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高山の山辺の道を歩く(肝付町)

Kouyamagawa2_002_2   かねてから地図を見ては素晴らしいコースだろうと思っていた自称「高山の山辺の道」を歩いてみた。

 山辺の道といえば、もちろん奈良の桜井市三輪神社から北上して石上神宮に到る古道だが、あちらは当然「くにの最中(もなか)」だったので、見るべき史跡とくに建造物の豪奢・由緒は比べようもない。だが、時代から言えばこちらは文化年間(約200年前)の古住宅から約2500年前(縄文晩期)の遺跡まで、2000年以上の幅のある歴史を見ることができる。

 と言うわけで、一周約13キロ、途中遺跡を見て回るので、およそ5時間を当てて歩くことにした。出発点はやぶさめの湯こと「高山温泉ドーム」。Touyamayamanobenomiti_002生憎の空模様だが、雨具は要らぬ程度で歩くには差し支えない。

 城山の真南の山麓にあるやぶさめの湯を出て、西へ高山川を目指す。道をずっと西にとれば高山川に架かる神の市橋で、それを渡らずに右へ河岸の道を行く。5~6分行くと前方山側に小奇麗な住宅が見える。さらにその向こうが「二階堂家住宅」だ。住宅の奥にそびえる丘陵は「城山」で、戦国期まで「弓張城」があった。

Touyamayamanobenomiti_005 (ここまで出発点から20分。以下、同じ)

 建築年代は不明だが、伝承で「文化7年(1810)」と言われており、昭和50年に国の重要文化財に指定された。かやぶきの二連棟も趣きあるが、城山を背後にした庭も一見の価値がある (見学は無料だが、入る際に記帳する必要がある)。

Touyamayamanobenomiti_006_2  二階堂住宅を出て、用水路沿いに100メートルも行くと何やら説明版がある。何のことはない、いま沿って歩いているこの用水の説明だった。

 それによると、高山川から取水したこの用水は寛永の頃(約340年前)に、時の領主島津久風(旧宮之城領主)が、10年をかけて造らせたもので、途中、写真に見るような「隧道(トンネル)」を掘らなければならず、大変な工事の末に野崎方面までの2000石を拓いたという。Touyamayamanobenomiti_008

ここを過ぎるとすぐ右手の山へ上っていく階段があり、それを行けば城山山頂から次の目的地「四十九所神社」に降りることができるのだが、雨模様のうえ先の行程も長いのでパスする。

 200メートル余りで左手に「屋治橋」を見、右手のAコープ店舗を右折する。そして今度は150メートルくらいで再び右折をする。肝付町役場と生垣のきれいな住宅の間の道だ。Touyamayamanobenomiti_010

 役場から東南へ静かな道を行くと、右手に鳥居が見える。四十九所神社だ。 35分

 四十九所神社は旧高山郷の郷社として、藩政時代はもちろん創建されたと言われる10世紀以来、高山川流域最大・最高の社格を誇ってきた。

 Touyamayamanobenomiti_013

 鳥居の前方(左手)の道は馬場で、10月に行われる流鏑馬祭りでは若武者が数ヶ月の騎乗訓練と、一週間の忌み篭もりの後に「豊穣と平安を祈る射駆けの神事」を行う200㍍の直線道路だが、今回の散策は写真の奥へ、用水路に沿っていく。

Touyamayamanobenomiti_015 道沿いには、旧社家の家々が並ぶ。写真は「守屋家」で、藩政時代には社司として並ぶ者なき家柄だった。

 守屋家は伝承として、物部守屋大連を祖に持つという。守屋は蘇我馬子と聖徳太子の連合軍によって敗れ、殺されたとされるが、実は串良町の「一ノ宮宇都」という地へ逃れ、その子孫は代々(20代という)串良の十五社神社の神官を勤め、江戸時代にここ四十九所神社の神官に招かれたそうだ。

Touyamayamanobenomiti_019_2 用水路沿いの道はあと300メートルほどで終わり (向こうに八幡神社の赤い鳥居が見えている), 道はやや左にカーブする。すぐに用水路を左手(北)へ見送ると、台地への道となる。

 200メートルもあるだろうか、登りきった交差点を右にとれば出発点の高山温泉ドーム方面へ、左手を取れば高山警察署を経て県道へ出る。 (50分

 Touyamayamanobenomiti_020 台地からは肝属山地、分けても国見岳や黒尊岳などが目前に望まれるのだが、生憎の曇り空であった。

 このシラスの台地は新富の平野部にまで続く舌状台地で、次に行く塚崎古墳群のある塚崎台地よりはるかに広い。新富の平野部を望む台地の縁には塚崎台地と同様古墳群がいくつかあるが、塚崎台地ほど著名でないのは、町に近いがゆえに早くから開発され、破壊されてしまったとも考えられる。

Touyamayamanobenomiti_021 眺めのよい台地をほぼ直線状に行くうち、行く手には小高い山が迫り、あたりは平原というよりは山村の面影を濃くしていく。

 通りすがりの民家の見事な「寒桜」や、「廃屋と満開の梅」などがほのかにに郷愁を誘う。絵心あれば描きたいところだ。

Touyamayamanobenomiti_024 人家の間に森が点在する道をなおも行くと、大きな通りを横切る。東串良町の俣瀬橋と高山の後田の台地を結ぶ新道である。

 それを横切るや否や、すぐ右手に大きな池が見える。花牟礼池だ。この池は寛文5(1665)年に造られたというから古い。時あたかも江戸前期の新田開発時代、こんな辺境でも全国とさしたる隔たりなしに開発が行われていた、という生き証人だ。 (65分)  

Touyamayamanobenomiti_027  池を過ぎて、右へカーブしながらやや登ると「花牟礼公民館」がある。辺りは完全な山村だ。

 よく見ると、公民館の前に石造が二つある。どうやら首のない仁王像らしい。例の明治初期の廃仏毀釈運動の結果だろう。これは140年前の生き証人ということになる。

 Touyamayamanobenomiti_028_2 公民館から目を転じると、道路を挟む畑の中に一基ずつ石柱が立っていた。向かって右の畑は一段高いうえに、つい昨日くらいにトラクターで耕したらしく、黒々ふかふかしていて、とても普通の靴では近づけない 。その一方で、向かって左の畑は道路と同じ高さで、しかも家庭菜園に使われているので、入って行って見ることができた。

 石柱に刻まれた文字は「塚崎古墳群第四十一号」だった。手前はよく育ったサニーレタスだが、何だろう?とよく見ると石柱には大根葉のマフラーが巻かれていた(笑)。

Touyamayamanobenomiti_029  そこから100メートル余りで道が下り坂になろうという所を左折すると花牟礼集落の道で、さらに100メートルほどで道が右にカーブする。その手前から小高い丘が見えているが、いよいよ塚崎古墳群の盟主「花牟礼古墳(第39号墳)」が迫る。 (70分

