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島津荘の中心地(都城市早水町)

 大河ドラマ『篤姫』で、ちょっとした歴史論争が起きている。

 島津氏発祥地は鹿児島県出水市か、それとも都城市か、というものだ。

 出水市の野田町「感応寺」には、初代の島津忠久以下5代までの墓があるので、まずそこが島津氏発祥の地といっても差し支えないだろう。少なくとも、当の島津氏がそこを「墳墓の地=青山」と認識しているわけだから、他者がくちばしを入れる必要はないだろう。

 折も折、都城に居る長男に用事があって出掛けたので、都城市が「こここそが発祥の地だ」とする「祝吉(いわよし)御所跡」を見ることにした。

Iwayosigosho  国道10号線を南から市内に入ると、ほぼ北に向かって繁華街を行くことになる。

 約2.5キロで平江交差点(看板あり、山之口町方面へ)を右折、1キロ弱で向こうにダイエーの見える交差点を今度は左折。

 高架を越えると右カーブになり、二つ目の信号(変則5差路)を右手の方にとると、1キロ余りで左手に早水公園が見える。そこの信号を過ぎたひとつ先の交差点を左に折れ、約500メートル北上したあたり、左手に入った所に「祝吉御所跡」がある。

2008217maturimeguri_013  奥に2基の立派な石碑のような物。その手前には白いタイル張りの「祝吉御所跡」の説明看板が建っている。看板というとトタン板を白塗りし、その上にペンキで字を書くのが普通だが、ここのはコンクリート製のい土台にタイルをはめ込み、青系の色で説明書きがしてある。

 それには「元暦2=1185年に、源頼朝によって島津荘の下司職に任命された惟宗忠久は・・・」とあり、さらに「この祝吉御所に赴任して、2年を過ごした・・・」とする。

 なるほど、確かに忠久は当時そのように任命されたが、本人は鎌倉の頼朝のもとにあって忠勤を励んでいた、というのが本当らしい。ただ当地には、家中の事務官僚や武士を派遣し荘園の政所(事務所)を建てたのは確かだろうし、惟宗姓を捨てて島津姓を名乗り始めたというのも事実であったろう。2008217maturimeguri_032

 2基の大きな石碑のうち、右の「祝吉御所旧跡」碑は「祝吉政所旧跡」ととれば問題ないとしても、左の「島津家発祥地」はちょっと拡大解釈が過ぎるのではないか。

 これが「島津姓発祥地」なら分かる。国内最大級の荘園「島津荘」の「島津」を姓に用いるというのは、大いに誇らしいことであったろうし、ここを本拠地として自己増殖を図っていこうという決意を感じ取れるネーミングだ。

2008217maturimeguri_071  島津荘の開発者は、忠久が関わりを持つ160年も前の平季基(すえもと)で、季基は大宰府の大監という高級官僚でありながらこの地に目を付けて開発させ、これを関白家(藤原頼通)に寄進して領主に納まった。

 当時の中心地は、市の南部・梅北町周辺であったが、160年の間に北へ北へと開発の手は延び、低湿地であった早水地帯周辺まで荘園化したのだろう。その主体は季基の後裔(入り婿」)である肝付氏だったらしい。市の東にある三股町にも荘園領が700町あったというが、そこは肝付氏の中世における重要な所領だったことからも判断できる。

 祝吉御所跡の南方には早水公園があり水の湧く池が広がるが、その池のほとりには早水神社が鎮座する。

 祭神は「髪長姫・仁徳天皇・牛諸井」で、髪長姫は仁徳天皇の后になった美女だという。牛諸井は髪長姫の父親で、都城周辺から志布志・大崎町までをも含む広大な諸県郡の当主だった人物である。境内のすぐ近くに沖水古墳という、小さいが都城では稀な円墳もあったりするところを見ると、この一帯は上代からの由緒ある土地だったとだけは言えよう。 2008217maturimeguri_070

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月落ち、烏啼いて・・・

今朝は6時半前に、散歩をしようと庭に出た。すると右手の隣家の向こうに夕日のような丸い明かりが・・・。ああ、そうか、満月だったんだ、とあわてて家に取って返し、デジカメを持ち出す。

