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島津氏の出自

来年から始まる大河ドラマ「天璋院篤姫」は県内の一大ニュースだ。

 JAのお歳暮ギフトカタログを見ていたら、焼酎「篤姫」があるのには驚いた。商魂たくましいが、NHKではすでに「篤姫」を商標登録してあり、商標権料が入るわけだから、その上を行っている。

 それはそれとして、幕末に薩摩藩は、文字通り徳川氏の懐に入った「篤姫」という内圧と、外様の雄藩大名としての外圧の両面から、徳川幕藩体制を揺るがせたということになる。

 もちろん、篤姫にはまったくそんな意識は無く、徳川氏の一員としてむしろ支えた方なのだが、結果的に見ると篤姫に白羽の矢が立ったこと自体、島津氏の雄藩として、またその開明性に、徳川氏も一目も二目も置かざるを得なかったことの証しだろう。

 実は、島津氏はこれより300年ほど前にも、肝付氏に対して同じことをしている。

 肝付氏第16代の兼続(かねつぐ)に、そのころの島津氏の中ではもっとも威勢のあった伊作島津氏の忠良(日新斎)がその長女阿南(おなみ)を嫁がせているのだ。兼続亡き後、阿南は帰郷の説得には応じず、肝付の地で最期を迎えたのだが、その二代後の18代兼道の時に肝付氏は滅んだ。

 篤姫が嫁いだのは13代将軍・家定で、家定が2年足らずで死んだあと、同じくその二代後の15代慶喜の時に徳川氏は滅んでいる。

 たんなる偶然だろうが、ここに島津氏の運の強さを見る。もっとも徳川氏を倒した明治維新は、同時に武家体制をも終わらせたので、島津氏の一方的勝利だったというわけではなかったが・・・。

 島津氏は公式には「源頼朝の庶長子・忠久」を初代としているが、歴史研究的にはそれは否定されいるので、武家としての強さを源氏の血筋に見る、というわけには行かない。

 島津氏の出自は「惟宗氏」で、島津氏の初代忠久は惟宗広言(ひろのり)の子である。母が頼朝の乳母だった比企の局のその娘・丹後の内侍であったことから、武家の棟梁である源氏の血筋にうまく結び付けたに過ぎない。

 『三国名勝図会』薩摩国日置郡市来郷の旧跡「鍋ヶ城」の項によると、丹後の内侍は惟宗広言の後妻で、すでに頼朝の子を身籠っており、生まれたのが島津氏初代・忠久であったとしている。広言にはこの忠久と先妻の子・忠康、さらに丹後の内侍との子で忠久の弟に当たる忠秀(若狭島津家の始祖)がいたが、忠康と忠秀は承久の乱において戦死を遂げたーとしている。

 忠久の父方の惟宗氏は、そのころは近衛家に仕える家人だったようで、そのつながりから藤原氏にも迎えられ、平家没落後に、もともと藤原氏に寄進されていた「島津庄」の運営を任された(荘官化した)のが島津姓のそもそもの始まりである。

 この惟宗氏のルーツは秦氏(秦忌寸・秦公)であり、秦氏は応神天皇の時代に朝鮮半島から移住したとされる弓月君(ゆづきのきみ)を始祖とし、815年に編纂された『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」によれば、弓月君は「融通王」のことで、融通王とは実は「秦の始皇帝」の子孫なのだ。

 となると島津氏のルーツは大陸王朝の秦帝国につながることになる。つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。厳密に男系をたどればそういうことになる。

 渡来系じゃいけないというわけではない。事実、山口の毛利氏の前の「大内氏」は半島の百済王の子孫であることを隠していないし、ほかにもいくつかの大名が渡来系である。私見では「第十代祟神天皇」は朝鮮半島を経由した大陸の「殷王朝」の流れとの結論を得ている。

 応神天皇も熊襲だ、半島系だ、あるいは江南系だと諸説がある。

 『新撰姓氏録』によれば掲載された1182姓のうち「諸蕃(渡来人)」としてリストアップされた数は374姓で、全体の約3分の1を占めているくらいだから、いかにその勢力が大きかったか、想像はつく。しかも「諸蕃」、などとさげすまれた書き方をされているが、文書の読解力、筆記力、そして技術力の優秀さは並みの列島貴族じゃ太刀打ちできなかったに違いない。

 島津氏の統治能力の非凡さは、列島の辺縁という地勢的環境に加え、渡来系のこの能力に負うところが大きかったと思う。

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