 この全長66メートルの前方後円墳は、塚崎古墳群の現存45基ほどある古墳のうちで最大で、かっては5世紀の前半の造成だろうと言われていたが、今は4世紀代のものということになっている。Touyamayamanobenomiti_032

 最初の写真は南側の道路から見た後円部だが、東側にまわりこんだ所にある登り口から入って、真反対から見たのが次の写真だ。立っている所は後円部と前方部の境、通称でくびれ部のあたりだと思うが、くびれている感じはしない。なだらかに前方部につながっているように見える。

 Touyamayamanobenomiti_033 後円部の頂上には昭和41年に建てられた石柱があり、そこからは南側に180度のパノラマ風景が広がっている。

 普通、前方後円墳は田を見下ろすか、田の中に造成されるというイメージがあるが、この花牟礼古墳はそうではない。志布志の飯盛山古墳もまわりに水田は一切無いところに造られているが、海と山との違いはあるにしても概念として似ていないことはない。

Touyamayamanobenomiti_040  花牟礼古墳をさらに北へ田園の中を行くと塚崎古墳群の只中に出るが、そこは帰りに寄るとして、山辺の道に戻る。

 古墳から200メートル余りで左手に行く道がある。そこを行くと塚崎池だが、途中に「花牟礼温泉」が湧く。料金は300円で休みは月の1日と15日。温泉水も売っている(リッター50円)。営業中とあったが誰もいなかった。

Touyamayamanobenomiti_041  温泉からわずかで「塚崎池」。やはり藩政時代の造成だろうが、昭和11年に大修築をしている。 (90

 冬枯れとあって水は少ないが、どういうわけか花牟礼池では全く見なかった渡り鳥のカモがたくさん群れている。近づいて写真に撮ろうとしたら集団で逃げたが、それでもつがいらしき数羽が浮かんでいた。

Touyamayamanobenomiti_042  向こうに見える堤防の上を右手奥に行くと、トラクターが止まっていた。その先には向かって左から、水神碑、田の神、祠が二つあり、塚崎池は江戸時代からのものであり、用水池として地域の大切な施設であったことが分かる。

 水神碑の左手から竹やぶの間を入っていくと、一生懸命に竹を伐っている若者がいた。聞くと地主だそうで、去年、竹やぶの奥のほうで発掘された石塔群の見学に邪魔にならないよう切っているという。ご苦労なことだ。

Touyamayamanobenomiti_044 去年の夏前に、竹やぶの奥で写真に見るような古石塔群が発掘され、ひと夏を経て整備された。

 今、復元されているのは14、5基だが、復元できない物まで入れると30基近く、発掘に携わった高山歴史民俗資料館の海ヶ倉氏によると、おそらく肝付氏傍流の野崎氏の供養塔群だろうという。中に一基だけ他と違う造りの物があり、それは戦国期末に島津方に成敗された垂水の伊地知重興の物ではないか――と考えているという。

Touyamayamanobenomiti_047_3  石塔群を後にし、再び塚崎池の堤防の上を歩いて道路に出たところで右折する。そこから200㍍ほどで「塚崎の大楠」がある。 (110 分

 住宅の間から見上げると、高さ25メートルという大楠に何やらやぐらのような物が取り付けられている。剪定だろうか。いや、剪定はできないはずだ。何しろ国指定の文化財だから、手を加えられないのだ。一昨年だったか台風で大枝が折れたことがあった。その枝は幸いにも手前の民家とは反対側だったから被害はなかったが、民家側の枝が落ちたら被害が出るに違いない。おそらくその対策のための手入れだろう。

 鳥居をくぐると目の前には「塚崎古墳群第一号墳」の円墳が見え、その上にクスの巨木がまさにドカンと立つ。

 Touyamayamanobenomiti_050_2 この一号円墳は神社でもある。名を大塚神社といい、肝属川の向こう岸にある唐仁古墳群の盟主である大塚古墳(ここも大塚神社となっている)の母神が祭られているという伝承がある。被葬者が向こうの被葬者の母なのか、ここの神社の祭神が向こうの神社の祭神の母神に当たるのかが定かでないが、どっちにしてもここのおっかさんはクスの木が大きすぎてふうふう言ってるだろう。

Touyamayamanobenomiti_055_2  大楠から元の山辺の道へ引き返し(約5分)、道をさらに北東に進むこと1キロ、ちょっとした台地を越え、いくぶん急な下りを降りると目の前に田の神と仏像(坐像)が並んでいる。その向こうには基盤整備中の田んぼが広がる。

 さらにその向こうに目をやると小高い山が見える。あれが「天道山」だ。 (130分

Touyamayamanobenomiti_056 鳥居からずっと上まで石段が続く。数えてみたら138段だったが、一段の高さと間隔が普通の2倍はあろうかという代物で、250段の石段に匹敵するに違いない。

 息を切らし、寒いというのに汗をかきながら登ってみると、頂上のお宮「伊勢神社」は修復の真っ最中で、十人余りの人たちがいた。Touyamayamanobenomiti_057

聞けば参拝殿の新築工事だそうだ。太い角柱の建物で、祭礼の際にはその中で神舞が舞われそうな広さがある。

 天道山の伊勢神社はアマテラス大神とツキヨミノミコトを祭るとあるが、ヤマトタケルが九州に降った時にしばらく宮居を定めていたという伝承もある。小高い山のたたずまいは、そんな古い時代を伝えていてもおかしくはないとみた。

Touyamayamanobenomiti_062 天道山から500メートル、大園集落は肝属平野の一端に連なっている。用水路も向こうの山から引いており、高山川の用水系とは完全に離れる。

 広々とした水田を北に控えた道路際に、二体の田の神がひっそりと寄り添うように立っている。 (160分

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 どちらも県指定の文化財となっており(向かって左が寛保3=1743年建立、向かって右は延享3=1746年建立)、こうして260年の間、農業の守護神として、地域を見守り続けている。

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 田の神のある大園集落からさらに行くと和田集落に入る。この集落を流れているのが、和田川だ。整備がされて川というより側溝のようになっているのは残念だが、この川が下手の県道高山ー波見線を分断するあたりで、道路の拡張整備工事が行われた時のことだ。 (170分

Touyamayamanobenomiti_066 写真の道路の幅約12メートル、長さ約150メートル位にわたって弥生時代を中心とする住居跡が47基も発掘されたのだ。弥生時代の住居跡がこのような低地(標高5m)にあるとは考えられていなかったので驚きをもって迎えられた。

 これを東田遺跡というが、土器から見ると、縄文晩期、弥生中期、そして古墳時代だが、弥生時代は前期と後期が抜けているのが気になる。

Touyamayamanobenomiti_068  さて、二階堂家住宅から始まった「高山・山辺の道」散策は、この東田遺跡まで時間にして170分、時代にして200年前から2500年余り前までのタイムスリップの旅であった。