221tukiotu_002  月は見る見る沈んで行く。東の空も明るさを増す。

 北側の畑地帯まで歩いたところで、月は霧島ヶ丘の稜線にかかった。

 遠くの森のほうで、烏も啼き始めた。

221tukiotu_003

早いこと早いことあっという間に、見えなくなった。

 そのまま畑地帯をぐるっと歩く。2キロはたっぷりあるだろう。

 明るくなると霜のきつさに驚く。221tukiotu_007 つい最近耕したと見える畑は石灰を散布したかのように真っ白。

カライモ(サツマイモのこと)を秋の収穫後に入れておく「芋壺」が空になっている畑があったが、その周りも霜だらけだ。

 221tukiotu_006 今ごろ、ここの芋は温かい所で「伏せこみ」に入っているのだろう。来月の下旬くらいから、芋づるが採れるようになるはず。

 それにしても今年の冬は異常に霜が多い。それだけ寒いのだ。家に帰って温度計を見ると7時でマイナス0.5度。昨日ほどじゃないがやはり氷点下だ。

 寒期明けの「スギ花粉」飛散が思いやられる。花粉症を持っている者は、悲惨なことに・・・。こちらは2週間前から予防に抗アレルギー薬を飲んでいる。

 早目の用心を。

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山宮神社の春祭り(鹿屋市串良町)

2月17日(第三日曜日・午前11時から)、鹿屋市串良町細山田に鎮座する山宮神社(祭神・スサノオノミコト)の春祭りが行われ2008217maturimeguri_031た。

 ちょうどこの日、鹿屋市ではここの他に午前9時前から事代主神社(串良町岡崎)、10時から七狩長田貫神社(田崎町)、午後1時からは中津神社(高隈町)と主要な神社で春祭りが集中して行われる。

 今年は午前中、串良川沿いの2社を訪ねることにした。9時から下流に近い岡崎の事代主神社の祭りを見、そのあと中流にあるこちらの山宮神社に移動、15分ほどかかって到着した。2008217maturimeguri_019

 お宮は串良川のすぐそばの高台にあり、向かい側の橋を渡れば堂園集落だ。写真は堂園橋から見た串良川で、ここまでは両岸沿いに田が広がるが、向こうの森の辺りからは渓谷となり、それは上流の高隅地区まで続く。

 (その高隅町でも、今日の午後から中津神社で同じような(もっと勇壮な)「かぎ引き」行事がある。しかしこちらの方が由緒が古いのか県指定の民俗文化財になっている。)2008217maturimeguri_020

 橋を渡ったところにある堂園集落の公民館に行ってみると、祭りの準備に追われていた。

 かんな屑の、のばせば1.5メートルは優にありそうなのを何十本も束ね、それを2メートル余りの竹の先端近くに取り付けている。紙の「幣(しで)」の代わりなのだろうか、アイヌにも「イナウ」という、やはり削り屑で作る幣があると本にあったのを思い出した。2008217maturimeguri_037

 再び橋を渡って神社の境内に上がってみると、すでにかぎ引きに使う二本の木が左右に分かれて置かれていた。

 社殿に向かって右が「雌カギ(めかぎ)」で、左が「雄カギ(おかぎ)」ということだった(写真上が雌木、下が雄木)。

2008217maturimeguri_038  上の雌カギは何の細工もない、ただ枝分かれしたあたりから伐っただけの物で、聞いてみると樹種はコナラで、伐りだす担当集落が決まっており、雌木は堂園、馬掛、生栗須(いぐるす)の三集落から伐りだすそうだ。

 雄木は下の写真のように引っ掛ける部分を短く切ってあり、男根を象徴している。この木はクヌギのようで、雄木は立小野、高松、平瀬の三集落から出すと決まっているとい2008217maturimeguri_033 う。都合、6集落の参加行事ということになるわけだ。

 11時、社殿の中では神事が始まった。

 お払い、供献、祝詞奏上のあと、祭りに参加する棒踊りの代表も神妙に玉ぐしを捧げていた。2008217maturimeguri_045

神事が終わると棒踊りが奉納される。正確には「正月踊り」というそうで、本来、古くは棒踊りではなかったようである。そういえば、先週(2月9日、10日)の志布志山宮神社・安楽神社の正月踊りには棒は使われていなかった。

 棒踊りの起源は、秀吉の朝鮮出兵の時、参加した薩摩軍が士気を高めるために踊ったというのが定説であるから、当然それ以前の奉納踊りは違ったものだったはず。志布2008217maturimeguri_048 志のほうが、より古式を伝えていると言えよう。

 棒踊りは正月だけでなく、他の祭りでも踊られることも、そのことを裏付けていると思われる。この棒踊りは、上で触れた雌木を伐り出す三集落(堂園、馬掛、生栗須)から奉納されている。

