高山の山辺の道を歩く(肝付町)
かねてから地図を見ては素晴らしいコースだろうと思っていた自称「高山の山辺の道」を歩いてみた。
山辺の道といえば、もちろん奈良の桜井市三輪神社から北上して石上神宮に到る古道だが、あちらは当然「くにの最中(もなか)」だったので、見るべき史跡とくに建造物の豪奢・由緒は比べようもない。だが、時代から言えばこちらは文化年間(約200年前)の古住宅から約2500年前(縄文晩期)の遺跡まで、2000年以上の幅のある歴史を見ることができる。
と言うわけで、一周約13キロ、途中遺跡を見て回るので、およそ5時間を当てて歩くことにした。出発点はやぶさめの湯こと「高山温泉ドーム」。生憎の空模様だが、雨具は要らぬ程度で歩くには差し支えない。
城山の真南の山麓にあるやぶさめの湯を出て、西へ高山川を目指す。道をずっと西にとれば高山川に架かる神の市橋で、それを渡らずに右へ河岸の道を行く。5~6分行くと前方山側に小奇麗な住宅が見える。さらにその向こうが「二階堂家住宅」だ。住宅の奥にそびえる丘陵は「城山」で、戦国期まで「弓張城」があった。
建築年代は不明だが、伝承で「文化7年(1810)」と言われており、昭和50年に国の重要文化財に指定された。かやぶきの二連棟も趣きあるが、城山を背後にした庭も一見の価値がある (見学は無料だが、入る際に記帳する必要がある)。
二階堂住宅を出て、用水路沿いに100メートルも行くと何やら説明版がある。何のことはない、いま沿って歩いているこの用水の説明だった。
それによると、高山川から取水したこの用水は寛永の頃(約340年前)に、時の領主島津久風(旧宮之城領主)が、10年をかけて造らせたもので、途中、写真に見るような「隧道(トンネル)」を掘らなければならず、大変な工事の末に野崎方面までの2000石を拓いたという。
ここを過ぎるとすぐ右手の山へ上っていく階段があり、それを行けば城山山頂から次の目的地「四十九所神社」に降りることができるのだが、雨模様のうえ先の行程も長いのでパスする。
200メートル余りで左手に「屋治橋」を見、右手のAコープ店舗を右折する。そして今度は150メートルくらいで再び右折をする。肝付町役場と生垣のきれいな住宅の間の道だ。
役場から東南へ静かな道を行くと、右手に鳥居が見える。四十九所神社だ。 (35分)
四十九所神社は旧高山郷の郷社として、藩政時代はもちろん創建されたと言われる10世紀以来、高山川流域最大・最高の社格を誇ってきた。
鳥居の前方(左手)の道は馬場で、10月に行われる流鏑馬祭りでは若武者が数ヶ月の騎乗訓練と、一週間の忌み篭もりの後に「豊穣と平安を祈る射駆けの神事」を行う200㍍の直線道路だが、今回の散策は写真の奥へ、用水路に沿っていく。
道沿いには、旧社家の家々が並ぶ。写真は「守屋家」で、藩政時代には社司として並ぶ者なき家柄だった。
守屋家は伝承として、物部守屋大連を祖に持つという。守屋は蘇我馬子と聖徳太子の連合軍によって敗れ、殺されたとされるが、実は串良町の「一ノ宮宇都」という地へ逃れ、その子孫は代々(20代という)串良の十五社神社の神官を勤め、江戸時代にここ四十九所神社の神官に招かれたそうだ。
用水路沿いの道はあと300メートルほどで終わり (向こうに八幡神社の赤い鳥居が見えている), 道はやや左にカーブする。すぐに用水路を左手(北)へ見送ると、台地への道となる。
200メートルもあるだろうか、登りきった交差点を右にとれば出発点の高山温泉ドーム方面へ、左手を取れば高山警察署を経て県道へ出る。 (50分)
台地からは肝属山地、分けても国見岳や黒尊岳などが目前に望まれるのだが、生憎の曇り空であった。
このシラスの台地は新富の平野部にまで続く舌状台地で、次に行く塚崎古墳群のある塚崎台地よりはるかに広い。新富の平野部を望む台地の縁には塚崎台地と同様古墳群がいくつかあるが、塚崎台地ほど著名でないのは、町に近いがゆえに早くから開発され、破壊されてしまったとも考えられる。
眺めのよい台地をほぼ直線状に行くうち、行く手には小高い山が迫り、あたりは平原というよりは山村の面影を濃くしていく。
通りすがりの民家の見事な「寒桜」や、「廃屋と満開の梅」などがほのかにに郷愁を誘う。絵心あれば描きたいところだ。