 帰りは県道をまっすぐに戻り、塚崎台地に上がった。言わずと知れた「塚崎古墳群」のある台地。

Touyamayamanobenomiti_069  塚崎台地には、現存で4基の前方後円墳と40基の円墳、そのほか10数基の地下式古墳が確認されているが、最大の花牟礼古墳のある花牟礼集落地区と、大楠のある東地区との間がポッカリと無古墳地帯であり、また高山市街に近い西北地区も古墳がない。

 古墳が無かったのではなく、無くしてしまったのではないかという気がするが、どんなものだろうか。

 そんなことを考えつつ花牟礼集落に入っていくと、とある人家の寒桜が満開だった。山里の自然の中での美しさは格別で、風格さえ漂っていた。

 花牟礼池を通り東迫集落の北から、再び出発点のやぶさめの湯に戻ったのは、予想通りほぼ5時間後であった。温泉(天然)に浸かって帰ったのは言うまでもない。

 

    マップ

 

 

 

 

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綿打川(わたうちがわ)河口

 綿打川と言っても、多くの人は知らないだろう。私も松元十丸氏の著『古代クマソ王国』(初版・昭和46年、再版・平成13年=NPO未来創研刊)を読むまでは知らなかった。Watautigawa_010

 今は田原川、持留川という大崎町中心部を挟むように流れ、合流して志布志湾に注ぐ河口付近の、北側から流れ込む田原川を指して古来「綿打川」と言っていた (写真右は田原川下流の旧道に架かる綿打橋)。

 田原川と持留川の間の、大崎上町台地には神領古墳群をはじめ都万神社など古墳時代から古代、中世の史跡が豊富だが、下流から河口付近は今触れた松元氏の著によると「古代クマソ」の一大拠点だったという。Watautigawa_012

 氏によると――「綿」は「海」で、ここには太古からの入り江があり、南方系の海人がやって来て拠点集落を築いた。それゆえにこの海岸地帯は「くに」となり、それが古代・中世を通じて「救仁(くに)郷」と呼ばれて残った。そして拠点を築き、国を造り上げた人こそ「クマソ」だった――要旨はこの様なもので、魏志倭人伝の邪馬台国時代に邪馬台国の南にあり、邪馬台国に敵対した「狗奴国」がまさにそれだと言う ( 写真は新国道448号線から見た砂丘「くにの松原」の南端部。その下あたりが田原川と持留川の合流点。左の建物はクリーンセンターで、写している場所は松原大橋のたもと )。Watautigawa_003 

 入り江と言えば、巨大な入り江(肝属川河口=ラグーン)がこの6キロほど南にあるが、ここのはどうかなと、河口まで行ってみた。松原大橋から国道448を南に500メートルも行くと、右折すれば巨大古墳「横瀬古墳」があるという看板が見える。その交差点を、逆に左へ(海側へ)入って行く。

 砂採取場を右手に見、田んぼ地帯を左手に見ながら300メートルも行くとやや上り道となり、松林の中に入る(いわゆる新砂丘だ)。松林を抜けると、丈の高い草地の向こうが豁然と開ける。白い砂浜と川・海の冬の澄んだ青さが絶妙のWatautigawa_004 コントラストを見せている (写真左上は河口から南方面。山々は肝属山地の北端・肝付町の波見地区のあたり。その右手が肝属川の河口で、そこまでは柏原新砂丘が6キロ続く)。

 目を北に転じると左手に松林が見えるが、これが大崎町「くにの松原」で、新砂丘の先は、志布志市まで延々と13キロほど続く (ただし、現状では志布志町に新港が建設され、砂丘は削られているので、安楽川の河口までの10キロくらいになっている。その新港は右手の上のほうに白っぽく見えている)。Watautigawa_008

河口の入り口に何やら看板が林立していた。見ると、国立公園の一部だという案内と、ウミガメやコアジサシという海鳥の産卵場所だから荒らさないでほしいという注意を呼びかける物だった。

 亀が竜宮の使いだというイメージは、こんなきれいな砂浜と、はるかに広がる青い海原から生まれたに違いない。亀は確かに南方からやってくる。Watautigawa_009 

 河口から再び松の生い茂る低い砂丘を越えて戻っていくと、道路沿いの田んぼでトラクターが動いていた。かなりまとまった広い水田地帯だ。だが、ここはかっての入り江だったのだ。

 右手に見える小高い松林が上で触れた「くにの松原」の南端部で、そのすぐ下の合流地点までと国道448号のあたりまでが、入り江だったと思われる。川の水はあるし、広い砂州があり、砂丘の松林という防風林もあるから、非常に優れた港だったろう。トラクターの向こうに見える小高い丘は大崎町の上町台地で、史跡が多いことは先に述べたが、ここはその外港に当たるわけだ。Watautigawa_011_2

 松元十丸氏は「クマソは南方系海人」と言ったが、平成11年に「くにの松原」(新砂丘)の内側の砂採取場で弥生時代中期、後期末、古墳時代の住居跡および各種遺物が発見された。「沢目遺跡」という (写真右のクリーンセンターの左手でゴルフ練習場の手前)。

 ところが、そこから出た弥生中期(約2200~2000年前)の土器は在地系の山之口式土器、入来式土器に混じって北九州由来の「須玖式土器」だった。これをどう見るか?

 人(クマソ)は南方系だが北九州までの交易ルートがあったととるか、もともと在地の民であればこそ北九州まで交易圏を持っていた、南方系の遺物は出ていないではないかとするか――のどちらかだが、私は後者の考えだ。

 同じように「隼人=インドネシア系」説にも疑問を持つ。南方との繋がりをいうなら、もっとはるかに古い時代の氷河期とポスト氷河期というようなタイムスパンでなら、あっただろうとは考える (同じことは大陸北部やシベリアとの関係でも言える)が、弥生時代以降に限れば、やはり朝鮮半島との繋がり(特に鉄資源の交易)によって時代は動いたと思う。

 松元氏は「狗奴国=クマソ=建日(古事記・国生み神話)=熊本・鹿児島」説をとり、邪馬台国についても「福岡県三井郡、山門郡」説で、私の「狗奴国=クマソ=建日=熊本」説、「邪馬台国=福岡県八女市」説と重なる部分が多いのだが、投馬国の位置がかなり違う。

 投馬国を松元氏は都万神社に象徴される「日向国(宮崎)」とするが、私説では「古日向(宮崎・鹿児島)」だ。たしかに宮崎は重なるが、鹿児島を狗奴国とすると、狗奴国が遠い邪馬台国(福岡県三井郡)を攻めた時、すぐ北(宮崎)にある投馬国はどうしていたか、つまり狗奴国と投馬国との関係やいかんという問題が起きる。5万戸という大国・投馬国を無視してはどんな動きもできなかったろう。