 三尺棒を使う踊り連と、六尺棒を使いしかも顔を布で覆って踊る組とがあり(下の写真)、こちらは志布志の正月踊りの出で立ちに近い。六尺棒がなければそっくりだ・・・。2008217maturimeguri_059

勇壮な棒踊りの後はいよいよカギ引き

 両方の木を真ん中に持って行き、引っ掛ける前にまず焼酎でお清めをする。

 それから五、六人ずつで持ち上げて両方を引っ掛ける。2008217maturimeguri_060

さあ、準備オーケー。ハジムッドー! で、各集落の老若男女が木の元あたりから先端まで、多数が取り付く。

 近くでカメラを構える者たちにも「引かんか、引かんか!」の声。で、こちらも雄カギの方の先端にまわって手ごろな枝を握り締める。2008217maturimeguri_062_2

勝負は2回。一回目はそれ!の合図で引き始めたもののあっけなくずるずると引かれて惨敗。2回目は少し加勢が増えたか、両者譲らず、それでも徐々に引っ張り込み勝利。

 結局、1対1で文字通りの引き分け。今年は6集落平等に平安・豊作ということになった。横たわった木から小枝を折り取って家に持って帰るという人が多かった。縁起物だという。2008217maturimeguri_065

雄木、雌木が境内の隅っこに片付けられると、白装束の神官が現れ、何やら叫んでまわる。田打ち神事の始まりだ。

 「おーい、次郎よお、ドケー行ったかよ」「まっこて、ホガネもんじゃ」「はよ、田を打たんな、日がくるっどー」

 神官は太郎だった。2008217maturimeguri_068 田打ちの相方が姿を見せないのだ。

 相方の次郎はやはり白装束。観衆の中をあちこち寄り道をして話し込んだりしている。

 そのうち、ようやく田んぼに到着。「おお、ソケー、おったか。ようよう」と両者対面。

2008217maturimeguri_069 「ないな?ゆうべ、夜中ん2時まで、鹿屋で飲んじょったとや」

「ええ、そいで、びんた(頭)がいてとや。んだも、まこて、やっせんぼじゃ!」

 てげてげな次郎を、太郎がたしなめる。

2008217maturimeguri_074 「さあ、始むいが!日が暮るっど」

 太郎は鋤の方を持つが、次郎はなかなか牛を曳こうとしない。とうとう近くで見ていた棒踊りの子供を連れ出して加勢を頼む。

 「子どんはなあ、親ん手伝いはするもんやっどお。はら、引かんか」

 「あんた、僕の親じゃないでしょ」と言ったかどうか聞こえなかったが、とにかく三人で無事に田打ちは終了した。

 ここの田打ち神事(正確には、代かき神事)は、まるで漫才のようなやりとりに面白さがある。観衆の笑いは、絶えることがなかった。

  マップ(赤い十字が細山田の山宮神社)

Hosoyamadayamamiyajinja

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事代主神社打植祭(鹿屋市串良町)

2008217maturimeguri_001  鹿屋市串良町の岡崎に鎮座する事代主神社(祭神・コトシロヌシおよびシタテルヒメ)で、春の祭り「打植祭」があった。

 このお宮は県道・高山ー串良線に面する岡崎台地の中腹にあり、さらに上の台地に上がると、巨大な初期須恵器が発掘された「岡崎古墳群・15号墳」の前に出る。

 9時前に着いたが、もう神事は始まっており、用水路を渡った鳥居の奥の石段を棒2008217maturimeguri_005 踊りの何組かが降りてくるところだった。

 聞けば、二組の踊り連で、「岡崎上・棒踊り保存会」と「岡崎東・西連合の棒踊り保存会」だという。かっては岡崎東と西は独立していたが、踊り手の減少で合併したらしい。

2008217maturimeguri_010 踊り連は神社前の道路に出ると、気勢を上げながら歩き出し、そこここの家々の庭で簡単な棒踊りを披露して回っていた。

 何やら「お花」も出ているようだ。縁起がいいのだろう。2008217maturimeguri_007

 50段はあろうかという石段を上がってみると、神主が木製の古い牛の像に向かって祝詞を上げていた。

 神主の足元を見ると、すでに牛を曳いて「代かき」を済ませた後のようで、境内の砂地が円形に、ちょうど土俵のようにえぐれていた。

2008217maturimeguri_012 祝詞が終わると、氏子の役員らしき人たちが片付け始めた。

 長さ1メートル弱、高さ60センチくらいの、結構ボリュームのある木彫りの牛は重そうだ。

 神社の由来を聞くと、古いことは古いがはっきりしていないという。『串良郷土誌』によると、大隅国分立(和銅6=713年)よりも古い創建だという。

2008217maturimeguri_014 拝殿の壁板の朱塗りのあでやかなことは、他に比類がない。手前の数百年は経とうかというソテツと妙にマッチする。海洋民の尊崇しそうな雰囲気だ。