人家の間に森が点在する道をなおも行くと、大きな通りを横切る。東串良町の俣瀬橋と高山の後田の台地を結ぶ新道である。
それを横切るや否や、すぐ右手に大きな池が見える。花牟礼池だ。この池は寛文5(1665)年に造られたというから古い。時あたかも江戸前期の新田開発時代、こんな辺境でも全国とさしたる隔たりなしに開発が行われていた、という生き証人だ。 (65分)
池を過ぎて、右へカーブしながらやや登ると「花牟礼公民館」がある。辺りは完全な山村だ。
よく見ると、公民館の前に石造が二つある。どうやら首のない仁王像らしい。例の明治初期の廃仏毀釈運動の結果だろう。これは140年前の生き証人ということになる。
公民館から目を転じると、道路を挟む畑の中に一基ずつ石柱が立っていた。向かって右の畑は一段高いうえに、つい昨日くらいにトラクターで耕したらしく、黒々ふかふかしていて、とても普通の靴では近づけない 。その一方で、向かって左の畑は道路と同じ高さで、しかも家庭菜園に使われているので、入って行って見ることができた。
石柱に刻まれた文字は「塚崎古墳群第四十一号」だった。手前はよく育ったサニーレタスだが、何だろう?とよく見ると石柱には大根葉のマフラーが巻かれていた(笑)。
そこから100メートル余りで道が下り坂になろうという所を左折すると花牟礼集落の道で、さらに100メートルほどで道が右にカーブする。その手前から小高い丘が見えているが、いよいよ塚崎古墳群の盟主「花牟礼古墳(第39号墳)」が迫る。 (70分)
この全長66メートルの前方後円墳は、塚崎古墳群の現存45基ほどある古墳のうちで最大で、かっては5世紀の前半の造成だろうと言われていたが、今は4世紀代のものということになっている。
最初の写真は南側の道路から見た後円部だが、東側にまわりこんだ所にある登り口から入って、真反対から見たのが次の写真だ。立っている所は後円部と前方部の境、通称でくびれ部のあたりだと思うが、くびれている感じはしない。なだらかに前方部につながっているように見える。
後円部の頂上には昭和41年に建てられた石柱があり、そこからは南側に180度のパノラマ風景が広がっている。
普通、前方後円墳は田を見下ろすか、田の中に造成されるというイメージがあるが、この花牟礼古墳はそうではない。志布志の飯盛山古墳もまわりに水田は一切無いところに造られているが、海と山との違いはあるにしても概念として似ていないことはない。
花牟礼古墳をさらに北へ田園の中を行くと塚崎古墳群の只中に出るが、そこは帰りに寄るとして、山辺の道に戻る。
古墳から200メートル余りで左手に行く道がある。そこを行くと塚崎池だが、途中に「花牟礼温泉」が湧く。料金は300円で休みは月の1日と15日。温泉水も売っている(リッター50円)。営業中とあったが誰もいなかった。
温泉からわずかで「塚崎池」。やはり藩政時代の造成だろうが、昭和11年に大修築をしている。 (90分)
冬枯れとあって水は少ないが、どういうわけか花牟礼池では全く見なかった渡り鳥のカモがたくさん群れている。近づいて写真に撮ろうとしたら集団で逃げたが、それでもつがいらしき数羽が浮かんでいた。
向こうに見える堤防の上を右手奥に行くと、トラクターが止まっていた。その先には向かって左から、水神碑、田の神、祠が二つあり、塚崎池は江戸時代からのものであり、用水池として地域の大切な施設であったことが分かる。
水神碑の左手から竹やぶの間を入っていくと、一生懸命に竹を伐っている若者がいた。聞くと地主だそうで、去年、竹やぶの奥のほうで発掘された石塔群の見学に邪魔にならないよう切っているという。ご苦労なことだ。
去年の夏前に、竹やぶの奥で写真に見るような古石塔群が発掘され、ひと夏を経て整備された。
今、復元されているのは14、5基だが、復元できない物まで入れると30基近く、発掘に携わった高山歴史民俗資料館の海ヶ倉氏によると、おそらく肝付氏傍流の野崎氏の供養塔群だろうという。中に一基だけ他と違う造りの物があり、それは戦国期末に島津方に成敗された垂水の伊地知重興の物ではないか――と考えているという。
石塔群を後にし、再び塚崎池の堤防の上を歩いて道路に出たところで右折する。そこから200㍍ほどで「塚崎の大楠」がある。 (110 分)