 Watautigawa_006 それに、氏は応神天皇=狗奴国王とし、神武東征は実は応神東征だと考えるのだが、宮崎が投馬国であるとするとその目の前を東征の一行が通過したはずで、やはりその時に投馬国に関しては「そんなの関係ねー」だったのか、明確にしてはない。

 ところで「沢目遺跡」の時代は、弥生中期、後期末、古墳時代だそうだが、不連続の時代、つまり弥生時代中期末から後期前半あたりの時代(西暦100年から200年代)はどうしていたのだろうか。この時代は「居なかった」とすれば、それは集落を挙げて何らかの「旅」に出ていたからではないか。

 それこそまさに「神武東征の旅」ではなかったろうか。軽石製の船のミニチュアが出土しているので、海民であることは間違いないようだから、可能性は大いにあるだろう。

 (写真上は志布志湾に浮かぶビロー島。はるか向こうは畿内・大和だ)

  マップ

 

 

 

 

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北九州にいた襲人(そびと)

 日本書紀の「神功皇后紀」には神がかりの記事が多く、解釈するのに難儀すること極まりないのだが、ひとつだけ南九州に関係がありそうな記事があった。

 それは夫である仲哀天皇が亡くなり、皇后自らが半島の新羅を討とうとして神にすがるべく神がかりしたときに、登場した神々の中のひとり(ひと柱)の神名がどうもそれらしく思えてならない。

 その神とは住吉三神と言われる「表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)」の別名らしく描写されている「向櫃男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」で、読みは「ムカヒツノオ・キクソオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊」だと思う。

 だと思うとしたのは、この読みを岩波書店の古典大系『日本書紀・上』の脚注では、意義不明としながらも有力説として「ムカヒツヲモ・オソイオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊」とし、その意味を「対岸の新羅をも襲い覆うイツノミタマ・ハヤサノボリ尊」だとしているからだ。神功皇后の半島遠征という記事に対応させた解釈ではあるが、「男」「聞」を単に「ヲ」「モ」の音とし、「大歴」を「覆フ」とこじつけた感は否めない。

 ところが「雄略紀」の18年の条を読んでいたら、次の人物に出くわした。それは

 「筑紫の聞物部大斧手(キクモノノベノオオフテ)」で解釈すると

 「九州北部の企救地方(出身の)物部の大斧手」なる人物である。

 企救地方とは門司から中国地方の下関へ渡る海峡に突き出た小さな半島で、関門海峡を足元に有する地方で、いかにも海の民(漁業者・航海民)を抱えていそうな地域である。

 この人名を見て私ははっとした。上の神の名の中にある「聞襲大歴」が浮かび上がったのだ。この「聞」も同じ「企救」ではないか、と。「大歴」の「歴」は「ふる(経る)」の意味で「フ」と読めるから、「大歴」は「オオフ」と呼んで差し支えない。

 「襲」と「物部」との対応は発音上はまったく場違いだが、私のように「襲人(曽人とも)」は南九州の航海種族(鴨族)と考える者の目からは「北部九州にも拠点を持った襲人も当然いた。そして中には物部化した者もいるだろう」と捉えるから、「襲=物部」もあり得る関係なのだ。

 これらを踏まえての解釈は次のようになる。

 向櫃男・聞襲大歴・五御魂・速狭騰尊、すなわち

 ムカヒツノオ・キクソオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊とは

 対岸の半島にいる男で、本籍は企救地方を領有する襲人である大歴(オオフ)。彼は(あるいは彼が祭っている海神は)威力のある御魂で、(船を漕ぎ出せば)たちどころに対岸へ渡って行くことのできる優れた人(あるいは神)。

 と解釈される。

 神功皇后の新羅征伐は造作だろうとされている。そもそも皇后自身が創作上の人物と目されるくらいだからそう考えられるのも仕方ないが、まったく何もないところから作り上げること(捏造とかでっち上げ)は実は極めて難しい。上の神の名がその捏造であれば、いったいどうしてこんな不可解極まりない名を付けたのだろうか。もし捏造であれば、その捏造力には舌を巻くほかないが、私はやはり下敷きになった史実があり、また人物が居り、それをそのままではないにしても骨格として記事に纏めたと見ている。

 私見が正しいとすると、上の「聞(企救)の襲人」(神功紀)が「聞(企救)の物部氏」(雄略紀)に変化したと言えるわけで、広くは南九州と、北九州が本貫とされる物部氏との関係を考える上で貴重な観点となりそうである。

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大寒の入り(寒肥え)

今日、21日は大寒の入り。これから2月4日の立春まで一年で最も寒い日が続く。

といっても昨日今日と生憎の雨模様で、寒さは和らいだ。

Daikannoirikangoe_001

 17日の霜の降りた朝に高千穂峰を遠望した北の畑地帯に行ってみると、飼料畑の中に茶褐色の円錐が、規則正しく並んでいる。

 牛糞の堆肥だ。この畑は去年、サツマイモを作っていた。

 今年もまた作るのだろう。広さは2反(600坪)ほどか。でんぷん用だと収量は10トン位になるはずだ。

 この時期に入れる堆肥は「寒肥え」と言って、畑や田んぼの地力をつくる大事な元肥になる。Daikannoirikangoe_002

直接作物に効くわけではなく、作物を支える根の根張りに効果がある。

 作物は根が張ってこそ元気に育つ。病気にも強くなる。そして結果として収量も多くなる。

 人間の成長でいえば、元肥は乳幼児期の愛情と栄養に相当するだろう。

 乳幼児期の愛情と栄養があってこそ、子は心身ともに粘り(根張り)強くなる。病気にも強くなる。そして結果として人生上の収量も多くなるのだろう。

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高千穂遠望

 今朝の寒さは今年に入って三度目の霜を持って来た。玄関口の温度計は7時半でちょうど零度を示し、見ると菜園はかなり白い。

 犬に餌をやってそこから北を見ると、高千穂の峰(1574m)がよく見えた。北の垣根から撮ると、去年建ったばかりの家がどうしても入ってしまうので、道路向こうの北側の畑地帯に行って撮影する。

Takatihoenbou_002 

約70キロ先の高千穂の峰がくっきり見えるのは、一年で十日もあるだろうか、こんな格別に寒い上天気の日と、台風一過の秋晴れのような日に限られる。

 まして今日のように朝日が当たって山襞の凸凹が分かるのは、極めて稀だ(チビデジの望遠機能での再現はこんなものだが・・・)。

 高千穂のピークの左手の平らな部分が、火口なのだが、ここからは分かりづらい。国分(おっと今は霧島市)あたりからだと、きれいに水平に見えるはず。

 高千穂は「古事記」に

   筑紫の日向の高千穂のクシフルタケ

 「日本書紀」には

   日向の襲の高千穂峰

 として登場するが、宮崎県ではこれを五ヶ瀬川上流の高千穂町のことだとする人が多いようだ。

 だが、日本書紀には「襲の」としてあるので、鹿児島側の高千穂峰が念頭に置かれていることは間違いない。

 中には、このご当地論争を折衷して、北部九州にあった邪馬台国が狗奴国との戦いから逃れ、まず宮崎の高千穂に移り、さらに南下して鹿児島の高千穂見えるところの都城市あたりに移動した。そしてそこで力を蓄えてから、東征して大和に王朝を樹立した、とする説もある。