 私見ではコトシロヌシは大和葛城にある鴨都味波八重事代主神社が本宮で、祭られているのは「南九州鴨族の王者であるコトシロヌシ」であるから、航海王の一面があり、何となく納得できる造りではある。

 右手の丘の上は古墳地帯で、もしかしたら航海王が眠っているのかもしれない。

  マップ(赤い十字が事代主神社)

Kotosironusijinja

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梅と日の出

3日続いた氷点下から、今日やっと解放された。

一ヶ月前から始めた庭での体操(ラジオ体操を自己流にアレンジ)も、今朝はちょっと楽だった。

 7時10分過ぎ、遠くの肝付三山から、日が昇り始めた。必ずしもすっきりとは晴れていない東の空だったが、庭の梅の間に上ってくるのは見ものだった。

梅はもう2週間以上開花を続けている。寒さにはめっぽう強いと、いつもながら感心する。

Cimg1633

画面左手の両こぶの山が国見山塊で、向かって右手はレーダー観測所のあるピーク。左のピークが高屋山上陵(ホホデミノミコト)伝承のある国見岳。

 画面右手の高まりの先には黒尊岳があり、さらに稜線をたどると、肝属山地最高峰の甫余志岳(968m)に至る。

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梅に鶯ならぬお天道様。ウグイスはまだ見ていない。メジロならもう3度ほど集団が庭を通過していった。

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安楽神社打植祭(志布志市安楽)

Anrakujinja_001  志布志市の安楽神社(祭神・玉依姫)で、昨日9日の山宮神社祈年祭に引き続く春祭りの一環としての「打植(うちうえ)祭」があった。

 安楽神社は「やすらじんじゃ」と読み、安楽川や大字としての安楽地区は一般に「あんらく川」「あんらく地区」と呼び習わしているが、地元の人に聞くと、正しくは「安良」と書いて「ヤスラ」だそうだ。現にこの神社の鎮座する集落名は「安良集落」である。

Anrakujinja_002   由緒は山宮神社と同じく和銅年間で、明治39年に関わりのある他の五社が合祀された。旧安楽村の村社である。だが拝殿に掲げられた説明では「無格社」としてあり、首を傾げるところだが、大同年間(807年ごろ)に昨日祭りのあった山宮神社に合祀されているので、神社として戸籍上は存在しないということなのだろうか。

しかし紛れもなく神社はここにあり、実質上は「安良集落」の鎮守様として崇敬され続けている。より儀式性のある祈年祭は山宮神社で行われるが、土俗的・民俗的な打植祭(お田植え祭り)はこちらで行われているところに存続の秘密があるのかもしれない(県指定の無形民俗文化財)。Anrakujinja_005

 開始の午後2時まで時間があったので、神社の西側を流れる安楽川の沖積平野に下りてみた。一面の田んぼ地帯で、上流に行けば山宮神社のある台地のすぐ下まで続いているはずで、例によってシラス台地をえぐってできたウツ(宇都)状の地形が独特の凹んだ空間を示している。

 対岸から撮れば分かりやすいのだが、あいにく渡る橋がないので同じ側から撮ったのが右の写真で、左岸土手の左手のこんもりとした台地の上に安楽神社はある。流れがすぐその下までやってきていることが分かるだろう。要するに神社は流れにせり出した台地の上に設けられているわけで、これは安良集落側から神社を眺めるだけでは見えない視点である。Anrakujinja_008

神社に戻ると拝殿では祭礼が始まっていた。ここでは巫女舞があるらしく、二人の若い巫女がかしこまっているのが見えた(小学6年生だそうだ)。

 本殿に捧げ物をし、祝詞奏上、玉ぐし奉奠と型どおりに進みいよいよ巫女舞かと思っていると、巫女舞は外で行うという。

Anrakujinja_017 氏子の人たちがあわただしく境内に20枚ほどのゴザを敷き、その上で巫女舞が始まった。曲目は「浦安の舞」だ。

 この頃になると初春のやわらかな陽が差しはじめ、風も無く、まことにうららかな舞が、境内全体を舞台にして舞われた。周囲を埋め尽くした観衆も、しばし神妙に、春の気配を感じながら眺めている風だった。

