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綿打川(わたうちがわ)河口

 綿打川と言っても、多くの人は知らないだろう。私も松元十丸氏の著『古代クマソ王国』(初版・昭和46年、再版・平成13年=NPO未来創研刊)を読むまでは知らなかった。Watautigawa_010

 今は田原川、持留川という大崎町中心部を挟むように流れ、合流して志布志湾に注ぐ河口付近の、北側から流れ込む田原川を指して古来「綿打川」と言っていた (写真右は田原川下流の旧道に架かる綿打橋)。

 田原川と持留川の間の、大崎上町台地には神領古墳群をはじめ都万神社など古墳時代から古代、中世の史跡が豊富だが、下流から河口付近は今触れた松元氏の著によると「古代クマソ」の一大拠点だったという。Watautigawa_012

 氏によると――「綿」は「海」で、ここには太古からの入り江があり、南方系の海人がやって来て拠点集落を築いた。それゆえにこの海岸地帯は「くに」となり、それが古代・中世を通じて「救仁(くに)郷」と呼ばれて残った。そして拠点を築き、国を造り上げた人こそ「クマソ」だった――要旨はこの様なもので、魏志倭人伝の邪馬台国時代に邪馬台国の南にあり、邪馬台国に敵対した「狗奴国」がまさにそれだと言う ( 写真は新国道448号線から見た砂丘「くにの松原」の南端部。その下あたりが田原川と持留川の合流点。左の建物はクリーンセンターで、写している場所は松原大橋のたもと )。Watautigawa_003 

 入り江と言えば、巨大な入り江(肝属川河口=ラグーン)がこの6キロほど南にあるが、ここのはどうかなと、河口まで行ってみた。松原大橋から国道448を南に500メートルも行くと、右折すれば巨大古墳「横瀬古墳」があるという看板が見える。その交差点を、逆に左へ(海側へ)入って行く。

 砂採取場を右手に見、田んぼ地帯を左手に見ながら300メートルも行くとやや上り道となり、松林の中に入る(いわゆる新砂丘だ)。松林を抜けると、丈の高い草地の向こうが豁然と開ける。白い砂浜と川・海の冬の澄んだ青さが絶妙のWatautigawa_004 コントラストを見せている (写真左上は河口から南方面。山々は肝属山地の北端・肝付町の波見地区のあたり。その右手が肝属川の河口で、そこまでは柏原新砂丘が6キロ続く)。

 目を北に転じると左手に松林が見えるが、これが大崎町「くにの松原」で、新砂丘の先は、志布志市まで延々と13キロほど続く (ただし、現状では志布志町に新港が建設され、砂丘は削られているので、安楽川の河口までの10キロくらいになっている。その新港は右手の上のほうに白っぽく見えている)。Watautigawa_008

河口の入り口に何やら看板が林立していた。見ると、国立公園の一部だという案内と、ウミガメやコアジサシという海鳥の産卵場所だから荒らさないでほしいという注意を呼びかける物だった。

 亀が竜宮の使いだというイメージは、こんなきれいな砂浜と、はるかに広がる青い海原から生まれたに違いない。亀は確かに南方からやってくる。Watautigawa_009 

 河口から再び松の生い茂る低い砂丘を越えて戻っていくと、道路沿いの田んぼでトラクターが動いていた。かなりまとまった広い水田地帯だ。だが、ここはかっての入り江だったのだ。

 右手に見える小高い松林が上で触れた「くにの松原」の南端部で、そのすぐ下の合流地点までと国道448号のあたりまでが、入り江だったと思われる。川の水はあるし、広い砂州があり、砂丘の松林という防風林もあるから、非常に優れた港だったろう。トラクターの向こうに見える小高い丘は大崎町の上町台地で、史跡が多いことは先に述べたが、ここはその外港に当たるわけだ。Watautigawa_011_2

 松元十丸氏は「クマソは南方系海人」と言ったが、平成11年に「くにの松原」(新砂丘)の内側の砂採取場で弥生時代中期、後期末、古墳時代の住居跡および各種遺物が発見された。「沢目遺跡」という (写真右のクリーンセンターの左手でゴルフ練習場の手前)。

 ところが、そこから出た弥生中期(約2200~2000年前)の土器は在地系の山之口式土器、入来式土器に混じって北九州由来の「須玖式土器」だった。これをどう見るか?

 人(クマソ)は南方系だが北九州までの交易ルートがあったととるか、もともと在地の民であればこそ北九州まで交易圏を持っていた、南方系の遺物は出ていないではないかとするか――のどちらかだが、私は後者の考えだ。

 同じように「隼人=インドネシア系」説にも疑問を持つ。南方との繋がりをいうなら、もっとはるかに古い時代の氷河期とポスト氷河期というようなタイムスパンでなら、あっただろうとは考える (同じことは大陸北部やシベリアとの関係でも言える)が、弥生時代以降に限れば、やはり朝鮮半島との繋がり(特に鉄資源の交易)によって時代は動いたと思う。

 松元氏は「狗奴国=クマソ=建日(古事記・国生み神話)=熊本・鹿児島」説をとり、邪馬台国についても「福岡県三井郡、山門郡」説で、私の「狗奴国=クマソ=建日=熊本」説、「邪馬台国=福岡県八女市」説と重なる部分が多いのだが、投馬国の位置がかなり違う。

 投馬国を松元氏は都万神社に象徴される「日向国(宮崎)」とするが、私説では「古日向(宮崎・鹿児島)」だ。たしかに宮崎は重なるが、鹿児島を狗奴国とすると、狗奴国が遠い邪馬台国(福岡県三井郡)を攻めた時、すぐ北(宮崎)にある投馬国はどうしていたか、つまり狗奴国と投馬国との関係やいかんという問題が起きる。5万戸という大国・投馬国を無視してはどんな動きもできなかったろう。

 Watautigawa_006 それに、氏は応神天皇=狗奴国王とし、神武東征は実は応神東征だと考えるのだが、宮崎が投馬国であるとするとその目の前を東征の一行が通過したはずで、やはりその時に投馬国に関しては「そんなの関係ねー」だったのか、明確にしてはない。

 ところで「沢目遺跡」の時代は、弥生中期、後期末、古墳時代だそうだが、不連続の時代、つまり弥生時代中期末から後期前半あたりの時代(西暦100年から200年代)はどうしていたのだろうか。この時代は「居なかった」とすれば、それは集落を挙げて何らかの「旅」に出ていたからではないか。

 それこそまさに「神武東征の旅」ではなかったろうか。軽石製の船のミニチュアが出土しているので、海民であることは間違いないようだから、可能性は大いにあるだろう。

 (写真上は志布志湾に浮かぶビロー島。はるか向こうは畿内・大和だ)

  マップ

 

 

 

 

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