 宮崎県知事で都城出身のそのまんま東が取り上げたら、たちまち流行しそうな説だが、そうは問屋がおろさない。この考えの背景にあるのは、実は騎馬民族説なのだ。これは東大教授江上波夫のかの有名な「祟神天皇半島系騎馬民族説」が嚆矢となり、その後、早大教授水野祐が唱えた「九州北部奴国騎馬民化説」(ネオ騎馬民族説)を前提とした「王朝交代説」が元になっている。

 ところが魏志韓伝からは2~3世紀に半島で騎馬民が活躍した描写は見られず、ましてや九州(倭国)においては「牛馬はいない」と書かれているのだから、いったいどうして「騎馬民(族)」説が唱えられるのかさっぱり分からない。

 騎馬による戦闘が普及するのは4世紀の後半ぐらいからで、その後に作られた古墳からぽつぽつ馬具などが出土するくらいなのだ。

 それよりもまずは「水軍」で、水軍の元は当然「航海民」である。航海民を「水手」とかいて「かこ」という。これが「かこの島」つまり「鹿児島」のいわれ。「鹿児(鹿子)」は諸県君(もろかたのきみ)牛諸井(うしもろい)に因む。船団で瀬戸内海を進んでいたところ、角の付いた鹿の毛皮を身に着けていたために、時の天皇・応神に鹿と見間違われたが、諸県君の一団だった(応神紀13年条の注)という。

 上代の諸県は鹿児島県大崎町あたりの志布志湾岸から、都城の北の高岡、国富町あたりまでを領域に持つ大国だった(大国とはいえ襲の国の一部ではあるが)。今は内陸しか指さない「諸県地方」もかっては志布志湾という港湾を持っていたということに気付くとき、海の交流・航海民の存在を無視しては、上の応神紀に見られるような古墳時代以前の歴史は解けないと考えなければなるまい。

 また、高千穂の峰の周りには「高」の付く地名が多いのが特徴だ。

  高岡、高原、高城、高崎(すべて町の名)

  高木、高野(都城の字名)など。

 そして、皇孫二代目ホホデミ命の御陵は「日向の高屋山上陵」という。

 それに・・・身近な山「高隈山」がある。

Takatihoenbou_003  真ん中は御岳(1182m)。左のピークは妻岳(1145m)。最高峰の大箆柄(おおのがら)岳(1237m)は御岳と重なっていて見えない。

高千穂はこの写真の右手に続くのだが、霧島連峰の最高峰である韓国岳(1700m)はこの写真の右端のピークが邪魔しているようで見ることができない。我が家からはほぼ真北の位置にある。

 ところで高隈山の「隈」だが、普通これは「端っこの屈曲して隠れた所」の意味に解するが、その形容としてどうして「高(い)」が付くのだろうか?「高々と屈曲して隠れている」などというのは言語上も、意味上も全く矛盾していよう。

 私見ではこの「隈」は「熊襲」の熊であり、熊とは「能と火(列火ともいう)」の合成語で「火を能くする」の意味である(大口市には文字通りの高熊山があるが、意味は同じ)。

 要するに「世界にも稀な巨大なカルデラ火山地帯を持ち、その火の洗礼を受けつつも果敢に暮らしている」種族を「熊(狗奴=クナ=クマ)」族といい、そのうちでも「襲(語源は背=セ=根幹の意味)人」と自称していた古日向(鹿児島と宮崎=ソツマ=投馬国)族が畏怖しつつも尊崇していたのが「火山」の火であり、同時にまた太陽の日でもあった。「熊襲」とはこのような「火をものともせず、火(日)と共に暮らす人々」だったのである。

 高千穂を持つ霧島連峰は「火山の火」によって、高隅山は「高照る日の日」によってそれぞれ現地クマソ族によってあがめられていた「神の山」だったに違いない。

 (国分市に所在する七隈も、けっして「屈曲して隠れた所」ではない。九州北部にも福岡市に「金隈・雑餉隈」、佐賀平野にも「鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈」という地名があるが前者は平野の真っ只中、後者は150メートル内外の小高い山に名付けられており、いずれも「屈曲して隠れた所」どころか日のかんかん当たる場所である。だから隈を熊に代えて読むべきだろう)

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十五社神社(串良町有里)

Juugoshajinja_001 鹿屋市串良町有里にある「十五社神社」は、公式にはイザナギ・イザナミ両尊を祭る、とされているが、十五社という神社名からしてもっと多くの神々を祭るお社だ。

 その証拠のような石碑が建っているので、紹介したい。

 鳥居をくぐってすぐ左手にそれはある。Juugoshajinja_003

高さは台石を入れて130センチ余り、正四角柱で頂上部は四角すいとなっており、その四面にはすべて文字が刻まれている。

 表て面には、次のように神々の名が刻まれている(カッコは筆者の注)。

  < 日本国中(の) 大小神祇(を) 奉勧請(勧請し奉る)

      句句廻智命 (ククノチノ命=木の神)

      埴安命  (ハニヤスノ命=土の神)

      軻遇突智命 (カグツチノ命=火の神)

      金山彦命 (カナヤマヒコノ命=金の神)Juugoshajinja_004_2 

      罔象女命 (ミズハメノ命=水の神)  >

 どうやら、日本国中の八百万の神々を勧請したうえで、特に下の五神を刻み込んであるらしい。

 結局のところ、この五神とは「木火土金水(もっかどこんすい)」を表しているから、生活上無くてはならない物として尊んだのだろう。神仏習合のひとつの形とも言える。

 向かって左の面には、建立の年月日と当事者の名が、「白銀二枚」という奉納金と共に刻まれている。

  建立年月日  享保五年(庚子)=1720年  五月吉日

  当事者の名  庄屋  小田 兵十郎  入田 八衛門  平山 孝兵衛

           内宮司  宮地 参河

 時代は享保、享保と言えば8代将軍・徳川吉宗の統治時代で(薩摩藩では21代・島津吉貴)、元禄の浮かれきった世情を引き締めようと、矢継ぎ早の改革が始められていた頃だ。はるか遠い僻遠の大隅半島で、こんなささやかな祈りが行われていたとは、知る由も無かろう。

