かれていた。Kaminokawa_046

 半ヶ石は神ノ川の最上流部に位置する集落だが、川が深い谷を作っていないせいか、それほど山奥に来たという感じはしない。それよりここへくる途中でここよりはるかに海に近い、たとえば「厚ヶ瀬集落」などのほうがよほど山奥に感じられる。

 この集落をほぼ抜けようかという所に「半ヶ石橋」が架かり、それを田代方面へ渡ってすぐ、道を左へとる。いよいよ源流域への山道だ。道はしっかりと舗装されていて、走ること2キロでとある公園に着く。Kaminokawa_049

その公園のすぐ下には何とプールがある?まさか!それでも、ちょうど50メートルプールの大きさだ。これこそが「半ヶ石頭首工」という、南部大隅灌漑事業の目玉、要するに溜め池。

 左側を流れる神ノ川を仕切ってここへいったん貯め、必要に応じて南隅台地に水を供給するという仕組みだ。

Kaminokawa_051  源流に近い沢のおいしそうな水が、農業用水に使われるとは贅沢だ。これを売りにしてもいい。

 畑で飲んでも美味いかもしれない。ただし消毒はしていないだろうから、腹に自信があればの話。 

  マップ(スクロール型)はこちら        

 

 

 

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島津氏の出自

来年から始まる大河ドラマ「天璋院篤姫」は県内の一大ニュースだ。

 JAのお歳暮ギフトカタログを見ていたら、焼酎「篤姫」があるのには驚いた。商魂たくましいが、NHKではすでに「篤姫」を商標登録してあり、商標権料が入るわけだから、その上を行っている。

 それはそれとして、幕末に薩摩藩は、文字通り徳川氏の懐に入った「篤姫」という内圧と、外様の雄藩大名としての外圧の両面から、徳川幕藩体制を揺るがせたということになる。

 もちろん、篤姫にはまったくそんな意識は無く、徳川氏の一員としてむしろ支えた方なのだが、結果的に見ると篤姫に白羽の矢が立ったこと自体、島津氏の雄藩として、またその開明性に、徳川氏も一目も二目も置かざるを得なかったことの証しだろう。

 実は、島津氏はこれより300年ほど前にも、肝付氏に対して同じことをしている。

 肝付氏第16代の兼続(かねつぐ)に、そのころの島津氏の中ではもっとも威勢のあった伊作島津氏の忠良(日新斎)がその長女阿南(おなみ)を嫁がせているのだ。兼続亡き後、阿南は帰郷の説得には応じず、肝付の地で最期を迎えたのだが、その二代後の18代兼道の時に肝付氏は滅んだ。

 篤姫が嫁いだのは13代将軍・家定で、家定が2年足らずで死んだあと、同じくその二代後の15代慶喜の時に徳川氏は滅んでいる。

 たんなる偶然だろうが、ここに島津氏の運の強さを見る。もっとも徳川氏を倒した明治維新は、同時に武家体制をも終わらせたので、島津氏の一方的勝利だったというわけではなかったが・・・。

 島津氏は公式には「源頼朝の庶長子・忠久」を初代としているが、歴史研究的にはそれは否定されいるので、武家としての強さを源氏の血筋に見る、というわけには行かない。

 島津氏の出自は「惟宗氏」で、島津氏の初代忠久は惟宗広言(ひろのり)の子である。母が頼朝の乳母だった比企の局のその娘・丹後の内侍であったことから、武家の棟梁である源氏の血筋にうまく結び付けたに過ぎない。

 『三国名勝図会』薩摩国日置郡市来郷の旧跡「鍋ヶ城」の項によると、丹後の内侍は惟宗広言の後妻で、すでに頼朝の子を身籠っており、生まれたのが島津氏初代・忠久であったとしている。広言にはこの忠久と先妻の子・忠康、さらに丹後の内侍との子で忠久の弟に当たる忠秀(若狭島津家の始祖)がいたが、忠康と忠秀は承久の乱において戦死を遂げたーとしている。

 忠久の父方の惟宗氏は、そのころは近衛家に仕える家人だったようで、そのつながりから藤原氏にも迎えられ、平家没落後に、もともと藤原氏に寄進されていた「島津庄」の運営を任された(荘官化した)のが島津姓のそもそもの始まりである。

 この惟宗氏のルーツは秦氏(秦忌寸・秦公)であり、秦氏は応神天皇の時代に朝鮮半島から移住したとされる弓月君(ゆづきのきみ)を始祖とし、815年に編纂された『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」によれば、弓月君は「融通王」のことで、融通王とは実は「秦の始皇帝」の子孫なのだ。

 となると島津氏のルーツは大陸王朝の秦帝国につながることになる。つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。厳密に男系をたどればそういうことになる。

 渡来系じゃいけないというわけではない。事実、山口の毛利氏の前の「大内氏」は半島の百済王の子孫であることを隠していないし、ほかにもいくつかの大名が渡来系である。私見では「第十代祟神天皇」は朝鮮半島を経由した大陸の「殷王朝」の流れとの結論を得ている。

 応神天皇も熊襲だ、半島系だ、あるいは江南系だと諸説がある。

 『新撰姓氏録』によれば掲載された1182姓のうち「諸蕃(渡来人)」としてリストアップされた数は374姓で、全体の約3分の1を占めているくらいだから、いかにその勢力が大きかったか、想像はつく。しかも「諸蕃」、などとさげすまれた書き方をされているが、文書の読解力、筆記力、そして技術力の優秀さは並みの列島貴族じゃ太刀打ちできなかったに違いない。

 島津氏の統治能力の非凡さは、列島の辺縁という地勢的環境に加え、渡来系のこの能力に負うところが大きかったと思う。

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初霜

今朝は冷え込んだ。7時に外に出て、寒暖計を見たらー1℃。Hatushimo_002

今年の冬ではじめてのマイナス気温。寒いわけだ。

風はまったく無し。

畑も、引っこ抜いておいた草山も、真っ白になった。

Hatushimo_003

 庭のイチジクの一番外側の葉に、びっしり霜が降りていた。

 暖冬のせいか、葉を落とし忘れたイチジクもびっくりしたろう。

 

Hatushimo_006

そこらじゅうが霜枯れになっていく中で、元気なのが我が家の老犬 B(びー)タローだ。

平成5年「酉年生まれ」のBタローも齢いを重ねること、14年。人間の歳に換算すると72歳。去年の春は一時期「けなえた」が、見事に復活。さすがに耳は遠くなったが、風邪ひとつひかず、食欲も旺盛だ。走れ!Bタロー!

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