Anrakujinja_024

 

 風雅な浦安の舞が終わると、今度は再びあの田の神夫婦のお出ましだ。

 今日は昨日ほどではなく、振る舞い酒もほどほどに切り上げて早々に境内に降りていった。それもそのはず、昨日とは違った役目があった。

Anrakujinja_055 田の神に抱っこされた赤ちゃんは丈夫に育つ」といういわれがあって、引っ張りだこなのだ。これではそう酔っ払ってはいられないだろう。抱かれるとすぐに泣き出す子もいるが、おおむねおとなしくしているように見えた。赤ん坊も馴れている(?)のか、まだ人見知りしない時期なのか、まさか本当に田の神に見えているのではあるまいに・・・。

Anrakujinja_030

田の神に赤ん坊を預ける人が続く間に、舞台では翁が現れ、田を打ち始めた。なかなか素早い手つきで田を打って回る。時々腰を伸ばして辛そうにするしぐさはご愛嬌ものだ。

 代掻き前の田の荒起こしを表現しているという。そう言えば、田の隅々まで丁寧に回り、水が漏れぬようモグラ穴までふさぐようなしぐさは念が入っている。

 やがて真っ赤な牛が舞台に下りてくる。今年は子牛までやって来た。はじめ翁が手なずけようとしても暴れまAnrakujinja_041 わって言うことを聞かない。そのうちに神官が手に木の鋤を持って来て牛に取り付け、どうやら無事に代掻きが終わる。

 このあと、宮司が代掻きした田んぼ(苗代)にモミをまき、それから田植えはどうするかと待っていると、拝殿で神主が田植え舞を行います、というアナウンス。

 拝殿を見ると、神官が二人で「田植え舞」を舞っていた。Anrakujinja_058

 打植祭とは「田を打つ」ことと「田植え」とを合わせたネーミングだろうから、当然「田打ち」と「田植え」は同格に扱われ、同じような行事があってしかるべきだが、これでは田植えが目立たない。

 鹿屋の中津神社では代掻き、田植え後に、苗に見立てた榊のような小枝を観衆に配る。それを田んぼの入り口に立てておくと虫が寄らない、などと言っている。Anrakujinja_050

  次は田の豊作を予祝するという「かぎ引き」だ。

 上半身裸の男たちが6人、三人ずつに分かれて向かい合う。2メートル余りの「かぎ」と呼ばれる先が二股になった木の棒で、相手を威嚇しながら股を引っ掛けあう。

 誰かの木の股が相手の股に引っ掛かったところで、両者は一気に力いっぱい引Anrakujinja_053 きながら、相手を自分の方へ引きずり込もうとする。

 今年は、向かって左のチームが引っ張り込んで勝ちを収めた。

 このあと、昨日と同じ「正月踊り」(安楽正月踊り保存会)が太鼓・三味線もにぎやかに奉納されて一連の祭礼は終了した。ちょうど2時間の行事であった。

  マップは前日(2月9日)の山宮神社祈年祭ブログを参照。ただし安楽神社(鳥居マーク)の位置はもう少し南で、安楽川寄りにあるので注意。

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山宮神社祈年祭(志布志市安楽)

 国指定の巨大クス(推定1200年、樹高26m、胴囲14m)を境内入り口に持つ志布志市安楽の山宮神社Shibushiyamamiyajinja_005(祭神・大友皇子・天智天皇など六柱) で、祈年祭があった。

 山宮神社は明治以前は「山口六社大明神」と呼ばれており、志布志郷の総社の地位にあった由緒のあるお宮だ。志布志と鹿屋を結ぶ国道220号線の「稚児松」という信号から北へ約2キロ、安楽小学校のすぐ先に鎮座する。

 社伝をもとにした由緒書によると、創建は和銅2(709)年というから古い。まだ大隅国が日向国から分立(713年)する前ということになる。Shibushiyamamiyajinja_009

 和銅2年からほぼ百年後の大同2(807)年、このお宮に「安楽神社(玉依姫)」「田ノ浦山宮神社(天智天皇)」「鎮母神社(倭姫)」「若宮神社(持統天皇)」「枇榔神社(乙姫)」の志布志一円に祭られていた5社が合祀され、それから山口六社大明神と称えられたという。