 十五社神社は、実はあの崇仏論争に敗れ、蘇我氏と聖徳太子らに誅されたはずの物部守屋が落ちJuugoshajinja_005 延び、子孫が代々(守屋の20代まで)社司を務めていたという伝承のある神社。・・・ここから今度は月読神社をへて肝付氏に迎えられたらしく(11世紀)、肝付氏の総社である四十九所神社を差配することになった、という。

 今年はぜひ物部氏ゆかりの「旧事本紀」を解明しようと思っているので、敏達・用明天皇の時に「大連」となって活躍した守屋の昔を偲んで訪れ、いささかの願を掛けてみた。

 社はその由緒の割りには立派とはいえないが、それでも屋根は銅板葺きの、このあたりではお目にかかれぬ仕様である。 

  マップはこちら(串良川流域散策・その2)

 

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喜入肝付氏の仮屋跡

指宿の義父を見舞いがてらの新年の挨拶に出かけた。

 義父は去年9月に「喉頭がん」の全摘手術を受け、声を失ったが、わずか三週間で退院したあと、大好きな焼酎が飲めるまでに回復した。今度の2月で満88歳という高齢にもかかわらず、その恢復振りに誰しも驚いている。

 根占ー山川フェリーを使い、着いたのは11時少し前だったが、恒例のお屠蘇のあとはそのまま飲ん方(酒宴)になった。お互い三倍に薄めて飲むという通常の倍のお湯割だったが、こっちは5杯ほどで「もう結構」と眠くなる。だが、義父は顔色がますます良くなった上、ケロリとしたもの。

 これか、これだな、と納得させられた。俗に言う「焼酎はくすり」だということを・・・(注意:人によってはそうでないことがあります)。

 揖宿(いぶすき)神社参拝と墓参りをすませたあと、四時過ぎに辞し、帰りは鹿児島の鴨池ー垂水フェリーを使う。

 途中、どうしても見ておきたい所があった。Ibusuki109_013

 それは喜入肝付氏の史跡「御仮屋跡」で、喜入小学校がそこに建てられていると聞いていた。喜入に行く前には、もちろん、通り道でもあり、篤姫ゆかりの指宿市立今和泉小学校を見物したが、篤姫については当面、NHKの大河ドラマ「天璋院 篤姫」を固唾を呑んで見守ることにして(ただし、今和泉小学校の裏手の海岸近くに亭々と立つ直径1メートルはあろうかという黒松の並木は感動ものだ=右写真)、ここでは小松帯刀について若干の視点を書いておきたい。

 ドラマでも「小松」姓が日置郷(現・日置市)の吉利(よしとし)領主である小松氏に養子に入ったから小松帯刀になったこと、また生まれは喜入領主の肝付氏で本名は肝付尚五郎(なおごろう)であったことは、当然触れられるだろうが、私の言う視点とは、実は小松帯刀とは島津氏以前の大隅の2大氏族「肝付氏」と「祢寝(ねじめ)氏」両方のエキスだということである。Ibusuki109_021

 (左の写真は喜入小学校の立派な校門――といっても扉はない)

 というのは、まず、喜入肝付氏だが、肝付氏であるから明らかに大隅の大族・肝付氏の流れで、肝付氏本流第12代「兼忠」の三男「兼光」が始祖である。兼光は本家から分かれ(分家というような穏やかなものではなく、分裂と言った方がよい)、曽於郡大崎郷の領主となった。この時からどうやら本家よりも、島津氏にくみし始めたようで、そのため、次代の「兼固(かねもと)」は溝辺領主として島津側に付く(文明18=1486年)。Ibusuki109_022 

(校門を入ると中は広い。400メートルトラックが取れそうだ。少年野球の部活が始まっていた。裏山は高野山で、中世には愛宕城があった)

 次の「兼演(かねのぶ)」になると更に島津氏の覚えめでたく、加治木という大郷の領主となった(天文3=1534年)。その子の4代目「兼盛」には伊作島津家当主・忠良(日新公)の娘がめあわせられ、名実共に島津氏のコントロール下に組み入れられた。Ibusuki109_025

(校門下から見る石垣。下の四段と上の五段は明らかに積み方が違う。おそらく下は、御仮屋創建当時=1653年という=のもので、上は明治になって喜入小学校開校の際、積み上げられたのだろう)

 5代目「兼覚(かねさと)」の時代になって、高山の肝付本家が島津氏の軍門に降って廃絶すると、今度は喜入に移されることになった。喜入は加治木よりは小郷なので、改易に近いが、それでも本家と運命を共にしなかったのは、溝辺以来、島津氏に一切反旗を翻すことなく忠義を貫いたためである。Ibusuki109_023 

(学校の前は旧馬場の跡。4~500メートルの直線道路が続く。手前からその先まではいわゆる麓(ふもと=府の下)で、仮屋勤務の在地=外城の郷士たちの屋敷が軒を並べる)

 兼覚に嫡子がいなかったので6代目には伊集院忠棟という戦国末、近世初頭においては稀代の外交家の二男「兼三」が養子に入るが、父と兄(忠真=ただざね)が、島津本家に叛意があるとして殺害されたあとに、やはり抹殺され、その跡に兼覚の弟「兼篤」が入って継ぐ。この時がまさに承応2=1653年で、以降は一国一城制のもと、領主は鹿児島城下に本宅(原良屋敷)を持ちつつ、仮屋へ代官を置いての統治となった

 肝付尚五郎の父は喜入肝付家幕末最後の当主で、肝付本家から分裂した兼光から数えれば16代目の「兼善」である(喜入郷から鹿児島へ移り、そこから「遙任統治」(代官による支配)となった兼篤から数えれば10代目)。

 そしてこの尚五郎が養子に入った先こそが旧祢寝(ねじめ)氏で、当時、小松姓に変えていたゆえ、彼も「小松帯刀」(これは通称で、本名は小松清廉=きよかど)と名乗った。この「小松」だが、祢寝(ねじめ)氏は自説として始祖を平重盛としていたので、重盛の俗称「小松殿」から採った名だという。郷土史家の研究によれば祢寝(ねじめ)氏は建部氏が本宗であることが判明しているので、これは合わないのだが、島津氏さえも自説では源頼朝の庶子だというのであるから(本宗は惟宗氏)、似たようなものだ。

 いずれにしても、小松帯刀はルーツをたどれば大隅の古族・肝付氏であり、入り婿先がこれまた元をたどれば大隅の名族・祢寝(ねじめ)氏なのであった。

 極めて若くして(26歳)家老に抜擢されたが、彼を見出したのは島津忠光で、忠光は島津氏嫡流ではなく卑賤の娘・お由羅(江戸の大工の娘とか八百屋の娘とか言われるが、素性は不明)の子であったから、忠光のその屈折した心理が、島津氏の滅ぼした大隅の名族のエキスのような小松帯刀を取り立てたのかもしれない。あるいは彼に自分を重ね合わせたのだろうか。

