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喜入肝付氏の仮屋跡

指宿の義父を見舞いがてらの新年の挨拶に出かけた。

 義父は去年9月に「喉頭がん」の全摘手術を受け、声を失ったが、わずか三週間で退院したあと、大好きな焼酎が飲めるまでに回復した。今度の2月で満88歳という高齢にもかかわらず、その恢復振りに誰しも驚いている。

 根占ー山川フェリーを使い、着いたのは11時少し前だったが、恒例のお屠蘇のあとはそのまま飲ん方(酒宴)になった。お互い三倍に薄めて飲むという通常の倍のお湯割だったが、こっちは5杯ほどで「もう結構」と眠くなる。だが、義父は顔色がますます良くなった上、ケロリとしたもの。

 これか、これだな、と納得させられた。俗に言う「焼酎はくすり」だということを・・・(注意:人によってはそうでないことがあります)。

 揖宿(いぶすき)神社参拝と墓参りをすませたあと、四時過ぎに辞し、帰りは鹿児島の鴨池ー垂水フェリーを使う。

 途中、どうしても見ておきたい所があった。Ibusuki109_013

 それは喜入肝付氏の史跡「御仮屋跡」で、喜入小学校がそこに建てられていると聞いていた。喜入に行く前には、もちろん、通り道でもあり、篤姫ゆかりの指宿市立今和泉小学校を見物したが、篤姫については当面、NHKの大河ドラマ「天璋院 篤姫」を固唾を呑んで見守ることにして(ただし、今和泉小学校の裏手の海岸近くに亭々と立つ直径1メートルはあろうかという黒松の並木は感動ものだ=右写真)、ここでは小松帯刀について若干の視点を書いておきたい。

 ドラマでも「小松」姓が日置郷(現・日置市)の吉利(よしとし)領主である小松氏に養子に入ったから小松帯刀になったこと、また生まれは喜入領主の肝付氏で本名は肝付尚五郎(なおごろう)であったことは、当然触れられるだろうが、私の言う視点とは、実は小松帯刀とは島津氏以前の大隅の2大氏族「肝付氏」と「祢寝(ねじめ)氏」両方のエキスだということである。Ibusuki109_021

 (左の写真は喜入小学校の立派な校門――といっても扉はない)

 というのは、まず、喜入肝付氏だが、肝付氏であるから明らかに大隅の大族・肝付氏の流れで、肝付氏本流第12代「兼忠」の三男「兼光」が始祖である。兼光は本家から分かれ(分家というような穏やかなものではなく、分裂と言った方がよい)、曽於郡大崎郷の領主となった。この時からどうやら本家よりも、島津氏にくみし始めたようで、そのため、次代の「兼固(かねもと)」は溝辺領主として島津側に付く(文明18=1486年)。Ibusuki109_022 

(校門を入ると中は広い。400メートルトラックが取れそうだ。少年野球の部活が始まっていた。裏山は高野山で、中世には愛宕城があった)

 次の「兼演(かねのぶ)」になると更に島津氏の覚えめでたく、加治木という大郷の領主となった(天文3=1534年)。その子の4代目「兼盛」には伊作島津家当主・忠良(日新公)の娘がめあわせられ、名実共に島津氏のコントロール下に組み入れられた。Ibusuki109_025

(校門下から見る石垣。下の四段と上の五段は明らかに積み方が違う。おそらく下は、御仮屋創建当時=1653年という=のもので、上は明治になって喜入小学校開校の際、積み上げられたのだろう)

 5代目「兼覚(かねさと)」の時代になって、高山の肝付本家が島津氏の軍門に降って廃絶すると、今度は喜入に移されることになった。喜入は加治木よりは小郷なので、改易に近いが、それでも本家と運命を共にしなかったのは、溝辺以来、島津氏に一切反旗を翻すことなく忠義を貫いたためである。Ibusuki109_023 

(学校の前は旧馬場の跡。4~500メートルの直線道路が続く。手前からその先まではいわゆる麓(ふもと=府の下)で、仮屋勤務の在地=外城の郷士たちの屋敷が軒を並べる)

 兼覚に嫡子がいなかったので6代目には伊集院忠棟という戦国末、近世初頭においては稀代の外交家の二男「兼三」が養子に入るが、父と兄(忠真=ただざね)が、島津本家に叛意があるとして殺害されたあとに、やはり抹殺され、その跡に兼覚の弟「兼篤」が入って継ぐ。この時がまさに承応2=1653年で、以降は一国一城制のもと、領主は鹿児島城下に本宅(原良屋敷)を持ちつつ、仮屋へ代官を置いての統治となった

 肝付尚五郎の父は喜入肝付家幕末最後の当主で、肝付本家から分裂した兼光から数えれば16代目の「兼善」である(喜入郷から鹿児島へ移り、そこから「遙任統治」(代官による支配)となった兼篤から数えれば10代目)。

 そしてこの尚五郎が養子に入った先こそが旧祢寝(ねじめ)氏で、当時、小松姓に変えていたゆえ、彼も「小松帯刀」(これは通称で、本名は小松清廉=きよかど)と名乗った。この「小松」だが、祢寝(ねじめ)氏は自説として始祖を平重盛としていたので、重盛の俗称「小松殿」から採った名だという。郷土史家の研究によれば祢寝(ねじめ)氏は建部氏が本宗であることが判明しているので、これは合わないのだが、島津氏さえも自説では源頼朝の庶子だというのであるから(本宗は惟宗氏)、似たようなものだ。

 いずれにしても、小松帯刀はルーツをたどれば大隅の古族・肝付氏であり、入り婿先がこれまた元をたどれば大隅の名族・祢寝(ねじめ)氏なのであった。

 極めて若くして(26歳)家老に抜擢されたが、彼を見出したのは島津忠光で、忠光は島津氏嫡流ではなく卑賤の娘・お由羅(江戸の大工の娘とか八百屋の娘とか言われるが、素性は不明)の子であったから、忠光のその屈折した心理が、島津氏の滅ぼした大隅の名族のエキスのような小松帯刀を取り立てたのかもしれない。あるいは彼に自分を重ね合わせたのだろうか。

 そんな視点を持ちつつ、今度の大河ドラマを楽しみたいと思う。

 マップ(スクロール型=喜入は鹿児島市の最南部)

 

 

 

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コメント

 う~ん、読み応えがあって面白かったです。夢中で読んでしまいました。

投稿: わん | 2008年1月11日 (金) 03時12分

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