 由緒よりも参拝に来て何よりも目を惹くのが巨大クスだろう。大地から盛り上がる根(根回りは30m近い)の迫力にはすさまじい物がある。Shibushiyamamiyajinja_013

 十時から始まるということだったが、その前に赤い陣羽織風の物を着た4人の男の子が、拝殿前、二基のみこしの隣に弓を手に居並んだ。床几に腰を下ろして威儀を正した風である。

 近くの人に聞くと、「検非違使」なんだそうだ。検非違使と言えば、検察官のような役目で何かを守っているのだろう。祭礼を悪霊から守るのか、それとも祭礼がちゃShibushiyamamiyajinja_018 んと行われるかを検分するのか、よくは分からないようだ。

 十時になって宮司たちが現れ、拝殿に向かって左側に設けられた修抜所の前に参列者を案内し並ばせた。

 参列者の先頭に検非違使少年たちも並び、修抜の祝詞奏上のあと、みんなと一緒にお祓いを受けていた。Shibushiyamamiyajinja_027

 お祓いしてから、参列者一同は拝殿に上がり、それぞれに玉ぐしを捧げたあと、再び境内に降り、今度はひとりの係りが手に何やら持って宮司の後に続く。よく見ると細い竹串(ただし、緑の皮を一部残している)で、わざとササクレさせたうえ、先を割ってそこに白と赤の紙を挟んでいる。

 本殿横にある小さな長方形の仕切りの砂場のような物の前まで行き、拝礼をする。それから宮司を先頭に、「大和の国は・・・」などと唱えながら本殿と拝殿の周りをShibushiyamamiyajinja_031 三周し、それから参列者に向かって「さあ、植えもそかい」と言う。

 それを受けて、みんなは三宝の上の竹串を、小さなシラスの砂場に一本ずつ植えつけていく。何のことはない、田植えなのであった。こうして早くも「お田植え神事」が済んでしまった。

 そばにいた地元らしき人が言うには「明日の安楽神社のお田植え祭りこそが見ものだ」そうだ。なるほどここは祈年祭だったな、と納得する。Shibushiyamamiyajinja_039

そうこうしているうちに、拝殿の方に何やら得体の知れない風体の者が二人出現した。夫婦の田の神だという。

 男神は太い孟宗竹を肩紐でぶら下げたうえ、1メートルもありそうなしゃもじ(メシゲ)を持ち、女神はすりこぎ棒のような物を手にしている。二人とも拝殿に上がるよう促されて、中に入った。Shibushiyamamiyajinja_043

 拝殿の中でどっかと座り込むと、氏子総代のような老人と珍妙なやりとりを始めた。

 見ていると田の神は老人の問いには決してしゃべらずに、うん、うんと言うくらいで、結局はしたたか呑まされる羽目になるらしい。Shibushiyamamiyajinja_050

 田の神問答が済むと、境内ではにぎやかな太鼓・三味線の音曲に乗って舞が奉納される。

 地元の「正月踊り」で、「安楽正月踊り保存会」のメンバー15,6人が、大振りな踊りを境内狭しと繰り広げていた。

Shibushiyamamiyajinja_052 踊りの衣装が変わっていて、顔を黒頭巾で包み込み(眼だけは出すが)、その上に白い鉢巻を締めるのだが、頭の後で、なぜか三角にする。三角が前の額側に来ればまるで幽霊だが、いったいどんないわれがあるのだろうか。聞き漏らしたが・・・。

 それにしても曲数が多い。数えはしなかったが、おそらく12~3番はあっただろう。寒空だが、汗をたっぷりかきそうな運動量に違いない。

Shibushiyamamiyajinja_056  踊りの奉納が済むと最後の行事「浜処下り(はまどくだり)」だ。普通はこれを「浜下り」というが、ここでは浜処下りと言うそうだ。

 猿田彦の面を先頭に、氏子総代、神主、そして二基のみこしが続く。見ていると特別に神輿に「神移し」のような所作をしなかったが、境内に並べた時点ですでに移していたのだろうか、確認はできなかった。

Shibushiyamamiyajinja_060 門を抜け、鳥居をくぐると、駐車場のはるか向こう(200メートルくらい)に、背の高い一本杉が見える。その下が「浜処(はまど)」だという。

