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高千穂遠望

 今朝の寒さは今年に入って三度目の霜を持って来た。玄関口の温度計は7時半でちょうど零度を示し、見ると菜園はかなり白い。

 犬に餌をやってそこから北を見ると、高千穂の峰(1574m)がよく見えた。北の垣根から撮ると、去年建ったばかりの家がどうしても入ってしまうので、道路向こうの北側の畑地帯に行って撮影する。

Takatihoenbou_002 

約70キロ先の高千穂の峰がくっきり見えるのは、一年で十日もあるだろうか、こんな格別に寒い上天気の日と、台風一過の秋晴れのような日に限られる。

 まして今日のように朝日が当たって山襞の凸凹が分かるのは、極めて稀だ(チビデジの望遠機能での再現はこんなものだが・・・)。

 高千穂のピークの左手の平らな部分が、火口なのだが、ここからは分かりづらい。国分(おっと今は霧島市)あたりからだと、きれいに水平に見えるはず。

 高千穂は「古事記」に

   筑紫の日向の高千穂のクシフルタケ

 「日本書紀」には

   日向の襲の高千穂峰

 として登場するが、宮崎県ではこれを五ヶ瀬川上流の高千穂町のことだとする人が多いようだ。

 だが、日本書紀には「襲の」としてあるので、鹿児島側の高千穂峰が念頭に置かれていることは間違いない。

 中には、このご当地論争を折衷して、北部九州にあった邪馬台国が狗奴国との戦いから逃れ、まず宮崎の高千穂に移り、さらに南下して鹿児島の高千穂見えるところの都城市あたりに移動した。そしてそこで力を蓄えてから、東征して大和に王朝を樹立した、とする説もある。

 宮崎県知事で都城出身のそのまんま東が取り上げたら、たちまち流行しそうな説だが、そうは問屋がおろさない。この考えの背景にあるのは、実は騎馬民族説なのだ。これは東大教授江上波夫のかの有名な「祟神天皇半島系騎馬民族説」が嚆矢となり、その後、早大教授水野祐が唱えた「九州北部奴国騎馬民化説」(ネオ騎馬民族説)を前提とした「王朝交代説」が元になっている。

 ところが魏志韓伝からは2~3世紀に半島で騎馬民が活躍した描写は見られず、ましてや九州(倭国)においては「牛馬はいない」と書かれているのだから、いったいどうして「騎馬民(族)」説が唱えられるのかさっぱり分からない。

 騎馬による戦闘が普及するのは4世紀の後半ぐらいからで、その後に作られた古墳からぽつぽつ馬具などが出土するくらいなのだ。

 それよりもまずは「水軍」で、水軍の元は当然「航海民」である。航海民を「水手」とかいて「かこ」という。これが「かこの島」つまり「鹿児島」のいわれ。「鹿児(鹿子)」は諸県君(もろかたのきみ)牛諸井(うしもろい)に因む。船団で瀬戸内海を進んでいたところ、角の付いた鹿の毛皮を身に着けていたために、時の天皇・応神に鹿と見間違われたが、諸県君の一団だった(応神紀13年条の注)という。

 上代の諸県は鹿児島県大崎町あたりの志布志湾岸から、都城の北の高岡、国富町あたりまでを領域に持つ大国だった(大国とはいえ襲の国の一部ではあるが)。今は内陸しか指さない「諸県地方」もかっては志布志湾という港湾を持っていたということに気付くとき、海の交流・航海民の存在を無視しては、上の応神紀に見られるような古墳時代以前の歴史は解けないと考えなければなるまい。

 また、高千穂の峰の周りには「高」の付く地名が多いのが特徴だ。

  高岡、高原、高城、高崎(すべて町の名)

  高木、高野(都城の字名)など。

 そして、皇孫二代目ホホデミ命の御陵は「日向の高屋山上陵」という。

 それに・・・身近な山「高隈山」がある。

Takatihoenbou_003  真ん中は御岳(1182m)。左のピークは妻岳(1145m)。最高峰の大箆柄(おおのがら)岳(1237m)は御岳と重なっていて見えない。

高千穂はこの写真の右手に続くのだが、霧島連峰の最高峰である韓国岳(1700m)はこの写真の右端のピークが邪魔しているようで見ることができない。我が家からはほぼ真北の位置にある。

 ところで高隈山の「隈」だが、普通これは「端っこの屈曲して隠れた所」の意味に解するが、その形容としてどうして「高(い)」が付くのだろうか?「高々と屈曲して隠れている」などというのは言語上も、意味上も全く矛盾していよう。

 私見ではこの「隈」は「熊襲」の熊であり、熊とは「能と火(列火ともいう)」の合成語で「火を能くする」の意味である(大口市には文字通りの高熊山があるが、意味は同じ)。

 要するに「世界にも稀な巨大なカルデラ火山地帯を持ち、その火の洗礼を受けつつも果敢に暮らしている」種族を「熊(狗奴=クナ=クマ)」族といい、そのうちでも「襲(語源は背=セ=根幹の意味)人」と自称していた古日向(鹿児島と宮崎=ソツマ=投馬国)族が畏怖しつつも尊崇していたのが「火山」の火であり、同時にまた太陽の日でもあった。「熊襲」とはこのような「火をものともせず、火(日)と共に暮らす人々」だったのである。

 高千穂を持つ霧島連峰は「火山の火」によって、高隅山は「高照る日の日」によってそれぞれ現地クマソ族によってあがめられていた「神の山」だったに違いない。

 (国分市に所在する七隈も、けっして「屈曲して隠れた所」ではない。九州北部にも福岡市に「金隈・雑餉隈」、佐賀平野にも「鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈」という地名があるが前者は平野の真っ只中、後者は150メートル内外の小高い山に名付けられており、いずれも「屈曲して隠れた所」どころか日のかんかん当たる場所である。だから隈を熊に代えて読むべきだろう)

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コメント

と高千穂の峰は、どっちも宮崎県。
地図見ろよ。

投稿: 高千穂 | 2008年4月19日 (土) 01時13分

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