 そんな視点を持ちつつ、今度の大河ドラマを楽しみたいと思う。

 マップ(スクロール型=喜入は鹿児島市の最南部)

 

 

 

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フォルテッ霜(小寒の入り)

7時過ぎに表に出てみると、昨日に増して強い霜だ。家の菜園も、南側にある人様の芋畑もまっ白だ。Shoukannoiri_001

Shoukannoiri_005 強い霜だから「フォルテッ霜」と名付けたが、パクリかもしれない(調べていない)。

今年に入って2度目、去年から通算すれば6度目くらいじゃなかろうか。

例年並みというところだが、11月の下旬までがやけに暖かかったせいで咲き出すのが遅れ、いつもなら年内には盛りを過ぎ、年が明けてからは衰微した姿を見せるはずの庭の菊が、まだ満開状態を続けていShoukannoiri_002 る。

 おかげで1月2日に成人式を迎えた娘の振袖姿を、この菊をバックにして撮ることができた。

 (娘と言えども肖像権は本人が持っているので、許諾なしでは載せられない。悪しからず)

 近くを流れる肝属川支流の大姶良川に行ってみると、案の定、幅12~3mの川面いっぱいに霧が立ちゆらいでいた。まるで温泉地でよく見かける湯の川のように。

 これから立春まで暦通り冷え込む日々が続きそうだ。

Shoukannoiri_004

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雄川流域散策(南大隅町・錦江町)その2

 年末が忙しかったので、二回目の雄川流域散策は年明けとなってしまった。Ogawa2_001

 1月2日の午後、この前の続きを台地の上から始めるべく、旧大根占町の海岸通り(国道269号)の栄町信号から、左手の台地への道(国道448号)をとった。

 台地に上がり、杉の美林に囲まれた快適な道をひた走り、花之木信号を右折する。この道は広域農道だ。花之木農場の施設の間を抜け、大きな下り坂にかかると行く手に巨大な橋が見えてくる。「滝見大橋」だ。

 今から十年前に架けられたこの橋は鉄骨アーチ式吊り橋だそうで、Ogawa2_004 雄川峡谷をはるか下に見おろす。

 全長は150メートル、雄川まで優に100メートルは越す高さがある。下を流れる川がこの橋の高さにあった台地平面を、そこまで削り、えぐったのだ。ここの地 質も阿多カルデラの噴出による物だから、5万年ほどかけて今見るような峡谷を現出したことになる。

 ただ、滝見大橋という名の由来は「雄川ノ滝」が見えることにあったはずだが、実際は見ることはできない。Ogawa2_006

 そのわけを知るとがっかりするが、滝見大橋をわたって左折し、旧田代町(現錦江町)方面の道をとるとはっきりする。

 というのも、雄川ノ滝は田代町の北西の外れ、旧根占町(現南大隅町)との境にあるのだが、その境のところ、つまり滝のすぐ上手に雄川発電所の取水口が設けられていたのだ。雄川が崖下に身を躍らせようかというその直前で川の水は大部分発電用に取られてしまうという塩梅で、余り水だけが細々と身投げをしていたわけで、滝としては見られたものではなかったのである。Ogawa2_005

取水施設一帯には入れぬように鉄条網の付いた高い柵がめぐらしてあったが、からみついたカズラを頼りに登り、やっとの思いで撮ったのが左の写真。

 岩盤の上にあるべき水はなく、したがって今、滝はちょっと勢いの良い立小便くらいな感じで落ちているに過ぎないだろう。情けない姿に見えるはずだ。

 「滝見大橋」からはなまじ見えないほうが、都合よかったのである。Ogawa2_008

取水口の上流を500メートルも行くと、雄川流域最大の田園地帯・田代川原地区だ。真ん中を川が流れ、その周りには見渡す限り田んぼが広がる。

 正面の山塊は稲尾岳で、昨夜からの冷え込みで頂上(959m)からおそらく標高800メートルくらいまでは雪に覆われているのが見て取れる。道理で、風がやけに冷たい。

Ogawa2_010 川原地区の中心部で川に架かる鶴園橋あたりでみる雄川は、あの深い峡谷を流れていた川とは打って変わって、実におとなしいどこにでもありそうな穏やかな川に見える。

 橋の向こうは鶴園集落だが、そのさらに向こうに見える小高い山で、とてつもない縄文時代早期の土器が多量に見つかっている。

 ホケノ頭遺跡がそれで、時期は平成10年の秋だったと思う。Ogawa2_011

鶴園集落から登ること5分、距離にして1キロ強の丘の上にタバコの共同乾燥施設がある。その前を走る道路の拡張工事の最中に土器がザクザク現れたのだ。

 しかも古い。岩本式土器と言い、薩摩火山灰(約11000年前の桜島噴出物)のあたりに埋まっていた。その数がまたすごい。4m×5mの区画の中に、実に12個体が検出されたという。異常な数と言っていい。これが首都圏や近畿圏で発見されていたら一大センセーションを巻き起こしたに違いない。残念ながら、辺境で発見される高文化は得てして評価されないか無視されるのが通例だ。

 鹿児島では縄文時代早期(10000~6500年前)の遺物は、きまって標高の高いところで発見されている。よほど気温が高く、そのせいで海水面もまた相当高かったのではないだろうか。検討の余地アリだ。Ogawa2_014

川原地区へ戻り、上流を目指す。

 佐多方面に通じる中央線をしばらく行くと信号があるので、そこを左折。川も、ちょうど同じように左手へ曲がっている。さらに2キロ余りで右手に「花瀬川発電所」を見ると、やがて花瀬地区に出る。架かっている赤い橋は「花瀬大橋」で、花瀬とは左の写真で見るように、硬い凝灰岩の岩盤を水流があたかも花びらの文様のように削った石畳が広がっているためだ。Ogawa2_017_2

花瀬大橋のひとつ上流側に旧花瀬橋があるが、橋のたもとには「お茶亭跡」がトタン屋根に覆われて現存する。これは幕末に襲封した名君・島津斉彬が藩内を巡検したときに茶を一服点てて休息したという由緒を持つ。

Ogawa2_019 花瀬を過ぎると川はようやく渓流らしくなる。道を左岸つまり川を左手に見て上流へと向かう。この左岸の道は、かって田代が林業と炭焼きで大いに栄えていた頃にはトロッコが走る道だった。それゆえ傾斜は緩やかで、川に沿って右へ左へとくねくね続く。

 2キロ足らずで鵜戸野地区に着く。ここはいくつもの川が合流する場所で古い時代は聖地のようなところではなかっただろうか。鵜戸野橋近くには「近津神社」が小高い丘の上に鎮座する。鵜戸野橋近くにゲートボール場があるが、そこに立派な石の鳥居があり、それをくぐって石段をあがって行く。周りは文化財に指定されている社叢林で、社殿のある平らな頂上部には樹齢500年ほどのモミの木が四、五本堂々たる容姿で立っている。Ogawa2_042