 この浜処下りについて書いた小さな紙が配られたが、それによると、ここに逗留された天智天皇が崩御ののち 、田ノ浦の御在所岳に御廟が営まれたが、そこを遥拝するための台座が「浜処」だそうだ。Shibushiyamamiyajinja_065

はまどは高さ60センチ、幅150センチ、奥行き100センチほどのブロック作りの何の変哲もない台座で、到着後、二基の神輿を置き、すぐに神主が拝礼をするだけで終わり、また来た道を引き返すだけ。

 昔は街中を神輿が練り歩いたらしいが、担ぎ手がいなくなった、というのが実情らしい。

 Shibushiyamamiyajinja_068 再び神社の方に向かう。

 最後に獅子舞があるというので、鳥居の前で待っていると真っ赤な装束の獅子が現れたのには驚いた。

 実はこの獅子、ライオンの獅子ではなく「イノシシ」なのだという。

Shibushiyamamiyajinja_071 獅子舞は何と言ってもあの獅子の巨大な金歯でパクパクと開く口の迫力が見ものなのだが、ここの猪のシシは口が開かないようになっている。

 それならまだしも、頭から背にかけて竹ざおのようなものが一本入れてあるだけの、ボリュームのないシンプルそのものの作りなのだ。

 Shibushiyamamiyajinja_073_2 このイノシシは天智天皇が田ノ浦からこの安楽の地へやってきた時の土産だという。だから、こんなに弱弱しくみすぼらしいのだとも聞いた。しかし私は「やせて、みすぼらしいイノシシ」でぴんと来た。『ソジシの空国』だろう。

 天孫ニニギノ尊が日向に降りようとした時、その地を形容して『ソジシ』つまり「イノシシの背の肉」のように「空っぽで何にもない国」と表現したが、それが下敷きになっているに違いない。

 それにしても、志布志にどうしてこんなに天智天皇の伝承が多いのだろうか。いつか解き明かしてみたいものだ。

 マップ(志布志の大クスのところが山宮神社。その南の鳥居マークが安楽神社)

Shibushiyamamiyajinja

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節替え(セッガイ・錦江町田代)

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 錦江町田代川原に着いたのは午後5時半ごろで、柴立地区の田んぼ地帯の道沿いに二つ、川(雄川上流)向こうの鶴園地区にひとつ、竹のやぐらが冬枯れの田んぼの中に高々と設えられているのが見える。「セッガイ(節替え)」の準備が整っていた。

 高さは下の塊の部分で6メートルほどだろうか、一本だけ葉っぱをつけたままの孟宗竹が中心に立てられており、その高さは優に15メートルはある。

Seggaitasiro_005  よその地区では主に正月6日の夕方か、小正月の前日の14日あたりに行う「鬼火焚き」「とんど焼き」が、ここではいつも節分の夜に行われる。

 「セッガイ」とは「季節を替える」ということで、大寒の最終日である今日の節分の日から、明日の立春へと季節が変わることを画しようという節目の行事だ。Seggaitasiro_008 

とっぷり日の暮れた午後6時半、いよいよ点火。以前参加した田代町の大原地区の場合は、火をつけるのは「年男」ならぬ「厄年の男女」と決まっていたが、ここでは集落の役員らしき高齢者が火をつけていた。

 いや、点火の真似事だけは厄年の人がやって、あとは危ないから係りがつけて回ったのかもしれない。うっかり見落としてしまった。Seggaitasiro_007

点火棒を持った係りの高齢者が一周すると、あっという間に火が燃え盛り始める。

 西風が強く、写真を撮っている東側に炎が吹き出されてくるので、田んぼから道路に移動する。Seggaitasiro_011

 炎がやぐらの高さを越えるのに一分かニ分かしかかからなかったろう。周りに衝立のようにびっしりめぐらしてある小竹(ニガタケという種類)は、いったい何把くらいあるのかと訊いても、「さあ、分からん。数えちょらん」と言う。おそらく100把(千本くらい)は越えるだろう。それでもこの炎と西風の強さでは、たちまち燃え尽きるのでは、と思えた。

Seggaitasiro_013 集落の参加者は、その小竹の束の中に前年のお札やお守りなども投げ込んでおくらしい。

 炎を見上げながら、今日の大寒までの冬篭りを終えて、明日の立春が、生き生きとすがすがしく迎えられるように祈っているのだろうか。Seggaitasiro_022

十分ほどで、風の当たる西側の小竹だけを残してすっかり焼け落ち、芯になっている孟宗竹の骨組みがむき出しになった。

 係りの人たちが、その骨組みが崩れ落ちるのを見守ろうと、そばに集まってきた。

 そのとき後からぱちぱちと音が聞こえてきた。振り向くと、200メートルくらい離れた田んぼの中で鬼火が点火されSeggaitasiro_024_2 ていた。

 聞けば「平石集落」の鬼火焚きだという。ここのは「上柴立集落」で、川向こうのは「鶴園集落」、さらに上流側に「郷ノ原集落」のものと、川原地区では都合4ヶ所で行われているという。

