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北九州にいた襲人(そびと)

 日本書紀の「神功皇后紀」には神がかりの記事が多く、解釈するのに難儀すること極まりないのだが、ひとつだけ南九州に関係がありそうな記事があった。

 それは夫である仲哀天皇が亡くなり、皇后自らが半島の新羅を討とうとして神にすがるべく神がかりしたときに、登場した神々の中のひとり(ひと柱)の神名がどうもそれらしく思えてならない。

 その神とは住吉三神と言われる「表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)」の別名らしく描写されている「向櫃男聞襲大歴五御魂速狭騰尊」で、読みは「ムカヒツノオ・キクソオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊」だと思う。

 だと思うとしたのは、この読みを岩波書店の古典大系『日本書紀・上』の脚注では、意義不明としながらも有力説として「ムカヒツヲモ・オソイオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊」とし、その意味を「対岸の新羅をも襲い覆うイツノミタマ・ハヤサノボリ尊」だとしているからだ。神功皇后の半島遠征という記事に対応させた解釈ではあるが、「男」「聞」を単に「ヲ」「モ」の音とし、「大歴」を「覆フ」とこじつけた感は否めない。

 ところが「雄略紀」の18年の条を読んでいたら、次の人物に出くわした。それは

 「筑紫の聞物部大斧手(キクモノノベノオオフテ)」で解釈すると

 「九州北部の企救地方(出身の)物部の大斧手」なる人物である。

 企救地方とは門司から中国地方の下関へ渡る海峡に突き出た小さな半島で、関門海峡を足元に有する地方で、いかにも海の民(漁業者・航海民)を抱えていそうな地域である。

 この人名を見て私ははっとした。上の神の名の中にある「聞襲大歴」が浮かび上がったのだ。この「聞」も同じ「企救」ではないか、と。「大歴」の「歴」は「ふる(経る)」の意味で「フ」と読めるから、「大歴」は「オオフ」と呼んで差し支えない。

 「襲」と「物部」との対応は発音上はまったく場違いだが、私のように「襲人(曽人とも)」は南九州の航海種族(鴨族)と考える者の目からは「北部九州にも拠点を持った襲人も当然いた。そして中には物部化した者もいるだろう」と捉えるから、「襲=物部」もあり得る関係なのだ。

 これらを踏まえての解釈は次のようになる。

 向櫃男・聞襲大歴・五御魂・速狭騰尊、すなわち

 ムカヒツノオ・キクソオオフ・イツノミタマ・ハヤサノボリ尊とは

 対岸の半島にいる男で、本籍は企救地方を領有する襲人である大歴(オオフ)。彼は(あるいは彼が祭っている海神は)威力のある御魂で、(船を漕ぎ出せば)たちどころに対岸へ渡って行くことのできる優れた人(あるいは神)。

 と解釈される。

 神功皇后の新羅征伐は造作だろうとされている。そもそも皇后自身が創作上の人物と目されるくらいだからそう考えられるのも仕方ないが、まったく何もないところから作り上げること(捏造とかでっち上げ)は実は極めて難しい。上の神の名がその捏造であれば、いったいどうしてこんな不可解極まりない名を付けたのだろうか。もし捏造であれば、その捏造力には舌を巻くほかないが、私はやはり下敷きになった史実があり、また人物が居り、それをそのままではないにしても骨格として記事に纏めたと見ている。

 私見が正しいとすると、上の「聞(企救)の襲人」(神功紀)が「聞(企救)の物部氏」(雄略紀)に変化したと言えるわけで、広くは南九州と、北九州が本貫とされる物部氏との関係を考える上で貴重な観点となりそうである。

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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。

なかなか興味深い説ですね。
いつもながら舌を巻きます。

風邪など召されませんように。

投稿: 税理士窪田 | 2008年1月24日 (木) 21時12分

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