住宅の間から見上げると、高さ25メートルという大楠に何やらやぐらのような物が取り付けられている。剪定だろうか。いや、剪定はできないはずだ。何しろ国指定の文化財だから、手を加えられないのだ。一昨年だったか台風で大枝が折れたことがあった。その枝は幸いにも手前の民家とは反対側だったから被害はなかったが、民家側の枝が落ちたら被害が出るに違いない。おそらくその対策のための手入れだろう。
鳥居をくぐると目の前には「塚崎古墳群第一号墳」の円墳が見え、その上にクスの巨木がまさにドカンと立つ。
この一号円墳は神社でもある。名を大塚神社といい、肝属川の向こう岸にある唐仁古墳群の盟主である大塚古墳(ここも大塚神社となっている)の母神が祭られているという伝承がある。被葬者が向こうの被葬者の母なのか、ここの神社の祭神が向こうの神社の祭神の母神に当たるのかが定かでないが、どっちにしてもここのおっかさんはクスの木が大きすぎてふうふう言ってるだろう。
大楠から元の山辺の道へ引き返し(約5分)、道をさらに北東に進むこと1キロ、ちょっとした台地を越え、いくぶん急な下りを降りると目の前に田の神と仏像(坐像)が並んでいる。その向こうには基盤整備中の田んぼが広がる。
さらにその向こうに目をやると小高い山が見える。あれが「天道山」だ。 (130分)
鳥居からずっと上まで石段が続く。数えてみたら138段だったが、一段の高さと間隔が普通の2倍はあろうかという代物で、250段の石段に匹敵するに違いない。
息を切らし、寒いというのに汗をかきながら登ってみると、頂上のお宮「伊勢神社」は修復の真っ最中で、十人余りの人たちがいた。
聞けば参拝殿の新築工事だそうだ。太い角柱の建物で、祭礼の際にはその中で神舞が舞われそうな広さがある。
天道山の伊勢神社はアマテラス大神とツキヨミノミコトを祭るとあるが、ヤマトタケルが九州に降った時にしばらく宮居を定めていたという伝承もある。小高い山のたたずまいは、そんな古い時代を伝えていてもおかしくはないとみた。
天道山から500メートル、大園集落は肝属平野の一端に連なっている。用水路も向こうの山から引いており、高山川の用水系とは完全に離れる。
広々とした水田を北に控えた道路際に、二体の田の神がひっそりと寄り添うように立っている。 (160分)
どちらも県指定の文化財となっており(向かって左が寛保3=1743年建立、向かって右は延享3=1746年建立)、こうして260年の間、農業の守護神として、地域を見守り続けている。
田の神のある大園集落からさらに行くと和田集落に入る。この集落を流れているのが、和田川だ。整備がされて川というより側溝のようになっているのは残念だが、この川が下手の県道高山ー波見線を分断するあたりで、道路の拡張整備工事が行われた時のことだ。 (170分)
写真の道路の幅約12メートル、長さ約150メートル位にわたって弥生時代を中心とする住居跡が47基も発掘されたのだ。弥生時代の住居跡がこのような低地(標高5m)にあるとは考えられていなかったので驚きをもって迎えられた。
これを東田遺跡というが、土器から見ると、縄文晩期、弥生中期、そして古墳時代だが、弥生時代は前期と後期が抜けているのが気になる。
さて、二階堂家住宅から始まった「高山・山辺の道」散策は、この東田遺跡まで時間にして170分、時代にして200年前から2500年余り前までのタイムスリップの旅であった。
帰りは県道をまっすぐに戻り、塚崎台地に上がった。言わずと知れた「塚崎古墳群」のある台地。
塚崎台地には、現存で4基の前方後円墳と40基の円墳、そのほか10数基の地下式古墳が確認されているが、最大の花牟礼古墳のある花牟礼集落地区と、大楠のある東地区との間がポッカリと無古墳地帯であり、また高山市街に近い西北地区も古墳がない。
古墳が無かったのではなく、無くしてしまったのではないかという気がするが、どんなものだろうか。
そんなことを考えつつ花牟礼集落に入っていくと、とある人家の寒桜が満開だった。山里の自然の中での美しさは格別で、風格さえ漂っていた。
花牟礼池を通り東迫集落の北から、再び出発点のやぶさめの湯に戻ったのは、予想通りほぼ5時間後であった。温泉(天然)に浸かって帰ったのは言うまでもない。
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