 Seggaitasiro_028 ふと見ると、道路の向こう側、発電機の明かりに照らされて、老人が二人小竹(ニガタケ)を手に手に、一心に先のほうを削っている。

 いったい何にするのかと聞くと「モチを先に付けて焼くんだよ」。

 よく見れば削っているのではなく、先を割っているのであった。その割れたところに切り餅を挟むというわけ。なるほど、まるでつり竿のような長さだ。

Seggaitasiro_032  モチ竿を手にした男の子たちが、鎮火しつつある火の周りに、早くも陣取って待っている。炎が収まらないと上手く焼けないと言われているのだろう、今か今かと気がせくのか、立ったりしゃがんだり落ち着かない。

 子供たちを撮っていると、係りの老人に焼酎を勧められたが「車で来ているので」と断ると、「それじゃ、モチでん焼かんか」とモチと竿を手渡された。Seggaitasiro_034_3

「そろそろ、よかど」の声で、周りに人が集まってきた。みな手にはモチの付いた竿。それを火の中に差し出すが、「直接火につけたらいかんよ。煤けて美味くなくなるから」とおばさんに言われ、なるほどと地面にたまったオキ炭の上にかざすようにした。

Seggaitasiro_035 ニガタケは細い竹だ。モチが焼ける前に竹が焼けては話にならない――と心配したが、2分もかからぬうちにモチのほうがしんなりしたので、火から出してみる。

 いい具合に焼けている。早速、凍える手で掴み、口の中へ。本当は焼酎の方が・・・と思いつつも、やはり温もりは十分だった。

    マップ(錦江町スクロール図・田代川原地区は錦江町中心部から東南へ8キロ)

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吾亦紅(又は、おふくろ)

杉本真人の歌『吾亦紅』がヒットチャートの上位を続けている。

 紅白出場効果という事もあるが、同じく出場した(二年連続)秋川雅史の『千の風になって』が、一昨年の紅白出場から一気に火がついたのとは違い、こちらは二年ほど前からそこそこの売り上げを記録していたという。

 秋川雅史のを上手い歌というなら、こちらは俗に言う「下手うま」だろう。弾き語りも団塊の世代には受けるスタイルだ。

 内容は、結局のところ「母に捧げるバラード」ならぬ「レクイエム」。そんなに母が恋しいか、と、母子関係が疎遠だった自分などが聴くとちょっと引けてしまうが、本来、母子関係というのはそうしたものなんだろう。

 生れ落ちて、母親のおっぱいを吸って大きくなり、糞尿もし放題なのをちゃんと始末してもらい、転んだといっては泣き付き、言葉も覚えるのは母親からだ。母親はそんな大変なことを黙々と(あるいは嬉々として)さりげなくやってしまう。考えてみるとすごいことなんだ!!

 だから、母親は子供にとって

   介護士であり、保育士であり、看護師であり、小児科の医師であり、栄養士であり、教師であり、   歌のお姉さんであり、服飾コーディネーターであり、チアーリーダーでもある

 という、何とも言いようのないほど偉大な存在なのだ。

 こんなに存在感のある母親だが、それをすべて無料でやってしまうところがもっとすごい。

 あのさくらパパは存在感十分だが、あれはさくらを「金(きん)の卵」ならぬ「金(かね)の卵」にするという強烈な利己的目的を持っていたから、ゴルフの教師(訓練師)でありチアーリーダーに徹することができたわけで、母親のもつ存在感とは全く似て非なるものだ(父親のはどうしても調教師のイメージが付き纏う)。

 人生もたそがれに差し掛かると、やはり、男は、ふるさとのイメージに重なるやさしく自分を見つめてくれていた母親のことを思い出す、さりげなく、誰に言うともなく。・・・それから人生の再確認をする。

 森新一の『おふくろさん』が聴かれなくなった今、それに替わる「おふくろ賛歌」としてよいのかもしれない。

  『吾亦紅』の歌詞はこちら

  『吾亦紅』の曲はこちらで

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