近津神社は佐多の郡地区にもあり、そっちが本社らしいが、面白いのはこの神社の向こうに流れる鵜戸野 川の滝つぼ近くにちょっとした洞窟(うど・うろ)があり、その「鵜戸」という名称のゆえ、明治7年の天孫三山陵の治定の際には、現在の吾平山陵、日向の鵜戸神宮とともにここがウガヤフキアエズノミコトの山陵の候補に上がったことだ。

 そんな思いで眺めると、ここら辺はそれとなく神秘的なたたずまいも感じられ、1万年前の土器の出現とあいまって、意外にとてつもない歴史を秘めているようにも思われてくる。Ogawa2_023

 鵜戸野を過ぎ、なおもトロッコ道を行くこと1キロ、山間に広がる田園を見下ろすことのできる見晴らしの良い場所に出る。ここを大原地区という。

 大原地区にはかなり確かな伝承がある。それは平家の落人伝説で、大原地区に住む「大原」「中野」「大浦地」の3姓はその子孫ということだ。大原という名称は確かに京都の大原と繋がるし、大浦は太平洋岸にへばりつくような平家の落人集落という大浦地区からの移住者だそうである。

Ogawa2_039 移住者といえば、そもそも大隅半島全域が藩政時代には西目(薩摩半島)からの人配(にんべ=狭郷から寛郷への移住)政策の対象であったわけだが、それ以外にも明治以降は指宿あたりから、また大正3年の桜島の大噴火で居住地を失った避難者を受け入れ、戦後は引揚者の入植地としてずいぶん多くのよそ者を引き受けている。

 その中でも特筆すべきは「与論島満州開拓団」の戦後入植だろう。彼らは水の豊富な大原地区を第二の故郷として、帰農し、辛苦の末に「茶の生産」に励み、ようやく大原の住民として認知され今日を築いている。Ogawa2_025

その一方で、また、大原地区は良質米の産地でもある。標高300メートルという高地に位置するため、夏でも朝晩は冷涼で寒暖の差が大きく、水も清流である雄川の上流から引いているので冷たく、どちらも実のしまりを良くし味を良くするというわけである。

 田んぼの用水の取り入れ口を探して、さらに上流を目指した。

 トロッコ道をさらにさかのぼること2キロ、目指す取水口は「南風谷(はえんたん)橋」のOgawa2_026 すぐ下にあった。おそらく水利組合の手造りだろう、幅60センチ、高さ20センチほどのかまぼこ型の堰が川を横に仕切っていた。

 川底は比較的固い岩盤なので、コンクリートを載せるだけでよく堰の工事は簡単だったろう。それより大変だったのが用水の掘削だったはずだ。総延長3キロ余り、うねうねと途中硬い岩のところはくりぬいてトンネルにしたり、かなりの人手と手間が要ったに違いない。

 南風谷橋の上流側には「奥花瀬ニジマス釣り場」があるのだが、期間外のため生憎閉まっていた。確か料金が2000円だったはずだ。Ogawa2_035

南風谷橋を渡って川の右岸に行き、そのまま2~300m行くと国道448線に出る。

 さらに上流を目指すが、国道から川の姿は見えない。広い国道を行くこと2キロで内ノ牧集落、さらに1キロ足らずで重岳集落、ここが旧田代町の東のはずれで、そのまま2キロ行けば隣町・旧内之浦町だ。

Ogawa2_037 最奥の集落と言っても、この辺りは高原状に開けており、山奥という感じはまったくしない。標高400mから450m、都市部に近ければ瀟洒な別荘やペンションが建ち並んでもおかしくない所に見える。

 かって炭焼きや林業の盛んだった昭和40年代初めまで重岳には大原小学校の分校があったという。その分校の跡地とおぼしき場所に奇妙な形の建物がある。まるで北欧かカナダの北部にでもありそうなログハウス風の教会かなんかのように見える。廃屋だったが、もったいないまだ住めそうだ。

 錦江町のスクロール地図はこちら

 

 

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初詣(荒平天神)

あけましておめでとうございます。平成20年もどうぞよろしく。

 鹿児島ではこの時「若う、おないやったなあ」などと言う。一年間の疲れ、ケガレが歳末までにたまったあと、年が明けると一気にリセットされて再び元気がよみがえるという意味だろう。なるほどと思わせる言葉だ。

 元旦恒例の「ニューーイヤー駅伝」を見てから、初詣に行こうとしたが、しぐれのような生憎の空模様。文字通Hatumoudetenjin_018 り模様眺めをしているうちに、日が暮れかかってきた。

 行かねばなるまいと意を決して、いくことにした。今年は天神様を、と、鹿屋市の西海岸にある通称「荒平(あらひら)天神」(菅原神社)を目指した。

 高須町からは錦江湾沿いの快適な道を行く。もうすぐ天神地区に入ろうかという所に菅原小学校があるが、そこを通り過ぎたところから、天神町の海岸(小さな漁港)越しに桜島が見えた。しかも雪を被っている。

Hatumoudetenjin_024  天神の町並みを右手に見ながら、ほぼ町外れまで行くと、海の中に二こぶの島が見える。島は海岸から砂洲でつながっており、真ん中あたりに鳥居が建つ。

 ちょうど道路から島へ伸ばした電球の列に明かりが入ったところだった。なかなかいいもんだ。ひっきりなしと言うほどでもないが、それでも参拝に来る人は途切れることはない。Hatumoudetenjin_020

鳥居をくぐり、砂の上を30メートルも歩くと、急な階段だ。

それも始めのほうはコンクリートで造作したどこにでもある段々だが、最後の十数段はこの島を形成している赤色凝灰岩そのものに刻み込んだもので、年々磨り減っていくらしく段の形も不ぞろいで危なっかしい。でも手すりとロープが備え付けてHatumoudetenjin_021 あるから安心だ。

 社殿のある頂上は、大人が7~8人で満杯になる狭さで、さきに20前半の若者たちが、お賽銭がどうのこうのと言いながら仲良く参拝していた。

 菅原神社の祭神はもちろん菅原道真。讃岐守、文章博士、右大臣を歴任、時の宇多天皇の覚えめでたく出世街道を歩むかに見えたが、藤原時平の讒言にHatumoudetenjin_022_2 あい、九州の大宰府に左遷されそこで亡くなった。その無念の死が時平の変死と結び付けられ、神として祭られるようになったのはご存知の通り。

 荒平天神の創建は不明だが、天文年間(1532~1554)だろうと言われている。創建の由緒も分からぬが、大宰府着任後に薩摩半島には訪れているようで、東郷町(現・薩摩川内市)には「藤川の臥竜梅」という梅の巨木があり、それは道真公のお手植えとの伝承があるから、大隅にもそんな繋がりが考えられるかもしれない。

  マップ(赤い十字が荒平天神)

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